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第一章
第31話/美月の部屋と本棚
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2023年6月2日(金) 21:00 美月の部屋
ドアを開けるなり、唯は深呼吸し部屋の空気を肺に取り込んだ。
「懐かしいというか……落ち着くというか、安心するね」
何年ぶりかの美月の部屋であり、同時に今や今朝ぶりの我が城でもある。
きちんと整理された室内には隅の隅にまで神経が行き届いている。
床を覆う、明るいグレーのカーペット。白い壁にはポスターどころか写真の一枚さえも貼られていない。
部屋主の明晰な思考そのままに、無駄がなくシンプルだ。
とはいえ、記憶にある美月の部屋とはずいぶん様変わりしているようだった。
まず、ベッドが大きくなっている。昔は子どもサイズだったものが、今はセミダブルサイズはあるであろうロングベッドに。
かつて唯が憧れていたハイテクな学習机は、品の良いワーキングデスクに置き換わっており、ラップトップPCが一台閉じて置いてあるのみで机の上には埃のひとつもなさそうだった。
教材類はその隣の本棚にあるのだろうが、一面にカーテンが掛けられており、その奥に並んでいるであろう本たちの気配は窺えない。
大きなベッドを擁しながらも決して狭くはなく、美月の長身を動かせるだけのスペースは十二分に確保されている。
昔はもっとおもちゃの類でごちゃごちゃしていた気もするが、すっかり洗練されたモデルハウスの一室のようだった。
「ほんと……整理がうまいよね。美月ちゃん」
「つまんない部屋でしょ。我ながら全然かわいくない」
壁際にて身を寄せ合っている丸められたヨガマット、ダンベル、腹筋ローラーに目をやり、小さく笑う。
枕元にぬいぐるみのひとつでも置いてやろうかしらん、と思うのは唯と交わった影響だろうか。
「適当にしててね。すぐ準備するから」
パタパタと部屋奥にある白いドレッサーへ向かう美月。
鏡の前には大小さまざま色とりどりの瓶が並んでおり、ちょっとした未来都市のミニチュアのようだ。
引き出しを開け閉めしながら慌ただしくしている美月に唯も寄る。
「ズボラでしょ。ここだけつい出しっぱになっちゃうんだよね」
「すご……こんなにたくさん使うの?」
唯の部屋にはそもそもドレッサーというものがない。
コスメ類──といってもほとんどスキンケア用品だが、それを手頃なボックスにまとめて、ローテーブルの下に置いている。
「部活やってるとねー、面倒なんよねー色々」
そう言えば一昨日、水泳部七つ道具がどうとか言っていたっけ。
日光に加え、塩素が溶け込んだ水という、およそ美容によろしくない環境にありながら、あの柳髪と玉のような肌を維持しているのだから、その努力は唯の想像を絶するものがあるのだろう。しかし、
「もう……多分やらなくても大丈夫かも、だけど……」
唯はつまんだ髪を捻りながら少しバツが悪そうに呟いた。
美容に気を遣ってこなかった唯であっても人の身でなくなってからは肌も髪も思いのままだ。
事実、唯はこの数日はスキンケアはおろかリップクリームさえ使用していない。
「んー……そうかもだけど……何か今日もがんばるぞー!って儀式?」
「ああ、なんか……やっぱスポーツマンだねぇ。なんだっけ、あの」
腰を屈め、両手を組んで忍術のような構えをとる唯を見て美月がクスっと笑う。
本家であるラグビー選手のそれとは微妙に違っており、指の角度を一歩間違えればただの浣腸ポーズだった。
「ルーティンね。私は泳ぐときもそういうのないけどさ別に」
使い捨てと思われる小さなプラケースの中に瓶の中身を次々移し、小分けにしていく。こんな便利なものがあったなんて、と唯は目を丸くする。
「これでよし、と」
あっという間にまとめ上げられたお泊まりコスメセットがバッグの中に放り込まれた。
「んで、次……まだあればいいけど」
流れるように美月がウォークインクローゼットを開く。
さぞかしオシャレな服がひしめいていると思った唯はその中身を見て驚いた。
薄手の夏服系のものがいくつかハンガーにかかっているだけだった。
そういえば日付的には昨日が衣替えの日になる。冬物はすでにクリーニングに出してどこか別のところにしまっているのだろう。
本当に、しっかりしている。
もしこれがマンガとかであればこういう人はせめてズボラだったり料理が下手だったりしそうだが、整理もできて料理も上手いなんて何なんだろう一体。国語の成績が壊滅的であるという一点のみが妙にフィクションくささがある。
「お、あったあったこの辺なら」
クローゼットの端に立てかけられている茶色の紙袋を引っ張り出し、中を漁る。
覗き込もうとした唯の視線が、美月の背中に遮られた。
それは背中に目でも付いているかのような動きだった。
「唯、これ……あのキモいかもだけど」
伏目がちな美月の手に、水色とピンク色のブラジャーが握られている。
「これ、美月ちゃんの?」
苦そうなものを飲み込むような頷きのあと、美月らしからぬダラダラとした弁明が続いた。
「私の、中学くらいのときの……なんだけど。全然ね、半年も使ってなくって。サイズ合わなくなったやつ、だからまとめてそろそろ処分しようと思ってたんだけど……」
唯の表情がパッと色めく。
「えええっ! いいの?」
「いやじゃなければ……だけど。唯の今のサイズだと、ちゃんとしといた方がいいかなって」
「いやじゃない全然いやじゃない! そか、私……そういうの全然考えてなかった」
唯は無計画に身体を操作してしまったため、それによって何が起こるかまで全く想像が及んでいなかった。
いや、それより美月ちゃんのお下がりを使っていいなんて? それなんてご褒美?
