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第二章
第53話/朔
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2023年7月8日(土) 9:30 宝月駅
駅の改札前、唯は日陰の際で文庫本を開いていた。が、目は文字の上を滑り内容が頭に入ってこない。
どうも待ち合わせのときには集中して本を読むことができない。
目の前を人々が忙しなく往来していると本の世界に入りこめないし、何より待ち人がいつ来るかソワソワしてしまう。
それが分かっていながらも唯は本を持ち歩かずにはいられない。
もし自分が男だったら、お尻ポケットには常に文庫本を挿しているに違いないと思う。
黒葛と同化して以降、何かとモノをポケットに入れそうになるがレディースの服にはポケットがそもそもなかったり、あっても極端に小さく浅かったりする。ならばいっそメンズのパンツを履けばいいのかもしれない。サイズがあるかは別として。
ウェブで検索をしようとスマホを取り出したところで待ち人が到着した。
「唯ごめん、お待たせ」
美月はいつもよりも幾分かラフな格好だったが要所のアクセサリーがギュッと全体の印象を締めている。
ややゆったりとした黒のチノパンはおそらくメンズラインだった。弟がいることもあり美月のファッションの選択肢はユニセックスなのだ。羨ましい限りだ。
「ごめん寝坊しちゃってさ……」
毎朝ランニングを欠かさない美月が寝坊というのは珍しい。試験が終わって気が抜けたのだろうか。部活も辞めているし、もしかしたらランニングの習慣自体がなくなったのかもしれない。
「ううん、大丈夫だよ。じゃ行こっか」
唯はバッグに文庫本を突っ込み、美月とともに改札へ向かった。
二人が向かった先は電車で4駅隣の郊外型のショッピングモールだった。
駅からもほどよいアクセスで、下手に都心の方に出ずともこのモールで大抵のものは揃う。
土曜日ということもあり駐車場の外には待機する車が数珠なりに連なり、屋内屋外関係なくモール内は多くの家族連れで賑わっていた。いつ雨が降るともしれないこの時期の週末の予定としてはうってつけのスポットなのだろう。
モール中央広場の妙な造形のモニュメントの周りで奇声を上げながら走り回る子どもたちを見ていると、唯は少子化の世の中というのが信じられない思いがする。もっとも、唯自身もその渦中にある当事者なのだが。
二人の目的は、黒葛の3日遅れの誕生日会で渡すプレゼント選びだ。
何を買うかは未定ながら、とりあえず上の階から攻めようということで二人はエスカレーターに乗る。
エスカレーターの上りでは唯が美月の前に、下りでは逆に美月が前に出る。こうすることで二人の身長差が解消される。
「私男の人の……選んだことないから分かんないや。美月ちゃん、弟には何かしてるの?」
今日はいつもと違って唯の方が会話をリードしがちだった。
美月がどこか冴えないふうなこともあるし、少しの沈黙が今日に限ってはどうも居た堪れない気がしたからかもしれない。
「う? うん、そうね……何してたっけな……文房具が多かったかもね」
「そかー。文房具……祐樹くんこだわり強そうだから選ぶの難しそうだね」
黒葛の好みの文具というものは全く想像がつかない。確かに男の子は文具が好きそうなイメージはあるが、逆に黒葛はあまり文房具にはお金をかけたくない派かもしれない。ならば自分ではたぶん買わないであろう……万年筆とか?
「なんか……予算折半してちょっといいものとかは、どうかな」
美月のその提案はもっともだと思った。自分たちはニコイチみたいなものだし、どうせなら一緒に何かひとつを選びたい。
となると、黒葛が気にしているのは自身のファッションカードのデッキの貧弱さだった。では夏に向けて。
「シャツとかいいんじゃない? ほら、美月ちゃんプロデュースの一環で!」
「あー、それいいかもね。見てみよっか」
上階に固まっているメンズ系のショップを行ったり来たりした結果、美月もしばしば利用するという、ワニのロゴがトレードマークのブランドショップで白いTシャツと、ハンドタオルを選んだ。
白色のシャツは本人が選びそうにないものだったし、彼の持っているボトムスは色の濃いものばかりなので着回しもしやすそうだった。
唯はてっきりおじさん向けのブランドだと思っていたが、店内にはレディースラインも充実していてそれらは驚くほどにオシャレだった。品のあるカラーときれいなシルエットに惹かれプリーツスカートを自分用にと手に取ってみたものの、値札を見てすぐにハンガーを戻した。
買い物を終えた二人はモールの中庭に架かる屋外の連絡橋を渡る。
唯はショッパーを掲げてみた。質感の良い白い厚紙の真ん中に例のワニのロゴがプリントされている。モダンでオシャレなこの紙袋は弁当袋にも流用できそうだった。
これを手渡した時、どんな反応をされるだろう。喜んでくれるだろうか。美月セレクトだから、間違いがないだろう。
それはそれとして、月初めだというのに今月はいくらか節制をしなければいけないようだ。
「メンズ系って、高いんだね……びっくりしたよ」
「そうかもね……確かにね」
どこか遠くに目をやる美月は心ここにあらずだった。足音もどこか擦るような重たさを感じる。
「あのね……美月ちゃんさ」
唯は連絡橋の中央あたりで足を止めた。
「どっか、具合悪いの? それとも……やっぱり、私……あの」
美月はハッと気を取り戻し、すぐに笑みを作る。
