彼福私鬼 〜あちらが福ならこちらは鬼で〜

日内凛

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第一章

第38話/総括・同化

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  2023年6月3日(土) 7:00 唯自宅



ローテーブルを挟み向き合う唯が不意に顔を上げ、窓の方を見やる。
「帰ってきたみたい」
ノートにペンを走らせていた黒葛も手を止めて窓の外へと耳を澄ませるが、早起きなセミの鳴き声しか聞こえない。
しばらくして階下から玄関ドアの音がして、黒葛はそこでようやく美月の帰還を知る。
そわそわと今にも玄関へと駆け出しそうな様子の唯はイヌか何かのようだ。一方で、階段を上がってくる足音はいかにも重たげだ。どれだけ走りこんで来たのやら。
部屋のドアが開き、黒葛は見るも麗しきハイポニーテールの美月に目を奪われた。
「やー全然ダメ……あれ?」
ランニングから戻った美月は起床しテーブルを囲んでいる二人の姿に驚く。
「美月ちゃんおかえり~」
「ただいま唯。……てっきりさかってるかと思ったら……祐樹、おはよ」
「お、おはよう」
見れば、テーブルの上には一冊のノートが開かれていた。
「なになに朝から勉強?」
「ううん、何か今の状況まとめた方がいいかなって、祐樹くんが」
美月がノートを覗いてみると、散漫ながら箇条書きで自分たちの身に起きているであろうことが書かれてあった。黒葛の文字のようだが、字のクセが若干自分に似ている気がしなくもない。
「ほ~。シュショーなことで」
髪を解き着替える美月は、室内に漂うほのかな香りに寝起きの二人の“運動”の気配を察する。
それは、優しい香りだった。互いを慈しみ、想い合った二人が醸した優しい香りに美月の口元が自然と綻ぶ。
「美月さんは、何かあったの? 全然ダメって」
黒葛の問いかけに美月はいかにも不満そうに答える。
「そー。この身体っていうか私? 全然疲れなくってさ。いくらでも走れるから逆に走った気がしなくって」
「あ……やっぱり美月ちゃんもそうなんだ」
同じく身体能力が大幅に向上している唯もまさしく化け物じみた体力を得ている。
元々運動の苦手な唯にとってそれは思いがけなく手に入れたギフトで、ただただその恩恵をありがたく思うのみだった。ゆえに、一瞬美月の口ぶりが不満のふりをした自慢だと思ってしまったが、そんなしょうもないレトリックは使わない人だ。紛れもなく不満なのだろう。
「多分私本気で走ったら余裕で車よりも速いと思うよ今。部活とか体育どうしようね~」
元々の美月でも住宅街を走る車程度なら抜き去りそうだったので、おそらく幹線道路か下手をすれば高速道路レベルの話かもしれないと唯は思う。そして昨日その美月と交わったことで、自分の運動能力にもさらに凶悪なバフが乗っているのでは、とも。
「適度に抑えるしかないよね……。私は嬉しい限りだけど」
「ふたりとも俺ツエーしそうなんだよね。目立っちゃダメだかんね」
釘を刺され、ギクリとする運動オンチたち。
運動というものにコンプレックスを持っていた二人は突然手に入れた力を奮いたくて仕方がなかった。現に唯は昨日、美月の前でアクロバットなブランコ芸を示威してしまっている。
「でもそうなんだよね。ちゃんと自分たちのこと分かっとかないと……ってことだよね、それ。うん、大事それ」
腕を組み、スタイルのよさもあって尊大そうな美月だが、走りながら何か思うところがあったのかもしれない。
「じゃ、美月ちゃん帰って来たし、ご飯食べてそのあとで続きしよっか」


今、自分たちに何が起きているか。どういう変化が起こったのか。
色々と疑問は尽きないことだらけだが、最初のとっかかりとして、まずはそこにフォーカスを当てることにした。
朝食をとり再び唯の自室に戻った三人は小さなローテーブルを囲むもあまりの狭さに膝同士がぶつかり合ってしまう。一人正座に切り替えた黒葛は普段ゲームをするときには自然とこの座り方になるので苦ではない。ただ何かの拍子にテントが張られてしまわないか、それだけが気がかりだった。

