彼福私鬼 〜あちらが福ならこちらは鬼で〜

日内凛

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第二章

第58話/囃子歌会議

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  2023年7月10日(月) 15:00



「新作フラッペ!」
店舗入り口のポスターの前で唯が色めいた。
根っからのコーヒー党である唯であっても季節限定フレーバーのスイーツにはさすがに心惹かれてしまう。シャーベット系となるとひとりでは食べ切れないかもしれないが、今日は援軍がいるのだ。
「祐樹くん、これ手伝って~」
「いいよー。僕も甘いもん食べよっかな何か」
店内に入り、レジ横のショーケースを物色する黒葛。
「さっきのお昼もだけど、祐樹くん固形物食べられるようになったの?」
「まぁ、元の感じに戻ってきただけなんだけどね……」
三人は石搗神社に行く前にコンビニに寄り軽食を摂った。そこで黒葛が選んだのはサンドイッチだった。
地震を経て身体が溶かせるようになって以降、食事といえばゼリーやプロテインといった流動食ばかりだったが、この頃は固形の食べ物に対しても食欲が湧くようになってきている。


二人が座ったのは小さな丸テーブルだった。
唯はフラッペとBLTサンドとチーズトースト。黒葛はアイスコーヒーとセットのチーズケーキをそれぞれ向かい合わせに並べた。
トレー2つはテーブルからギリギリはみ出してしまうが、それ以上に唯のトレーからは2種類のパンが乗った皿がはみ出している。

コーヒーの氷がカランと鳴り、その音に誘われた黒葛がストローを使わずグラスに口をつけようとしたとき、テーブルの下でコツン、と靴の先が蹴られた。
これもプロデュース案件だったかと唯の顔を見ると、思いのほかにんまりとした笑みがあった。

「なんか祐樹くんとふたり、ひさしぶりかも」
「そういやそうかも。唯ちゃん、美月さんとばっかだもん」
コーヒーを一口飲んで口を尖らせる黒葛だったがそこに嫉妬の感情はない。
家が近所の二人は登下校も一緒、また買い物にも二人で出かけることが多い。
いくら自分たち三人が特別な関係にあるとはいえ、幼馴染の同性二人だけで気兼ねなく楽しめる世界というのは確実にあるはずだ。もちろん三人で楽しめたら最高だが、たまには二人だけのデートの一部始終を草葉の陰に隠れて見ていたいとさえ思う。

唯は、えへへと照れ笑いながらフラッペをシャクシャクとストローで溶かす。
美月を独り占めすることの申し訳なさ、しかしちょっとした優越感。加えて、僭越ながらも自分とのデートを喜ぶ意味がその笑みに込められていたらありがたいな、と黒葛は思った。

唯がキョロキョロと店内を見渡し、黒葛も視線を追従させる。
少し時間が遅いからか下校中らしき学生の姿はない。
まばらに席が空いてはいるが、意外にもお年寄りが多く、顔見知り同士でがワチャワチャと話している様は村の寄り合いのように見えなくもない。

「私たち、普通のカップルに見えてるのかなぁ」
「? 普通にカップルじゃん。じゃなくて?」
そう黒葛が即答したことに驚き、唯はストローの手を止めた。
そして、目を細めて笑う。
「祐樹くん、変わったね」
「今のも間違ってた? 減点ですか先生?」
唯はそれには答えず、大口を開けてトーストをバクリと口に詰め込んだ。
にんまりとした表情は味に満足しているからか、どうだろうか。
以前の黒葛なら同じことを問われて『僕なんかが一緒だと嫌?』などと言っていたかもしれない。
少しずつ、昔の自分を相対化しつつあることを自覚する黒葛だった。
唯ちゃんや美月さんがヘンシンしたように、僕も僕で新しい自分へとヘンシンしなきゃいけない。

