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第二章

第52話/低調美月

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  2023年7月6日(木) 11:30 教室放課後



中身のないHRが終わるとクラスメイトたちはいそいそと教室からはけていった。
午前の間に降っていた雨はちょうど昼前のいま途切れ、午後からまた降り出すという。
窓から見える空はそれを感じさせないほどにすっきりと晴れていた。

7月に入り始まった期末試験も今日で2日目。
数学2科目と選択系の理科科目の日という、文系にとっては地獄のような日程だった。
しかし、座席で伸びをする唯の表情は今の天気のように明るく爽やかなものだった。
残す明日の試験科目は国語が2つと選択系の社会科目。唯の期末試験はたったいま終わったも同然だった。

「祐樹くんもついてないね」
唯は自席の隣で窓にもたれかかる黒葛に笑いかけた。
「試験のど真ん中が誕生日って」
「いや、いつものことだから……」
黒葛は校舎から次々出ては散らばっていく生徒たちを眺めながらいかにもそっけなく答えた。
唯の席の隣にいるのは、窓の外を見たいからであって唯に用事があるからではない、と言いたげな態度だった。
唯に迷惑がかかることを黒葛なりに慮ってのことだったが、黒葛と唯が特別な関係になってひと月。クラスメイトたちも二人がよく一緒にいることに気付いていないわけがなかった。
だからといって実際のところ高校生にもなればそれを深く気にするほどの野暮はいないし、いちいち詮索するほどヒマでもない。つまるところ、黒葛の往生際の悪い自意識による所作でしかなかった。

「日曜を楽しみにしててね。ね、美月ちゃん」
「んー? ああ、日曜ね。うん、おけおけ」
美月は教室後ろの壁にもたれ、スマホを操作しながら答えた。
三人が教室で集まるときは唯の席になりがちだ。唯がくじ引きによって勝ち取った、後方窓際という黄金座席は、クラスメイトたちには聞かれたくない不穏な話もしやすい。

そして今日、7月6日は黒葛の誕生日になる。
日付が変わった瞬間にお祝いのメッセージが来るという経験は黒葛にとって当然初めてのことだった。
美月は普段は日付が変わる前には就寝をするが、試験中だからか起きていたらしくスタンプを寄越してくれた。
黒葛の家でお祝いをしようという話になったが、さすがに試験中ということもあり試験後の週末に日取りを決めたのだった。

「あと一日、がんばろうね」
苦手科目が終わったばかりだが、唯の笑顔に屈託がない。手応えがあったのだろう。
あまり良い結果が返って来そうもなく落ち込んでいた黒葛は、その笑みに救われる気がした。
「唯ちゃんこのあと部室行ってもいい? あそこ集中できるから」
「うん、いいよ~。ラストスパートだね。美月ちゃんは?」
「え? あー、うん……私は家でしよっかな、今日は。せいぜい悪あがきがんばるがよい~」
美月は戯けっぽい捨て台詞とともに自席に戻り、通学カバンを肩に掛けた。

「……テスト、いまいちだったのかな。今日理数系だったけど」
「……最近、あんまり元気ないかも。美月ちゃん」
教室の出入り口で振り返りこちらに小さく手を振る美月を見送る。
悪あがきもなにも、明日の科目はほぼ唯の独擅場だ。黒葛も社会科目は得意な方だし、国語だって特段そつなくこなせる。どちらかというと足掻かねばならないのは美月の方だろう。
「あんまお昼も一緒に食べてないし……僕、なんか変なこと言ったかな」
度々デリカシーに欠けたことを言っては唯に注意される黒葛は自身の舌禍を自覚をしはじめていた。
「そんなことないと思うけど……」
と否定する唯には心当たりがあった。というか、心当たりしかない。
やはり、美月はあの水泳大会の後からどうも低調気味のようだった。
話しかけるとすぐにいつも通りの明るい美月になるのだが、またしばらくするとどこか顔に影が差してくる。
かといって、自分たちが特別避けられているわけではない。
先ほどもHR終了後、真っ先に唯に試験の手応えを聞きにきた。グループチャットも頻度が落ちているわけではない。むしろ美月からのメッセージは増えたかもしれない。