「走ってみてさ、人外になったってことがよーく分かったよ」
当然だった。昨晩体験したセックスという身体を用いた行為は、それが人外の領域の運動量になっていたとしても美月にとって初体験の出来事になる。一方で日課にしているランニングは日々のそれと露骨に比較ができてしまう。
「美月ちゃんは元から……だいぶ人間から外れてたと思うよ」
もっともなことを言う唯に黒葛も同調しようとしたが、昨日まで妖怪じみた見た目をしていた己を棚に上げて言うことではないと口をつぐんだ。
「あと……たぶん祐樹が特にそうかもだけどさ、私ら混ざってんじゃん、いろいろ」
「あ、うん。知識とか……そうね。記憶とかもちょっと」
書きかけのノートを見ながら答える唯は、性にまつわるまぁまぁ下劣な用語を黒葛経由で仕入れてしまっていた。そのほか断片的に記憶のようなものも共有されているようだが、全体的に性的な情報が妙に多くしかも解像度が高いようだった。そしてそれは黒葛から唯だけでなく、唯から美月へも同様に起こっている現象になる。
テーブルの上のノートに一通り目を通した美月は少し考え、唯に問うてみる。
「唯さ。……口笛吹ける?」
「くちぶえ? 私は……」
そう言いながら唯が唇を尖らせてみると、部屋の中を軽やかな音が走った。
「えっ! 吹けた!」
驚きながら指笛までも吹いてみせる唯を見て、今度は黒葛が美月に訊ねる。
「やっぱり……身体で憶えてることは、ってことだよね?」
「たぶんね。祐樹にも唯のクセみたいなの感染うつってたし。だからさ、身体に染みつくくらい好きなこととか得意なこととかさ、コピーされてたりすんじゃない?」
黒葛は喉に手を当ててみる。感触は以前と変わりはない。しかし。
「そっか。僕が今みたいに喋れるようになったのも、きっとその一環だもんね。好きなこと、得意なこと……。唯ちゃんだとやっぱり本とか、その、国語的な分野になるのかな」
美月は頷き、唯の本棚の方を見る。
「んで、私や祐樹にないもの……。唯しか知らない本の内容とか、難しい漢字の読み書きとか?」
唯も本棚を眺めながらうーんと顎に手を当て、そして閃く。
「あ、そうだ、これはどうかな」
自分の通学バッグからハガキサイズ大の手帳を取り出し、ページを繰る。
「えーと……これこれ」
開いたページの中央に折りをつけ、二人に見せた。
見開きでA5サイズあるページには、びっしりと文字が書き込まれてある。文字はそのほとんどが漢字で、時折ひらがなが混じる箇所があるが……歴史的仮名遣いだ。
「なにこれ……? 中国語?」
「美月さん違うよ、これは写経ノートとみた」
唯は吹き出し、ほかのページもちらと見せながら解説をする。
「私、本の中で出てきた好きなフレーズとかね、このノートにメモしてるの。このへんは古文とか漢文とか多いね」
「ほらね中国語じゃん」と得意げにされた黒葛は、なら古文は日本語なんだからスイスイ読んでみせろと言おうとして飲み込んだ。唯は苦笑しながらページのある箇所を示して見せた。
「中国語はそうだけど……漢詩ね。これ、『南樓望なんろうのぼう』っていう、私の好きな漢詩なの。せんっていう、唐の時代の人。日本でいう奈良時代くらいかな」
黒葛は軽く戦慄した。普通、“私の好きな漢詩”なんて引き出しを持っているものなのだろうか。好きなマンガの名言とかじゃなくて?
「祐樹、唯は特別だから気にしなくていいの」
黒葛の心情を察してか美月がフォローする。
「だいたいさ、唐?以前に奈良時代もフツー出てこないって。紀元前よ?」
また別の意味で戦慄をする黒葛。しかし美月の顔は至って真面目だ。
「美月ちゃん……奈良時代は西暦の700年代あたりね……」
「あもー唯もわかってるでしょ! 私文系だめなんだって!」
美月は赤面した顔を隠すように天井を仰いだ。
「文理以前な気もするけど……。とにかくね、じゃあその文系が苦手な美月ちゃん。これ、読める?」
不貞腐れた表情で再びノートに目をやる美月。