ふと黒葛は、自分が無意識のうちに二等辺のチーズケーキを外周側から削るようにして食べていることに気が付く。
フォークの丸みを利用することで、チーズケーキが常に元の形の相似形になるように皿に残る。美月の食べ方のクセかもしれない。
黒葛はそのクセを尊重して最後まで実践してみることにした。すると、今はここにいない美月がこの場にいるような気がしてくる。
気質の近い唯と共に過ごす時間も心地いいものだが、やはり三人で何か、思い出に残るような特別なことができればと思う。

「テスト終わったしさ、なんか……夏休みの計画みたいなの立てたいよね」
「来年は、受験だもんね……あ」
唯は途中で言葉を切った。
自分も美月も大学進学をするつもりでいるが、黒葛もそうだとは限らない。何しろ、黒葛は今は天涯孤独の身なのだ。
表情を曇らせる唯に対し、黒葛はどこか恥ずかしそうな表情で光るフォークを置いた。

「僕……大学行って勉強したいかも。まだ分かんないけど……お金のこともあるし、分かんないけど」
すると、アサガオの花が開くように唯の顔が明るくなった。
黒葛が自分の未来への意志を表明したのだ。この世を儚んで一度は自死を試みた彼が。

「学部は? もう決めてるの?」
そう訊ねて唯はパクとシャーベットの塊を口に放り込む。
「うーん。やっぱり文系方面だけど……今日もさっき思ったけどさ、歴史とか人文系とか、興味あるかなって自分でも思って。唯ちゃんはやっぱり司書さん目指すの?」
「倍率が鬼だけどね……」
苦い笑みを浮かべる唯はシャーベットによる頭痛に見舞われているようにも見える。
「でも……まだ自分が知らないだけで、ほかにも実はすごい面白い世界とかあったりするのかなって、最近は思うよ」
「分かるそれ」
黒葛は大きく首肯し、また店内を見渡してみる。

平日の午後。店内では老若男女様々な人たちが思い思いに憩い、あるいは仕事や勉強に勤しんでいる。
「みんな、そうなんだよね……。今まで見えてなかったっていうか、気にしたこともなかったけど。それぞれいろんな分野で、それぞれの人生なんだよね」
客だけではない。店員も、レシピメニューも、店内の設えも、フラッペのポスターやメニュー表のデザイン、衛生管理。プロフェッショナルたちの掛け算でこの場所が成り立っている。
視界に入るものはもちろん、バックヤードの全てに誰かの仕事が、誰かの思いが込められている。
この店だけではない。消費と生産が入れ子になった営み。それらを偉大な歯車として社会は、世界は駆動している。

唯や美月と交流し始めて、黒葛は初めて人というものに出会った気がした。唯もそうなんだろうか。
「クラスのみんなもね、話してみると志望とか将来の夢とかすごい色々考えてたんだーってハッとなるよね。当たり前なんだけど」
もちろん何も考えてないなどとは思っていないが、クラスメイトそれぞれが自分の知らない世界を見据えているというのは唯にとって少なからずの衝撃だった。
同じ学校で、同じ制服を着て、同じ授業を受けながら、何をきっかけにその道に自分の未来を見たのか。一人ひとりにインタビューしてみたい、と思うほどには唯もクラスメイトたち興味を持つようになっていた。

黒葛も教室の風景を思い出しながら、以前はのっぺらぼうだか棒人間も同じだったクラスメイトたちの顔や名前がぼんやりと淡くだが、しかし具体性を帯びながら浮かんでくるのが分かった。
徐々にクラスにも馴染み、可否はともかく受験をし、大学に進学できたらする、無理なら生きていくために働こうか。見れば見るほどに世の中には仕事というものがあるらしい。
それらを愛する恋人たちと過ごす日々のなかで。難しいことだろうか?

