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第二章
第57話/石搗さん
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2023年7月10日(月) 13:00
唯は石造りの鳥居をくぐりながら、その柱の表面を撫でた。
ざらついた感触は長年の風雨に晒されたという事実を唯に伝える。
この鳥居がいつからここにあるのかは分からないが、石搗神社自体は江戸時代、それも元禄の頃にはここに存在していたらしい。
その長い歴史からすれば取るに足らないことだろうが、唯にもこの鳥居に多少の思い出がある。
この鳥居は、駐輪場だった。
というとおかしいが、美月を先頭に近所の子どもたちの集団は神社に自転車で乗りつけ、そして鳥居の横に一列に何台もの自転車を並べた。柱のすぐ隣はボスである美月の自転車の定位置で、あとは到着順に並べられる。唯は大体いつも一番端だった。
この場所が神社の指定する駐輪場だったわけではないが、子どもながらにこの鳥居を自転車で越えてはいけないと思ったのだろう。
そして歩行で境内に駆けていき、日が暮れるまで遊んだ。
エキサイティングな遊具があるでもなく、広い敷地を使って球技をするでもない。
具体的にどんなことをしていたか記憶にないほどに取り留めなく時を過ごしていた。
唯たちにはこの場所に来ることにこそ意味があった。
緑に囲まれたこの場所は周囲よりも幾分か涼しく、日陰にも困らぬささやかな避暑地だった。
加えて、逃げるのは暑さからだけではない。
今日の子どもにとって、世間から、オトナの目から自由な空間というのは貴重である。
その意味で神社の境内というどこか俗世から隔絶された空間は、近所の公園では代替不可能な特殊な力場だった。
しかし子どもたちは特にそう意図してこの場所を遊び場としていたわけではない。
鳥居の横に自転車を停めたのと同様、ただ、何となくだ。
しかし──
唯は手でひさしを作り、辺りを見渡す。
昨今のこの気候にあっては、いくらこの境内も避暑の役目をどれほど果たせるというのだろう?
木々の濃い影が落ちる境内には、自分たち以外の人影は見えない。
平日の昼間、それもこうも暑い今日のような日に参拝する奇特な人はいないらしい。
四方から聞こえてくるセミの鳴き声もどこかお疲れ気味だった。
「ここ、なんかひさしぶりだね」
「私は一応、毎年来てはいるよ。初詣でだけど」
唯に対する美月の口調は珍しくマウントをとるふうにも聞こえた。あるいは自負かもしれない。
何事も合理的、ともすれば唯物的な思考の傾向にある美月だが、意外にも伝統のようなものも重んじるところがあるな、と黒葛は思う。
雑に言えば、“ちゃんとしている”のだ。家庭の方針というか家風なのだろうが。
自分も引っ越して来たタイミングでお参りに来るべきだったのかもしれない。あまり詳しくは知らないが、この辺りの氏神的なるものをを祀っている神社ということになるのだろうか?
綺麗で清掃の行き届いた境内を見渡しながら、黒葛にはここが多数の迷子を輩出するほどの盆踊り会場になるというのはどうも想像ができなかった。
「今もやってるの、夏祭りって」
「やってると思うよ。この辺からぶぅっわあああああーって屋台が並んでんの。今年は三人で行こうよ」
美月の大袈裟な身振りによると、以前テレビで見た台湾の夜市レベルの絢爛な屋台が連なっていることになるがいくらか差し引いて考えた方がいいのだろう。
「お盆あたりだよね? じゃもう来月かぁ~」
唯は意味もなく指を折って数える。
それを見てキュンと胸を詰まらせる黒葛は二人の浴衣姿を想像するとさらに情緒が掻き乱されてしまった。あとひと月でそんな素晴らしい絵が見られるなんて。
「美月ちゃんどう? 何か思い出したりとかあった?」
隣を歩く唯が美月の顔を見上げ、訊ねる。
思い出すも何も、当然ながら美月のよく知る境内だった。
参拝をする人とお焚き火、それに御神酒の匂いがないくらいで今年の初詣に来た時のままだ。
「どーだろうねぇ~」
美月はそう言って参道の正中から外れ、道の端へと向かう。
境内を囲む木々が枝葉を伸ばし、幾重にも重なってできた濃い影にはほとんど木漏れ日さえも落ちない。
強い日差しを気にする必要がない美月がどうしたのかと、唯と黒葛もその後ろをついていく。
美月は少し入り組んだところにあった一本の大きな木の前で立ち止まった。
周囲の木々は一際大きなその木をどこか避けるように、しかし囲み守るようにして生えている。
唯はその木を見て懐かしそうに目を細めた。
それは子どもの頃、美月がよく登ったクスノキだった。
登ろうにも手がかり足がかりとなるような枝もなく、ネズミ返しのようにうねる太い幹を前に踏破できたのは子どもたちの中で美月だけだった。
常緑の広葉樹は、子どもの姿をよく隠してくれる。
太い枝の上に雑草のごとく生えるシダを枕にまどろんだものだった。
ある時神社の人に見つかって怒られるまで、この木は美月だけの“秘密基地”だった。
しかし美月にとって、今その思い出は重要ではない。
美月の記憶では、あの夏祭りの日、“ういちゃん”に出会ったのはこの木の下だった。
ベンチに座り足を休めていたところ、暗闇の中の泣き声に導かれて美月はういちゃんを見つけた。
そのあと二人は屋台を巡り、美月は金魚すくいで手に入れた赤いリュウキンをういちゃんにあげた。そしてういちゃんからはくじ引きで手に入れたキツネのお面をもらった。
美月は知らぬ間にういちゃんと唯を混同しており、それが唯との初めての出会いだと勘違いをしていた。
実際にその祭りには前年に知り合った唯と一緒に行っており、写真も残っている。その写真の中で美月が被っているお面は、キツネなどではなく流行りの女子向けアニメのキャラクターのものだった。
確かに今思えば、べそをかく唯の手を引いて店を回った思い出も浮かんでくる。
でもこれは私の記憶? 同化した唯の記憶?
それとも、あの記念写真を見たことで脳が勝手に類推して作り出した偽りの記憶?