  去國三巴遠
  登樓萬里春
  傷心江上客
  不是故郷人

「なになに? こんくらいの漢字は読めるよ。えーと……さるのくに……」
黒葛が吹き出す。猿の国だって。
「祐樹くん! もー! あーだめかぁ……」
ヒッヒッと腹をよじらせている黒葛に構うことなく、美月の視線はノートに書かれた漢字の羅列を何度も往復している。そして。
「国を……去りて、三巴、遠く」
ハッと美月の方に向き直る唯。
「えと……うん、楼に登れば万里春なり」
さすがの黒葛も笑いを引き上げ、美月の口から発せられる言葉に耳を傾ける。
「心を傷ましむ江上の客、是れ故郷の人ならず……であってる?」
万感の思いで手を叩いたのは唯だった。
「すごいすごい! あってる! 美月ちゃんこの詩、知ってたとかは……」
「ないない! 初めて見たもんこれ。でも、読めた……すごい私!」
自分でも信じられないと美月は喜び興奮する。
「レ点とか、書いてないもんね。……授業でもやってないよね、これ」
黒葛が唯に確認する横で美月は嬉しそうに何度も復唱している。
「うん、少なくともうちで使ってる教科書にはないよ。それに……読み下し方が私と全く同じだった」
「え、読み下し方って決まってるもんじゃないの?」
「うん、あくまで便宜上日本語の読みにするってだけだから、本によっても違ったりするんだよ。熟語として読める部分はレ点なかったりとかね」
黒葛は感心するやら、唖然とするやらだった。
何? 国語の授業以外で漢文読むことってある? でもそうだ、美月さんに読めたなら、つまり僕にも読めるってことだ。
「美月さん、僕にもノート見せて」
「よかろう、心を傷ましむ江上の客よ」
すっかり上機嫌になった美月からノートをもらう。確かに、黒葛にも同じように読めるのが分かった。しかしその下にある別の漢詩は……断片的にしか読めない。
「ああ、多分だけど……、読み込みのレベルが違うからなのかな。南樓望の方はそらで言えるくらい好きだから」
別の詩を黒葛の指がぎこちなくなぞるのを見て唯が言った。
「唯すごいねー! 私中国語ってニーハオとハオチーしか知らなかったんだけど!」
「……美月さん、今自分が中国語の読みをしてたと思ってるっぽい……」
「美月ちゃん、国語の授業中何やってるんだらう……」
何とも言うべき言葉がない二人に、それとは逆に溌剌とした美月の顔がぐいと寄る。
「で、これなんて意味なの?」
「読めただけなんだね……。うーん、意味ねぇ……。そこまで共有されてないのは私が迷ってるからかなぁ」
「迷うって?」
黒葛は何を迷うことがあるのか分からなかった。当然意味も含めた上で好きな詩ではないのか。
「んとね、文字通りの意味ならね、こういう内容になるの。
『故郷を去って、遠くまでやってきた。楼に登ってみたら見渡す限り春が広がっている。川のほとりにいる旅人は心を痛めている。この土地を故郷とする人ではないからだ』
みたいなね。旅人が作者自身って解釈もあったり、その辺も本によって違ったりするとこかなぁ」
「ああ、そこが迷ってるってこと?」
「……うーん、それもあるんだけど……」
どこか歯切れの悪い唯に美月も自分なりの所見を述べてみる。
「なんか、悲しい内容なんだね。旅先で絶景見たらすごー!ってなりそうな気もするけど」
「うん……旅っていう感覚も今と全然違うのかもね。片道切符で戻るあてがないかもしれないし、それか赴任で故郷から離れたとか? 私もちょっと作者の境遇までは調べられてないんだけど」
「僕は、分かるかも……」
黒葛に二人の顔が向けられる。
「知らない土地に来て、まわりは知らない人ばかりで……景色見てもね、なんか自分の故郷の風景思い出しちゃいそうかも」
「あ……祐樹は……」
「そっか、そうだよね。えと、こっちに引っ越してきたのは……」
「中2の春。や、ごめん! なんか変な感じにしちゃって。今は全然ね、ほら、唯ちゃんと美月さんともね、出会えたし!」
無理やりいい話にしようとするあたりに、黒葛生来の不器用さがまだ根底にあることが窺える。それでも、自分の思いの内を会話の中で表明できるようになっていることは、黒葛にとって信じられない変化だった。
「私らはここが地元だからね……故郷を離れるかぁ……どんな気持ちになるか考えたことなかったかも。じゃ、唯の思うこの漢詩の意味って?」
頬杖をついた美月の頭が唯にかしぐ。
「うーん、や、なんかやっぱり違うような気がしたから、いいや」
「あそ?」
詩に自分の境遇を重ねた黒葛は唯の解釈が気になったが、美月が深く追求しないようなので遠慮した。自分は、まずこの幼馴染二人の間にある空気感を学習する必要がある。
……そんなこと、僕なんかにできるんだろうか?
これまで他人へ興味を持つことがなかった黒葛自身は気付いていないが、そう思い立ったこと自体がすでに偉大なる第一歩だった。