「何か、昨日はさ、人間やめて──って感じだったけど。意外と……僕ら、人間やっていけるかもね。騙し騙しでもさ」
「騙し騙しね……」
唯はその言葉に何か引っ掛かりを覚えた。

──ギリこの世界で騙し騙し生きてはいける
──先に進めば、全てを知ることになる──

「唯ちゃん?」
「えっ? ああ、何の話だっけ?」
一瞬、エアポケットに入ったようだった。
「唯ちゃんも疲れてるんじゃない? ……ほら、昨日人間を突破したみたいなことなったけど、誤魔化しながら人間できそうだなって」
「ああうん、そうだよね……」
何か、頭がボーっとする。何か、忘れているような、欠落しているような。
はっきりしない頭で唯はウッカリとんでもないことを口にしてしまう。

「さすがに……その、結婚とかは難し……っ!」
そのあまりに飛躍したワードに気付いた唯は、ごまかそうとシャーベットの巨塊を躊躇わず口に放った。
「けっ……! ……まぁ、うん、色々、あるよね、大人になったら」
黒葛も突然のその言葉に動揺しながら軟着陸を探っていたところ、唯が悲鳴を上げた。
「いってあ~! あだめ、祐樹くんあとぜんぶあげる……」
頭痛にやられた唯はテーブルに突っ伏し、フラッペの残りを黒葛に寄越した。
「う、うん……ありがとう」

結婚。
オトナになると様々な社会の制度とぶつかることになるのだろう。
詳しくは知らないが、名前を書く欄が3つある婚姻届というものは少なくともこの国には存在しないはずだ。事実婚なるものでもいいのかもしれないが、それぞれの家族が納得するわけがない。

それに──
黒葛は昨日の美月の告白を思い出さずにはいられない。
美月には、子どもを作ることが人生のひとつの物語ストーリーだった。
同化後、それが叶わぬ身体になったが、昨日の変化を経て身体的には子どもを作ることができるようにはなったらしい。しかし、婚姻関係を結ばぬまま子どもを産み育てることは許されるのだろうか? そして何より子どもは親が三人もいることをどう受け止めるのだろう。
自分たちのこの関係は、所詮は幼年期の児戯でしかないのだろうか。

唯が側頭をさすりながらゆっくり顔を上げたのを見て、黒葛は本題に入ることにする。
「は、囃子歌……考えよっか」
「ん、そ、そうだね」




 おいこの おいこの おいこのござる
 いわって めでたき よいのはじまり
 きょうのおひがら どってんしゃ

 さあさかしこめ 何某がみその 
 しもついわねのないふらず
 いうてもきかぬ おにへびどもの
 あかがちまなこはひっぱたけ

 ここはてるてるかむにわなれば
 ひとりさん おにげなさいな  
 ことりさん またどうぞ


B5版のノートに唯がさらさらを囃子歌をひらがな表記で書き記した。
唯は囃子歌を音で覚えているため、下手に漢字表記をするにはリスクがある。

「そもそもさ」
黒葛が切り出す。
「“おいこ”って何だろうね。“お”はおんとかそれ系かと思うんだけど」
「“いこ”……何かが訛ったのかな。行事の名前で、神さまというか、お地蔵さんの呼び名でもあって」
唯が当たり前に思っていたことも外部から来た黒葛の視点を借りると改めて妙なことだらけだと思う。
今でこそ全体の多少の意味は汲めるが、行事をやっていたときはほとんどが理解できないまま唱えていた。一般人がお経や祝詞を唱える感覚に近いだろう。

「“宵の始まり”ってことは夕方とかにやってたんだ?」
「うん。薄暗い中、町を回ってたね。最後らへんはもう夜だったなぁ。そんでおいこさんの前の地面を突いて……それが地鎮だったんだね。下がアスファルトだからうるさくてうるさくて」
唯は説明をしながら、ノートの端においこさんに使用する石搗用の祭具……車のようなものを描いた。
恐ろしいほど下手なイラストだが、何となく黒葛もそれを手がかりに実物が思い出せる気がした。もちろん、自分と同化した唯と美月の記憶としてである。身体で覚えているからか、車の重さやあのうるさい音の感じも浮かんでくるようだった。
「苦情があったのかもね……。昔は舗装なんてされてなかったろうからよかったんだろうけど」
黒葛は下手なイラストの後ろに車の軌跡を表現する三本線の漫符を付け足した。
地面を叩く以前に、この車を牽く時点でガラガラとうるさかった気がしなくもない。