それなら、家にあったキツネのお面は一体何なんだろう。
何で、私はキツネになったんだろう。
美月は苔むした木の幹を平手でペンペンと叩き、頭上に繁る枝葉を仰ぎ見る。
常緑の木は当時と変わらない姿だった。登る際、最初に飛びつくポイントも足をかける場所もそのままだ。もっとも、今なら、この身体ならジャンプひとつでお気に入りの枝まで到達できるだろう。
「唯さ、この木って覚えてる?」
木を見上げたまま、背後に控えている唯に訊ねた。
「美月ちゃんが登って怒られた木」
「ぴんぽーん」
唯の即答を受けくるりとターンし木に背を向けた。
当たり前だが、期待した答えではなかった。
記憶力のいい唯が覚えていたのは、この木の下で美月と出会ったという劇的な歴史ではなく、ただの美月の恥ずかしい過去だった。
タイミングを見計らい、黒葛が「ねぇさ」と二人に呼びかける。
「せっかく来たんだし……神社の人にお話聞けたりしないかな。この町の歴史とか……昔の、あの地震のこととか」
黒葛はそう提案し、浮き出ては流れる額の汗を袖で拭う。
先月図書館で読んだ宝月町史には、江戸時代にこの地域で起こった地震のあらましが記されていた。そしてその出典となった資料はこの神社に保管されているらしかった。
「私も、ちょっと思ってたとこ。きっと地域のこと……色々詳しいだろうし。でもいきなりで失礼かな。お電話するべきだったね」
黒葛と違い汗のひとつもかいていない唯が同じく涼しげな表情の美月に訊ねる。
「大丈夫じゃない? どうせヒマしてるっしょ」
美月の口調には幾分か棘があった。
昔、木に登って怒られたことを根に持っているのか。ほかにも色々と前科があるのかもしれない。
「一応……授業課題のための調べ学習って名目でいっか」
そう言ってまた逆の袖で顔を拭う黒葛に、ツンをした表情の唯がハンカチを差し出した。
「あ、ありがとう」
昨日もらったばかりのプレゼントのタオルハンカチは現在丁寧に折り畳まれ、シャツと共に自宅のリビングに飾られている。
社殿の脇に、お守りや絵馬が並ぶ売店が併設された社務所を見つける。
唯がそちらへ駆けて行ったかと思えば社務所の前で両耳に手を当ててすぐにまた戻ってきた。
そして玄関の方を指差し、「中にいらっしゃる」と言う。
コウモリが超音波を飛ばしてその反響でエモノの位置を探るというアレだろうか。いよいよ人外である。
玄関の前に至り、黒葛と唯は美月の背後に控えた。
「私? まぁいいけど……」
「私たちも美月ちゃんのコミュニケーション術の調べ学習ということで……」
肩をすくめた美月はインターホンを押し、即座に「ごめんください~!」と叫ぶ。
インターホンとは一体。
ややあって玄関戸が少し引かれ、壮年の男性が顔を覗かせた。
「はいはい、なんでございましょ」
いきなり訪ねてきた若人三人に怪訝な表情を向けるが無理もないだろう。
美月が会釈をし、釣られて後ろの二人も小さく頭を下げる。
「突然お約束もなしにすみません。私たち葦原高校の生徒で、この町の歴史について調べているのですが、よろしければお話をお伺いすることはできますか?」
すると男性の表情がぱぁと晴れた。
「おお珍しい。珍しいですね今どき。ぜひぜひ、もちろんですよ」
カラカラと音を立てて戸が開かれ、玄関から涼やかな冷気が漏れ出してくる。
男性は上は白衣、下は袴という、いかにもな神職の出で立ちだった。
「ありがとうございます! ……やったね」
礼を言って振り返り、金魚のフンどもに破顔して見せる。
この美少女に懇願されて断れる胆力を持つ者はなかなかいないだろう。黒葛にはコミュニケーション術以前の……チートという気がしなくもない。
「外、暑かったでしょう。今年はどうなることやら……」
畳の応接室に通された三人は、差し出された氷の浮いた麦茶に喉を鳴らした。
いくら気温への耐性があろうとノドは渇く。
「私がこの神社の宮司を務めております、山茶です。どうもよろしくお願いします」
「葦原高校2年の桜永です。こっちは茜川と」
「……く、黒葛ともうしあげ、ます」
黒葛は流れで紹介してもらえると思ったので油断していた。
それを見て宮司はクスリと微笑んだようだった。黒葛は自分が笑われた気がしたが、その優しい眼差しはどうも女子二人を眼差しているようだった。
当たり前だ。こんな可愛い二人が健気にも町の歴史を調べようと訪ねてきれくれたのだから。
「昔は、たまーに……地域のお年寄りとかね、いらっしゃってたんですが、若い人は初めてで嬉しいですよ。何か、お調べですか? 歴史でしたか」
宮司は白衣の袖を広げ直し、いかにも何でもどうぞと言わんばかりだ。
三人は目配せをした挙句、黒葛と唯が相変わらず金魚のフンのような目をしていたので美月が切り出すことにした。
「昔……宝月は鬼の灯と書いて鬼灯と呼ばれていたそうですが、名前が変わった経緯など、ご存知ですか?」
すると、余裕のある笑顔がどこか張り付いたようだった。
思いのほか昔まで遡ってしまったのかもしれない。
「……よくあることですよ。縁起のよろしくない名前ということで、音はそのままにめでたい漢字を充てたという、それだけのことです。終戦直後の混乱の折に。あ……、太平洋戦争のことです」
戦争というものを異国の出来事としか認識していない世代と思われてるのだろう。どっこい、こちらは試験明けの現役の学生なのだ。
「あの、植物の……ホオズキの産地とか、そういうことだったんですか?」
そう訊ねる黒葛だったが、これまでホオズキの実が実際になっているところを見る機会もなく、ましてや食用に栽培するものなのかどうかすら知らない。
「諸説ありますが……、社に伝わる話によると、昔この地に“鬼”が出たなどありますがね。まぁ全国各地で似たような話はありますから」
「鬼……」
唯は自分にだけしか聞こえない声で、その音を確かめるように呟いた。
そうした妖怪の類は物語の中だけの存在だと思っていたが、まさに昨日、自分が“成って”しまった。黒い翼と尾を持ち、不可思議な術を使う──妖怪というほかない。
そして鬼といえば、金棒を担ぎ、ツノを生やした赤い肌のバケモノを想像する。
「いわゆる桃太郎に退治される類の、筋骨隆々としたいかにもな鬼ではなく、見目麗しい絶世の美女ということでした。まぁ、そういう人ならざるものを鬼と呼んでいたのかもしれませんね。今とは感覚が違うのでしょう」
三人が慄いた気配を察したのか宮司が注釈を付けた。
それを受けて唯も、古い説話に出てくる鬼は挿絵ではツノさえ生えていない女性の姿だったりするのを思い出す。もちろん化けている場合もあるが。
そして今も昔も変わらないのは甚だしいものを表現する場合に“鬼”を使うということだ。
オニヤンマ、オニカサゴ、鬼軍曹、鬼コーチ。副詞としての鬼ヤバい。
「……宮司さんは、そういう鬼……ないし妖怪のようなものを実際にご覧になったことはありますか?」
美月がそう訊ねる横で黒葛は、さっきから敬語というものを自在に操るこの人が国語が苦手なのは嘘だろうと唇をすぼめた。そしてこの問いは自分たちのような存在がほかにもあり得るのかどうかを訊ねるものだと理解する。
「どうでしょうね。鬼も妖も、誰しも心のうちに秘めているものでしょう」
一般論としての比喩ではぐらかされたようにも思えたが、昨日の今日の三人からすれば実に本質的だった。意識の底深くに潜った唯と美月は、心のうちに秘められていたそれを引き出したということだろうか?
