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第二章
第45話/お昼の作戦会議
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2023年6月5日(月) 12:00 文芸部部室
黒葛はコンビニで買ったゼリー状栄養飲料を3つ、机の縁に揃えるように並べてみた。意味はない。
午前の授業が終わって昼休み。離れの旧校舎にある文芸部室に集まった三人は各々の昼食を広げていた。
唯は中央の長机に、美月はその正面壁側のソファーに、そして黒葛は二人の視線を遮らないよう、唯の斜向かいの椅子を引いた。
黒葛はゼリー飲料、唯と美月は自宅から持ってきたお弁当である。
南向きの窓は開け放されているが風はほとんど凪いでおり、時折カーテンが窓の桟を撫でる程度だった。
「言うて……そんなにみんな驚かなかったね。祐樹くんのこと」
唯の箸がご飯中央に埋もれた梅干しを広げる。
「まぁ僕は、もともといないようなもんだったし……」
唯は、半分モノノケの類のような見た目だった黒葛がバッサリと髪を切り、さらに姿勢を矯正して現れたのだから、さぞやクラス中が大騒ぎになるだろうと思っていた。何しろ自分の場合、眼鏡を外しただけでその日からちょくちょくクラスの女子から声をかけられたりしたのだ。
しかし実際はそうでもなかった。
朝礼前、ちらと黒葛を一瞥してはまたスマホへと目を戻したり、突っ込んだら負けだとでも思っているのか気付かないふりをしていたり、そして黒葛の言う通り、変わったことにすら気付いていない人も少なくないようだった。
恋人に対する認知が歪んでしまっている唯は、いよいよ黒葛が世間に見つかってしまうのではないか? 変な虫がつかないだろうか? などと期待とちょっぴりの不安とで本人以上に緊張していたが肩透かしを食らっただけだった。
「多分みんなそれぞれで話題にはしてるんじゃない。さすがに本人の前で露骨に驚いたりはしないって」
美月はそう言いながら左手に持った箸を振った。
左利きの唯と交わった影響で左手もある程度自由に使えるようになった美月は、完全な両利きを目指して特訓をしている。
「確かに、男子って唐突に変わるよね。いきなり丸坊主にしたり……。男子三日会わざれば何とやら」と唯は顎に手を添え頷く。
先日唐突に変貌した人間がそれを言うのかと美月は突っ込みかけたが、唯の言いかけた、自分が知らないはずの格言の下の句がフッと頭に浮かんだことに驚く。
──男子三日会わざれば……カツモクセヨ。意味は分からない。
黒葛は吸っていたゼリー飲料から口を離し、また元の位置に揃え置いた。
「何人かには……話しかけられた。でも名前分かんなくて……ダメだ、早く覚えないと」
元々クラスメイトを唯しか同定できてないほどに他人に無関心だった黒葛は転校生の気分だった。
「へぇ。大丈夫だったん?」
初めて黒葛に話しかけた折、人生最大級の塩対応を食らった美月が意地悪そうに笑う。が、言葉とは裏腹に何も心配してなさそうだった。美月と同化した後の黒葛は生来の朴訥さは残るものの対人能力は大きく底上げされている。言うなればウルトラスーパーレアの星5キャラを合成素材として食ったようなものだ。
「まぁ、多分……? いや、何となくは……できたのかな」
今日話しかけてきたのは、黒葛は知らなかったがいずれもクラスの中のいわゆる“一軍”系の男子生徒だった。
『気合来てんね』『おビビった』『誰かと思ったわそれいいじゃん』
いずれもが黒葛の返答を期待していない一方的な挨拶だった。今日のこのタイミングこそが、悲惨な境遇にある彼に自然に接触できるチャンスだと思ったのだろう。
それが親睦を深め助けになりたいという義侠の精神によるものか、あるいは上下の関係性を叩き込もうという意図によるものだったのか、それは彼ら自身にも分かっていないかもしれない。
確かなのは、黒葛が今まで歯牙にも掛けられていなかった連中の“値踏み”の対象に入ったということだ。
つまり黒葛の意思とは関係なく、幸か不幸か今日初めてクラス内における仁義なき生態系の中に組み込まれてしまったのだった。