「え。いや……え、私? まぁ、ちょっと夏バテとか、あるかも? 暑いもんねなんか」
手をパタパタさせながら辺りに目を泳がせるが白々しいにもほどがある。今の自分たちの身体で夏バテなどするはずがない。
「や……やめてよ誤魔化さないでよ、実咲ちゃんもなぎさちゃんも心配してたよ。なんか変だって。ね、私にも言えないの? 私のせいだから?」
唯の強い口調の言葉は、今度はすぐ否定されなかった。
俯いた美月の行く場のない視線は、唯の手のショッパーにとりあえず留まった。
「……分かんない……私どうしたらいいか、分かんないの……ご、ごめん……唯」
顔にかかる髪のせいで表情は窺えなかったが、その弱々しい声音は美月の心情をそのままに表現していた。
「美月ちゃん……」
唯はその場で辺りを見渡す。連絡橋の下の中庭からモールの外側まで緑が続いていた。
「ちょっと、静かなとこ行こっか」
その公園はモールに隣接していた。園内一帯は緑が多く、地蔵公園に近い趣がある。
買い物を終えたらしき親子連れが子どもを遊具で遊ばせていたり、また家族の買い物を待っているのかお年寄りがベンチで休んでいる。若者の姿は自分たち以外にはあまり見られなかった。
唯は美月をベンチ型のブランコに座らせ、飲み物を買いに再びモールへと走る。
手近な店で適当なものを購入し駆け足気味で戻る唯は、美月の座ったブランコを覗き込む男の影を見てため息を吐いた。
寄ると、俯いて石像のようになった美月に知らない男が何やら楽しそうに話しかけている。目を離すとすぐこれだ。
「あの、彼女私の恋人なんで」
このセリフを言うのも何回目かになると、さすがに唯も堂に入ったものになる。
男は「あ、そっち系?」とヘラと笑い、急ににべもなく去っていった。
「はいジュース」
「ありがと……」
美月は受け取ったカップを膝の上に乗せた。その姿勢もあって大柄な彼女がいつもより小さく見える。唯は白いショッパーを挟んで隣に腰を掛けた。
「なんか懐かしいね、こういう遊具」
新しめな作りのブランコは金属音のひとつも立てず滑らかに宙で揺れる。
「ごめん……唯、私……こんなこと、なくって」
カップを握る美月の指に結露した水滴が伝った。
「……水泳の、こと、だよね」
唯は意を決しズバリの核心を口にするも、美月は首を傾げそして大きく左右に振った。
「わ……わかんない……」
唯に答えているようで、美月自身へ向けた言葉でもあることは明白だった。
「ごめん、ぐじゃぐじゃしてて……何か色々……ごっちゃで」
美月の声は震え、目には涙が浮かんでいる。
唯が初めて見る、美月の混乱だ。
こういうとき何を言えばいいのか、どうすればいいのか分からない。
──自分が訳もわからず悲しいときは?
そんなとき美月は唯から無理に聞き出すでもなく、ただいつまでも唯の言葉を待ってくれるのだった。
唯は胸に手を当て、小さく深呼吸をする。
自分にできるのは、美月が胸の内を曝け出しやすくなるよう、構えておくことだけだ。
本当は今すぐ落ち込んで塞いでしまいたかったが、だからこそ美月はそんな自分を慮っていついかなるときも気丈に振る舞っていたのだろう。
唯は顔を上げ、視線を遠くにやる。はるか先の高架を走る車の流れを見ていると少しずつ心が落ち着いてくるようだった。
「ごめん……」
美月が小さく言葉を発したのを聞いて、ゆっくり顔をそちらに向ける。いつもの『美月ならこうするだろう』を繊細に丁寧に行う唯は、自分の身体に“美月的なるもの”を降ろしている気がした。
「水泳も……あるのかな、あるのかも……分かんない」
唯は無言で頷き、続く言葉を待つ。口を開いたからにはそれだけではないはずだ。
美月はもうひとつ俯き、ややあってくぐもった声を出した。
「唯さ……、私、正確なの。割と、かなり」
「……あ、うん」
目的語がなかったが、意味はすぐに分かった。それが水泳の話から飛躍したものであってもだ。
「来て、ないの。もう2ヶ月近くなるけど。周期もね、全然」
ほかならぬ、“生理”のことだった。
「唯はさ、平気なの、唯もでしょ」
当然、唯もそうだった。意図して身体を操作したわけではないが、経血だけではなく、おりもの自体がなくなっている。本来、生理周期の波に応じて体調や肌、精神面にも影響が出るのだが、今は無風も同然だった。無論、放蕩の挙句に妊娠したわけではない。人間でなくなった時にそのようになってしまったのだ。
「最初はね、大丈夫だと思ってたんだけど、だんだんだんだん……こ、怖くなってきて。運動も……筋トレも、全然私がやってんのか……分かんないし、もう本当に……わ……人間じゃ、ないんだって」
言葉を紡ぐごとに震えは大きくなり、美月が握るカップの蓋の内側に波打つ液体がかかる。
「美月ちゃん……」
唯はドリンクを脇に置き、美月の手に自らの手を添えようとして躊躇してしまう。その間にも美月の声に嗚咽としゃくりあげるような調子が混ざる。
「いっ、いつかさぁ……、私もっ、こ、子どもできたりとか……、パパとママに……孫っ……」
そこでとうとう堰が切れ、美月の感情が大粒の波とともに溢れ出した。
「うううううぅ……ああぁっ……わたっわたしっ……もう……っ」
美月は膝の上のカップを抱え込むように背を丸め、号泣をした。
オトナの人が泣いているのが珍しいのだろう、近くで走っていた子どもが驚いた目で見ている。唯もこれほどに咽び泣く美月を見るのは子どもの頃含めて記憶がないことだった。