「それより美月ちゃんからなんかない? ほら理系分野でさ」
唯が小さなこぶしで机の上をトントンと叩く。
己の好きな分野を披露した気恥ずかしさを紛らしたいのか、ご飯を急かす幼児のような仕草に黒葛も美月も心を射抜かれてしまう。
「え……えと、うんそうねー。じゃ、これがいいかな」
気を取り直した美月は紙にサラサラと文章を書いた。ただの一行だった。
「えと、『円周率が3.05よりも大きいことを証明せよ』」
それを読んだ唯は安心する。長ったらしい記号まみれの計算式を書かれたらどうしようかと思っていた。
「これだけ?」
黒葛も同様だった。引っ掛け問題を疑うが、あまりに単純で引っ掛けも何もなさそうだ。
「うん、シンプルで好きなの。これ解いたの小学生のときだけど、中学数学使えたら楽な解法あるし文系の進度的にも大丈夫じゃないかな」
「あ……! ほんとだ! 私これ分かるかも!」
瞬時に閃いたらしい唯がコピー用紙に手を伸ばし、美月そっくりな文字で答案を書いた。

 円周率=3.14
 3.14>3.05
 Q.E.D.

「……は?」
固まった美月の顔は奈良の大仏そのものだった。
いまだ見たことのない美月のその表情に焦る黒葛だが、しかしすぐに正答を閃く。
「分かった。唯ちゃん、円周率ってπを使わないといけないんだよ。しかもほら、なんか無限だから」
そう言うやスラスラと、しかしクドクドとした文字列を書き始める。やはり美月に似た文字だが、漢字のはねとはらいが大仰気味だった。

 円周率=3.14である。
 ここで、円周率をπとする。
 π=3.14が成り立つ。
 π-3.05が0より大きければいいわけである。
 以下にその証明を開始する。
 π=3.14であるから、
 3.14-3.05=0.09
 ここで導き出さされた0.09と0を比較する。
 0.09>0
 この0.09は実はπが持つ小数点以下が無限である性質を引き継いでいる。
 そして小数点以下が無限に広がるこの0.09をXとする。
 小数点以下が無限であるXに0は追いつくことはできない。
 つまりX>0が成り立つ。
 Q.E.D.

