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第二章

第54話_1/誕生日(前)

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  2023年7月9日(日) 13:30



「唯おはよ!」
玄関のドアを開けると陽光とともに美月の笑顔が視界に飛び込んできた。
「お……はよって、昼過ぎだけどね」
想像よりもずっと溌剌とした美月の様子に唯は面食らい、自分でも驚くほどに平凡で面白みのない返事をするしかなかった。

今日の美月は全体的にシックながら暗めのトーンのファッションだった。それはドレスコードで、出迎えた唯も落ち着きあるブラウンのワンピースを身に着けている。
唯は美月の気配を家族に気取られぬよう、靴も履ききらぬまま片足立ちで玄関を飛び出す。今日これから男子の誕生日を祝いに行くなどと家族に知られると非常に面倒臭い。

「やーごめんね、なんか昨日ダサいとこ見せちゃってさ。もう平気だし」
美月は白い歯を光らせながらグッと胸の前で両手を握る。
「美月ちゃん……」
唯はその表情、その仕草を見ていると昨日の美月とのやりとりが夢だったのではと思えてくる。
ショッピングモールの隣の公園で並び座り、慟哭とも言えるほどに咽び泣いたのは自分の妄想だったのだろうか。しかし昨日、確かに二人でショッピングモールへ買い物に行ったのだ。
その時に選んだプレゼントは唯が手に持ったショッパーの中に入っている。

一方の美月はハンドバッグ以外は手ぶらで、昨日『朝のうちに用意しとく』と言っていたものは見られなかった。それはそうだ。いくら“それ”を作るのが得意だとはいえ時間も手間もかかるものだし、昨日に続きまた寝坊をしたのかもしれない。
「ちょっとケーキは準備できなかったけどさ」
きまり悪そうにこめかみを掻く美月に唯は首を振る。
「ううん、ありがとう。お店で買ってこ」



リビングのテーブルを挟んで黒葛の対面に座る唯と美月はニヤニヤとしながら、しかしどこかソワソワとしているようでもあった。
黒葛は畏まりつつワニのロゴの入ったショッパーの中に手を入れてみる。
指に触れた感触は布だった。
しっかりと厚みを感じさせながらも滑らかな手触りのそれを、袋から取り出すまでTシャツだと認識できなかった。
「これ……え、シャツ??」
トロン、と広がった白いシャツにポイントとして入っている幾何学的なワニモチーフのデザインはプリントではなく刺繍で施されている。
「ほらほら、ちょっと着てみてよ」
美月に促されるまま黒葛は席を立ち、二人に背を向けて着ていたシャツを脱ぐ。互いの裸体など何度も見ているはずだが、いざこういう状況になると照れ臭いものだ。

スルリ滑るように黒葛の身体を通したそのシャツは、肘をちょうど覆う5部袖のゆったりとしたシルエットだった。かつ白色であることから身体が大きく見える。それはそうだ。これまでは極力そう見えないような服ばかりを選んできたのだから。

二人の今日のファッションが落ち着き目のトーンであることもあってか黒葛の着ている白いシャツだけが空間の中で目立っているようでもあった。さらにシャツの構造上仕方がないが、ダボついて見えるのが少し気恥ずかしい。それでも唯と美月が拍手しながらいいじゃん、かっこいい、似合ってるねと口々に言うものだから黒葛もその気になってくる。

慎重に裾を引っ張ったり刺繍部分を撫でてみながら総じて黒葛には新鮮だった。
このシャツは、仮にどんなにお金があったとて自分ではまず選ばないものだった。選択肢にすら上がらなかっただろう。そういう意味では黒葛のシュミとはズレているものだった。
しかしこれはこれで悪くないと思うし、どころか見れば見るほどにアリな自分の姿だった。
それは美月に散髪と眉剃りをしてもらったときの“感じ”であり、また以前ガラガラ公園で実感した“誤解の効能”にも近いものがあると思った。
自分ではないからこそ選べるものがある。そのズレによって自分の視野が今よりも少し外側へと開いていく。

それより何よりも、二人がこれを探し選んでくれたということが嬉しかった。
自惚れでもなく、その時自分は二人の思考の中の多くを占めていたのだろう。少し申し訳ない気もするが、大好きな二人の心の中に思い描いてもらえていたことがたまらなく嬉しい。
喉の奥がじんわりと熱い。少し、泣きそうだった。