美月の身体の異変、それは同化という現象によって引き起こされたもので、それを美月の意に反して行ったのは、ほかならぬ自分だった。そしてそのために美月は水泳という全身全霊をかけて打ち込んできたものを自らの人生から切り離しただけではなく、母親になるという未来までも奪ってしまった。
唯は頭に氷柱が刺されたようだった。
腹の底から熱くも不快な何かが込み上げ、それは頭に刺さった氷柱を溶かし涙に変える。
唯は顔を覆い、言葉にならぬ嗚咽とともにそれを目から溢れさせた。
並び座った二人は人目を憚ることなく声を上げ泣いた。
唯の胸の内に確かにあった罪悪感。それに唯が気付かぬよう、美月はこれまで自分を誤魔化し続けてきた。その甲斐あって唯は、そして黒葛は己の罪にひどく苛まれることなく今日に至れた。
しかし自身の身体に対する感覚が鋭敏な美月は、これまでの磨き育て上げてきた人間としての身体と、現在の正体不明な身体との乖離に悩まされ続けていたのだろう。さらに、その違和を誤魔化し続ける自分自身が許せなかったに違いなかった。
「美月ちゃんごめん……っごめん……ごっごめんなさい」
「ううんううん……わっわかんなくて……わかんないの」
唯が泣いたことで却って冷静になったのか美月は顔を上げ、唯の肩に手を添える。顔を覆っていた唯はビク、と身体を震わせた。
そして恐る恐る目を開くと、赤く腫れた美月の目と視線が交わる。しかしすぐに美月は目を伏せた。
「多分水泳も、あるかもだけど……でも、色々……。私、自分が分かんなくなりそうで。……あんなイキったのに……情けないよ、ダサ……」
美月はバッグからハンカチを出し、顔をゴシゴシと拭いた。
どんなに荒く顔を擦ろうと玉の肌にはなんら影響を及ぼさない。そこで唯は美月が自分と同じくスキンケアという行為をやめたのだと知った。美月のドレッサーの前に並べられた瓶のミニチュア未来都市はどうなっているのだろう。
「あー泣いた泣いた。恥っずかし……超見られてたし」
美月はへへ、と笑い鼻をすすって顔を上げた。
先ほどの男の子がより離れたところで妹らしき女の子と一緒にこちらを見ていた。
「なんか、泣いたらスッキリしたかも。もう大丈夫だし」
いつもの美月らしく、艶のある朗らかな調子の声だった。唯がその顔を横目で見ると、目の周りにあった泣き腫らした痕がすっかり消えていた。凛々しく誰もが見惚れる美月の横顔だ。
このひと月、こうやって泣き顔を隠していたのではないか。
帰路の間、美月は終始朗らかだった。
試験のこと、黒葛のこと、明日の誕生日会のことから他愛のないことまで冗談を交えながら尽きることのない話題を提供し──そして唯も努めて明るく振る舞った。
厄介だと思った。明るく振る舞うと、どうやら本当にそういう気持ちになるらしかった。自分の感情とは、ずいぶんと適当なものらしい。
そしてこれは美月の処世術なのだろう。つらい時、無理矢理にでも明るく元気に振る舞う。そうすることで感情をそちらに引き上げる。
長女として振る舞ううちに身につけたのか、スポーツをする中で編み出したモチベーションのコントロール方法なのかは分からない。
いずれにせよ。
つまるところ、美月の今の本当のきもちは──そういうことなのだろう。
夕食後、唯は本を読むでもなく課題をするでもなくベッドに寝転がっていた。
だらんと伸ばした腕の先にある、自分の手のひらを見つめる。
茜川唯という人間に固有の指紋、手相。仮に今、その線の軌跡をいじったら、何かしら自分の運命だか何かが変わったりするのだろうか。
唯は自身の考えのバカバカしさに鼻で笑い、手のひらを返した。
そして焦点をずらしてその奥、デスクの上に置かれた白色のショッパーを見る。
メッセージカードを用意しなければ。代表して、私が一筆添えよう。
好きな人の誕生日のお祝いのことを考えていても、どうしてか心が弾まない。
ふと、部屋の外から階段の軋む音が微かに聞こえた。この体重の感じは、妹だ。
「ねぇ風呂」
小さなノックがひとつと、それよりも小さくぶっきらぼうな声がドア越しに聞こえた。
「あ……はい」
おそらくドアの向こうには届かない返事をし、体を起こす。
いつからこうなったんだろう。
昔はもっと、妹と普通に話していたはずなのに。
両親はすでに入っているので唯で仕舞風呂だった。
髪と身体を洗い、湯船に浸かった唯は後頭部をバスタブの縁に乗せる。
凝りというものがなくなった身体だが首筋がじんわりと伸ばされ気持ちが安らぐ。
正直なところ、唯は周期も不安定でしばしば重くなりがちな“生理”というものがなくなったことが純粋に嬉しかった。唯にとって生理が2ヶ月止まるというのは珍しいことではなかったが、そもそもの周期自体がなくなっているのは喜ばしいことだった。ままならない身体を支配できた、と思ったくらいだった。
自分の子どものことなど、思い至りもしなかった。
そうなのだ。生理というものは本来人間の生殖に直結する現象であるにもかかわらず、日頃自らの活動を制限し、邪魔をする最悪のハンディキャップであるとしか思っていなかった。
やや首をもたげ、湯船から顔を出すふたつの小島を見つめる。
この胸もそうだ。
子育てに使うものというよりも、目を引くかわいらしいディスプレイであって、そして主要な性感帯のひとつ。もっと言えば癌のリスクファクターであるという認識でしかなかった。
──親に孫を見せる。
彼女がそんなことを考えていたなんて。
この幼い体格もあってか、どこかで自分は永遠に子どものままだと思っていたかもしれない。
そしてこの身体になってから、本当に成長というものが止まってしまったのだろうか?