早解きをしたルービックキューブさながら得意げにペンを転がす黒葛に、唯が目を輝かせながら手を叩いた。
「祐樹くんすごい! 確かにすごく分かりやすいよ……無限かぁ……」
「いや、唯ちゃんもけっこういい線いってたと思うよ」
「ねぇ、今私何を見せられてんの?」
繰り広げられた想像を絶する証明のような何かと、それで通じ合っている文系二人組に美月は恐怖さえ覚える。
「ふたりとも“Q.E.D.”腹立つな~。中身ないのにかさ増ししてるぶん祐樹のがタチ悪いわ。何だ?『円周率は3.14だから円周率もまた3.14なのです』って言ってるだけだからね。ねえ真面目にやってよ~」
至って真面目な二人は美月の予想外な反応に困惑する。こんなはずでは?
「もー。じゃ私やるからさ、途中でやり方分かったら引き継いで続ける、でいい?」
小さなテーブルから押しのけられる黒葛は釈然しないが一旦体を引く。なにせ今自分たちは究極の理系脳を手に入れているのである。この三人で、円という完全なる図形に秘められし無限の謎を追求するというのもまた一興だろう。
「じゃ、私が小学生のときに解いた方法でやるね」
自分の証明の何がおかしいのかを理解できていない黒葛は不敵に笑う。
「美月さんちょっと舐めすぎでしょそれは……」
「今ので分かったの。もうふたりして円周率自体分かってなさそうだったから。はいじゃ唯小学校で習う円周率の式はー」
「3.141なんとか」
「むかし私教えなかったかな……円周わる直径ね」
「そう、それが必ず無限なんだよね」
得意げに割り込んでくる黒葛が非常にうっとおしい。やたらと擦る“無限”というものには男のロマンとやらをくすぐる何かがあるのかもしれない。
「祐樹もここまでバカだと思わなかった……。だから、円周率を出すとっからやるの。まず円を描くね。で、その円に内接する正多角形……今回は正十角形を描くと」
「なんで?」
突然まあるい円の話に多角形が登場したことに唯が疑義を呈するも、ピシャリと制される。
「続きが分かったときのみ口を開きなさい。で、円を仮に直径4とするじゃん。そしたら……対角線……ピザが10枚……ピザの……三角形じゃん。……相似の……ピザの円周……3.075か。だから円周率も当然3.05より大きい。証明終了」
補助線だらけになった円と、何か表のようなものまで描き添えられて証明は終了した。らしい。最初から最後まで黒葛が口を挟める瞬間は一度たりともなかった。
「ごめん、一切何をして何を言ってるか分かんなかった」
「ピザを掃除する演習をするってとこまではなんとなく」
そうのたまう唯は大真面目だった。どうやら、証明の中に物語性を見出してしまったらしい。
唯は算数の問題文の中に“たかしくんとお兄さん”が出てきたら手が止まってしまう。二人がなぜ、何が面白くて池の周りをバラバラに歩いているのかが気になって集中できないのだ。兄弟は仲が悪いのだろうか。池の周りで何かを探しているのだろうか。たかしくんが池に落ちたら危ない! 兄弟の親は一体何をやっているのだろうか。
「三角関数使ったら秒殺なんだけどね。当時そんなん知らんかったし。中学数学だともっときれいな解法があるよ」
「いや……三角関数とかでも……全然ピンとこないし、僕には無理だと思う」
唯も全く意味が分からないながら黒葛に合わせて首肯する。
「そっかー、この問題好きでさ。暇なとき色々と解法考えたりするから題材としていいかなって思ったけど、じゃあ私これ自分でも身についてないってこと?」
まるでついていけなかった黒葛だが、そんなわけはないだろうと思う。
一連のデモンストレーションにおいて美月のペン先は淀みなく紙の上を踊っていた。ただそれは暗記した解法を再現したというようは、どこかアドリブと思われるような箇所も見受けられた。
それにしてもだ。中学受験をした黒葛も学習塾でさえこのような問題を解いた記憶はなかった。
「小学校の授業でこんなのやったっけな……」
「いやこれ、大学受験問題。T大の入試過去問」
「とっ……」
絶句する黒葛。そういえば確かに“証明”は中学数学の範囲だがまさか。
「ほかの問題、知らない記号ばっかりでよく分からんくって。これならできるかなって。いい問題だよね~」
ペンの尻で頭を掻いて伸びをする美月。
濡鳥ぬれがらすの黒髪を分け入ったそのペン先を羨む黒葛は、何気なく目で追っていたそのペンの挙動に仰天する。
美月に握られたペンの尻がクルっと宙で円を描いた直後、生きた蛇のように指と指の間をすり抜けていく。何が起きたのかと瞬きをした瞬間、ペンは定位置に戻っていた。
視線を同じくしていた唯は特に驚いた様子はなかった。日頃から見慣れているのだろう。
恐ろしく速いペン回し。常人であれば見逃しちゃいそうな一瞬の芸当だった。本当に何なんだろうこの人は。
唖然とする黒葛にペンの尻が向けられる。
「じゃ最後、祐樹」
「いや……もうこの流れで……、僕はふたりみたいに特化したもの何もないからなぁ……」
情けなく思う。特技らしい特技といえば気配の消し方とか、授業で当てられないテクニックとか。そんなのしかない。
「何か趣味的なものとか?」
唯の助け舟に、天を仰ぎ考える。“趣味”と聞かれた時点ですぐ浮かんだものがあったが、逡巡する。漢詩、大学の入試問題ときてこれは、ありだろうか。しかし、ほかに黒葛が人よりも秀でていると自覚できる分野はなかった。
「ガ、ガンバル……ってアニメなんだけど……」
おずおずと黒葛の口から出てきた言葉に唯が反応する。
「ロボットの、ガンバル?」
ペンを回しながら美月も続く。
「あー、人の3倍がんばると赤くなるんでしょ、たしか」