今後の身の振りに不安を覚える黒葛の一方、どこか楽しげなのは唯だった。
「すごいね、美月ちゃん効果」
どちらかというと黒葛側の人間だった唯は黒葛と同化した翌日からクラスの女子たちと話せるようになっていた。しかしそれは星5キャラを取り込む前である。それに決しておしゃべりではないにせよ、元々唯は美月とはごく自然に会話ができていたのだ。
「ま、自信の問題でもある気もするけどね……。ねぇ祐樹そんなんで食べた気になんの?」
美月の箸が黒葛の前に並ぶゼリーを指した。
身体を溶解できるようになって以降の黒葛は、水分以外は流動的な食べ物以外に対しての食欲がなくなっていた。より正確には、食欲自体もないのだが、何かしら栄養素は摂った方がよかろうということでとりあえず腹に入れられそうなものを選んでいるにすぎない。
もっとも、今の身体ならばそれさえも必要ないのかもしれないが。
「分かんないけど……今はこういうのがなんか、身体に合う気がして。こればっか」
「あそ? 何かおかず欲しかったら言ってよ」
弁当箱を傾けて見せる美月の言葉の割に、おかずのほとんどはそのお腹に収まってしまっていた。
「あ……私も。よかったら食べてね」と言う唯もほぼ食べ終わっていた。
少食だった唯も以前の美月以上の健啖家になってしまっていた。二人とも少々なら食べなくても平気なのだが、一度食べ始めると際限なく食べることができる悪魔の胃袋を手に入れていた。それでいて体型の維持は思うがままである。
「そだ、美月ちゃん」
箸を握りしめ唯が身を乗り出す。
「あの、みさ……小野塚さんや佐海さんには、何て言うの……? 私たちのこと……」
美月のクセでうっかり下の名前で呼びそうになる。一度もちゃんと話したことがないのに。
「それなー」
美月は左手の箸をクルクルと回しながら天井を仰ぐ。
「なんか追求されたら私ごまかせないと思う。実咲はともかく、なぎさは勘付くからそゆの」
ピッと箸を持ち直し、ばふ、とソファーに背を預けた。
「まぁ……そんときはそんときで。あえて特に言わなくてもいいかな」
「そうなの? てっきり、隠し事とか……そういうの嫌なのかなって……」
「別に、全部が全部腹のうちを見せ合ってるわけじゃないし、私ら。それが何つーか、私らの距離感? 実咲もなぎさもそう。適度にラインみたいなのはあるんさ」
唯の目から鱗が落ちた。
あの三人はどんなことであろうと腹を割って話し合える“親友”だと思っていた。
いや親友には違いないのだろうが、自分の思っている親友像とかなり異なる。もっとこう……河川敷で喧嘩をして、悩みも相手への感情も全てを曝け出し、喜びも悲しみも分かち合う、唯一無二の、親友。
なぎさはともかく、美月と実咲はそういう“友情の儀式”を済ませているものだとばかりに思っていた。
「じゃ、小野塚さんたちもそんな深くは追求してこないのかな?」
美月の方を振り返った黒葛も話に加わる。
「多分ね。『あこれ触れない方がいいやつ』みたいなの察したらそれ以上来ないと思うよ」
先日唯の意中の人物が誰であるかをとことん追求尋問した美月が言うと説得力も何もない。
「私はまぁ、それよりどっちかって言うと……」
俯いた美月の顔に影が差したのを唯は見たが、視線を察したのかすぐに影は晴れた。
「ううん、やっぱ何でもないわ」
唯にも、そして二人のやりとりをただ聞いていた黒葛にも美月が言いかけた言葉の先には、いくつかの心当たりがあった。
家族になんて説明すればいいのか。
水泳部での活動はどうするか。
何より自分の身体が結局どうなってしまったのか、この後どうなるのか。
ほとんど何も分からないままなのだ。もちろん、今日こうして人目を忍んで離れの部室に集まっているのは、それを話し合うためでもあるのだが。
同化して恋人関係にもある自分たちにもその胸の内を明けてくれないのか、と唯は寂しくも思う一方、それは自分たちを慮る美月の優しさゆえだと理解しているので胸中複雑だった。
「それに、同化云々を言ってもね……言うだけ無駄だし……」
美月は弁当をしまい、黒葛の隣の椅子を引いた。すでに黒葛も唯も食べ終わっていたようだった。