自分の身体に対する感覚が鋭敏な彼女は、それを悟ったのかもしれない。
唯には元々、しかし自分がオトナになることよりもそちらの方がいくらかリアリティがあったのだった。
将来の夢こそあれど、それは本当に地に足を着けたものなのだろうか。
物語の世界に遊び、オトナになることなく夢の世界を永遠に飛び続ける──まるで私はピーターパンだ。
唯は胸いっぱいに大きく息を吸い込み、膝を抱え体を丸める。
腰が浮き上がり、クルンと天井を仰ぐ形でバスタブの中に身体が浮かんだ。洗ったばかりの髪が湯の中で解け、広がる。
美月と溶け合ったはずなのに、彼女が自分を見失いそうになるほどの悩みの理由を、唯は察することができなかった。今も、我がこととしては完全には理解ができないでいる。
黒葛だって、本当はどんなものが欲しいんだろうか。本当にプレゼントを喜んでもらえるだろうか。
私はふたりのことを、何も知らない。
私は私のことさえも知らない。
胎児のように狭い湯船に揺蕩ううちに全身の皮膚がふやけてくる。
遺伝情報の近い家族の出汁がしっかりとれた体温ほどの湯だ。ずっと浸かっていると、どこからどこまでが自分なのか、次第に分からなくなりそうだった。
この感覚だろうか。
美月は、例えばこの感覚のまま、このひと月を過ごしてたのだろうか。
私は、何者なんだろうか。
風呂から出ると、スマホに通知が重なっていた。
ひとつはクラスのグループチャット。
昨日催されたらしい期末試験の打ち上げの話題のようだった。カラオケの動画か何かでも共有されているのだろう。美月は結局欠席したようだった。
一瞬だけ開き、既読マークだけを付ける。
もうひとつは『唯さまをひたすら愛でる会』という、世にもおぞましき名を冠する自分たち三人のグループチャット。
美月が明日のことを書き込んでいる。今日の別れ際から引き続き不自然なほどにテンションが高い。さすがの黒葛も妙に思うはずだ。他人への嘘が下手な美月は、しかしこうやって自分に嘘をつきながら自分たちと共にあり続けてくれたのだろうか。
唯が衝動のまま美月を堕とそうとした時も、美月は唯を終始気遣い、そして共に堕ちた。
自分を変えてしまったことを後悔しないように、苛まれないように。唯と黒葛の罪を共に背負うと。
その美月は唯と黒葛の預かり知らぬところで悩み、苦しんでいた。だがそれを伝えることは二人の後悔に繋がることが分かっていたため、自縄自縛となっていたのだ。
都合がいい考えだと理解しながら、唯はいっそ美月から恨まれた方がよかったのかと思ってしまう。
しかし美月は決して唯を恨むことはない。だからこそ行く場なき感情の渦を自分の心に向けるしかなかったのだ。
遅い時間だが黒葛に今日のことを電話しようと思い至ったところで、急に睡魔に襲われる。
いい気なもんだ。なんて自分は残酷なのだろう。
今もきっと美月は苦しみ悩んでいるはずなのに、元凶の自分が、眠くなるなんて──
またこの夢だった。
この頃、毎日のように見る夢。
月もない夜。どことも知れない浜辺に始まり、真っ黒な海を泳ぐ夢。
いつものように泳ぎ、そして泳ぎ疲れた唯は水面に仰向けに浮かんだ。
弛緩した五体が海水と空気のはざまに投げられる。
塩分濃度のせいかこれが夢だからだろうか、手の先、足の先までが労せず浮いている。全身が浮き輪になったようだ。
浮かんでいるうちに身体の重さも感じなくなり、天も地も分からなくなりそうだった。
眼前にあるはずの星のない夜空はどこまでも暗く、そして途方もなく深かった。
黒い宇宙に剥き出しの身体は海の中に沈むでもなく、空へと落ちていきそうだ。
いや、きっと自分はあの空の闇の向こうからこの浜辺に落ちてきたのだろう。
そう直観を覚えると、唯は過去一度ここに来たことがあることを思い出した。
正確にはもう少し深い──背中側に潜む深海のどこかだ。
美月を同化する際、それを止めようとする黒葛に連れて行かれた暗く冷たい場所。引きずり込まれたという方が正しいだろうか。
唯はその場所で黒葛と口論の末──彼を眠らせた。催眠術のような、何かで。
あの時、私は何をしたんだろう。
何かが、ありそうな予感がある。
そこにはきっと自分の知らない自分がいる。
あの場所よりもさらに深いところへ潜って、果たして戻って来られるだろうか。
そしてその時、私は私でいられるだろうか。
駅の改札前、唯は日陰の際で文庫本を開いていた。が、目は文字の上を滑り内容が頭に入ってこない。
どうも待ち合わせのときには集中して本を読むことができない。
目の前を人々が忙しなく往来していると本の世界に入りこめないし、何より待ち人がいつ来るかソワソワしてしまう。
それが分かっていながらも唯は本を持ち歩かずにはいられない。
もし自分が男だったら、お尻ポケットには常に文庫本を挿しているに違いないと思う。
黒葛と同化して以降、何かとモノをポケットに入れそうになるがレディースの服にはポケットがそもそもなかったり、あっても極端に小さく浅かったりする。ならばいっそメンズのパンツを履けばいいのかもしれない。サイズがあるかは別として。
ウェブで検索をしようとスマホを取り出したところで待ち人が到着した。