テレビアニメ『機装元気ガンバル』。
主人公であるガンバ・レルと宿敵アキラ・メロウの終わりなき戦いを描いたスペースオペラである。ひょんなことからガンバルと呼ばれる人型巨大ロボットに乗り込んだ主人公が戦争に巻き込まれ、様々な人との出会い、別れを通じて成長していく筋書きだ。
放送当時はあまり人気が出ず打ち切りに近い形で終わるも、緻密な人間描写や舞台設定が徐々に話題を呼び、プラモデルを中心とした玩具展開が大当たりしたことで、その後も現在に至るまで様々なメディアで展開される人気シリーズとなっている。

「弟がプラモ集めてるけどさ、全部同じロボットに見えて分かんないんだよね」
「ちょっと美月さん、ロボットじゃなくてGSね。ガシンGACHINESショターンSHOWTURN
意外にも引かれなかったことで調子に乗った黒葛が劇中での兵器の呼称について厳しく注意する。そしてスマホを取り出しお気に入りの画像を横位置にて表示して見せた。
唯と美月がヒビの入った液晶画面を覗き込むと、そこには歴代と思しきガンバルたちが一同に集合していた。どの機体もおよそ青と白を基調としたボディに赤色の差し色があるトリコリールカラー。そして人間の頭部に相当する部分にはV字型のアンテナが付いている。
「あー、そうこれ。え……見覚えあるし……うそ、区別つく!」
目を見開き驚きの声を上げる美月。
「けど……あー名前が出てこない……気持ち悪いね、この感じ」
叩いたら記憶が蘇るのか、頭をこんこんと小突く美月の横で唯も同調する。
「うん、歴史のテストで答えが分かってるのに人名が出てこない感じだね……」
「なるほど……なら」
黒葛は紙にいくつかガンバルの名前を書き出してみる。
「このイラストの中のガンバルの名前がこれなんだけど……これで紐付いたりしないかな」
名前が書かれたその紙を参照し、唯と美月はそれぞれに驚きながら何度も頷いた。
「おー、はいはい、分かった完全に理解した」
「うんうん、これがあれで……思い出した! っていうのも変だけど……大丈夫!」
「じゃ……これは?」
黒葛がイラスト中の、背中から鳥の羽のようなものが生えているガンバルを指す。
「ハンコツガンバルでしょ」
「OVA版のハンコツじゃない? ほら、劇場版にもなったやつ」
即答した美月に唯が補足する。
「おお、唯ちゃんあってるよ。じゃあこれ」
「ガンバルクロウじゃん」
「足元が石化してるからクロウの『石の上に三年システム装備タイプ』だと思う」
またしても唯が被せ、驚嘆する黒葛。
「ええ……マジか。すごいすごい。じゃこれは?」
「ガンバルテツヤ」
「目の下のクマがひどいから最終話の『テツヤ三徹モード』だと思う」
「唯あんた知ってたでしょ?」
「知らない知らない! 私も何で分かるのか分からないけど……名前見たらGSのバリエーションとか兵装システムまで派生して分かる感じ?」
すっかり専門的な用語まで使用している唯。黒葛はスマホをしまいながらまた天井を仰ぐ。
「うーん、ふたりの間でも差があるのかなぁ……」
「唯と祐樹とで思考回路が似てるんじゃないの? それか興味の方向が似てて親和性があるとかさ」
「そっそうかな……」
唯はちらと黒葛を一瞥し、頬を赤らめる。
黒葛もまんざらでなく嬉しい限りだが、数日前の唯であればその指摘を受けた途端ゲボを吐いていただろうとも思う。
客観的に見て、自分と唯は決して遠くないタイプの人間だと思うが、それ以上に美月が自分たちから大きく離れているという方が正しいかもしれない。美月の血肉となっているはずの数学が自分と唯には理解できなかったのもこの辺りにヒントがあるのだろうか?