唯が膝を少し前に出し、美月と自分とを指す。
「あの、私たち昔……小学生のころ、“おいこさん”に参加していました」
「そうでしたか。それは……本当に、ご苦労さまでした」
唯は宮司の労うような口ぶりが気になったが、続ける。
「囃子歌の中で、鬼や蛇といったものが出てくるのですが、これがその……昔出たという鬼に関係しているのですか?」
「関係は……そうですね……」
宮司は顎をさすり、何か逡巡しているようだった。その表情にはもう最初のような余裕は見られない。
「していると言えば、そうですが、そうでもないかもしれないです。この歌での鬼というのは、もっと抽象的な概念ですから」
奥歯にモノが挟まった言い方で煙に巻こうとしているが、それこそが事情を知っていることの証左にほかならない。美月が唯の問いを継ぐ。
「お詳しいですが、“おいこさん”というのはやっぱり」
「“おいこ”は、この社で生まれたものになります。途中からは地域の方に管轄が移り、囃子歌も当時からいくらか変わっていますがね」
「石搗……石を搗く」
また独り言のつもりで呟いた唯に宮司が頷く。
「そうです。むしろ“おいこ”のためにこの社が作られたとも言えます。ある意味では」
その言葉通りだとしたら、あの奇祭は江戸時代初期にまで遡ることになる。
「ええ~全然知らなかった……。そんな由緒ある行事だったんだ?」
美月は驚きながら足を崩すとともに口調を崩した。
その様子に宮司もどこか表情を和らげたようだった。これが美月の人たらしたる所以である。
「途中、途絶えたりもありましたね。また復活したのは……70年前くらいでしょうか。ちょうど高度成長期が始まるあたりですね」
「それは、なぜでしょうか?」と身を乗り出した黒葛に猫背が復活しかけたところを美月の手刀が叩く。黒葛プロデュースの一環である。
「子どもが増えたからじゃないでしょうかね」
「いてて……戦後すぐ……なら第一次ベビーブームですね。その団塊の世代が物心つくあたりというか」
「おっしゃる通りです。この町は首都圏へのアクセスも容易な、郊外型のベッドタウンとして売り出されるようになり、実際にそのように機能していました」
唯がポンと小さく膝を叩いた。
「ああ、なのでイメージを変えたかったんですね。鬼だと不吉だから」
宮司が無言のまま頷く。
「今でこそ人口は減りましたが、それこそ私の子どもの頃は山の手の団地が一大コミュニティとして栄え……信じられないと思いますが、おもちゃ屋が町に10軒ほどはありました」
「おもちゃ屋……なんてないよね、今」
美月が唯に耳打ちし、唯も自信なさげだが首肯する。
大人向けの模型店なら心当たりはあるが、少なくとも唯自身はこの町の中でおもちゃを買ってもらったことはない。全く想像を絶する話だ。何をそんなに売るものがあるというのだろう。
「子どもというのは町の中で大きな存在だったんだと思います。ただ子どもは……無軌道ですので、何をするか分からない」
宮司が微笑みながらじっと見つめるのは美月だった。
美月は悪童だった自分の正体がバレていることを悟る。バツが悪く背中を丸めた美月を見て宮司は少し気の毒そうな顔をして続ける。
「だから行事にかこつけて、地域の子どもたちをまとめる……と言うと言葉は悪いですが。子どもをハブにコミュニティを形成しようという意図もあったのでしょう。外から移ってきた人が多かったので、土地と縁を結び、郷土に親しんでもらう……それに“おいこ”を使っていただいたのだと思います」
小さくなった美月に代わって黒葛が積極的に相槌をうち、質問を返す。
「ではもともとの“おいこさん”は、どういう目的で執り行われていたんですか? そのためにこの神社も?」
「語弊がありましたが、この社が建てられた目的も、“おいこ”も、どちらも目的は同じなのです。つまり地鎮ですね」
地鎮。つまり、地中の邪気を祓い大地を鎮める行為だ。地の底から災が湧き出ぬようにと地を固め、土地を祝ぐ。
「しもついわねのないふらず……そっか、下津岩根の……地面が揺れないように、と」
唯の言葉に宮司は大きく頷いた。
やはり、地震が関係しているのかもしれない。しかしこの土地には大きな断層は存在しないのだ。黒葛は少し逡巡し、意を決して口を開いた。
「あの僕……、4月の地震の……生き残りなんです」
「それは……そうでしたか。何と……」
宮司が見せたのは哀れみとも悲しみともつかない感情だった。
いずれにせよひどく落胆した様子の宮司だったが、顔を上げると目が少し鋭くなったのが分かった。
「では……それが本題なのですね」
黒葛は強く頷き、膝の上で手を握った。
「過去、この土地で似たような……人がいなくなるようなことがあったみたいですが、こないだの地震と関係がありますか? 何かご存知でしたら教えて欲しいです」
努めて冷静に発声しているつもりが、話しているうちに感情が込み上げてきて喉の奥が熱くなる。
「これは……少々、難しいですね」
宮司は目を逸らし、黒葛の強く握られた拳を見つめた。
今度は黒葛の横の美月が身を乗り出す。
「あの、すみません。学校の課題じゃないんです実は。彼は当事者だし……私たちも友人としてあの地震について知りたいんです」
唯も大きく頷き、できる限りの力を眼に込めて訴える。
「……分かりました。しかし私からは説明がしづらい内容になります」
そう言って目を閉じ、眉間に皺を寄せて逡巡する宮司に黒葛は少し苛立ちを覚えた。
言葉を選んでいるのだとしたら、余計なお世話だった。率直にありのままの事実が知りたいのだ。それが自分ひとりでは受け止められない事実であろうと、唯と美月がいてくれるなら。
宮司は一度ゆっくり頷き、そして目を開いた。
「みなさん、翠羽先生はご存知ですか?」
「スイバ? うちの学校にいたっけ?」
腕を組み、首を傾げる美月。
「ああ、すみませんね、学校の先生じゃなくて……この辺りじゃ有名な方なんですが」
「唯、知ってる……?」
「ううん分かんない」
美月も唯も、当然黒葛も聞き覚えのない名前だった。
「みなさんはお若いから……ご家族の方ならもしかしたらご存知かもしれないですね」
「その先生が、地震やこの土地に詳しい先生……ですか?」
「そうですね……。詳しいというか……非常に説明が難しいんですよ。もうこればかりはご本人に会ってもらうしかない。ただ、かなりお忙しい方なので、巡り合わせ次第ですがね」
郷土史系の教授だろうか。黒葛にはますます分からなかった。
「先生のお客さまに芸能関係の方も大勢いらっしゃるのですよ。その関係で留守にされることも多くて」
「芸能……有名な方ですか?」
美月の質問に対し宮司は何人かの具体的な人名を挙げ、そして三人ともに腰を抜かした。
「ええええっ!!」
「ちょ、超大物……!」
「ですから、普通にはなかなかお目通りさえも難しいんですが、この町のことや……その、先の地震の件でしたら親身になっていただけるかと思います。やはりご縁次第ではありますが」
顔を見合わせる唯も美月もまさか自分の生まれ育った町にそんなVIPがいるとは知らなかった。しかし、これまでの話とその世をときめく芸能人たちとがまるで結びつかない。
