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第一章

第36話/穏やかな寝顔の上で

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  2023年6月2日(金) 23:45 唯自室


ナイトライトが照らす、薄暗いオレンジ色の光の中で足を忍ばせる黒葛と美月はサンタクロースになった気分だった。

「唯は……?」
「うん、ちゃんと寝てる……」
まさに爆睡というにふさわしい弛緩し切った表情はユーモラスですらある。
「僕、一階のソファーで寝るから、美月さん唯ちゃんと一緒にベッドで寝てよ」
「やだ、三人で寝よ」
「狭いって。二人でもまぁまぁきついよ?」
「私と祐樹が横向きで寝返りうたなければいけるよ」
無茶なことを言うもんだ。翌朝身体がバキバキになるか最悪床ずれになってしまう。
「三人とも普通じゃないから寝返りなくても平気でしょ。それに私がふたりと寝たいの」
美月にそうまで言われて断れる胆力を備えた人がいるというのだろうか?

「さすがに狭いねぇ」
ベッドに上がった美月は壁に背に、肘枕をつく。
「狭いっていうか僕ほぼ落ちてるんだけど」
ベッドの中央で仰向けで眠る唯を挟んで美月の反対側の黒葛はほとんど転落防止の柵と化していた。
二人は間で小さく寝息を立てるお姫さまを見つめる。
「唯、かわいいね……」
「うん、かわいい……」
口を少し開け、時折鼻をすするような仕草をするくらいで、夢さえ見ないほどに深く眠っているように見える。
「昨日今日と、唯、あんまり寝てなかったのかな。いくら何でも……なんか酔っ払いみたいだったし」
「それね……」
黒葛も気になっていたことだった。
黒葛に襲われ人間でなくなったあとの唯は終始、軽い興奮または陶酔状態にあり、およそ本来の唯からは考えられないような手段で美月を手籠めにし、行為に及んだ。
美月と交わったあと、落ち着いた様子になったのは美月の強い理性の影響なのか、それとも悲願が達成されたから満足したのか。

ただ、それは自分についても全く同じだった。
元々、欲望に突き動かされるままに唯を襲ったのがこの一連のおかしな話の始まりだったからだ。そして、唯を襲ったあとは憑き物が落ちたようにいくらか冷静になったとは思う。

なら、美月は平気なのだろうか?
セックスのときはさすがに欲情をたぎらせるが、平常時においておかしな点は見られない。それに、美月はもちろん唯の変化さえも自分の劇的な変貌ぶりに比べると些細なものである。
黒葛はあまり深く考えないことにした。

視線を美月の方に移すと、つい胸元へと目が吸い込まれてしまう。
肘枕をついた姿勢のせいもあり、グレーのブラに包まれながらも胸元からこぼれ落ちそうな胸が己の存在を主張し……端的に、視覚的にやかましい。
「ふふ、地味で全然色気ないでしょ」
「いやっ、寝るときも、その……ブラジャーつけるんだなって……」
「大きいとねー、色々と大変なんだなー。これは夜用のね。サイズが合わないから今だけ胸のサイズを戻してるってわけよ」
「そ、そうなんだ……」
確かにお風呂場で見たときよりもサイズが小さくなってる気がするけれど、元からこんなに大きかったとは。おっぱい星人を自認していながら、同じクラスにこんな逸材がいたことに気付かなかったとはモグリと言われても仕方がないだろう。
「唯も後のこと考えないでこんな胸大きくしちゃって……」
唯は今は胸を“擬態”させず、変化させたままの状態にしているようだった。

当然ながら黒葛にとって、同年代の女子の日常に触れることはまさに未知との遭遇だった。
お風呂場で展開された謎のアメニティの数々。しかもあれで簡易時短モードらしい。
入浴後にはスキンケアといって何種類もの個包装の袋を開けては塗り開けては塗り。これでもお出かけ用の適当モードらしい。てっきりそれがメイクと呼ばれるものだと思っていたが、美月にちゃんちゃらおかしいと鼻で笑われる始末。
ボスの最終形態だと思ったら実はまだ第一形態でした、みたいな。それが終わると髪を乾かすのに時間がかかって……。
そしてなんだ、下着が上と下とあって、サイズがかなり厳密で、しかもめちゃ高い。さらに夜用? スポーツ用?
極めつけは男の自分には想像を絶する、周期の、あれ。
女の子ってあまりにも大変すぎやしないか。