「あ……、これひょっとしてホオズキのことかも」
唯は二段目、最後の行にマーカーで線を引いた。
「あかがち……アカカガチっても言うんだけど、ホオズキの古い呼び方」
黒葛はそこで植物のホオズキのことだと理解する。宝月とホオズキ、ややこしい。
「そうなんだ。あか……かがち。カガチってあれ? ヘビとかそういうんじゃないの?」
「うんそうだよ。カガチってだけでもホオズキを指したりもするけど……よく知ってるね祐樹くん。それ私の知識じゃなくて?」
よくぞ聞いてくれたとばかりに黒葛が得意な表情をする。
「なんとかカガチっていうヘビっぽいモンスターがいるの。ゲームで。めっちゃ飛んでくるヘビ」
黒葛はノートにムササビのようなトカゲのような何かを描いてみせた。
「あ……そういう……」
ダメ押しなのかイラストに吹き出しで『シャー』と喋らせる黒葛に唯の冷ややかな視線が刺さる。黒葛にしか見せない、東大寺の大仏を思わせる虚無の目だった。

「とにかくね、ヘビの化け物の目みたいに赤いからホオズキのことアカカガチって呼ぶとか、そんなんだったと思うよ」
黒葛は確かにそのモンスターは目が赤かったなと思い出し、「それで前の行の“鬼蛇”にかかるわけね」と理解する。黒葛の教養の9割以上はビデオゲーム出典になる。
「……なんかちょっとくどいけどね……あんまりきれいじゃないかも」
唯としてはあかがちまなこだけで間に合うと思った。二重季語のような気持ち悪さがある。

「宮司さんのお話では、鬼とか蛇とかは概念的なニュアンスっぽかったけど。そういう……なんか悪いやつ?が揺らさないように地面を固めましょう的な感じ?」
地震の罹災者である黒葛としてはここが重要だった。その悪いやつが知りたい。きっと“やつ”ではない──もっと抽象的な何かなのだろうが。
「そうなんだろうね。そこがサビというか、歌の中で一番大事な箇所だよね。強い言葉バンバン出てくるし、お世話する家の名前も出てくるとこだしね」
唯の言葉にも力が、熱が込められていく。
黒葛が相槌を打たなくても延々と独演会が展開される勢いだった。

「でもなんか……チグハグ感があるかも。私こういう……祭りのお囃子とか分からないけど」
眉間に皺を寄せ、渋い顔をする。どちらかと言えば気持ち悪そうですらある。
「正直、二段目の真ん中で切ってもいいような気がするんだよね~。そこまででわりと完結してるように見えるし。下津しもつ岩根いわねでしょ。この時点ですでにめっちゃ強いんだけど、それが揺れないってことだからもう、なんか」
「……蛇足?」
というのが黒葛には精一杯だった。文章や言葉関係になると唯は特別生き生きと、そして流暢になる。本当に言葉というものが好きなのだろう。
「うーん、そうね、私はそう、感じるかなぁ。特に三段目も意味不明だし……“かむにわ”は、“神の庭”だろうけど」
「ヘビ的な連想で“噛む縄”とか“噛むの輪”が訛ったとか、ないの?」
釈迦に説法な気持ちになるが、何か思いつきでも言っておかねば今日ここにいる意味がない。
「あーね、あるかも。ただ、“ここ”って言ってるからダイレクトに場所のことでいいのかな。“照る照る”で飾った上に“なれば”が後につくから、よっぽど強くて……いとヤバき場所って感じはするかなぁ」
ふむふむ。全部唯ちゃんの解読でいいんじゃないかな。
「けどねぇ、最後は分かんないよね。“ひとり”と“ことり”って」
唯はそれぞれの三文字をマルで囲んだ。
黒葛は小さな鳥が一羽、夕暮れに佇んでいる絵を思い浮かべる。
それは何とはなしに不気味な絵面だった。