「あの、どういう、お仕事なんですか?」
三人の疑問を黒葛が代弁する。
「先程も申し上げましたが、非常に説明が難しいんですよ。ご本人も肩書きを設けておりませんし、付けるのを嫌ってらっしゃる。私も既知の肩書きで翠羽先生の為事にふさわしいものは思い及びません」
迂遠かつふわふわとした説明に我慢できないのか美月の足の指がモゾモゾとしている。
宮司は困った表情を浮かべるが観念したのか居直り、三人を見据えた。
「ご本人に失礼を承知で申し上げます。絶対にこのように呼ばないでください。最も嫌ってらっしゃるものです」
黒葛たちが怪訝そうにそれぞれに首肯したのを見て宮司は続けた。
「霊能力者。霊媒師。超能力者や預言者……。いわゆる、世間一般ではそう認知されているものになります」
社務所を後にした三人はやはり誰ともすれ違うことなく神社入り口の鳥居をくぐった。
「なんか怪しくなってきたね、一気に……」
黒葛はまさか面と向かってそのような言葉を聞くことがあるとは思っていなかった。
霊だの超能力だの、アニメやマンガでしか知らない世界である。
昔はたまにテレビでその手の番組をやっていたが、この頃はとんと見なくなった。
そういった世界はオカルトとして片付けたいところだが、自分たちがこの数ヶ月の間に経験したことはまさしくオカルトとしか言いようがないことの連続だった。
「霊ねぇ~。お化けとか、見たことないしなー」
宮司と向き合ったときのキリリとした態度はどこへやら、美月は手を頭の後ろで組み、いかにも気怠そうに歩く。
自分たちのことを棚に上げて何をとぼけたことを、と思う黒葛だったが、これは“フリ”というやつなのでは、と察した。
「妖怪なら、昨日見た。……二体も」
神妙な顔付きでおどけて言う黒葛に美月が口を尖らせる。
「祐樹もワンオブゼムだし」
黒葛は渾身のボケを拾ってもらえたことで安心した。
しかし、そうなのだ。自分たちが妖怪の類だったとしたらそういう──霊能力者だか退魔師だかに祓われてしまう側なのではないだろうか? 少なくとも自分はこの二人を人の道から外した元凶なのである。
境内を一歩出るとアスファルトに蒸された熱気が陽炎を作っていた。見ているだけで暑くなる光景に黒葛はウンザリし、無意識のまま額を手で拭う。
すると手のひらにはぐっしょりとした汗が張り付いていた。
先ほどいただいた麦茶はここに来るまでの間に汗として出てしまったようだ。
「……なんかさ、最近……」
黒葛は手のひらを見つめていると、唯がその手を覗き込んできた。
「どしたの?」
「ううん、なんでもない」
黒葛は手を握り、ズボンのお尻でその汗を拭いた。
宮司の話によると翠羽先生の自宅は『かわせみ堂』という和菓子屋で、駅にほど近い場所にあるとのことだった。
霊能力と和菓子に何の関係があるのか分からないが、お店をやっているということなら自然に訪問ができるということでもある。
「かわせみ堂……これだね。バス、駅まで行くから行ってみよっか」
バスの時間を調べていた唯がスマホ画面を二人に見せる。
Google の情報によると月曜日は営業日のようだった。本人は不在でも従業員から何か話が聞けるかもしれない。
三人は閉め切られたシャッターの前で立ちすくんでいた。
シャッターの貼り紙には恐ろしく達筆な文字で非常にガッカリとする四文字が書かれてある。
「臨時休業……」
唯がもう一度スマホで店の情報を調べてみる。
「火曜が定休日だから、明日もやってないみたいだね」
「仕方ないかぁ。また、週末とかに出直そっかな」
黒葛が回れ右をしようとしたところ、三人の影のうち最も長い影がゆらりと揺れた。
「美月ちゃん?」
唯が咄嗟に声をかけると同時に硬いソールがアスファルトを叩く音が鳴った。
「いや……ちょっとふらっとしただけ……」
姿勢を立て直した美月は額に手を当て、空を仰ぐ。
「え。だ、大丈夫?」
反応が遅れた黒葛も美月が立ち眩んだことを理解した。
このところ長らく気落ちしていた上、昨日は昨日で大変なことが起こったのだ。色々と無理が祟ったのだろうか。
唯は美月の背中に手を当て、その身を案じる。
「昨日あんま寝れなかったって……。今日は、解散しよっか」
「大丈夫大丈夫。もう平気だし」
心配する唯の頭を撫で、笑顔を見せる。その顔色は悪くなさそうだが、より人外の領域へと至ってから昨日の今日である。体調に変化がない方がおかしいのかもしれない。
「心配だよ美月ちゃん……無理してない?」
唯の真剣な眼差しを受け美月は困ったように笑い、頭を掻いた。
「……じゃ、私は今日は帰ろっかな。唯と祐樹はまだ早いんだし遊んできなよ。せっかくテスト終わったんだし」
そう言って通学バッグを肩に掛け直す。
「美月ちゃん大丈夫なの?」
「ほんとにほんとに大丈夫だから。もう走って帰れそうだし」
その場でクルっと片足でターンをして見せた。
たかが旋回ひとつでも芸として成立するほどに綺麗なもので、ふらついた様子もない。
「祐樹くん、どうする?」
黒葛は熱された髪を摘み、より合わせながら考える。
美月を差し置いてというのも気が引ける思いがありつつ、さりとて解散となれば美月が気を悪くするだろうとも思った。
「“おいこさん”の歌のこと、記憶が新しいうちに考えたいんだけど、唯ちゃんがいいならちょっと付き合って欲しい。美月さん、いいかな」
美月は頷き、そして恥ずかしそうに舌を出した。
「それじゃ私は力になれそうにないし。二人にお願いするよ」
「じゃ……気をつけてね、美月ちゃん。帰ったらメッセちょうだいね」
「はいはい、じゃまた明日ね!」
美月はその明るい声を残し、手を振りながら駆け足気味で去っていった。
溌剌とした声に、キビキビとした動作。
妙な強がりではなさそうだった。
「たぶん……大丈夫だよ、今回は」
黒葛は美月の去った後を見つめる唯を慰めるように言った。
今の美月なら、本当に具合が悪ければ何かしら申告をしてくれるのでは、という気がする。
「……うん、あとで電話してみよっかた」
「それでも具合よくなかったら、唯ちゃんお見舞いお願いしていい?」
唯は頷き、いくらか安心したようだった。
黒葛は額の汗を拭きながら辺りを見渡してみる。駅のホームの放送音が聞こえてくる程度にはエキチカのエリアだ。
囃子歌のことを考えるとなると、もう一度例の資料も参照したいところだが図書館の方に行くには少し距離がある。せめてノートを広げられる適当な場所があればと思うが、駅が近いなら場所には困らなさそうだ。
「どっかその辺でお茶しよっか」
「そだね。のど乾いた~」
舌を出して日差しにバテたふうを装う唯だったが、汗ひとつ浮かべない顔でやられてはただ愛嬌があるようにしか見えない。
美月と唯でいえば、日光にやられそうな姿に変化したのは唯の方だ。
しかし唯は特にこの暑さにも日差しにもやられている様子はない。
むしろ。
また黒葛は額を拭う。
いつかガラガラ公園に行ったときは長い石段を登っても汗をかかなかったのに、この頃は少し運動すれば普通に汗をかくし疲れるようにもなってきている。
身体が衰えてきているのだろうか?