「同化ね……祐樹くん、何か分かった?」
唯は気難しそうな顔でスマホをタップする黒葛に問う。結局のところ、この現象の核心に一番近いのはこの男なのだ。しかし黒葛は下唇を突き出し首を横に振る。
「ネットで調べても全然……。まず何て調べればいいかも分かんないよね」
黒葛の指の動きは明らかに無為なスクロールのためのものだった。
美月がその画面を覗くと、ブラウザの検索窓には〈溶ける 人間 合体 リアルガチで〉とあった。ネットの扱いやブラウジングに比較的長けていると思われる黒葛もドツボにはまってしまったのか、ワードに混乱が見られる。
「唯、本とかにはないの? こういうのってさ」
「うん……いや、比喩表現でよくあることではあるけど。まんまだもんね。物理的に……リアルガチで」
頭頂部のアホ毛を鍛錬しながら唯もすっかりお手上げだった。
一般的に小説で言えば、愛する人同士の情交場面で“溶け合う”というレトリックが使われていないものを見つける方が難しいだろう。他方、文字通りの意味で溶け合う現象は、ホラー・怪奇小説などで覚えがないことはない。ミトコンドリアが反乱してどうとか。
「唯の言葉がリアルガチで汚染されてる……。人が溶け合うってのもそうだけど、こないだの地震みたいな現象。つまり……えと」
「集団が一瞬で消える、みたいな?」
言い淀んだ美月の言葉を当事者である黒葛が引き取った。
「あ、うん。そういうのって割と最近のトレンドじゃないの? ほら、異世界がどうとかさ」
あまり流行りのアニメやマンガに縁のない美月であっても、普通に生活をしているだけでそれは目耳に入ってくる。ある日突然知らない世界に転生し、その見知らぬ地で新たな生を謳歌するというフォーマットの作品群。いわゆる異世界転生モノだ。
一大ジャンルとしてさまざまな様態に派生をするそれらの作品の中には、主人公ひとりに限らず、集団で転移するパターンも少なからずあるのだろう。
「最近っていうか昔からあるモチーフではあるよね。『浦島太郎』みたいに異界に行って帰ってくるのは、山ほど」
唯は天井を見上げながら指をひょいひょいと折った。あえて言う必要はないまでもいくらでも同系統の物語に心当たりがあるようだった。
「浦島、太郎……」
黒葛は唯が挙げた、日本人であれば誰もが知っているその物語に何かひっかかりを覚える。
浦島太郎が海の底から帰ってきたとき、確か地上の時間は──
「どした?」
神妙な面持ちの黒葛を美月の大きな瞳が覗き込む。
「いや、うん。でも、そうだね。そっちから調べた方がいいのかも。……史実であった集団失踪とか」
「ぱっと思いつくのは『ハーメルンの笛吹き男』だよね、やっぱり」
すぐに反応した唯が挙げたのは、またしてもおとぎ話だった。明らかに、それはフィクションだろうと言いたげな黒葛の疑義を先取って唯が説明する。
「昔話とか童話とかでもね、史実がベースになっているものって全然あったりするんだよ。教訓とか……寓話としてね。もちろん脚色されてたり伝わるうちに全然別物になってたりするけど」
黒葛は小さい頃に図書館で見た、童話のオリジナルの内容が大変恐ろしいものであることを紹介する書籍の一群を思い出した。
原典となる話をそこまで知らないため興味を持てなかったが、今になって思えば確かに大なり小なり脚色されてほとんど別物になっているものはあるのだろう。
昨今の風潮を鑑みるに、例えば浦島太郎の冒頭でカメがいじめられている下りも、版元によっては残酷だということで表現が変わっているということがあるかもしれない。
「ハーメルンの笛だかバイオリンだかは子どもだったよね。集団失踪」
美月のその発言に、黒葛と唯はぎょっとお化けでも見たかのような反応をした。
「え? なになに私何だと思われてんの? 知ってるよさすがに……」
心外だと言わんばかりに美月は口を尖らせる。美月は両親の趣味で幼い頃に世界の童話のアニメーション作品群の薫陶を受けており、『ハーメルンの笛吹き男』もうろ覚えながらその一連のシリーズの中で知ったのだった。
「じゃ、子どもが集団でいなくなったみたいな事が実際にあったとするよね。原因は……なんだろう?」
