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第一章

第33話/美容師美月

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  2023年6月2日(金) 22:00 唯自宅


浴室内で黒葛は右に左に忙しなく動く美月に背を向け、じっと石のように座っていた。

パンツ一丁の黒葛が腰を掛けるプラスチックのスツールの足周りには細かい毛が散乱し、なお天から降り注ぐ髪の毛がタイル床の白色を埋めていく。
頭の上で軽快に走るハサミの音とバスタブの中で反響するお湯張りの水音が、目をきつく閉じている黒葛の耳にはよく聞こえていた。

「そんなビビらなくても大丈夫だって」
「いや……」
黒葛が薄く目を開いてみると、目の前の鏡にはほとんど裸同然である自分と、その後ろで美少女がテキパキと手慣れた手つきで髪を刈っている姿が映っている。
なんだこれ。なんだこの状況は。
すぐに視線を下に落とし、鏡から目を逸らした。

姿勢が改善されたとはいえ、我ながら見すぼらしいヒョロガリの身体つきだ。
太ってもいないのに積年の猫背のせいで腹部には二段腹のような横すじが2、3本入っている。頭だって臭くないだろうか。十円ハゲがあったりして。
美月さんに嫌われたらどうしよう。

恥ずかしいやら情けないやら、申し訳ないやらで目が開けていられない。
それに、何よりもこれまで隠していた自分の顔を正視することが黒葛にとって耐えられるものではなかった。

パチンと乾いた音を立ててハサミが閉じ、続いて頭部全体がはたかれ毛が払われる。
「お客さんどうですかねぇ」
ちゃんと鏡を見ろという遠回しな表現だった。
黒葛が意を決して向き合うと、あれ? 意外となるほどどうしてなかなか?
自分で切ったものから全体的にもう少し短くなっており、全体のシルエットのバランスなのか顔のラインまで整って見える。

「う……ん、ありがとう……。美月さんって何でもできるんだね」
「んー?」
仕上げに入ったのか、先ほどよりもデリケートなハサミの動きだった。
櫛を頭部に沿わせ、毛先がはみ出たところを狙って刈り取っている。
川上から流れてくる魚を水鳥がその長い嘴でついばむような、正確な瞬間芸。
「弟の髪たまに切ったりしてたからねー」
「美月さん弟いるんだ?」
シャカッというハサミの音が聞こえる度に黒い毛束が宙に放たれる。
自分なりにかなり量を減らしたつもりだったが、まだまだ甘かったようだ。
「いるよ、二人も。私の記憶?みたいなのってないの?」
「んー……」
ひとりっ子の黒葛だが、そう言われれば自分に兄弟──弟なり妹なりがいてもおかしくないような気がしてくる。少なくとも兄や姉ではない。

「じゃさ、美月さんは僕の両親の顔とか分かる?」
「ん、確かに……あ、でも多分見たら、分かるかも」
今は首を縦に振れないが黒葛も同じ意見だった。
「なんだろうね、記憶は……共有してるけど、元の記憶の持ち主じゃないとどこにあるか分からないから取り出せない、とかそんな感じ?」
喋りながらもハサミの動きに一切の澱みがない。

美月の言わんとすることは、記憶というデータはハードディスクの領域にコピーはされているものの、そこに至るまでのアドレスなりパスが分からなければ辿れないということだ。
逆にいきなり答え──例えば美月の家族の顔を直接見ることによって、記憶領域の中にコピーされたデータが刺激され、その記憶を引き出す回路であるパスが露わになる。加えて、そこから芋蔓式に美月の家族にまつわる様々なこともひょっとしたら“思い出す”ことができるのかもしれない。
そうすると、記憶は持ちながら引き出し方が分からない今の状態というのは、いわゆる健忘に近いというのは黒葛にも何となく理解ができる。
が、それだけではないような気もする。
そもそも記憶というものがハードディスクに保存される、ビットだかバイトだかのある一定のサイズをもったデータみたいなものであるという自明の前提は果たして正なのだろうか?


「よし、髪はこんなもんで……眉、整えたげよう。こっち向いて」
「えっ、ま、マユゲェ?」
さすがに想定外だった。眉毛は何か手を加えるものだという発想もなかった。
黒葛はおずおずとスツールの上のくるりと尻を滑らせてすぐにまた目をきつく閉じた。
が、その刹那、視界に入れてしまったプルップルの唇が網膜に焼き付いてしまった。
「ちょい、眉間に皺やばいって。力抜いて」
「は、はぃ」
ふわ、と顔にかかる熱帯の蒸気は、バスタブから漂って来たものだ。そうに違いない。

黒葛は母なる地球と一体化し、宇宙の深淵に意識を飛ばすイメージで心と身体の全てを虚無にしようと努力をする。
少なくとも、己の股間に潜むエイリアンに今の状況がバレてはいけない。
もしバレたらチェストバスターならぬパンツバスターしてしまう。

ジリジリという音が目の上から聞こえてくる。
どこから出したのかきっとカミソリだろうか。
女子って、カミソリなんて持ってるものなの?
次いで指を櫛にしてハサミが当てられている気配を感じる。
怖い。美月の行為が、ではなくて、眉が消えてあの昔のマンガに出てくる緑色のなんとか大魔王みたいになってたらどうしよう。

給湯器から軽やかなメロディが流れたのと同時に後頭部がポンと叩かれた。
「ほい! こんなもんでいいんじゃない? ほら仕上がり見てみ」
再び鏡の方を向いた黒葛は何かを言おうとしてまるで言葉が出てこなかった。
これが……私? なんてうっとり手を頬に添えてみたくなる。
印象が、劇的に変わっている。
自分の細くて目つきの悪い吊り目がコンプレックスだったが、シュッとした眉とのバランスでなんか、いい感じに見える。
眉、やばくない? 
目の上に謎に存在するこの毛は、確かに人類という種にとって重要なコミュニケーションディスプレイなのだ。

「自分でやってくと感覚が麻痺ってさ、いつの間にかヤンキーみたいになるからちゃんと今のこの感じ、覚えといてね」
「う、うん」
「うわ毛すっご」
足をはたく美月の足裏にびっしりと黒い毛が生えているようだった。もうどこを踏んでも足裏に毛が付いてしまうほどに黒葛の細胞どもが一面に巻き散らされている。バスタブに蓋をしていなければどうなっていたことか。
「切った毛をドロドロにしちゃうとかできないの?」
「うん……それができれば楽なんだけど……」
もちろん一度試してはみたが自分の体を離れたもののうち、毛のような微細なものについてはコントロールが効かないようだった。

「唯寝ちゃってるかもだし掃除機は明日かけるとして……一旦シャワーで集めとこ。で、祐樹も頭流しといて」
服についた飛散した髪をはたき落とし、バスルームを後にする美月。
いちいち動きが素早く、3つ4つの動作をひとつのアクションにまとめる様は、手慣れたバイトリーダーか何かだった。
そしてポツンと取り残された黒葛。

ん? 頭を流して風呂場を掃除して、このまま風呂に入ればいいんだよね?
なら次に入る美月さんを待たせないように急がないと。
慌ててシャワーヘッドを掴み、散乱した自分の髪をまとめにかかると、大きな音を立ててバスルームのトビラが開く。
「あ、先に入っててね。着替えと、ちょっと唯見てからすぐに行くから」
何か返事をする隙もなくまた勢いよくトビラが閉まる。

ふと鏡を見ると、平然とした表情の自分の顔と、それとは裏腹についにバスターされんばかりのパンツが映っていた。
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