二人が駅へ向かおうと数歩歩いたところで突然唯が後ろを振り返った。
「どしたの唯ちゃん」
そのあまりの機敏な動作に驚いた黒葛だったが、一番驚いていたのは唯だった。
「いや……」
今の感覚は、何だろうか。
何か──背中を刺す何かが飛んできたような。
過去覚えがないその感覚を反芻するが、あまり気持ちのいいものではなかった。
そしてそれは、かわせみ堂の方から向けられていたようだった。
唯はその場で耳を澄ませて店内の様子を窺おうとしたが、何かノイズのようなものが干渉してうまくいかない。ネズミ避けかネコ避けでも置いているのだろうか。
「唯ちゃん行こうよー」
「あ、ごめんごめん」
シャツの襟元をパタパタと扇ぐ黒葛に促され、唯も再び踵を返す。
二人が角を曲がったあと、かわせみ堂の2階の窓のカーテンが小さく揺れた。
唯は石造りの鳥居をくぐりながら、その柱の表面を撫でた。
ざらついた感触は長年の風雨に晒されたという事実を唯に伝える。
この鳥居がいつからここにあるのかは分からないが、石搗神社自体は江戸時代、それも元禄の頃にはここに存在していたらしい。
その長い歴史からすれば取るに足らないことだろうが、唯にもこの鳥居に多少の思い出がある。
この鳥居は、駐輪場だった。
というとおかしいが、美月を先頭に近所の子どもたちの集団は神社に自転車で乗りつけ、そして鳥居の横に一列に何台もの自転車を並べた。柱のすぐ隣はボスである美月の自転車の定位置で、あとは到着順に並べられる。唯は大体いつも一番端だった。
この場所が神社の指定する駐輪場だったわけではないが、子どもながらにこの鳥居を自転車で越えてはいけないと思ったのだろう。
そして歩行で境内に駆けていき、日が暮れるまで遊んだ。
エキサイティングな遊具があるでもなく、広い敷地を使って球技をするでもない。
具体的にどんなことをしていたか記憶にないほどに取り留めなく時を過ごしていた。
唯たちにはこの場所に来ることにこそ意味があった。
緑に囲まれたこの場所は周囲よりも幾分か涼しく、日陰にも困らぬささやかな避暑地だった。
加えて、逃げるのは暑さからだけではない。
今日の子どもにとって、世間から、オトナの目から自由な空間というのは貴重である。
その意味で神社の境内というどこか俗世から隔絶された空間は、近所の公園では代替不可能な特殊な力場だった。
しかし子どもたちは特にそう意図してこの場所を遊び場としていたわけではない。
鳥居の横に自転車を停めたのと同様、ただ、何となくだ。
しかし──
唯は手でひさしを作り、辺りを見渡す。
昨今のこの気候にあっては、いくらこの境内も避暑の役目をどれほど果たせるというのだろう?
木々の濃い影が落ちる境内には、自分たち以外の人影は見えない。
平日の昼間、それもこうも暑い今日のような日に参拝する奇特な人はいないらしい。
四方から聞こえてくるセミの鳴き声もどこかお疲れ気味だった。
「ここ、なんかひさしぶりだね」
「私は一応、毎年来てはいるよ。初詣でだけど」
唯に対する美月の口調は珍しくマウントをとるふうにも聞こえた。あるいは自負かもしれない。
何事も合理的、ともすれば唯物的な思考の傾向にある美月だが、意外にも伝統のようなものも重んじるところがあるな、と黒葛は思う。
雑に言えば、“ちゃんとしている”のだ。家庭の方針というか家風なのだろうが。
自分も引っ越して来たタイミングでお参りに来るべきだったのかもしれない。あまり詳しくは知らないが、この辺りの氏神的なるものをを祀っている神社ということになるのだろうか?
綺麗で清掃の行き届いた境内を見渡しながら、黒葛にはここが多数の迷子を輩出するほどの盆踊り会場になるというのはどうも想像ができなかった。
「今もやってるの、夏祭りって」
「やってると思うよ。この辺からぶぅっわあああああーって屋台が並んでんの。今年は三人で行こうよ」
美月の大袈裟な身振りによると、以前テレビで見た台湾の夜市レベルの絢爛な屋台が連なっていることになるがいくらか差し引いて考えた方がいいのだろう。
「お盆あたりだよね? じゃもう来月かぁ~」
唯は意味もなく指を折って数える。
それを見てキュンと胸を詰まらせる黒葛は二人の浴衣姿を想像するとさらに情緒が掻き乱されてしまった。あとひと月でそんな素晴らしい絵が見られるなんて。
「美月ちゃんどう? 何か思い出したりとかあった?」
隣を歩く唯が美月の顔を見上げ、訊ねる。
思い出すも何も、当然ながら美月のよく知る境内だった。
参拝をする人とお焚き火、それに御神酒の匂いがないくらいで今年の初詣に来た時のままだ。
「どーだろうねぇ~」
美月はそう言って参道の正中から外れ、道の端へと向かう。
境内を囲む木々が枝葉を伸ばし、幾重にも重なってできた濃い影にはほとんど木漏れ日さえも落ちない。
強い日差しを気にする必要がない美月がどうしたのかと、唯と黒葛もその後ろをついていく。
美月は少し入り組んだところにあった一本の大きな木の前で立ち止まった。
周囲の木々は一際大きなその木をどこか避けるように、しかし囲み守るようにして生えている。
唯はその木を見て懐かしそうに目を細めた。
それは子どもの頃、美月がよく登ったクスノキだった。
登ろうにも手がかり足がかりとなるような枝もなく、ネズミ返しのようにうねる太い幹を前に踏破できたのは子どもたちの中で美月だけだった。
常緑の広葉樹は、子どもの姿をよく隠してくれる。
太い枝の上に雑草のごとく生えるシダを枕にまどろんだものだった。
ある時神社の人に見つかって怒られるまで、この木は美月だけの“秘密基地”だった。
しかし美月にとって、今その思い出は重要ではない。
美月の記憶では、あの夏祭りの日、“ういちゃん”に出会ったのはこの木の下だった。
ベンチに座り足を休めていたところ、暗闇の中の泣き声に導かれて美月はういちゃんを見つけた。
そのあと二人は屋台を巡り、美月は金魚すくいで手に入れた赤いリュウキンをういちゃんにあげた。そしてういちゃんからはくじ引きで手に入れたキツネのお面をもらった。
美月は知らぬ間にういちゃんと唯を混同しており、それが唯との初めての出会いだと勘違いをしていた。
実際にその祭りには前年に知り合った唯と一緒に行っており、写真も残っている。その写真の中で美月が被っているお面は、キツネなどではなく流行りの女子向けアニメのキャラクターのものだった。
確かに今思えば、べそをかく唯の手を引いて店を回った思い出も浮かんでくる。
でもこれは私の記憶? 同化した唯の記憶?
それとも、あの記念写真を見たことで脳が勝手に類推して作り出した偽りの記憶?