「毎年やってたんだよね、おいこさん。決まった時期に。ならさ……“またどうぞ”ってまた来年もおいこさんやりまっせって宣言で、あんま意味なかったりしない?」
またもやジャストアイデアだったが、唯は意外にも納得感のある首肯を返した。
「それは……確かにそうかもね。語調を整えるというか、最後のこの部分、楽しいんだよね。これでシメ!って感じで。……うーん、あんまり意味追求してもドツボにハマりそうだなぁ」
「そのなんだっけ、翠羽先生? なら知ってるのかもね。てか神社で聞けばよかったね」
黒葛はそう言いつつも、元の歌詞から変わっているらしいので実は誰も正しい意味を知らないのでは、という気もしてくる。言うなれば違法増築されまくって原型がなくなった建物というか。


その時、スマホのバイブレーションが二つ同時に鳴った。
『唯さまをひたすら愛でる会』というグループに新規メッセージがひとつ。
スタンプだった。
見ればゆるい恐竜のイラストが『ただいマッソスポンディルス』というセリフを吐いている。
「あ、美月ちゃん」
続いて送られてきたのは逆立ちした美月の写真だった。
右手の親指一本で全身を支え、もう片方の手で自撮りしているらしかった。
「めっちゃ元気そうじゃん」
黒葛が顎を突き出し呆れていると同じタイムラインにテキストメッセージが続いた。

〈変身して撮った写真が送れないピ 。゜(゜´ω`゜)゜。〉

黒葛はそういえば、と思い出す。昨日の衝撃的な絵を写真で撮り忘れたことだ。
撮ろうという発想すら湧かなかった。終始状況に脳が追いつかず、そんなことを考える余裕もなかったのである意味当然かもしれないが。

またポン、と貼られたスタンプは唯からのものだった。
壮絶な表情の恐竜が〈わかルカルカン‼︎〉と叫んでいる。
それ分かる!って共感のニュアンスでいいんだよね、これは。
美月の変な恐竜スタンプが唯にも伝染しているらしかった。

「美月ちゃん、元気そうでなによりだね。でも変身……私も写真うまくいかなかったなぁ~」
「えっ、ひとりで? あのあと?」
「楽しくってつい何回も……」
照れ笑いをする唯だが黒葛にもその気持ちはすごく分かる。
もし自分がある日突然あのような姿に変身できるようになったとしたら一晩といわず一週間ぐらいはずっと部屋に籠って遊んでいそうな気がする。
何しろ宙に浮けるのだ。配信者を経て何かしらの教祖になるルートも可能ではないか。
「でもねぇ、写真撮とうとしたらアプリが落ちたり、撮れたと思ったらブレブレで何が写ってるか分かんなかったりして諦めた」
「なにそれ怖くない? なんで──あれ?」
黒葛は、店の外で挙動の怪しげな影を見つけた。
着ている制服は同じ学校のもの。それも男子生徒らしいが、あれは。
唯も振り返り、そして黒葛に耳打ちする。
「朱華くん、だよね」
柔らかな赤毛に、日光を受けると直ちにただれそうなほどに白い肌。
転校生である朱華エリーに違いなかった。
「今帰りなのかな……。家こっちの方なのか」
しかしどこに行くでもなくキョロキョロと辺りを見渡しながら何かを探しているふうだった。暑さのせいもあるのか足もおぼつかない様子だ。
知らない土地でさらに日本語も十分には理解できない。ただ近郊の町から引っ越してきただけの黒葛とはワケが違うのだ。
「なんか……あ、唯ちゃん」
黒葛が声をかける前に唯は席を立ち、外へと飛び出して行った。