目をキラキラさせている唯の様子に少し安堵した美月は頭を掻きながら提案してみる。
「ほんでさ、明日とか……買いに行かない? 下着」
「えっ……」
それって。
「私も……買わなきゃだし。まぁ、その、デ、デート?」
「い……いく! 行きたい!」
お古の下着を握り締めて目を輝かせている唯を見て美月も心が弾みだす。
もちろん、このお古がそのまま使えるとは思えなかった。
まだゴムもワイヤーも健在だが、体格的にアンダーのサイズが合わない可能性が高い。
唯がどう思っているか分からないが、きちんとしたサイズのものを手にいれるまでの、つまり間に合わせのつもりだった。
唯も美月も、今は手持ちの下着に合わせて胸の大きさを元のサイズに“擬態”させている。
美月は元々Gだったが、唯に大きくされた今、どうなっていることか恐ろしくもある。
「私サイズあるかな……」
悩ましげな言葉とは裏腹にその口元は綻んでしまう。
できれば、唯とおそろいの下着を買いたいと思った。下着は結構な出費なのであまり積極的に買いたいものではなかったが、どんなものを選ぼうか楽しみになってきた。
下着は一に着け心地、二に透けにくいもの、三にコスパを基準に消極的選択で選んでいたが、きっとこれまでとは違う視点で買い物が楽しめるだろう。
自分だけじゃなく、それを見せて楽しませたいと思う人がいるのだから。
「お着替えも持ったし……ん?」
部屋を出ようとした美月は、壁の方を向いたまま動こうとしない唯に気付く。
「唯、なんか? どしたの?」
「美月ちゃん、その、本棚見ちゃだめ?」
唯はカーテンの下ろされている本棚を指差した。
「へ? いいよ。何も面白くないと思うけど」
美月も本棚に寄り、脇に垂れている紐を引っ張りカーテンを上げる。
「わぁ……」
自分の本棚とは全く異なる“質感”に唯は声を漏らす。
中段あたりの“ゴールデンスペース”には教材類や問題集が固められ、その下の段は雑誌の段になっている。
サイエンス系のものから、美容、ファッション、スポーツ系と幅広い。
上の方の段には使い古された赤本がいくつかある他、四六版サイズの理数系の図書が並ぶ。
最上段は文庫と新書のスペースだが、比較的小ぶりな問題集も見られた。
「ね、おもんないでしょ~」
苦笑する美月。やはり、本棚さえも我ながら華がなく、かわいくない。
唯だったら、教材と書籍類とを一緒くたにすることはしなさそうだな、と思った。
「ううん……私と……全然世界が違うんだね、やっぱり」
本棚の前でしゃがむ唯。一番下段は図鑑類だった。
「あっ、このへん懐かしい」
少し前に爆発的に流行った大人向けのビジュアル図鑑とともに、見覚えのある子ども向けの図鑑がいくつかある。どれも年季を感じさせるが、中でも特に恐竜の図鑑が突き抜けて使用感があった。
唯は子どもの頃、これを二人で一緒に読んでいたのを思い出した。
開いたページの中からそれぞれ恐竜を一匹選んで、どっちが強いか勝負するという、謎の遊び。大抵、美月の謎の理屈で言いくるめられて唯が負けるだけの。
「恐竜、好きだったもんね、美月ちゃん」
「今もバチバチに好きだよ。ロマンしかなくない?」
そういえば美月が通学バッグに付けている変なキャラクターのぬいぐるみも恐竜がモチーフかと思われた。美月がチャットアプリのアイコンにもしている、あの赤いトカゲのような何か。
「あと小説とかマンガは一回全部弟にあげちゃったからね。読みたくなったら弟の部屋行くし」
唯は立ち上がりながらざっと本棚に並ぶ背表紙の上に目を滑らせてみる。