それなら、家にあったキツネのお面は一体何なんだろう。
何で、私はキツネになったんだろう。
美月は苔むした木の幹を平手でペンペンと叩き、頭上に繁る枝葉を仰ぎ見る。
常緑の木は当時と変わらない姿だった。登る際、最初に飛びつくポイントも足をかける場所もそのままだ。もっとも、今なら、この身体ならジャンプひとつでお気に入りの枝まで到達できるだろう。
「唯さ、この木って覚えてる?」
木を見上げたまま、背後に控えている唯に訊ねた。
「美月ちゃんが登って怒られた木」
「ぴんぽーん」
唯の即答を受けくるりとターンし木に背を向けた。
当たり前だが、期待した答えではなかった。
記憶力のいい唯が覚えていたのは、この木の下で美月と出会ったという劇的な歴史ではなく、ただの美月の恥ずかしい過去だった。
タイミングを見計らい、黒葛が「ねぇさ」と二人に呼びかける。
「せっかく来たんだし……神社の人にお話聞けたりしないかな。この町の歴史とか……昔の、あの地震のこととか」
黒葛はそう提案し、浮き出ては流れる額の汗を袖で拭う。
先月図書館で読んだ宝月町史には、江戸時代にこの地域で起こった地震のあらましが記されていた。そしてその出典となった資料はこの神社に保管されているらしかった。
「私も、ちょっと思ってたとこ。きっと地域のこと……色々詳しいだろうし。でもいきなりで失礼かな。お電話するべきだったね」
黒葛と違い汗のひとつもかいていない唯が同じく涼しげな表情の美月に訊ねる。
「大丈夫じゃない? どうせヒマしてるっしょ」
美月の口調には幾分か棘があった。
昔、木に登って怒られたことを根に持っているのか。ほかにも色々と前科があるのかもしれない。
「一応……授業課題のための調べ学習って名目でいっか」
そう言ってまた逆の袖で顔を拭う黒葛に、ツンをした表情の唯がハンカチを差し出した。
「あ、ありがとう」
昨日もらったばかりのプレゼントのタオルハンカチは現在丁寧に折り畳まれ、シャツと共に自宅のリビングに飾られている。
社殿の脇に、お守りや絵馬が並ぶ売店が併設された社務所を見つける。
唯がそちらへ駆けて行ったかと思えば社務所の前で両耳に手を当ててすぐにまた戻ってきた。
そして玄関の方を指差し、「中にいらっしゃる」と言う。
コウモリが超音波を飛ばしてその反響でエモノの位置を探るというアレだろうか。いよいよ人外である。
玄関の前に至り、黒葛と唯は美月の背後に控えた。
「私? まぁいいけど……」
「私たちも美月ちゃんのコミュニケーション術の調べ学習ということで……」
肩をすくめた美月はインターホンを押し、即座に「ごめんください~!」と叫ぶ。
インターホンとは一体。
ややあって玄関戸が少し引かれ、壮年の男性が顔を覗かせた。
「はいはい、なんでございましょ」
いきなり訪ねてきた若人三人に怪訝な表情を向けるが無理もないだろう。
美月が会釈をし、釣られて後ろの二人も小さく頭を下げる。
「突然お約束もなしにすみません。私たち葦原高校の生徒で、この町の歴史について調べているのですが、よろしければお話をお伺いすることはできますか?」
すると男性の表情がぱぁと晴れた。
「おお珍しい。珍しいですね今どき。ぜひぜひ、もちろんですよ」
カラカラと音を立てて戸が開かれ、玄関から涼やかな冷気が漏れ出してくる。
男性は上は白衣、下は袴という、いかにもな神職の出で立ちだった。
「ありがとうございます! ……やったね」
礼を言って振り返り、金魚のフンどもに破顔して見せる。
この美少女に懇願されて断れる胆力を持つ者はなかなかいないだろう。黒葛にはコミュニケーション術以前の……チートという気がしなくもない。
「外、暑かったでしょう。今年はどうなることやら……」
畳の応接室に通された三人は、差し出された氷の浮いた麦茶に喉を鳴らした。
いくら気温への耐性があろうとノドは渇く。
「私がこの神社の宮司を務めております、山茶です。どうもよろしくお願いします」
「葦原高校2年の桜永です。こっちは茜川と」
「……く、黒葛ともうしあげ、ます」
黒葛は流れで紹介してもらえると思ったので油断していた。
それを見て宮司はクスリと微笑んだようだった。黒葛は自分が笑われた気がしたが、その優しい眼差しはどうも女子二人を眼差しているようだった。
当たり前だ。こんな可愛い二人が健気にも町の歴史を調べようと訪ねてきれくれたのだから。
「昔は、たまーに……地域のお年寄りとかね、いらっしゃってたんですが、若い人は初めてで嬉しいですよ。何か、お調べですか? 歴史でしたか」
宮司は白衣の袖を広げ直し、いかにも何でもどうぞと言わんばかりだ。
三人は目配せをした挙句、黒葛と唯が相変わらず金魚のフンのような目をしていたので美月が切り出すことにした。
「昔……宝月は鬼の灯と書いて鬼灯と呼ばれていたそうですが、名前が変わった経緯など、ご存知ですか?」
すると、余裕のある笑顔がどこか張り付いたようだった。
思いのほか昔まで遡ってしまったのかもしれない。
「……よくあることですよ。縁起のよろしくない名前ということで、音はそのままにめでたい漢字を充てたという、それだけのことです。終戦直後の混乱の折に。あ……、太平洋戦争のことです」
戦争というものを異国の出来事としか認識していない世代と思われてるのだろう。どっこい、こちらは試験明けの現役の学生なのだ。
「あの、植物の……ホオズキの産地とか、そういうことだったんですか?」
そう訊ねる黒葛だったが、これまでホオズキの実が実際になっているところを見る機会もなく、ましてや食用に栽培するものなのかどうかすら知らない。
「諸説ありますが……、社に伝わる話によると、昔この地に“鬼”が出たなどありますがね。まぁ全国各地で似たような話はありますから」
「鬼……」
唯は自分にだけしか聞こえない声で、その音を確かめるように呟いた。
そうした妖怪の類は物語の中だけの存在だと思っていたが、まさに昨日、自分が“成って”しまった。黒い翼と尾を持ち、不可思議な術を使う──妖怪というほかない。
そして鬼といえば、金棒を担ぎ、ツノを生やした赤い肌のバケモノを想像する。
「いわゆる桃太郎に退治される類の、筋骨隆々としたいかにもな鬼ではなく、見目麗しい絶世の美女ということでした。まぁ、そういう人ならざるものを鬼と呼んでいたのかもしれませんね。今とは感覚が違うのでしょう」
三人が慄いた気配を察したのか宮司が注釈を付けた。
それを受けて唯も、古い説話に出てくる鬼は挿絵ではツノさえ生えていない女性の姿だったりするのを思い出す。もちろん化けている場合もあるが。
そして今も昔も変わらないのは甚だしいものを表現する場合に“鬼”を使うということだ。
オニヤンマ、オニカサゴ、鬼軍曹、鬼コーチ。副詞としての鬼ヤバい。
「……宮司さんは、そういう鬼……ないし妖怪のようなものを実際にご覧になったことはありますか?」
美月がそう訊ねる横で黒葛は、さっきから敬語というものを自在に操るこの人が国語が苦手なのは嘘だろうと唇をすぼめた。そしてこの問いは自分たちのような存在がほかにもあり得るのかどうかを訊ねるものだと理解する。
「どうでしょうね。鬼も妖も、誰しも心のうちに秘めているものでしょう」
一般論としての比喩ではぐらかされたようにも思えたが、昨日の今日の三人からすれば実に本質的だった。意識の底深くに潜った唯と美月は、心のうちに秘められていたそれを引き出したということだろうか?