ともかく、ということは今の唯にはガンバルというコンテンツが大いに刺さる可能性があるということだ。これはかなり嬉しい誤算だった。このまま唯を沼に沈めようとほかの画像を検索していたところ、美月が呆れたような声を上げる。
「男の子ってロボット好きよなー。メカとかさぁ」
きっと美月の弟たちも散々その手のコンテンツにハマり倒したのだろう。しかし趣味を軽んじられた気がした黒葛は口を尖らせる。
「そういう美月さんは何かアニメとかハマんなかったの、子どもの頃」
「むかし美月ちゃん見てなかったっけ、ほらプリティアとかさ」
「幼稚園のときでしょ。もうほとんど覚えてないし」

プリティア。これも人気アニメシリーズだがこちらは女児をメインターゲットにしたコンテンツだ。
華やかな姿に変身して悪と戦い町の平和を守る主人公の正体は、学校に通うふつうの女の子。そのことがクラスのみんなにバレてはいけないらしい。いわゆる魔法少女ものの系譜になるだろうか。
そういえばアニメに限れば男の子はロボットに乗りがちな一方、女の子は変身しがちな気がするな、と黒葛は思った。それも劇的な変身で。そんなに正体がバレたくないならもっと隠密的な格好でいいのに、と野暮にも程があることを思ってしまう。

「はいはい、とりあえず整理しよっか。唯、まとめれる?」
横道に逸れた軌道を美月が正す。
「えっと、だから漢文が少し読めたでしょ。数学は難しくって、ガンバルはなんか私も美月ちゃんも分かったよね。つまり……?」
天井を仰ぎながら指を折る唯だったが、要領を得ぬまま黒葛にSOSを出す。しかし黒葛も咄嗟にはそれ以上の要点を見出せない。
「み、美月さん……お願いしていいでしょうか」
ふぅとため息をひとつ吐いて美月はペンを取った。


まず、各々のできることについて。
三人のうち黒葛のみ、全身を液状化させることができる。
またその一環で通常の人間であれば即死するような物理的な身体の損傷でも再生することができる。この液状化能力を利用して、他者と融合することができる。

「融合って表現でいいのかな……合体?」
美月が話の途中で二人に意見を求める。
「うーん、ニュアンスなんだけど、融合っていうと双方向で混ざっちゃうイメージだから、たとえば……“同化”が何となく近いかも。他動詞的だし?」
「さっすが唯。祐樹もいい?」
「あっ、うん、そうだと思う。ふたりともありがとう」
黒葛は融合というのはむしろ自分の中で起きていることのように感じた。
精神と身体の融合が自分の液状化だったりしないだろうか?
「じゃ、続けるね。次は私と唯の話」

黒葛と違い、同化後の唯と美月は全身を液状化させることはできない。
しかし限定的ながらある程度自由に肉体を操作することができ、およそ物理法則から逸脱するほどに身体を強化したり、およそ生物本来の生理法則を無視した現象までもがイメージの主導により実現ができてしまう。これらの延長で、体液を介しての他者への同化も黒葛と同様に可能。

「なんか真面目に喋るのがバカバカしいんだけど……」
「僕より完全に理解度高いな……」
「美月ちゃんにしかできない……! がんばって!」
「あそお? うん、がんばる! じゃあ次はその同化の影響かな」

同化したもの同士で、肉体、精神面等で一部混合が起こる。
精神面では嗜好や一部記憶が共有されたり、性格にも変化が起こる場合がある。ただ、性質が均質化するわけではなく、二つの性質のうち、選択的にどちらかの優先度が高くなるようだ。これはメンデルの法則のように機械的に決定されるものではなく、両者の間で無意識レベルの選択を行っている可能性がある。そうでなければ美月はデバフまみれになっているはずである。
嗜好については感情を伴うものについて強く影響される傾向にある。
例えば、同化対象への強い好意があった場合その感情も共有され、同化対象から同化元に好意を抱かせるという非常に危険で凶悪で非人道的な現象が起こる。

「ですよね? おふたかた。何か間違ったこと言ってたら教えてくれませんか?」
「……はい……そうだと、思います……」
美月の視線の先では借りてきた猫が二匹、頭を垂れている。
「で、記憶なんだけど……難しいね」