「本当、ありがとう。これ……大切にする」
黒葛は脱いだそれを折り目に従って丁寧に畳み、汚さないように再びショッパーにしまった。その動作が却ってひどく汚いものを扱うように見えたので失笑する美月。
「ちゃんと着てよ、それ」
「着る着るすごい大事な日とか、これにする」
本当は額に入れて飾ってしまいたかった。ゲームでいえばいっそ装備ができない“だいじなもの”枠に入れて然るべきだろう。
「ちょっと、まだほら」
そう言って唯がショッパーを指差したので中をもう一度覗くと、シャツの下に封筒とハンドタオルを見つけた。
黒葛は謝りながら封筒を開き、中のメッセージカードを読む。
唯と美月のクセを折衷させたような文字で『遅くなったけど誕生日おめでとう。これからも三人で仲良くいようね』とあった。
視界の中央にあるその文字がじわりと滲んだ瞬間、黒葛はハンドタオルを掴み、まぶたに当てた。
両手人差し指を立てて「大成功」と言わんばかりの美月を見て唯は苦笑する。


「じゃ……ケーキだけど、食べれそうかな?」
美月がテーブルに運んできたのはババロア系のケーキだった。
スポンジ系のものよりは感覚的に液状に近く、現状プロテインと野菜ジュースにしか食指が動かない黒葛にも食べやすいかと考慮されてのセレクトだった。

ホールを4等分し、1つを冷蔵庫に入れて残りをそれぞれの皿によそう。
ロウソクはないが、美月があのお決まりの歌を歌いはじめ、唯もそれに合わせた。主賓はその歌が終わるまで照れる以外に何をするでもなく待たなければならず、ひたすらに気恥ずかしい。
黒葛にとってこの感じは、久しぶりだった。

子どもの頃は毎年、両親にこうやって祝ってもらっていたものだった。
中学に上がり、誕生日が試験と重なるようになってからは自然に祝われなくなった。いや、中学生にもなって家族に祝われるのが格好がつかないと思った黒葛が、それとなく拒否をしたのだった。

美月由来のきちんとしたピッチで重なる歌声が、黒葛の名を呼ぶ箇所になって崩れる。
『Dear 祐樹』と『Dear 祐樹くん』。
それぞれの呼び方をした二人は顔を見合わせて恥ずかしそうに笑い、最後のフレーズで再度合流した歌声はまた息の合った合唱で曲を締めた。
黒葛は、拍手をする唯と美月がテーブル横の写真立てを一瞥したのを見た。

17年前のこの日。
僕は写真立ての中で微笑むこの二人の間に生まれたのだ。
その日は自分だけではない、両親にとってもかけがえのない特別な日だったはずだ。

『もう誕生日とか、祝わなくていいよ』

確かそういうことを言った。
自分としては良かれと思ってのことだったが、あの時の母の悲しそうな顔──その理由を今になって分かるなんて。


ムースの生地は、黒葛が久しぶりに手にしたフォークの先端をじゅわ、と受け入れた。
その感触は黒葛の涎を誘う。これがもしスポンジ系だったとしても食べられたのではないか。
固形物に対する食欲が徐々に戻りつつあるのかもしれない。

黒葛が一口目を味わう間に唯は自分のぶんをペロリと平らげていた。
それを見て美月が笑う。
「唯おかわりしたらいいのに」
いつもならその揶揄からかいに顔を赤くして慌てるのが唯だった。しかし美月に向けられたのは意志の込められた真摯な眼差しだった。
「あのね、美月ちゃん」
その表情に美月は唯の切り出さんとする話題を察する。
「ちょっと唯今はさ……」
美月ははぐらかそう受け流そうと黒葛へと視線を投げるが、黒葛も唯と同じ目をしていた。
「美月さん、お願い……教えてほしい。僕が全部、始めたことだから」
「や……今日はそういう……さ」
美月はそう言いかけて、二人の様子からあらかじめ申し合わせていたのだと悟る。
そして観念したようにフォークを皿の上に置いた。

「ふたりには、謝んなきゃね。心配、かけたよね……」
黒葛と唯は否定も肯定もできず、ただ俯き傾聴するだけだった。
「私さ、納得……してたつもりだったんだよ。この身体のことも、部活のことも。でも、いざ予選見たりさ、生理止まって、みたらさ」
美月は声が震えそうになる寸前で言葉を切りながら文を組み積み上げていく。あまりに頼りないそれは崩れかけのジェンガのようだった。
「……謝りきれない。唯ちゃんにも、僕は」
消沈する黒葛に対し、美月は慌てて胸の前で両手を振る。
「違うの、謝ってほしいとか、恨んでるとかじゃないの。ふたりのことは大好きだし、一緒になって、すごい幸せなのはほんと。……だから、余計に分かんなくって」