ほとんど、何が書かれてあるかまるで分からなかった。おそらく数学だか物理だかその手の内容だろうか。その中で上段の文庫本に、自分の本棚にもある本を見つけた。
「おお……唯一の共通点。これ私も好きー」
科学者でありながら文学への造詣も深く、幾多の名随筆を残した寺田寅彦の作品集だった。
「それパパのだけど借りパクしちゃってるわ。エッセイっていうの? そういうの。何か読みやすくていいよね」
寺田寅彦は明治生まれの作家になるので、より最先端の科学事情に興味があると思っていた美月が好きだと言うのは何だか意外に思えた。氏の随筆は日常におけるありふれた現象に触れているものが多く、幼い頃から五感をフルに使い世界と戯れていた美月には何か琴線に触れるものがあったのだろうか。ありとあらゆる世界のありようを情感豊かな筆致で表現する文体は唯にとっても親しみが持てるものだった。
「私はサイエンス系はさっぱりだけど、この人の文章はすごく好きだよ」
「へぇ……。だったら岡潔とか好きかもね。こっちは完全に数学だけど。なんか、唯に本薦めるの畏れ多いよね」
苦い笑みを浮かべる美月に、唯がブンブンと首を横に振る。
「そんなことないよ! 自分だと辿りつかないと思うから……。うれしい……ありがとうね」
そう言いながらメモをする唯のスマホ画面を盗み見る美月。
『おかきよし』だって。かわいい。
「私、夏目漱石がすごい好きなんだけど、寺田寅彦は弟子筋なんだよね。弟子というか生徒というか」
美月は驚く。夏目漱石って、昔のお札の人で、教科書にも何度か出てきたような。
「えっ、意外と唯それベタな感じじゃないの? 夏目漱石って」
「いやほんとね、奥深くって~。漢詩とかもうすごいからね……。あと講演を起こしたやつとか大好きなのあるんだけど、じゃあ私から今度それお薦めするね」
唯の仕草から、色々と語りたいのを我慢しているのが分かる。
本当に、唯は本が好きなんだ。
好きな人が好きなものを語るを見ると、どうやら心にくるものがあるらしい。
悲しくもないのに、ただただ目頭が熱くなる気がした。
「私に読めるかな……。でも唯がオススメしてくれるなら読みたいな」
美月は美月で、全く次元の違う読書空間にいると思っていた唯と接点があったのが嬉しかった。
これを機に、唯の“好き”を自分の“好き”にできたらいいな、と思う。
ああ、なんかすごく恋人っぽいかも。
ニヤニヤする美月だったが、ふと唯が片肘を頬に何か考えている様子を見る。
「ん? どしたの?」
「あ、ああごめんね、なんでもないんだけど……」
頬から手を離し美月に笑って見せる唯だったが、すぐにまた表情に影が差した。
「寺田寅彦で思い出したんだけど……。ほら、“天災は忘れた頃にやってくる”っていうのもこの人の言葉なんだよね」
ハッとする美月も思わず唇に手を当てる。
天災。
「災害は……でも忘れる間もなく来る感じだよね……なんか最近はさ」
2006年生まれの美月は物心がついた辺りの頃、あの大震災を経験する。
震源地から離れていながらも震度5強の揺れに見舞われ、さらにその後のニュースで延々と流されていた衝撃的な映像は、忘れたくても忘れられるものではなかった。
またそれからも数年ごとに日本各地で規模の大きな地震が発生したり、地震だけではなく大雨による水害は毎年どこかが甚大な被害を被っている。
発生地域にあまりにも節操がないため、日本地図にダーツを投げてたまたま当たった場所が被災地となるような、そんな理不尽ささえも感じずにはいられない。
そして……この度、この町を、黒葛を襲った、災害。
あれも自然災害だとでもいうのだろうか?