唯が膝を少し前に出し、美月と自分とを指す。
「あの、私たち昔……小学生のころ、“おいこさん”に参加していました」
「そうでしたか。それは……本当に、ご苦労さまでした」
唯は宮司の労うような口ぶりが気になったが、続ける。
「囃子歌の中で、鬼や蛇といったものが出てくるのですが、これがその……昔出たという鬼に関係しているのですか?」
「関係は……そうですね……」
宮司は顎をさすり、何か逡巡しているようだった。その表情にはもう最初のような余裕は見られない。
「していると言えば、そうですが、そうでもないかもしれないです。この歌での鬼というのは、もっと抽象的な概念ですから」
奥歯にモノが挟まった言い方で煙に巻こうとしているが、それこそが事情を知っていることの証左にほかならない。美月が唯の問いを継ぐ。
「お詳しいですが、“おいこさん”というのはやっぱり」
「“おいこ”は、この社で生まれたものになります。途中からは地域の方に管轄が移り、囃子歌も当時からいくらか変わっていますがね」
「石搗……石を搗く」
また独り言のつもりで呟いた唯に宮司が頷く。
「そうです。むしろ“おいこ”のためにこの社が作られたとも言えます。ある意味では」
その言葉通りだとしたら、あの奇祭は江戸時代初期にまで遡ることになる。
「ええ~全然知らなかった……。そんな由緒ある行事だったんだ?」
美月は驚きながら足を崩すとともに口調を崩した。
その様子に宮司もどこか表情を和らげたようだった。これが美月の人たらしたる所以である。
「途中、途絶えたりもありましたね。また復活したのは……70年前くらいでしょうか。ちょうど高度成長期が始まるあたりですね」
「それは、なぜでしょうか?」と身を乗り出した黒葛に猫背が復活しかけたところを美月の手刀が叩く。黒葛プロデュースの一環である。
「子どもが増えたからじゃないでしょうかね」
「いてて……戦後すぐ……なら第一次ベビーブームですね。その団塊の世代が物心つくあたりというか」
「おっしゃる通りです。この町は首都圏へのアクセスも容易な、郊外型のベッドタウンとして売り出されるようになり、実際にそのように機能していました」
唯がポンと小さく膝を叩いた。
「ああ、なのでイメージを変えたかったんですね。鬼だと不吉だから」
宮司が無言のまま頷く。
「今でこそ人口は減りましたが、それこそ私の子どもの頃は山の手の団地が一大コミュニティとして栄え……信じられないと思いますが、おもちゃ屋が町に10軒ほどはありました」
「おもちゃ屋……なんてないよね、今」
美月が唯に耳打ちし、唯も自信なさげだが首肯する。
大人向けの模型店なら心当たりはあるが、少なくとも唯自身はこの町の中でおもちゃを買ってもらったことはない。全く想像を絶する話だ。何をそんなに売るものがあるというのだろう。
「子どもというのは町の中で大きな存在だったんだと思います。ただ子どもは……無軌道ですので、何をするか分からない」
宮司が微笑みながらじっと見つめるのは美月だった。
美月は悪童だった自分の正体がバレていることを悟る。バツが悪く背中を丸めた美月を見て宮司は少し気の毒そうな顔をして続ける。
「だから行事にかこつけて、地域の子どもたちをまとめる……と言うと言葉は悪いですが。子どもをハブにコミュニティを形成しようという意図もあったのでしょう。外から移ってきた人が多かったので、土地と縁を結び、郷土に親しんでもらう……それに“おいこ”を使っていただいたのだと思います」
小さくなった美月に代わって黒葛が積極的に相槌をうち、質問を返す。
「ではもともとの“おいこさん”は、どういう目的で執り行われていたんですか? そのためにこの神社も?」
「語弊がありましたが、この社が建てられた目的も、“おいこ”も、どちらも目的は同じなのです。つまり地鎮ですね」
地鎮。つまり、地中の邪気を祓い大地を鎮める行為だ。地の底から災が湧き出ぬようにと地を固め、土地を祝ぐ。
「しもついわねのないふらず……そっか、下津岩根の……地面が揺れないように、と」
唯の言葉に宮司は大きく頷いた。
やはり、地震が関係しているのかもしれない。しかしこの土地には大きな断層は存在しないのだ。黒葛は少し逡巡し、意を決して口を開いた。
「あの僕……、4月の地震の……生き残りなんです」
「それは……そうでしたか。何と……」
宮司が見せたのは哀れみとも悲しみともつかない感情だった。
いずれにせよひどく落胆した様子の宮司だったが、顔を上げると目が少し鋭くなったのが分かった。
「では……それが本題なのですね」
黒葛は強く頷き、膝の上で手を握った。
「過去、この土地で似たような……人がいなくなるようなことがあったみたいですが、こないだの地震と関係がありますか? 何かご存知でしたら教えて欲しいです」
努めて冷静に発声しているつもりが、話しているうちに感情が込み上げてきて喉の奥が熱くなる。
「これは……少々、難しいですね」
宮司は目を逸らし、黒葛の強く握られた拳を見つめた。
今度は黒葛の横の美月が身を乗り出す。
「あの、すみません。学校の課題じゃないんです実は。彼は当事者だし……私たちも友人としてあの地震について知りたいんです」
唯も大きく頷き、できる限りの力を眼に込めて訴える。
「……分かりました。しかし私からは説明がしづらい内容になります」
そう言って目を閉じ、眉間に皺を寄せて逡巡する宮司に黒葛は少し苛立ちを覚えた。
言葉を選んでいるのだとしたら、余計なお世話だった。率直にありのままの事実が知りたいのだ。それが自分ひとりでは受け止められない事実であろうと、唯と美月がいてくれるなら。
宮司は一度ゆっくり頷き、そして目を開いた。
「みなさん、翠羽先生はご存知ですか?」
「スイバ? うちの学校にいたっけ?」
腕を組み、首を傾げる美月。
「ああ、すみませんね、学校の先生じゃなくて……この辺りじゃ有名な方なんですが」
「唯、知ってる……?」
「ううん分かんない」
美月も唯も、当然黒葛も聞き覚えのない名前だった。
「みなさんはお若いから……ご家族の方ならもしかしたらご存知かもしれないですね」
「その先生が、地震やこの土地に詳しい先生……ですか?」
「そうですね……。詳しいというか……非常に説明が難しいんですよ。もうこればかりはご本人に会ってもらうしかない。ただ、かなりお忙しい方なので、巡り合わせ次第ですがね」
郷土史系の教授だろうか。黒葛にはますます分からなかった。
「先生のお客さまに芸能関係の方も大勢いらっしゃるのですよ。その関係で留守にされることも多くて」
「芸能……有名な方ですか?」
美月の質問に対し宮司は何人かの具体的な人名を挙げ、そして三人ともに腰を抜かした。
「ええええっ!!」
「ちょ、超大物……!」
「ですから、普通にはなかなかお目通りさえも難しいんですが、この町のことや……その、先の地震の件でしたら親身になっていただけるかと思います。やはりご縁次第ではありますが」
顔を見合わせる唯も美月もまさか自分の生まれ育った町にそんなVIPがいるとは知らなかった。しかし、これまでの話とその世をときめく芸能人たちとがまるで結びつかない。