「唯ごめん、お待たせ」
美月はいつもよりも幾分かラフな格好だったが要所のアクセサリーがギュッと全体の印象を締めている。
ややゆったりとした黒のチノパンはおそらくメンズラインだった。弟がいることもあり美月のファッションの選択肢はユニセックスなのだ。羨ましい限りだ。
「ごめん寝坊しちゃってさ……」
毎朝ランニングを欠かさない美月が寝坊というのは珍しい。試験が終わって気が抜けたのだろうか。部活も辞めているし、もしかしたらランニングの習慣自体がなくなったのかもしれない。
「ううん、大丈夫だよ。じゃ行こっか」
唯はバッグに文庫本を突っ込み、美月とともに改札へ向かった。
二人が向かった先は電車で4駅隣の郊外型のショッピングモールだった。
駅からもほどよいアクセスで、下手に都心の方に出ずともこのモールで大抵のものは揃う。
土曜日ということもあり駐車場の外には待機する車が数珠なりに連なり、屋内屋外関係なくモール内は多くの家族連れで賑わっていた。いつ雨が降るともしれないこの時期の週末の予定としてはうってつけのスポットなのだろう。
モール中央広場の妙な造形のモニュメントの周りで奇声を上げながら走り回る子どもたちを見ていると、唯は少子化の世の中というのが信じられない思いがする。もっとも、唯自身もその渦中にある当事者なのだが。
二人の目的は、黒葛の3日遅れの誕生日会で渡すプレゼント選びだ。
何を買うかは未定ながら、とりあえず上の階から攻めようということで二人はエスカレーターに乗る。
エスカレーターの上りでは唯が美月の前に、下りでは逆に美月が前に出る。こうすることで二人の身長差が解消される。
「私男の人の……選んだことないから分かんないや。美月ちゃん、弟には何かしてるの?」
今日はいつもと違って唯の方が会話をリードしがちだった。
美月がどこか冴えないふうなこともあるし、少しの沈黙が今日に限ってはどうも居た堪れない気がしたからかもしれない。
「う? うん、そうね……何してたっけな……文房具が多かったかもね」
「そかー。文房具……祐樹くんこだわり強そうだから選ぶの難しそうだね」
黒葛の好みの文具というものは全く想像がつかない。確かに男の子は文具が好きそうなイメージはあるが、逆に黒葛はあまり文房具にはお金をかけたくない派かもしれない。ならば自分ではたぶん買わないであろう……万年筆とか?
「なんか……予算折半してちょっといいものとかは、どうかな」
美月のその提案はもっともだと思った。自分たちはニコイチみたいなものだし、どうせなら一緒に何かひとつを選びたい。
となると、黒葛が気にしているのは自身のファッションカードのデッキの貧弱さだった。では夏に向けて。
「シャツとかいいんじゃない? ほら、美月ちゃんプロデュースの一環で!」
「あー、それいいかもね。見てみよっか」
上階に固まっているメンズ系のショップを行ったり来たりした結果、美月もしばしば利用するという、ワニのロゴがトレードマークのブランドショップで白いTシャツと、ハンドタオルを選んだ。
白色のシャツは本人が選びそうにないものだったし、彼の持っているボトムスは色の濃いものばかりなので着回しもしやすそうだった。
唯はてっきりおじさん向けのブランドだと思っていたが、店内にはレディースラインも充実していてそれらは驚くほどにオシャレだった。品のあるカラーときれいなシルエットに惹かれプリーツスカートを自分用にと手に取ってみたものの、値札を見てすぐにハンガーを戻した。
買い物を終えた二人はモールの中庭に架かる屋外の連絡橋を渡る。
唯はショッパーを掲げてみた。質感の良い白い厚紙の真ん中に例のワニのロゴがプリントされている。モダンでオシャレなこの紙袋は弁当袋にも流用できそうだった。
これを手渡した時、どんな反応をされるだろう。喜んでくれるだろうか。美月セレクトだから、間違いがないだろう。
それはそれとして、月初めだというのに今月はいくらか節制をしなければいけないようだ。
「メンズ系って、高いんだね……びっくりしたよ」
「そうかもね……確かにね」
どこか遠くに目をやる美月は心ここにあらずだった。足音もどこか擦るような重たさを感じる。
「あのね……美月ちゃんさ」
唯は連絡橋の中央あたりで足を止めた。
「どっか、具合悪いの? それとも……やっぱり、私……あの」
美月はハッと気を取り戻し、すぐに笑みを作る。
「え。いや……え、私? まぁ、ちょっと夏バテとか、あるかも? 暑いもんねなんか」
手をパタパタさせながら辺りに目を泳がせるが白々しいにもほどがある。今の自分たちの身体で夏バテなどするはずがない。
「や……やめてよ誤魔化さないでよ、実咲ちゃんもなぎさちゃんも心配してたよ。なんか変だって。ね、私にも言えないの? 私のせいだから?」
唯の強い口調の言葉は、今度はすぐ否定されなかった。
俯いた美月の行く場のない視線は、唯の手のショッパーにとりあえず留まった。
「……分かんない……私どうしたらいいか、分かんないの……ご、ごめん……唯」
顔にかかる髪のせいで表情は窺えなかったが、その弱々しい声音は美月の心情をそのままに表現していた。