「祐樹はさ、どんな下着が好き?」
「えっ? ええっ? 下着? うん……、夏場はトランクスが」
唐突な質問を受け、あくまで自分の下着の話のこととして日和ってしまう。
「とぼけんじゃないの、私と唯がどんな色の下着来てたら興奮する? まず唯は? はい」
「……黒」
「……だと思ったけどやっぱり祐樹って変態だよね」
なら聞かなくていいじゃないかと思う。当然、知ってるんだろう。自分が夜な夜な唯をオカズにしていた妄想劇場が美月にも共有されているに違いない。なまじパソコンのハードディスクの中身が流出するよりよほどクリティカルな事態だ。
「じゃ私は?」
「……美月さんは……ベージュ以外ならなんでも」
「えー、なんかないの? こんな色が似合いそーとか、こんなん着てほしいとかよー」
「……黒」
「同じじゃん」
「いや、ほんと……何でも似合っちゃいそうなんだけど……、赤とかピンクとか派手なやつよりは、シックな方が、その……美月さん自身のきれいさが際立つというか……何というか」
「ほほー」
まんざらでもなさそうな様子に少しホッとするが、調子に乗って余計なことまで言ってしまう。
「いや、赤とかでも全然色に埋もれないヤバさもあってもちろんそっちも全然アリというか見たいというかでも白も逆にかっこよくて」
「祐樹うるさい唯が起きるでしょ」
「……」
「うそうそ、ごめんね。ありがとね、明日唯と下着買いに行くから参考にさせてもらいたくて」
黒葛はランジェリー姿の唯と美月が試着室の中で濃密なまぐわいをしている様子を思い浮かべた。
「なんか変な妄想してない?」
「いや、別に……」
「じゃあ電気消すね」

ピ、という電子音と共にナイトライトが消え、天井から暗闇が降りた。
この小さな部屋の闇の中に、生き物三匹が固まっている。
自分も二人のように暗視ができるなら、そのきれいでかわいい生き物二匹を眺めながら眠りに着きたいものだ、と黒葛は思う。
唯の小さな寝息の合間に時折小さないびきが上がる。いびきですらかわいい。

「ねぇ、祐樹……」
美月の囁きが聞こえる。
「……唯ちゃんが起きちゃうんじゃないの?」
「悪かったって……」
「うそうそ。なぁに? 美月さん」
黒葛と美月はベッドのヘッドボード側に寄り、唯の刺激にならないよう声をひそめた。

「あのね……、私、最初ね、よく分からないまま唯と祐樹のこと好きにさせられて……」
思いのほか、シリアスな内容のようだった。しかし、それは黒葛の喉に小骨として刺さっていることにも通じる予感がある。
「……うん」
「まぁでも、唯はさ、恋愛感情とか全然なかったんだけど、それでもね、ほらずっと長いこといたから、家族みたいな付き合いだったの」
「うん……」
「だからね、まぁ……無理矢理だったけど、頭おかしくされて好きにさせられてもね、受け入れられることができたのかもしれなくて」
「……うん」
「でもね、祐樹は……今まで全然関わりないしよく知らないし……ね、ほら」
何となく、美月の言葉の先の想像がつく。
それでもこうして美月が話してくれるのは、大切な理由があるのだと今の黒葛なら理解ができるし、受け入れられるだろうと思う。
「うん、わかるよ、大丈夫よ、言葉全然選ばなくて平気」
「うん……。だからね、全然知らない人好きにさせられて、正直おかしくなりそうだったの。あのあとね、唯と一緒にいたから気持ちを誤魔化せたりしてたんだけど、もしひとりになって考え込んでたらね、私ね……結局、壊れてたと思う」
声が震えるのが分かる。
「……うん」
当たり前だと思った。
今日だけで美月は自分や唯に向けて何度「大丈夫」と言ったか知れない。それは美月自身に向けた言葉でもあったのだろう。