「あの、どういう、お仕事なんですか?」
三人の疑問を黒葛が代弁する。
「先程も申し上げましたが、非常に説明が難しいんですよ。ご本人も肩書きを設けておりませんし、付けるのを嫌ってらっしゃる。私も既知の肩書きで翠羽先生の為事にふさわしいものは思い及びません」
迂遠かつふわふわとした説明に我慢できないのか美月の足の指がモゾモゾとしている。
宮司は困った表情を浮かべるが観念したのか居直り、三人を見据えた。
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「霊能力者。霊媒師。超能力者や預言者……。いわゆる、世間一般ではそう認知されているものになります」
社務所を後にした三人はやはり誰ともすれ違うことなく神社入り口の鳥居をくぐった。
「なんか怪しくなってきたね、一気に……」
黒葛はまさか面と向かってそのような言葉を聞くことがあるとは思っていなかった。
霊だの超能力だの、アニメやマンガでしか知らない世界である。
昔はたまにテレビでその手の番組をやっていたが、この頃はとんと見なくなった。
そういった世界はオカルトとして片付けたいところだが、自分たちがこの数ヶ月の間に経験したことはまさしくオカルトとしか言いようがないことの連続だった。
「霊ねぇ~。お化けとか、見たことないしなー」
宮司と向き合ったときのキリリとした態度はどこへやら、美月は手を頭の後ろで組み、いかにも気怠そうに歩く。
自分たちのことを棚に上げて何をとぼけたことを、と思う黒葛だったが、これは“フリ”というやつなのでは、と察した。
「妖怪なら、昨日見た。……二体も」
神妙な顔付きでおどけて言う黒葛に美月が口を尖らせる。
「祐樹もワンオブゼムだし」
黒葛は渾身のボケを拾ってもらえたことで安心した。
しかし、そうなのだ。自分たちが妖怪の類だったとしたらそういう──霊能力者だか退魔師だかに祓われてしまう側なのではないだろうか? 少なくとも自分はこの二人を人の道から外した元凶なのである。
境内を一歩出るとアスファルトに蒸された熱気が陽炎を作っていた。見ているだけで暑くなる光景に黒葛はウンザリし、無意識のまま額を手で拭う。
すると手のひらにはぐっしょりとした汗が張り付いていた。
先ほどいただいた麦茶はここに来るまでの間に汗として出てしまったようだ。
「……なんかさ、最近……」
黒葛は手のひらを見つめていると、唯がその手を覗き込んできた。
「どしたの?」
「ううん、なんでもない」
黒葛は手を握り、ズボンのお尻でその汗を拭いた。
宮司の話によると翠羽先生の自宅は『かわせみ堂』という和菓子屋で、駅にほど近い場所にあるとのことだった。
霊能力と和菓子に何の関係があるのか分からないが、お店をやっているということなら自然に訪問ができるということでもある。
「かわせみ堂……これだね。バス、駅まで行くから行ってみよっか」
バスの時間を調べていた唯がスマホ画面を二人に見せる。
Google の情報によると月曜日は営業日のようだった。本人は不在でも従業員から何か話が聞けるかもしれない。
三人は閉め切られたシャッターの前で立ちすくんでいた。
シャッターの貼り紙には恐ろしく達筆な文字で非常にガッカリとする四文字が書かれてある。
「臨時休業……」
唯がもう一度スマホで店の情報を調べてみる。
「火曜が定休日だから、明日もやってないみたいだね」
「仕方ないかぁ。また、週末とかに出直そっかな」
黒葛が回れ右をしようとしたところ、三人の影のうち最も長い影がゆらりと揺れた。
「美月ちゃん?」
唯が咄嗟に声をかけると同時に硬いソールがアスファルトを叩く音が鳴った。
「いや……ちょっとふらっとしただけ……」
姿勢を立て直した美月は額に手を当て、空を仰ぐ。
「え。だ、大丈夫?」
反応が遅れた黒葛も美月が立ち眩んだことを理解した。
このところ長らく気落ちしていた上、昨日は昨日で大変なことが起こったのだ。色々と無理が祟ったのだろうか。
唯は美月の背中に手を当て、その身を案じる。
「昨日あんま寝れなかったって……。今日は、解散しよっか」
「大丈夫大丈夫。もう平気だし」
心配する唯の頭を撫で、笑顔を見せる。その顔色は悪くなさそうだが、より人外の領域へと至ってから昨日の今日である。体調に変化がない方がおかしいのかもしれない。
「心配だよ美月ちゃん……無理してない?」
唯の真剣な眼差しを受け美月は困ったように笑い、頭を掻いた。
「……じゃ、私は今日は帰ろっかな。唯と祐樹はまだ早いんだし遊んできなよ。せっかくテスト終わったんだし」
そう言って通学バッグを肩に掛け直す。
「美月ちゃん大丈夫なの?」
「ほんとにほんとに大丈夫だから。もう走って帰れそうだし」
その場でクルっと片足でターンをして見せた。
たかが旋回ひとつでも芸として成立するほどに綺麗なもので、ふらついた様子もない。
「祐樹くん、どうする?」
黒葛は熱された髪を摘み、より合わせながら考える。
美月を差し置いてというのも気が引ける思いがありつつ、さりとて解散となれば美月が気を悪くするだろうとも思った。
「“おいこさん”の歌のこと、記憶が新しいうちに考えたいんだけど、唯ちゃんがいいならちょっと付き合って欲しい。美月さん、いいかな」
美月は頷き、そして恥ずかしそうに舌を出した。
「それじゃ私は力になれそうにないし。二人にお願いするよ」
「じゃ……気をつけてね、美月ちゃん。帰ったらメッセちょうだいね」
「はいはい、じゃまた明日ね!」
美月はその明るい声を残し、手を振りながら駆け足気味で去っていった。
溌剌とした声に、キビキビとした動作。
妙な強がりではなさそうだった。
「たぶん……大丈夫だよ、今回は」
黒葛は美月の去った後を見つめる唯を慰めるように言った。
今の美月なら、本当に具合が悪ければ何かしら申告をしてくれるのでは、という気がする。
「……うん、あとで電話してみよっかた」
「それでも具合よくなかったら、唯ちゃんお見舞いお願いしていい?」
唯は頷き、いくらか安心したようだった。
黒葛は額の汗を拭きながら辺りを見渡してみる。駅のホームの放送音が聞こえてくる程度にはエキチカのエリアだ。
囃子歌のことを考えるとなると、もう一度例の資料も参照したいところだが図書館の方に行くには少し距離がある。せめてノートを広げられる適当な場所があればと思うが、駅が近いなら場所には困らなさそうだ。
「どっかその辺でお茶しよっか」
「そだね。のど乾いた~」
舌を出して日差しにバテたふうを装う唯だったが、汗ひとつ浮かべない顔でやられてはただ愛嬌があるようにしか見えない。
美月と唯でいえば、日光にやられそうな姿に変化したのは唯の方だ。
しかし唯は特にこの暑さにも日差しにもやられている様子はない。
むしろ。
また黒葛は額を拭う。
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「あ、ごめんごめん」
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