彼福私鬼 〜あちらが福ならこちらは鬼で〜

日内凛

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第二章

第50話/梅雨空の試験期間

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  2023年6月19日(月) 12:00 試験準備期間1週目/文芸部部室



「転校生?」
黒葛はプロテインシェイカーを振りながら訊き返した。シャカシャカという音に紛れてよく聞こえなかった。
「英語Exの子が言ってたよ。ネイティブの人で……だから、留学生なのかな」
唯が弁当の蓋を開けると部室内におかずの香りが漂った。
相変わらず固形物を食べられない黒葛にとってそれは食欲を誘うものではなかったが、小さく唯の腹が鳴る音が聞こえた。

この高校では数学と英語に限り、習熟度別のクラス分けがなされている。
いずれも成績順にEx、Pr、Stの順にクラスが割り当てられ、中間のボリュームゾーンであるPrは2つのクラスに分けられる。つまり、Exが上位の上澄みエリートで、Stが端的に言えば落第組ということになる。
美月は数学は当然理系コースのExに、英語も基本的にはExにいる。黒葛は数学は文系コースのPrで英語もPr。唯は英語はPrだが数学は不動の文系Stである。
「英語Exなら、美月さんも知ってるのかな」
黒葛がシェイカーを振り終えても室内にシャカシャカという音が断続的に響いている。
雨粒が窓を叩く音だった。
ここに来るまでは晴れ空だったが、突然に泣き出した空。ゲリラ豪雨というやつだ。


今、昼休みの部室内には黒葛と唯の二人しかいない。美月は実咲となぎさと学食に行っている。
「先生が雑談交じりに言ってたみたいで、その子はあんまり聞き取れなかったみたいだけど、美月ちゃん耳いいからねぇ」
英語Exの授業中は基本的に英語しか使ってはいけない特殊なテリトリーになっているらしい。日本語を使うとタブーだか何だかで魂でも抜かれてしまうのだろうか。
ヒアリングもスピーキングも自信のない黒葛と唯のどちらもが万が一成績が上がってEx入りをするというのは御免被りたいと思っていた。

黒葛はひと息で泡立ち治まらぬプロテインドリンクを空ける。
特に筋肉を付けるという意図はないが、毎食毎食ゼリー飲料を買っていてはエンゲル係数がひどいことになる。そして意外なことに、このプロテインという飲み物はなかなかどうして美味しいものだった。すっかり味を占めた黒葛はさまざまなフレーバーを日替わりで楽しんでいる。今飲んでいるイチゴ味のものは、サッパリとしかし濃厚な味わいの、ただの絶品ストロベリーシェイクだった。
「転校生かぁ。今の時期に?」
「さすがに試験が開けてからじゃないかなぁ……」
と唯はミニトマトを摘み、窓の方へと顔を向ける。
「でもそうするとすぐ夏休みが来ちゃうね」
カーテンの向こうでは絶え間なく雨粒が窓に打ち付けられ、年季の入った窓を細かく震わせている。浸水して来ないのが不思議なくらいだ。

関東は10日ほど前に梅雨入りをしたという。
こんなに激しく雨が降る日もありながら、翌日は嘘のように晴れてみたりと何をもって梅雨というのか唯にはよく分からない。両親は毎年のように『昔と梅雨の雨の感じが変わった』と言っているし、小説や短歌、俳句の描写とも確かに齟齬があるなとも思う。
しかしまだ、この梅雨明け後に控えている真夏ほど昔と様子が違っているということはないだろう。
いくら古きを温ねることを良しとする唯でさえ、夏の季語は一度棚卸しされて然るべきだろうと思う。

「1学期もあとひと月くらいかぁ……長かったようなあっという間だったような」
食事の済んだ黒葛は美月専用のくたびれたソファーに腰を下ろした。
この1学期ほど濃密な時間というのはこれまでの人生の中でほかに思い出せない。
学年が上がって間もなく謎の災害に遭って両親と共に死亡。かと思えば自分だけおかしな存在として生き返って死ねなくなり、片思いだった唯を自分と同じおかしな存在にして、そのまま唯の想い人だった美月もおかしな存在にして三人で仲良く件の災害について調べようとしているのが今。しかし、今は試験が近いこともあり調査は一旦ストップしている。

黒葛は首を伸ばし、唯の手元の弁当箱を覗くと中身はほとんど空になっていた。というか、弁当箱のサイズがひとまわり大きくなっていることに気付く。
「色々、あったもんね」とモゴモゴと口を動かす唯にとっても、濃密な時間だった。
ある日突然、碌に話したこともない黒葛に襲われ、訳も分からないまま人間でなくなった挙句、その主犯である黒葛のことを好きになり、同様に美月も襲い長年の恋を実らせた。
人間でなくなった身体は眼鏡を必要としなくなり、肌質も髪質も変化した。今後は日焼けどころか美容や化粧についても悩む必要はない。