そう言って首をコテンと横に倒す唯は全身でクエスチョンマークを表現しているようだった。
物語の中で子どもたちは、笛の音色によって集団催眠にかけられ笛吹の男について行ってしまい町からいなくなった。
対面の美月も唯と同じ向きに首を倒してみる。
「んー、例えば……子どもにだけ感染するやばい病気が広まったとか? 免疫がどうとかで」
「そっか。失踪じゃなくても……。あ……」
集団の死亡を連想させてしまったかと唯は口籠る。しかし、配慮されるべき黒葛はすぐに言葉を継いだ。
「そっか、仮にそのパターンだと免疫のない子どもにだけ流行る危ない感染症がありますよ、ありましたよーみたいな警告の物語になるのか」
「まぁ感染症っていう概念自体がなかった時代だろうしね。子どもがバタバタ倒れてったらなんか悪魔が連れ去ってったみたいなイメージになるのかね」
頬杖をついて推量する美月に唯も頷く。
「あくまで仮定だけどね。元はそういう……事件みたいなのが背景にあったりするんだよ。最終的に脚色されたりして形は変わったりするんだけど。時代とかに合わせてね」
「なるほど。うーん、一度図書館行ってみようかな」
腕を組み天井を仰ぐ黒葛はこの町に引っ越して来てから図書館に行ったことがない。さらに困ったときには図書館に行く、という解決方法は自分の中にはなかったはずだが、これはきっと唯の影響なのだろう。
「そうだね。司書さんに聞いているのがいいかも」
「あ……そっか、唯は司書になりたいんだもんね」
「もし私がなれてもね……そのとき司書さんのお仕事、なくなってなきゃいいけど」
と、唯は力なく笑う。
日頃図書館のレファレンスサービスを利用しては、その比肩なきプロフェッショナルの為事に圧倒され、唯はそこに自分の夢を見たのだった。しかし、このわずか数年の間のAI技術の進歩によって、検索やレファレンスというものの概念自体が大きく変わろうとしている。
自分が社会人になるまでもなく、来年の今頃ですらそれらを取り巻く事情がどうなっているか想像もつかない。
ふと唯が「あ、予鈴だ」と顔を上げる。
美月が腕時計を確認すると、まさしくその時間だった。
「唯さ、耳いいよね。私より全然聞こえてんじゃない?」
「そうかな? 特になんかいじった覚えないけど」
身体が変化して以降、この旧校舎までは聞こえてこなかったチャイムが聞こえるようになったのは気付いていたが、それは身体能力の拡張の一環だと思っていた。当然美月にも聞こえていると思ったが、どうもそうではなかったらしい。
言われてみると、登下校中など、これまで気にしたことのないノイズのようなものが聞こえている気がする。
「あの唯ちゃん、明日も……お昼、ここ来ていいのかな」
ゴミをまとめながら黒葛が遠慮がちに訊ねる。
「うん、もちろん~。美月ちゃんは?」
「あー……、私明日の昼はちょっと行くとこあるから。ごめんね」
窓を閉めながら背中で答えた美月に、唯もそれ以上は聞けなかった。
あえて詳細は言うまいとしているのは分かるし、そして何となくどこへ行くかというのも薄らと想像がつく。
「どうでもいいけどさ……」
振り返った美月の表情にまた影が差していた。先ほど言いかけた懸念事項だろうか。
「美月ちゃん……?」
俯いた美月の視線の先は、自らの胸元だった。
元々大きな方ではあったが、さらに肥大化した二つの双丘は今やスイカかメロンだかの形容がふさわしい“双球”だった。
「私この胸だけは実咲たちに説明できる気しないわ」
「……女子も三日会わざれば?」
その主犯がバツが悪そうに肩をすくめ、黒葛もそれに同調する。
「刮目……するよね、それは……」
意識しないという方が難しい。主張をする圧が強い。
一方、満を持して下着のサイズを更新した唯も、大きく変化した真のサイズでの登校は今日が初めてだった。ブラウスが以前よりも張ってはいるものの、美月が自然に整えたこともあって特別違和感は見られない。
「私は……あまりクラスで目立ってなかったから気付かれてないと思うけど。美月ちゃんは……」
「いいよ……唯と祐樹が喜ぶならさ……。今までサラシでも巻いてたことにでもする……」