「美月ちゃん……」
唯はその場で辺りを見渡す。連絡橋の下の中庭からモールの外側まで緑が続いていた。
「ちょっと、静かなとこ行こっか」
その公園はモールに隣接していた。園内一帯は緑が多く、地蔵公園に近い趣がある。
買い物を終えたらしき親子連れが子どもを遊具で遊ばせていたり、また家族の買い物を待っているのかお年寄りがベンチで休んでいる。若者の姿は自分たち以外にはあまり見られなかった。
唯は美月をベンチ型のブランコに座らせ、飲み物を買いに再びモールへと走る。
手近な店で適当なものを購入し駆け足気味で戻る唯は、美月の座ったブランコを覗き込む男の影を見てため息を吐いた。
寄ると、俯いて石像のようになった美月に知らない男が何やら楽しそうに話しかけている。目を離すとすぐこれだ。
「あの、彼女私の恋人なんで」
このセリフを言うのも何回目かになると、さすがに唯も堂に入ったものになる。
男は「あ、そっち系?」とヘラと笑い、急ににべもなく去っていった。
「はいジュース」
「ありがと……」
美月は受け取ったカップを膝の上に乗せた。その姿勢もあって大柄な彼女がいつもより小さく見える。唯は白いショッパーを挟んで隣に腰を掛けた。
「なんか懐かしいね、こういう遊具」
新しめな作りのブランコは金属音のひとつも立てず滑らかに宙で揺れる。
「ごめん……唯、私……こんなこと、なくって」
カップを握る美月の指に結露した水滴が伝った。
「……水泳の、こと、だよね」
唯は意を決しズバリの核心を口にするも、美月は首を傾げそして大きく左右に振った。
「わ……わかんない……」
唯に答えているようで、美月自身へ向けた言葉でもあることは明白だった。
「ごめん、ぐじゃぐじゃしてて……何か色々……ごっちゃで」
美月の声は震え、目には涙が浮かんでいる。
唯が初めて見る、美月の混乱だ。
こういうとき何を言えばいいのか、どうすればいいのか分からない。
──自分が訳もわからず悲しいときは?
そんなとき美月は唯から無理に聞き出すでもなく、ただいつまでも唯の言葉を待ってくれるのだった。
唯は胸に手を当て、小さく深呼吸をする。
自分にできるのは、美月が胸の内を曝け出しやすくなるよう、構えておくことだけだ。
本当は今すぐ落ち込んで塞いでしまいたかったが、だからこそ美月はそんな自分を慮っていついかなるときも気丈に振る舞っていたのだろう。
唯は顔を上げ、視線を遠くにやる。はるか先の高架を走る車の流れを見ていると少しずつ心が落ち着いてくるようだった。
「ごめん……」
美月が小さく言葉を発したのを聞いて、ゆっくり顔をそちらに向ける。いつもの『美月ならこうするだろう』を繊細に丁寧に行う唯は、自分の身体に“美月的なるもの”を降ろしている気がした。
「水泳も……あるのかな、あるのかも……分かんない」
唯は無言で頷き、続く言葉を待つ。口を開いたからにはそれだけではないはずだ。
美月はもうひとつ俯き、ややあってくぐもった声を出した。
「唯さ……、私、正確なの。割と、かなり」
「……あ、うん」
目的語がなかったが、意味はすぐに分かった。それが水泳の話から飛躍したものであってもだ。
「来て、ないの。もう2ヶ月近くなるけど。周期もね、全然」
ほかならぬ、“生理”のことだった。
「唯はさ、平気なの、唯もでしょ」
当然、唯もそうだった。意図して身体を操作したわけではないが、経血だけではなく、おりもの自体がなくなっている。本来、生理周期の波に応じて体調や肌、精神面にも影響が出るのだが、今は無風も同然だった。無論、放蕩の挙句に妊娠したわけではない。人間でなくなった時にそのようになってしまったのだ。
「最初はね、大丈夫だと思ってたんだけど、だんだんだんだん……こ、怖くなってきて。運動も……筋トレも、全然私がやってんのか……分かんないし、もう本当に……わ……人間じゃ、ないんだって」
言葉を紡ぐごとに震えは大きくなり、美月が握るカップの蓋の内側に波打つ液体がかかる。
「美月ちゃん……」
唯はドリンクを脇に置き、美月の手に自らの手を添えようとして躊躇してしまう。その間にも美月の声に嗚咽としゃくりあげるような調子が混ざる。
「いっ、いつかさぁ……、私もっ、こ、子どもできたりとか……、パパとママに……孫っ……」
そこでとうとう堰が切れ、美月の感情が大粒の波とともに溢れ出した。
「うううううぅ……ああぁっ……わたっわたしっ……もう……っ」
美月は膝の上のカップを抱え込むように背を丸め、号泣をした。
オトナの人が泣いているのが珍しいのだろう、近くで走っていた子どもが驚いた目で見ている。唯もこれほどに咽び泣く美月を見るのは子どもの頃含めて記憶がないことだった。
美月の身体の異変、それは同化という現象によって引き起こされたもので、それを美月の意に反して行ったのは、ほかならぬ自分だった。そしてそのために美月は水泳という全身全霊をかけて打ち込んできたものを自らの人生から切り離しただけではなく、母親になるという未来までも奪ってしまった。
唯は頭に氷柱が刺されたようだった。
腹の底から熱くも不快な何かが込み上げ、それは頭に刺さった氷柱を溶かし涙に変える。