何より、美月との“同化”を経てコンプレックスだった対人コミュニケーション能力が変化し、普通に人と会話らしい会話ができるようになったことが大きい。
それまで一人で過ごしていた時間の多くが黒葛や美月との時間に変わり、そしてそれは楽しかった。一人で本を読む時間というのは今でも自分にとってかけがえのない大切な時間だが、タイプの違う二人と過ごす時間は何もかもが新鮮で、目眩く新しい体験の連続だった。
それに、同化という超常的な現象で存在を交えた二人を近くに感じることはとても心安らぐ。
今日まで幾度も三人で身体を交え愛し合ったが、何はせずとも側にいるだけで気持ちがいいものだ。
試験勉強のために三人で会う時間が減るというのは、やはり寂しくもある。

「でも、私……期末はちょっと前よりいいかも」
弁当箱をしまいながら唯は微笑む。
休日は三人で遊んだりということが多かったが、その分授業は集中して受けることができた。
もちろん、人外になって体力が底知らずになったことも大きいだろうし、黒葛や美月と同化したことによって、二人の得意とする科目がある程度自分にも影響を及ぼしたのかもしれない。
理数系は思いのほか劇的な変化はしてはいないが、それでも以前よりは教師の言っている意味が何となく理解できている気がしている。それは黒葛も同様だった。
「僕も……だけどブランクがあるからなぁ~」
黒葛は事故の後、実にひと月ほど学校を休んでいたのでその分授業に遅れが発生した。補講も受けているがどこまで追いつけているか不安もある。
「じゃ、また勉強会しようよ~」
弁当箱を風呂敷に包んだ唯が手を叩いて破顔する。それは『ごちそうさま』の意味も込められている動作に思われた。
「そう、ねぇ……」
黒葛は頭を掻いて言葉を濁らせる。
自分としては大歓迎なのだが、ちゃんと集中してできるだろうかという問題がある。
唯と美月と共に狭い自室にいると色香がすさまじいことになる。二人でフェロモンの連鎖反応でも起こしているのか、指数関数的に部屋の中の何かがヤバくなっていくのが分かる。遅れた分の勉強を二人に教えてもらう機会があったが、ほぼ毎回途中からなし崩し的にベッドに突入してしまった。

それに。
今週末は、水泳の全国大会の予選会がある。
それは美月が水泳部のエースとして出るはずだった、大会。
自分たちに同化され人間でなくなった美月は2週間前に退部届けを出し、校長を巻き込んで慰留されたものの、最終的には受諾され今は帰宅部である。

彼女は、部の応援に行くのだろうか。
いくら同化しているからといって、今の美月の心情を知ることはできない。
せいぜい推し量ることしかできないが、きっと逡巡をしているのだろうと思う。
退部し、大会に出られなくなった原因を作った自分たちは、今週どんな顔をして美月に顔を合わせればいいか、情けなくも分からない。
あの時、愚かな自分たちの罪を飲み込み、背負うと笑ってくれた彼女。
そして先日、水泳人生にけじめを付けるため、プライベートな引退試合にて自分たちに選手として最後の遊泳を見せ、泳ぎ切った後にも彼女は確かにいつもの笑顔だった。
考え過ぎだろうか。
切り替えの早い彼女のことだから割り切っているのだと思うが、それはただの自分の卑怯な願望なのではないだろうか。


卓上で唯のスマホが震えた。昼休み終了のアラームだ。
普段は耳のいい唯が遠くで鳴った予鈴を教えてくれるが、今日のような天気の日はそういうわけにはいかない。それにしてもそれだけ耳がいいならこの雨音や普段の生活音もうるさくないのだろうか?
「唯ちゃんさ、あの、もしかして聴覚過敏ってやつだったりしないの?」
黒葛が自分なりにネットで調べてみたそれはかなり大変で厄介な症状らしかった。感覚器の異常ゆえ他人の共感を得づらいというのもストレスになるらしい。
しかし聴覚過敏に限らず、病気だの症例だのをネットで調べているうちに自分もそうなのでは、と思えてくるのが良くない。
「うーん、私も気になって調べたけどちょっと違うかな~。なんか聞こえる音の幅が広がった感じ」
何だそれ。超音波的なものだろうか。今ここで犬笛とか吹いたらどうなるんだろう?
「ふーん……。自分たちの身体のことも、全然わかってないからそれも調べないとだね」
黒葛はそう言って指先を泥にしようとしてみて感覚を忘れたのか少し手間取った。日々練習していないと錆びついてしまうものなのだろうか。
いや、何で泥にならないといけないんだっけ。そもそも?

「祐樹くん鍵かけるよ」
「あっ、はい~」
部室を後にした二人は旧校舎の入り口に至り絶望した。
空から降り注ぐのは傘など何の役にも立たないほどの滝の雨だった。
唯は苦笑いを浮かべ、黒葛に煤けたビニール傘を渡す。
「雨ひどかったら……教室で食べよっか」
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