美月は突っ張ったブラウスを直しながら、胸の上に赤いネクタイを載せた。
黒葛はコンビニで買ったゼリー状栄養飲料を3つ、机の縁に揃えるように並べてみた。意味はない。
午前の授業が終わって昼休み。離れの旧校舎にある文芸部室に集まった三人は各々の昼食を広げていた。
唯は中央の長机に、美月はその正面壁側のソファーに、そして黒葛は二人の視線を遮らないよう、唯の斜向かいの椅子を引いた。
黒葛はゼリー飲料、唯と美月は自宅から持ってきたお弁当である。
南向きの窓は開け放されているが風はほとんど凪いでおり、時折カーテンが窓の桟を撫でる程度だった。
「言うて……そんなにみんな驚かなかったね。祐樹くんのこと」
唯の箸がご飯中央に埋もれた梅干しを広げる。
「まぁ僕は、もともといないようなもんだったし……」
唯は、半分モノノケの類のような見た目だった黒葛がバッサリと髪を切り、さらに姿勢を矯正して現れたのだから、さぞやクラス中が大騒ぎになるだろうと思っていた。何しろ自分の場合、眼鏡を外しただけでその日からちょくちょくクラスの女子から声をかけられたりしたのだ。
しかし実際はそうでもなかった。
朝礼前、ちらと黒葛を一瞥してはまたスマホへと目を戻したり、突っ込んだら負けだとでも思っているのか気付かないふりをしていたり、そして黒葛の言う通り、変わったことにすら気付いていない人も少なくないようだった。
恋人に対する認知が歪んでしまっている唯は、いよいよ黒葛が世間に見つかってしまうのではないか? 変な虫がつかないだろうか? などと期待とちょっぴりの不安とで本人以上に緊張していたが肩透かしを食らっただけだった。
「多分みんなそれぞれで話題にはしてるんじゃない。さすがに本人の前で露骨に驚いたりはしないって」
美月はそう言いながら左手に持った箸を振った。
左利きの唯と交わった影響で左手もある程度自由に使えるようになった美月は、完全な両利きを目指して特訓をしている。
「確かに、男子って唐突に変わるよね。いきなり丸坊主にしたり……。男子三日会わざれば何とやら」と唯は顎に手を添え頷く。
先日唐突に変貌した人間がそれを言うのかと美月は突っ込みかけたが、唯の言いかけた、自分が知らないはずの格言の下の句がフッと頭に浮かんだことに驚く。
──男子三日会わざれば……カツモクセヨ。意味は分からない。
黒葛は吸っていたゼリー飲料から口を離し、また元の位置に揃え置いた。
「何人かには……話しかけられた。でも名前分かんなくて……ダメだ、早く覚えないと」
元々クラスメイトを唯しか同定できてないほどに他人に無関心だった黒葛は転校生の気分だった。
「へぇ。大丈夫だったん?」
初めて黒葛に話しかけた折、人生最大級の塩対応を食らった美月が意地悪そうに笑う。が、言葉とは裏腹に何も心配してなさそうだった。美月と同化した後の黒葛は生来の朴訥さは残るものの対人能力は大きく底上げされている。言うなればウルトラスーパーレアの星5キャラを合成素材として食ったようなものだ。
「まぁ、多分……? いや、何となくは……できたのかな」
今日話しかけてきたのは、黒葛は知らなかったがいずれもクラスの中のいわゆる“一軍”系の男子生徒だった。
『気合来てんね』『おビビった』『誰かと思ったわそれいいじゃん』
いずれもが黒葛の返答を期待していない一方的な挨拶だった。今日のこのタイミングこそが、悲惨な境遇にある彼に自然に接触できるチャンスだと思ったのだろう。
それが親睦を深め助けになりたいという義侠の精神によるものか、あるいは上下の関係性を叩き込もうという意図によるものだったのか、それは彼ら自身にも分かっていないかもしれない。
確かなのは、黒葛が今まで歯牙にも掛けられていなかった連中の“値踏み”の対象に入ったということだ。
つまり黒葛の意思とは関係なく、幸か不幸か今日初めてクラス内における仁義なき生態系の中に組み込まれてしまったのだった。
今後の身の振りに不安を覚える黒葛の一方、どこか楽しげなのは唯だった。
「すごいね、美月ちゃん効果」