黒葛は謝ろうとしたことを恥じた。すでにそういう状況・次元ではないし、今や謝罪は黒葛自身が楽になるための手段でしかなかった。
美月の抱える問題は、黒葛が想像・把握できるだけで大きく4つある。
それは“物語ストーリー”だった

ひとつは水泳。
日々鍛錬を積んだ肉体で、水というままならない物質に挑み、そして勝負に打ち勝つという“物語ストーリー”。
もうひとつは、肉体。
生まれてからこれまで向き合い続けてきた自身の身体の成長という“物語ストーリー”は、変幻自在の肉体が発揮する埒外のパワー、体力、瞬発力によって無為なものとなってしまった。身体のバイオリズムが止まったことも精神的に甚大な影響があった。
さらには、人間という種として。
バイオリズムが止まった影響により生理もまた止まり、生殖する人間の枠から逸脱してしまったこと。
幸せな家庭に恵まれ育った美月には、家族という“物語ストーリー”は彼女の人格形成において非常に重要な要素だった。
普段特別意識せずとも、いつかは子どもを作り母親になり命を繋いでいくという“物語ストーリー”の中に自身を組み込んでいたのだろう。

それらはいずれも美月自身のアイデンティティに直結する大きな“物語ストーリー”だった。それを短期間のうちに喪失したのだ。いや、ほかにも大小様々あるだろう。友人関係にも変化があったはずだ。

そして最後の“物語ストーリー”は、喪失したものではない。
およそ美月の理解の範疇を超えた奇怪な現象──同化によって、黒葛と唯と存在を交えた恋人関係になるという“物語ストーリー”に、ほとんど否応なしに組み込まれたこと。その中で美月は自身と気質が大きく異なる人間二人を食っているのだ。アイデンティティに混乱が発生しないわけがない。

「でも大丈夫。私には、唯と祐樹がいるからね」
そう言いながらの破顔に唯も黒葛もつい誤魔化されそうになるが、昨日今日で何が変わったというのだろう。

「私……私のね」
おずおずと口を開いた唯に黒葛と美月の視線が向けられる。
「か、覚悟が……だめなんだと思う」
俯いた唯は目の前の食器の縁を見つめながら続ける。
「美月ちゃんと付き合ってることがバレたら怖いとか、私と一緒にいたら、美月ちゃんが変な目で見られるとか」
以前、同じことを懸念していた黒葛もまた目を伏せた。いや今もそうだ。美月が自ら負った覚悟に比べ、自分の態度はどうだっただろうか。
「もっと……私、ちゃんと自分のこと、美月ちゃんのことも祐樹くんのこともね、受け止めなきゃいけないんだって。ううん、受け止めたいから」
唯の視線はケーキの底に敷かれていた紙ナプキンへと移る。
ナプキンの端はエンボス加工と型抜きによってレース調の網目模様のデザインとなっていた。
水分を吸っていくから縮れながらも、ある一定の調和のもとに構成されたそれは──白い波のようだった。

その時、唯の脳裏にある情景が差した。
黒い海と黒い浜辺。そして白い波と、白い自分。
それは唯がここ数日の間、夢で見ていた景色だった。
手招きするような白波に誘われ、唯は毎日、真っ黒なこの海でひたすらに泳いだのだった。

「……唯?」
おもむろに椅子から立ち上がった唯を隣に座った美月が怪訝そうに見上げる。
「私、もっと……今より堕ちてみる」
「お、堕ちるって……」
黒葛は唯のその不穏な言葉に嫌な予感を覚えた。いつかの自分と、唯の暴走。
自分の場合、死への憧憬と唯への思慕という一見相反する感情に導かれるまま、手を汚してしまった。唯も自意識を自覚しながらも欲望のまま美月を襲いそして同化をした。
唯は今何を思い、何をしようとしているのだろう?

不安そうな表情をする黒葛に唯はふっと笑いかける。
「そう言うと悪い感じがするけど、予感。まだ……私の中、深いところにね。何か……あると思うから」
何度も夢で見る黒い海の底のさらに深い場所。
唯はそこに誘われているような気がした。
以前深い場所に潜った時、戻って来れたのは──頭上で煌めく太陽があったからだった。それを灯台の光として深海から浮上することができた。
「美月ちゃんと祐樹くんがいてくれたら、私は……人間じゃなくていい」
唯は天井を仰ぎ、意を決したように両手こぶしを握る。
「唯、ちょっと落ち着いてって」
唯の自棄ヤケを疑った美月へ唯の真っ直ぐな目が向けられた。
「私、潜ってみる」
「唯?」
唯は目を閉じ、弛緩させた身体を美月に預けた。
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