「だから祐樹のことね、好きだけどこれってね、借り物の、全く偽物の感情なんだって」
あふれてくる涙で美月の声が詰まる。
「美月さん……無理しないで」
「ううん、言いたいの。ごめんね」
衣擦れの気配から、美月が涙を拭っているのが分かる。
「……大丈夫。……でね、私って今まで恋とかしたことなくてね。もしね、元の私のままだったら多分……てか絶対祐樹を好きになることなかったと思う」
「うん、そりゃ、うん、そうそう。ほんと」
もっともだ。わざとおどけた調子で言ってみるが、自虐でも何でもなくまさしく正論だと自分でも思う。
「えへへ……ごめんね」
鼻をすすりながら笑う美月。
「それはね、頭では分かってたの。髪切ってるときも、最初お風呂場に入ったときもね。すごい私この人のこと大好きみたいなんだけど、でもだったら今の私って本当の私なのかって」
「美月さん……」
薄暗いながらも美月が袖で涙を拭う様子がなんとなく、見てとれた。
黒葛はティッシュを抜き取って美月によこす。
「でもね、さっきね、祐樹とたくさんエッチして色々お話しして、そしたらね、だんだん……自分なりにね、祐樹のことをちゃんとね、好きになれるかなって気がしたの」
鼻をかむ音を挟まれた。
「ううん、まだね、ほんとは偽物の好きの気持ちの方が多いかもしれないんだけど、でも祐樹のこと、ちゃんと偽物じゃなくて、私自身の好きにしていけると思ったの。だからね」
美月がひと呼吸おいて、言葉を続ける。
「私は祐樹のこと、好きだけど……ちゃんといつか、私の言葉で胸を張ってね、祐樹のこと好きってもう一度言えるようになるから」
黒葛の手に柔らかな手が添えられた。
「きっかけは最悪だったけど、きっと、もっと、ちゃんと好きになると思う。だから……これからよろしくね」

黒葛は唯からしきりにプレゼンを受けた美月という人物の“信じられなさ”の一端をまたひとつ垣間見た気がした。
本当に自分と同い年の人間なのだろうか。黒葛はつい甘えて懺悔をしそうになってしまう。
自分の衝動がきっかけで、二人の人間に取り返しのつかないことをしてしまった。
人知を超えた現象で家族を失ったこと、またその後の精神状況等を鑑みても酌量ができるものではない。
二人ともに理屈や原因は不明ながら自分を好きでいてくれていて、自分も二人のことを大好きになっている。しかしそれは結果論であって、二人とも人格が壊れてしまう可能性だってあった。今はよくてもこれから先どのような影響が出るか全く分からない。
これら人知の及ばぬ現象や、都合のいい結果だけを根拠に、自分が負うべき罪というものを完全には正視できないでいた。しかし、美月は黒葛の罪を指摘した上で、それさえも飲み込んだ上で共に歩いてくれると言ったのだ。

「美月さん……あの、言えることじゃないんだけど……ありがとう。あのね、僕も僕で思ってることがあってね」
「うるさい元凶」
「ごっごめんなさい……」
「うそ冗談だよ。冗談じゃないけど……。私もちょっとは祐樹が思ってることもなんとなく想像つくかも。ただ、それとは別で……」
「……別で?」
「うん、ただね、ちょっと引っかかることがあってね……」
「引っかかるって?」
美月は少し逡巡したが睡眠と美容を優先することにした。
「ううん、なんでもない。また明日ね」
「うん。おやすみ、美月さん」
「おやすみ、祐樹」
目を閉じた黒葛の口元を、柔らかく艶やかな感触が撫でた。
暗視がきく美月による、黒葛の口元を的確に狙ったキスだった。

「みっ……!」
先刻の風呂場でのひとときを思い出した黒葛はベッドから転げ落ちるようにして這い出し、サイドテーブルに足をぶつけながら部屋のドアへと向かう。

「あれ、どしたの?」
「んん……っ! ちょ、ちょっと、トイレ……!」
「もー、先寝ちゃうからね」
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