どちらかというと黒葛側の人間だった唯は黒葛と同化した翌日からクラスの女子たちと話せるようになっていた。しかしそれは星5キャラを取り込む前である。それに決しておしゃべりではないにせよ、元々唯は美月とはごく自然に会話ができていたのだ。
「ま、自信の問題でもある気もするけどね……。ねぇ祐樹そんなんで食べた気になんの?」
美月の箸が黒葛の前に並ぶゼリーを指した。
身体を溶解できるようになって以降の黒葛は、水分以外は流動的な食べ物以外に対しての食欲がなくなっていた。より正確には、食欲自体もないのだが、何かしら栄養素は摂った方がよかろうということでとりあえず腹に入れられそうなものを選んでいるにすぎない。
もっとも、今の身体ならばそれさえも必要ないのかもしれないが。
「分かんないけど……今はこういうのがなんか、身体に合う気がして。こればっか」
「あそ? 何かおかず欲しかったら言ってよ」
弁当箱を傾けて見せる美月の言葉の割に、おかずのほとんどはそのお腹に収まってしまっていた。
「あ……私も。よかったら食べてね」と言う唯もほぼ食べ終わっていた。
少食だった唯も以前の美月以上の健啖家になってしまっていた。二人とも少々なら食べなくても平気なのだが、一度食べ始めると際限なく食べることができる悪魔の胃袋を手に入れていた。それでいて体型の維持は思うがままである。
「そだ、美月ちゃん」
箸を握りしめ唯が身を乗り出す。
「あの、みさ……小野塚さんや佐海さんには、何て言うの……? 私たちのこと……」
美月のクセでうっかり下の名前で呼びそうになる。一度もちゃんと話したことがないのに。
「それなー」
美月は左手の箸をクルクルと回しながら天井を仰ぐ。
「なんか追求されたら私ごまかせないと思う。実咲はともかく、なぎさは勘付くからそゆの」
ピッと箸を持ち直し、ばふ、とソファーに背を預けた。
「まぁ……そんときはそんときで。あえて特に言わなくてもいいかな」
「そうなの? てっきり、隠し事とか……そういうの嫌なのかなって……」
「別に、全部が全部腹のうちを見せ合ってるわけじゃないし、私ら。それが何つーか、私らの距離感? 実咲もなぎさもそう。適度にラインみたいなのはあるんさ」
唯の目から鱗が落ちた。
あの三人はどんなことであろうと腹を割って話し合える“親友”だと思っていた。
いや親友には違いないのだろうが、自分の思っている親友像とかなり異なる。もっとこう……河川敷で喧嘩をして、悩みも相手への感情も全てを曝け出し、喜びも悲しみも分かち合う、唯一無二の、親友。
なぎさはともかく、美月と実咲はそういう“友情の儀式”を済ませているものだとばかりに思っていた。
「じゃ、小野塚さんたちもそんな深くは追求してこないのかな?」
美月の方を振り返った黒葛も話に加わる。
「多分ね。『あこれ触れない方がいいやつ』みたいなの察したらそれ以上来ないと思うよ」
先日唯の意中の人物が誰であるかをとことん追求尋問した美月が言うと説得力も何もない。
「私はまぁ、それよりどっちかって言うと……」
俯いた美月の顔に影が差したのを唯は見たが、視線を察したのかすぐに影は晴れた。
「ううん、やっぱ何でもないわ」
唯にも、そして二人のやりとりをただ聞いていた黒葛にも美月が言いかけた言葉の先には、いくつかの心当たりがあった。
家族になんて説明すればいいのか。
水泳部での活動はどうするか。
何より自分の身体が結局どうなってしまったのか、この後どうなるのか。
ほとんど何も分からないままなのだ。もちろん、今日こうして人目を忍んで離れの部室に集まっているのは、それを話し合うためでもあるのだが。
同化して恋人関係にもある自分たちにもその胸の内を明けてくれないのか、と唯は寂しくも思う一方、それは自分たちを慮る美月の優しさゆえだと理解しているので胸中複雑だった。
「それに、同化云々を言ってもね……言うだけ無駄だし……」
美月は弁当をしまい、黒葛の隣の椅子を引いた。すでに黒葛も唯も食べ終わっていたようだった。
「同化ね……祐樹くん、何か分かった?」
唯は気難しそうな顔でスマホをタップする黒葛に問う。結局のところ、この現象の核心に一番近いのはこの男なのだ。しかし黒葛は下唇を突き出し首を横に振る。