同化による記憶の共有については、記憶の種類によりその程度が大きく異なり、さらに個人差もみられる。
比較的共有されやすい記憶は、いわゆる“身体で覚えた”、ほとんど無意識レベルまで落とし込め、体系化されているもの。一方、短期記憶レベルの暗記的なものはほとんど共有がなされない。
また記憶が継承されていても引き出し方が分からなければ出力されないので、実際にどの程度の記憶が共有されているかは不明だが、これについても一様ではなく個人差がある模様。
記憶と紐付いた何らかのきっかけがあれば連鎖的に関連する記憶を再生できる場合がある。
例外として、性的な行為に関連するものは記憶の定着度合いにかかわらず継承されやすいようだ。行為の際の情景や、黒葛が自慰をしながら頭に思い描いていた気色の悪い変態的な妄想や、オカズにしていた上級的な性癖のビデオのシーンまで、鮮明な映像として共有されている。

「……ち、ちょっとだけだよ? み、美月ちゃんそこまでは……!」
「……僕今から排水溝に流れてきます」
「ごめんごめん! もう意地悪しないから! いや、でもね、ちょっと重要なことだと思ってて」
唯が首を傾げるが、その横の黒葛は俯いたままだ。
「つまり、私の仮説としては、まずひとつ。同化は性行為を通じて行われるので、その際の記憶がより強くコピーされるのは自然」
黒葛がゆっくりと顔を上げる。
「……筋としてはそうだけど、それはおかしい」
「そう、おかしい。それだと同化前のオナニーの記憶まで強くコピーされてることの説明がつかない」
オカズ対象者にバレてしまっている当事者である黒葛も唯も美月の真面目な調子に合わせ、素直に頷く。
「次に考えたのが、性行為は生物にとって本能的な、原始的な欲求なので、記憶の出し入れが単純な可能性」
「ありそう……だけどじゃあ食事とかもそうなのかな。あんまりピンとこないけど」
唯は各々の記憶にあるであろう食事の風景を思い出そうとするが、すぐには出てこなさそうだった。しかし考えようによっては食事という行為も“同化”といえなくはないだろうか、とも思う。
「そうなんだよねー、あと気になってるのが、私と多分唯もそうだと思うけど、体の一部をいじるやり方も自然とできるようになったんだけど、これは人間には備わってないものだから、本能ともちょっと違うような……」
黒葛は自分が能力を発現できるようになったときのことを思い出す。首をくくって、死のうとして死ねなかったあの夜のこと。
「僕がさ、体を溶かせるようになったのは……実は先週なの。それまでは事故のあとも……検査でも何もなかったみたいだし。でも突然、やり方が分かるようになったというか、直感的に」
そうだ、そして自分の欲望に引っ張られる形で、唯を手にかけてしまったのだ。
でも妙だ。あのとき当然に自分が液状化できると思うのと同じように、当然に唯に溶ければ自分は消えてなくなる、という確信があった。でも自分は消えなかった。
「祐樹くん、大丈夫……?」
額に手を当て俯く黒葛を覗き込んだ唯はその顔にじんわりと汗が染みるのを見た。
「いやなこと思い出させちゃったね……ここまでにしよっか」
「いや……、大丈夫。ごめん……。ほかの説は?」
「ううん、まだ全然材料が足りないし。ただ……前さ、唯に言ったじゃん、本の内容を頭の中に直接インストールする云々みたいな例え話」
「あ、うん……。お昼休みのときだね」
「そう。だけどね、“記憶”ってそういう、なんかパソコンのデータみたいなものとはちょっと……違ったりするものなのかもね」
美月のその言葉を最後に三者三様に思いを巡らせていたところで唯の膝の上でスマホが震えた。
「あっ、みんな帰ってきちゃう……!」
スマホをスワイプする唯が慌てふためく。
「じゃ、ここでいったん解散だね。そういえばおうちの人どこに泊まってもらってたの?」
「夢の国パーク! みんな死ぬほどパレード見たくなるように暗示みたいなことしちゃって……」
慌てているからか、さらりとえげつないことを言う唯。
「ぼ、僕も、唯ちゃんに夢の国へいざなわれたい……」
「祐樹ちょっとほんと大丈夫? 熱あるんじゃない?」
うつろな表情のままふらりと立ち上がった黒葛の手を美月が取る。
「美月ちゃん、祐樹くん送っていってくれる? 私片付けしたりするから」
「うん、ごめんね。すぐ戻るから。ほら祐樹行くよ」
美月は持ち前のテキパキとした動作で二人分の荷物をまとめ、そのまま黒葛を部屋から引っ張り出した。
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