唯が部室に移動しようと荷物をまとめていたところ、教室の辺境である自分の席へ向かってくる足音を聞く。
ツカツカと怒気か苛立ちかを孕んだその足音の主は佐海なぎさだった。
「あ……」
「ねー、あのさ。美月となんかあった? ケンカとか」
なぎさは唯の机に手を突くと、無表情のまま抑揚のない口調で捲し立てた。
「えっ……いや」
ろくに話したことのない人物からの突然の詰問にうろたえていると、なぎさの背後から小野塚実咲の顔が覗く。
「なぎさ、ビビってんじゃん。やさ、なんか最近? 美月変でさぁ~。唯ちゃんならなんか知ってんじゃないかってね~。で、どうなの?」
実咲が喋った時間は唯の体感で1秒もなかった。にこやかながら有無を言わせぬその早口は、唯の主観としては端的にハラスメントだった。
「わ、私も……その、分かんなく、て」
「あの、やっぱ珍しいの? その……桜永さんがああいう感じって」
狼狽する唯の隣にヌッと身を乗り出したのは黒葛だった。
それまで目に入っていなかったのか実咲は一瞬ギョッとしたようだったが、すぐに慣れ慣れしくも親しみのある態度に切り替える。
「ああ、ちょい凹むことはあっても長いからさ今。黒葛くんも知らね?」
「あ……、い、いや……」
名前を呼ばれ、存在を補足されていることに黒葛は面食らう。もし去年唯に恋に落ちていなければ黒葛の初恋は今この瞬間だったかもしれなかった。俗に言う“オタクに優しいギャル”というものの罪深さを黒葛は思い知る。
「ちょっとさ、気にしてあげなよ。多分私らよりも茜川さんたちの方が頼りやすいと思うし」
そう言って、なぎさは踵を返し戻っていった。
終始無表情だったなぎさとは対照的に実咲は笑顔を浮かべ、唯と黒葛に耳打ちする。
「美月さぁ。二人のこと話すときだけは元気になるかんな。頼むな」
「あ……う、うん。ありがとう……」
唯の礼の言葉も届かぬ勢いで実咲も身を翻し、またなぎさと取り留めのない雑談に興じ始めた。


「びっくりした……こっわぁ。あのふたり……」
文芸部室にやってきた黒葛はドアを開けるなり大きく息をついた。
室内に漂うコーヒーの香りはそんな黒葛を慰めるように優しく、心を落ち着かせていく。
テーブルの上に2客。先に部室に来ていた唯が淹れていたものだ。
「おつかれ~。やっぱり……怖いもんは怖いよね」
唯は本を開いた状態で机に伏せ、黒葛にコーヒーを勧める。
黒葛は自分なら絶対にしない本の扱いに驚きつつコーヒーを受け取る。よく見れば伏せられた本の表紙には一部コーヒーの染みのようなものもあった。

「なんか、前に戻ったみたいだった。全然喋れなかった」
黒葛は椅子を引き、己の変身した姿とそっくりな色の液体を口に運ぶ。
実咲となぎさは美月の親友である以上、美月と同化した自分たちにも彼女たちへの親しみの情はあるかと思われるが、それを上回ってあまりある恐ろしさだった。
いわゆる“ヤカラ”というものに絡まれた気分だった。美月がいないときにあの二人の対応をするというのは素手でナウマンゾウと対峙するに等しいものがある。

唯はコーヒーのカップを持ったまま窓辺に寄り、カーテンを開ける。
先ほどまでの青く澄んだ空はいつの間にか鈍色に変わっていた。
「美月ちゃん、あの二人の前でもそうなんだね……」
それは美月の様子がおかしいことの答え合わせのようなものだった。
しかし、その理由は彼女たちにも分からないという。彼女たちなら、直接的か間接的か何かしらのジャブは打っているのだろう。そしてその結果、最近になって妙に付き合いの増えた──自分たちに原因があると踏んだのだ。一方で、恋人関係にあるということまでは知らないようだった。例のプロデュースする関係ということにしているのだろうか。

「落ち着いたら、ちゃんと話さないとね」
「明日は? 試験終わった後とか、美月さんと話せないかな」
「多分クラスのみんなでどっか行くんじゃないかな。中間試験の時もそんな感じだったし」
「そか……」と俯く黒葛は湯気の立つコーヒーの表面へと目を落とす。
元々好きでも嫌いでもなかったコーヒーを美味しく感じるようになったのは唯の影響なのだろう。一方、美月の嗜好には変化がないようだった。理屈も何もかもが分からないこの同化という現象を、試験が終わったらまた追求せねばならない。唯と美月と三人で。
しかし、どうも座りが悪い。この感じでまた三人揃ってそれができるだろうか。それ以前に、この日曜日の自分の誕生日というものは楽しい日になるのだろうか。

「土曜……私会うからさ、聞いてみるよ」
ポツポツと雨が窓に線を描き始めたのを見て唯はまたテーブルに戻った。
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