「ネットで調べても全然……。まず何て調べればいいかも分かんないよね」
黒葛の指の動きは明らかに無為なスクロールのためのものだった。
美月がその画面を覗くと、ブラウザの検索窓には〈溶ける 人間 合体 リアルガチで〉とあった。ネットの扱いやブラウジングに比較的長けていると思われる黒葛もドツボにはまってしまったのか、ワードに混乱が見られる。
「唯、本とかにはないの? こういうのってさ」
「うん……いや、比喩表現でよくあることではあるけど。まんまだもんね。物理的に……リアルガチで」
頭頂部のアホ毛を鍛錬しながら唯もすっかりお手上げだった。
一般的に小説で言えば、愛する人同士の情交場面で“溶け合う”というレトリックが使われていないものを見つける方が難しいだろう。他方、文字通りの意味で溶け合う現象は、ホラー・怪奇小説などで覚えがないことはない。ミトコンドリアが反乱してどうとか。
「唯の言葉がリアルガチで汚染されてる……。人が溶け合うってのもそうだけど、こないだの地震みたいな現象。つまり……えと」
「集団が一瞬で消える、みたいな?」
言い淀んだ美月の言葉を当事者である黒葛が引き取った。
「あ、うん。そういうのって割と最近のトレンドじゃないの? ほら、異世界がどうとかさ」
あまり流行りのアニメやマンガに縁のない美月であっても、普通に生活をしているだけでそれは目耳に入ってくる。ある日突然知らない世界に転生し、その見知らぬ地で新たな生を謳歌するというフォーマットの作品群。いわゆる異世界転生モノだ。
一大ジャンルとしてさまざまな様態に派生をするそれらの作品の中には、主人公ひとりに限らず、集団で転移するパターンも少なからずあるのだろう。
「最近っていうか昔からあるモチーフではあるよね。『浦島太郎』みたいに異界に行って帰ってくるのは、山ほど」
唯は天井を見上げながら指をひょいひょいと折った。あえて言う必要はないまでもいくらでも同系統の物語に心当たりがあるようだった。
「浦島、太郎……」
黒葛は唯が挙げた、日本人であれば誰もが知っているその物語に何かひっかかりを覚える。
浦島太郎が海の底から帰ってきたとき、確か地上の時間は──
「どした?」
神妙な面持ちの黒葛を美月の大きな瞳が覗き込む。
「いや、うん。でも、そうだね。そっちから調べた方がいいのかも。……史実であった集団失踪とか」
「ぱっと思いつくのは『ハーメルンの笛吹き男』だよね、やっぱり」
すぐに反応した唯が挙げたのは、またしてもおとぎ話だった。明らかに、それはフィクションだろうと言いたげな黒葛の疑義を先取って唯が説明する。
「昔話とか童話とかでもね、史実がベースになっているものって全然あったりするんだよ。教訓とか……寓話としてね。もちろん脚色されてたり伝わるうちに全然別物になってたりするけど」
黒葛は小さい頃に図書館で見た、童話のオリジナルの内容が大変恐ろしいものであることを紹介する書籍の一群を思い出した。
原典となる話をそこまで知らないため興味を持てなかったが、今になって思えば確かに大なり小なり脚色されてほとんど別物になっているものはあるのだろう。
昨今の風潮を鑑みるに、例えば浦島太郎の冒頭でカメがいじめられている下りも、版元によっては残酷だということで表現が変わっているということがあるかもしれない。
「ハーメルンの笛だかバイオリンだかは子どもだったよね。集団失踪」
美月のその発言に、黒葛と唯はぎょっとお化けでも見たかのような反応をした。
「え? なになに私何だと思われてんの? 知ってるよさすがに……」
心外だと言わんばかりに美月は口を尖らせる。美月は両親の趣味で幼い頃に世界の童話のアニメーション作品群の薫陶を受けており、『ハーメルンの笛吹き男』もうろ覚えながらその一連のシリーズの中で知ったのだった。
「じゃ、子どもが集団でいなくなったみたいな事が実際にあったとするよね。原因は……なんだろう?」
そう言って首をコテンと横に倒す唯は全身でクエスチョンマークを表現しているようだった。
物語の中で子どもたちは、笛の音色によって集団催眠にかけられ笛吹の男について行ってしまい町からいなくなった。