「連れてきちゃった」
戻ってきた唯の後ろに控える朱華エリーは恐縮し、身長が唯とほとんど変わらないように見える。それはそうだろう。突然拉致されて連れて来られた場所に男がいたのだ。
唯は隣の席から椅子を拝借し、エリーを座らせた。小さなテーブルに三人は厳しいものがあるが、ろくに追加注文をせず席を移動するわけにいかないだろう。
「ちょっと待っててね。えとコーヒー、あー……アイス、オーケー?」
唯はほとんど一方的な注文をとり、すぐにレジへと走って行った。

そして取り残された黒葛。
自分は今この転校生に何だと思われているのだろうか。
セミナー講師? エウリアン? 美人局的なアレ? とにかくろくなものではないだろう。
チラと横目で転校生の顔を盗み見てみる。
所在なさげに目を伏せる横顔に遺憾ながらドキリとしてしまう。
間近で見ると分かる。確かに女性なのだろう。しかし唯や美月に言われなければ気付かなかったかもしれない。服装というのはそれだけ人の属性を規定する力がある。

「は……はじめ、まして……。私は……朱華、です」
ぐだぐだ考えているうちに先を越されてしまった。おもてなしの国の人間としてこの失点はマズい。
「は、はじめまして……。マイネームイズ? アイアム?……ユーキ? クロクズ?」
どう表現するのがよいのか探りながら発音すると全て疑問系になってしまう。僕は一体誰なんだ。
「ユーキ? Brave?」
それは分かるんだ、と思いつつもこんな挙動不審な人間をブレイブだと認識されては日本全国に何十万といるであろうユウキさんに申し訳が立たない。
「アイムノットブレイブ。アイハブノーブレイブ! マイネームイズ……」
「祐樹くん何やってんの……」
黒葛が渾身のボディーランゲージでいかに自分が勇気というものからかけ離れた存在かアピールしていたところ、唯がアイスコーヒーを持って戻ってきた。
朱華エリーは日本男児の披露した意味不明な何かに怯えたようで、唯にすがるような目を向けている。
「……通訳アプリ使おっか。私も無理だし……」


「朱華くんはこのお店の前で何をしてたの?」
唯が音声を吹き込むとすぐにスマホから機械的ながら流暢な英語が流れ出してきた。
朱華エリーはそれにウンウンと何度も頷き、そして英語を吹き込む。

〈私は授業で使う文具類を買いに来ました。しかし、お店がどこにあるか分からず、迷っていました〉

スマホからの音声を聞いた唯と黒葛は顔を見合わせ、頷く。
黒葛は翻訳ボタンを一旦切って「このあと一緒に行こうよ」と唯に言ったあと、朱華エリーに口頭で「レ、レッツゴー、ジョインアス」と言ってみる。間違っているかもしれないが、伝わらないことはないだろう。
すると朱華エリーは合掌し、二人に向かって礼拝とも言える動作で頭を下げた。この感じだといつかドゲザなるものをしてしまうのかもしれない。

朱華エリーは唯と黒葛を何度も交互に見たあと、またスマホに言葉を吹き込んだ。

〈あなたたち二人は、恋人同士なのですか?〉

唯は翻訳ボタンを切り、椅子にもたれ天井を仰いだ。
「なるほどそう見えると……」
その言葉にどういう感情が込められているか黒葛には計りかねた。
黒葛はもう唯との関係が周囲に知られてもいいか、と思っていた。でなければこの囃子歌研究会をエキチカのカフェチェーン店でなく、紫煙けぶる場末の喫茶店で開催していただろう。
ただ問題なのは自分たちの関係は二人だけではないということだ。
「全部正直に答えると日本人ヤバいってなりそ……ただでさえ“HENTAI”で外貨を稼いでるくらいだから」
黒葛は国産のウフンなコンテンツがいかに世界を席巻しているか重々承知をしている。そして自分たち三人は色々な意味で、特に昨日から立派な“変態”になったことは疑いようのない事実だった。