唯は顔を覆い、言葉にならぬ嗚咽とともにそれを目から溢れさせた。
並び座った二人は人目を憚ることなく声を上げ泣いた。
唯の胸の内に確かにあった罪悪感。それに唯が気付かぬよう、美月はこれまで自分を誤魔化し続けてきた。その甲斐あって唯は、そして黒葛は己の罪にひどく苛まれることなく今日に至れた。
しかし自身の身体に対する感覚が鋭敏な美月は、これまでの磨き育て上げてきた人間としての身体と、現在の正体不明な身体との乖離に悩まされ続けていたのだろう。さらに、その違和を誤魔化し続ける自分自身が許せなかったに違いなかった。
「美月ちゃんごめん……っごめん……ごっごめんなさい」
「ううんううん……わっわかんなくて……わかんないの」
唯が泣いたことで却って冷静になったのか美月は顔を上げ、唯の肩に手を添える。顔を覆っていた唯はビク、と身体を震わせた。
そして恐る恐る目を開くと、赤く腫れた美月の目と視線が交わる。しかしすぐに美月は目を伏せた。
「多分水泳も、あるかもだけど……でも、色々……。私、自分が分かんなくなりそうで。……あんなイキったのに……情けないよ、ダサ……」
美月はバッグからハンカチを出し、顔をゴシゴシと拭いた。
どんなに荒く顔を擦ろうと玉の肌にはなんら影響を及ぼさない。そこで唯は美月が自分と同じくスキンケアという行為をやめたのだと知った。美月のドレッサーの前に並べられた瓶のミニチュア未来都市はどうなっているのだろう。
「あー泣いた泣いた。恥っずかし……超見られてたし」
美月はへへ、と笑い鼻をすすって顔を上げた。
先ほどの男の子がより離れたところで妹らしき女の子と一緒にこちらを見ていた。
「なんか、泣いたらスッキリしたかも。もう大丈夫だし」
いつもの美月らしく、艶のある朗らかな調子の声だった。唯がその顔を横目で見ると、目の周りにあった泣き腫らした痕がすっかり消えていた。凛々しく誰もが見惚れる美月の横顔だ。
このひと月、こうやって泣き顔を隠していたのではないか。
帰路の間、美月は終始朗らかだった。
試験のこと、黒葛のこと、明日の誕生日会のことから他愛のないことまで冗談を交えながら尽きることのない話題を提供し──そして唯も努めて明るく振る舞った。
厄介だと思った。明るく振る舞うと、どうやら本当にそういう気持ちになるらしかった。自分の感情とは、ずいぶんと適当なものらしい。
そしてこれは美月の処世術なのだろう。つらい時、無理矢理にでも明るく元気に振る舞う。そうすることで感情をそちらに引き上げる。
長女として振る舞ううちに身につけたのか、スポーツをする中で編み出したモチベーションのコントロール方法なのかは分からない。
いずれにせよ。
つまるところ、美月の今の本当のきもちは──そういうことなのだろう。
夕食後、唯は本を読むでもなく課題をするでもなくベッドに寝転がっていた。
だらんと伸ばした腕の先にある、自分の手のひらを見つめる。
茜川唯という人間に固有の指紋、手相。仮に今、その線の軌跡をいじったら、何かしら自分の運命だか何かが変わったりするのだろうか。
唯は自身の考えのバカバカしさに鼻で笑い、手のひらを返した。
そして焦点をずらしてその奥、デスクの上に置かれた白色のショッパーを見る。
メッセージカードを用意しなければ。代表して、私が一筆添えよう。
好きな人の誕生日のお祝いのことを考えていても、どうしてか心が弾まない。
ふと、部屋の外から階段の軋む音が微かに聞こえた。この体重の感じは、妹だ。
「ねぇ風呂」
小さなノックがひとつと、それよりも小さくぶっきらぼうな声がドア越しに聞こえた。
「あ……はい」
おそらくドアの向こうには届かない返事をし、体を起こす。
いつからこうなったんだろう。
昔はもっと、妹と普通に話していたはずなのに。
両親はすでに入っているので唯で仕舞風呂だった。
髪と身体を洗い、湯船に浸かった唯は後頭部をバスタブの縁に乗せる。
凝りというものがなくなった身体だが首筋がじんわりと伸ばされ気持ちが安らぐ。
正直なところ、唯は周期も不安定でしばしば重くなりがちな“生理”というものがなくなったことが純粋に嬉しかった。唯にとって生理が2ヶ月止まるというのは珍しいことではなかったが、そもそもの周期自体がなくなっているのは喜ばしいことだった。ままならない身体を支配できた、と思ったくらいだった。
自分の子どものことなど、思い至りもしなかった。
そうなのだ。生理というものは本来人間の生殖に直結する現象であるにもかかわらず、日頃自らの活動を制限し、邪魔をする最悪のハンディキャップであるとしか思っていなかった。
やや首をもたげ、湯船から顔を出すふたつの小島を見つめる。
この胸もそうだ。
子育てに使うものというよりも、目を引くかわいらしいディスプレイであって、そして主要な性感帯のひとつ。もっと言えば癌のリスクファクターであるという認識でしかなかった。
──親に孫を見せる。
彼女がそんなことを考えていたなんて。
この幼い体格もあってか、どこかで自分は永遠に子どものままだと思っていたかもしれない。
そしてこの身体になってから、本当に成長というものが止まってしまったのだろうか?