対面の美月も唯と同じ向きに首を倒してみる。
「んー、例えば……子どもにだけ感染するやばい病気が広まったとか? 免疫がどうとかで」
「そっか。失踪じゃなくても……。あ……」
集団の死亡を連想させてしまったかと唯は口籠る。しかし、配慮されるべき黒葛はすぐに言葉を継いだ。
「そっか、仮にそのパターンだと免疫のない子どもにだけ流行る危ない感染症がありますよ、ありましたよーみたいな警告の物語になるのか」
「まぁ感染症っていう概念自体がなかった時代だろうしね。子どもがバタバタ倒れてったらなんか悪魔が連れ去ってったみたいなイメージになるのかね」
頬杖をついて推量する美月に唯も頷く。
「あくまで仮定だけどね。元はそういう……事件みたいなのが背景にあったりするんだよ。最終的に脚色されたりして形は変わったりするんだけど。時代とかに合わせてね」
「なるほど。うーん、一度図書館行ってみようかな」
腕を組み天井を仰ぐ黒葛はこの町に引っ越して来てから図書館に行ったことがない。さらに困ったときには図書館に行く、という解決方法は自分の中にはなかったはずだが、これはきっと唯の影響なのだろう。
「そうだね。司書さんに聞いているのがいいかも」
「あ……そっか、唯は司書になりたいんだもんね」
「もし私がなれてもね……そのとき司書さんのお仕事、なくなってなきゃいいけど」
と、唯は力なく笑う。
日頃図書館のレファレンスサービスを利用しては、その比肩なきプロフェッショナルの為事に圧倒され、唯はそこに自分の夢を見たのだった。しかし、このわずか数年の間のAI技術の進歩によって、検索やレファレンスというものの概念自体が大きく変わろうとしている。
自分が社会人になるまでもなく、来年の今頃ですらそれらを取り巻く事情がどうなっているか想像もつかない。
ふと唯が「あ、予鈴だ」と顔を上げる。
美月が腕時計を確認すると、まさしくその時間だった。
「唯さ、耳いいよね。私より全然聞こえてんじゃない?」
「そうかな? 特になんかいじった覚えないけど」
身体が変化して以降、この旧校舎までは聞こえてこなかったチャイムが聞こえるようになったのは気付いていたが、それは身体能力の拡張の一環だと思っていた。当然美月にも聞こえていると思ったが、どうもそうではなかったらしい。
言われてみると、登下校中など、これまで気にしたことのないノイズのようなものが聞こえている気がする。
「あの唯ちゃん、明日も……お昼、ここ来ていいのかな」
ゴミをまとめながら黒葛が遠慮がちに訊ねる。
「うん、もちろん~。美月ちゃんは?」
「あー……、私明日の昼はちょっと行くとこあるから。ごめんね」
窓を閉めながら背中で答えた美月に、唯もそれ以上は聞けなかった。
あえて詳細は言うまいとしているのは分かるし、そして何となくどこへ行くかというのも薄らと想像がつく。
「どうでもいいけどさ……」
振り返った美月の表情にまた影が差していた。先ほど言いかけた懸念事項だろうか。
「美月ちゃん……?」
俯いた美月の視線の先は、自らの胸元だった。
元々大きな方ではあったが、さらに肥大化した二つの双丘は今やスイカかメロンだかの形容がふさわしい“双球”だった。
「私この胸だけは実咲たちに説明できる気しないわ」
「……女子も三日会わざれば?」
その主犯がバツが悪そうに肩をすくめ、黒葛もそれに同調する。
「刮目……するよね、それは……」
意識しないという方が難しい。主張をする圧が強い。
一方、満を持して下着のサイズを更新した唯も、大きく変化した真のサイズでの登校は今日が初めてだった。ブラウスが以前よりも張ってはいるものの、美月が自然に整えたこともあって特別違和感は見られない。
「私は……あまりクラスで目立ってなかったから気付かれてないと思うけど。美月ちゃんは……」
「いいよ……唯と祐樹が喜ぶならさ……。今までサラシでも巻いてたことにでもする……」
美月は突っ張ったブラウスを直しながら、胸の上に赤いネクタイを載せた。
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