唯は頬をぽりぽりと掻いて何か思案したのち、翻訳ボタンを押した。
「あと一人いて、私たちは三人で特別な間柄なの。恋人かもしれないし、大切な……バディかも? 私たちにも、分からない」
続いて流れ出る翻訳された英語に耳を澄ませながら小さく細かく頷く朱華エリー。
翻訳されてなお抽象的であろうその文章をしみじみと咀嚼しているようだった。
「さすが唯ちゃん。僕にも確かに分からん。唯さまをひたすら愛でる会ではあるけど」
「ちょっと翻訳切り忘れてるってそれ!」
唯が慌ててスマホに手を伸ばすが時すでに遅し。
黒葛の放言を優秀な翻訳アプリは過不足なく翻訳をしてくれたらしい。

「…… To admire …… Yui-sama …… Yui …… sama」

英語に翻訳されてなおおぞましいその言葉を朱華エリーは確かめるように、心に刻むようにブツブツと復唱する。
「わああ変なこと吹き込んじゃった!」
狼狽する唯にヘーゼルカラーの瞳が向けられる。
「ユイ……さま?」
転校生の口から出たその日本語と、曇りなきまなこにぎょっとする唯。

そして朱華エリーはスマホを奪うように自分の方に寄せ、およそ黒葛や唯の耳では聞き取れない速度の長文を吹き込んだ。
〈唯様は、クラスの中で特別な存在なのですか? 唯様は困っている私に対して、とても親切でした。そして唯様はとても美しいです。私もみなさんと共に美しき唯様を称賛したいです〉
黒葛はやらかしを省みるでもなく、その機械的な音声のいちいちに強く首肯するだけだった。否定できるポイントがないのだから仕方がない。
「祐樹くん……。いやあのね、朱華くん」
「Ellie。私のなまえはエリーとよんでください。ユイさま」
胸に手を当て、恭しくお辞儀をする所作に黒葛はカーテシーする朱華エリーを幻視する。
このアホな感じといい、黒葛にはやはり他人とは思えなかった。

「美月さん入れてグループ作るのどうかな。めちゃくちゃ英語得意な人はいないけど、何か朱華くんの助けになるなら」
〈ぜひ、お願いをしたいです。私はこの日本で、唯様に出会えたことを私の神に感謝します〉
黒葛は夜通し唯の魅力について語り明かしたいと思いつつも、いくら何でも少し話しただけで入れ込みすぎではないだろうか、と過去の自分を棚に上げるようなことを思う。
「……まさか何かで魅了してないよね?」
「するわけないでしょ。反省したの私。……じゃあまあ、うん、しゅ……エリーくんがいいなら」
エリーはまた合掌して礼拝する。そして面を上げたその顔からは唯に向けてキラキラとした星が絶え間なく放たれているようだった。
「唯ちゃんすごい見つめられてるよ。その気持ちは全然理解できるけど」
黒葛も去年の体育祭で唯に救護されたことをきっかけに恋に落ちたわけだが、客観的には唯に“懐いた”ようにも見えただろう。そういう──困った人を助けて懐かれる系の星の下に生まれているのかもしれない。
「ええ~私なんてカナダの方の人からしたら子どもにしか見えないでしょ……。美月ちゃん見たら正気に戻ると思うよ」
今に限って困った時のヒーローがいないというのが悔やまれる。助けて美月ちゃん。

「とにかく、よろしく……僕もグループ入ってていいのか不安だけど。苗字は絶対呼びづらいと思うしよかったら祐樹と呼んでもらえれば」
スマホにそう吹き込んだ黒葛は、翻訳された英語の中に”Yuki”という言葉が入っているのを聞き、安心した。最近の翻訳アプリは優秀だ。
エリーはにっこりと笑い、日本語で答えた。
「よろしく、おねがいします。ユイさま。ブレイブ」
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