自分の身体に対する感覚が鋭敏な彼女は、それを悟ったのかもしれない。
唯には元々、しかし自分がオトナになることよりもそちらの方がいくらかリアリティがあったのだった。
将来の夢こそあれど、それは本当に地に足を着けたものなのだろうか。
物語の世界に遊び、オトナになることなく夢の世界を永遠に飛び続ける──まるで私はピーターパンだ。
唯は胸いっぱいに大きく息を吸い込み、膝を抱え体を丸める。
腰が浮き上がり、クルンと天井を仰ぐ形でバスタブの中に身体が浮かんだ。洗ったばかりの髪が湯の中で解け、広がる。
美月と溶け合ったはずなのに、彼女が自分を見失いそうになるほどの悩みの理由を、唯は察することができなかった。今も、我がこととしては完全には理解ができないでいる。
黒葛だって、本当はどんなものが欲しいんだろうか。本当にプレゼントを喜んでもらえるだろうか。
私はふたりのことを、何も知らない。
私は私のことさえも知らない。
胎児のように狭い湯船に揺蕩ううちに全身の皮膚がふやけてくる。
遺伝情報の近い家族の出汁がしっかりとれた体温ほどの湯だ。ずっと浸かっていると、どこからどこまでが自分なのか、次第に分からなくなりそうだった。
この感覚だろうか。
美月は、例えばこの感覚のまま、このひと月を過ごしてたのだろうか。
私は、何者なんだろうか。
風呂から出ると、スマホに通知が重なっていた。
ひとつはクラスのグループチャット。
昨日催されたらしい期末試験の打ち上げの話題のようだった。カラオケの動画か何かでも共有されているのだろう。美月は結局欠席したようだった。
一瞬だけ開き、既読マークだけを付ける。
もうひとつは『唯さまをひたすら愛でる会』という、世にもおぞましき名を冠する自分たち三人のグループチャット。
美月が明日のことを書き込んでいる。今日の別れ際から引き続き不自然なほどにテンションが高い。さすがの黒葛も妙に思うはずだ。他人への嘘が下手な美月は、しかしこうやって自分に嘘をつきながら自分たちと共にあり続けてくれたのだろうか。
唯が衝動のまま美月を堕とそうとした時も、美月は唯を終始気遣い、そして共に堕ちた。
自分を変えてしまったことを後悔しないように、苛まれないように。唯と黒葛の罪を共に背負うと。
その美月は唯と黒葛の預かり知らぬところで悩み、苦しんでいた。だがそれを伝えることは二人の後悔に繋がることが分かっていたため、自縄自縛となっていたのだ。
都合がいい考えだと理解しながら、唯はいっそ美月から恨まれた方がよかったのかと思ってしまう。
しかし美月は決して唯を恨むことはない。だからこそ行く場なき感情の渦を自分の心に向けるしかなかったのだ。
遅い時間だが黒葛に今日のことを電話しようと思い至ったところで、急に睡魔に襲われる。
いい気なもんだ。なんて自分は残酷なのだろう。
今もきっと美月は苦しみ悩んでいるはずなのに、元凶の自分が、眠くなるなんて──
またこの夢だった。
この頃、毎日のように見る夢。
月もない夜。どことも知れない浜辺に始まり、真っ黒な海を泳ぐ夢。
いつものように泳ぎ、そして泳ぎ疲れた唯は水面に仰向けに浮かんだ。
弛緩した五体が海水と空気のはざまに投げられる。
塩分濃度のせいかこれが夢だからだろうか、手の先、足の先までが労せず浮いている。全身が浮き輪になったようだ。
浮かんでいるうちに身体の重さも感じなくなり、天も地も分からなくなりそうだった。
眼前にあるはずの星のない夜空はどこまでも暗く、そして途方もなく深かった。
黒い宇宙に剥き出しの身体は海の中に沈むでもなく、空へと落ちていきそうだ。
いや、きっと自分はあの空の闇の向こうからこの浜辺に落ちてきたのだろう。
そう直観を覚えると、唯は過去一度ここに来たことがあることを思い出した。
正確にはもう少し深い──背中側に潜む深海のどこかだ。
美月を同化する際、それを止めようとする黒葛に連れて行かれた暗く冷たい場所。引きずり込まれたという方が正しいだろうか。
唯はその場所で黒葛と口論の末──彼を眠らせた。催眠術のような、何かで。
あの時、私は何をしたんだろう。
何かが、ありそうな予感がある。
そこにはきっと自分の知らない自分がいる。
あの場所よりもさらに深いところへ潜って、果たして戻って来られるだろうか。
そしてその時、私は私でいられるだろうか。
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