考え込んでいた美月だったが、シャツの裾を引っ張られ我に返る。
「ごめん、祐樹くん、待たせちゃうから……そろそろ行かなきゃ」
唯も同じことを考えていたのだろう。そしてそうなると自然に黒葛のことが気になったようだった。
本棚のカーテンを下ろした美月はフッと微笑みを浮かべる。
「そだね。唯をひとりじめしてたらシットされそう……けど」
「あ」
美月の腕が唯を包む。
「ちょっとだけ。充電」
唯も恋人の優しい胸の香りに顔を埋めて、美月の腰に手を回した。
「充電」
ドアを開けるなり、唯は深呼吸し部屋の空気を肺に取り込んだ。
「懐かしいというか……落ち着くというか、安心するね」
何年ぶりかの美月の部屋であり、同時に今や今朝ぶりの我が城でもある。
きちんと整理された室内には隅の隅にまで神経が行き届いている。
床を覆う、明るいグレーのカーペット。白い壁にはポスターどころか写真の一枚さえも貼られていない。
部屋主の明晰な思考そのままに、無駄がなくシンプルだ。
とはいえ、記憶にある美月の部屋とはずいぶん様変わりしているようだった。
まず、ベッドが大きくなっている。昔は子どもサイズだったものが、今はセミダブルサイズはあるであろうロングベッドに。
かつて唯が憧れていたハイテクな学習机は、品の良いワーキングデスクに置き換わっており、ラップトップPCが一台閉じて置いてあるのみで机の上には埃のひとつもなさそうだった。
教材類はその隣の本棚にあるのだろうが、一面にカーテンが掛けられており、その奥に並んでいるであろう本たちの気配は窺えない。
大きなベッドを擁しながらも決して狭くはなく、美月の長身を動かせるだけのスペースは十二分に確保されている。
昔はもっとおもちゃの類でごちゃごちゃしていた気もするが、すっかり洗練されたモデルハウスの一室のようだった。
「ほんと……整理がうまいよね。美月ちゃん」
「つまんない部屋でしょ。我ながら全然かわいくない」
壁際にて身を寄せ合っている丸められたヨガマット、ダンベル、腹筋ローラーに目をやり、小さく笑う。
枕元にぬいぐるみのひとつでも置いてやろうかしらん、と思うのは唯と交わった影響だろうか。
「適当にしててね。すぐ準備するから」
パタパタと部屋奥にある白いドレッサーへ向かう美月。
鏡の前には大小さまざま色とりどりの瓶が並んでおり、ちょっとした未来都市のミニチュアのようだ。
引き出しを開け閉めしながら慌ただしくしている美月に唯も寄る。
「ズボラでしょ。ここだけつい出しっぱになっちゃうんだよね」
「すご……こんなにたくさん使うの?」
唯の部屋にはそもそもドレッサーというものがない。
コスメ類──といってもほとんどスキンケア用品だが、それを手頃なボックスにまとめて、ローテーブルの下に置いている。
「部活やってるとねー、面倒なんよねー色々」
そう言えば一昨日、水泳部七つ道具がどうとか言っていたっけ。
日光に加え、塩素が溶け込んだ水という、およそ美容によろしくない環境にありながら、あの柳髪と玉のような肌を維持しているのだから、その努力は唯の想像を絶するものがあるのだろう。しかし、
「もう……多分やらなくても大丈夫かも、だけど……」
唯はつまんだ髪を捻りながら少しバツが悪そうに呟いた。
美容に気を遣ってこなかった唯であっても人の身でなくなってからは肌も髪も思いのままだ。
事実、唯はこの数日はスキンケアはおろかリップクリームさえ使用していない。
「んー……そうかもだけど……何か今日もがんばるぞー!って儀式?」
「ああ、なんか……やっぱスポーツマンだねぇ。なんだっけ、あの」
腰を屈め、両手を組んで忍術のような構えをとる唯を見て美月がクスっと笑う。
本家であるラグビー選手のそれとは微妙に違っており、指の角度を一歩間違えればただの浣腸ポーズだった。
「ルーティンね。私は泳ぐときもそういうのないけどさ別に」
使い捨てと思われる小さなプラケースの中に瓶の中身を次々移し、小分けにしていく。こんな便利なものがあったなんて、と唯は目を丸くする。
「これでよし、と」
あっという間にまとめ上げられたお泊まりコスメセットがバッグの中に放り込まれた。
「んで、次……まだあればいいけど」
流れるように美月がウォークインクローゼットを開く。
さぞかしオシャレな服がひしめいていると思った唯はその中身を見て驚いた。
薄手の夏服系のものがいくつかハンガーにかかっているだけだった。
そういえば日付的には昨日が衣替えの日になる。冬物はすでにクリーニングに出してどこか別のところにしまっているのだろう。
本当に、しっかりしている。
もしこれがマンガとかであればこういう人はせめてズボラだったり料理が下手だったりしそうだが、整理もできて料理も上手いなんて何なんだろう一体。国語の成績が壊滅的であるという一点のみが妙にフィクションくささがある。
「お、あったあったこの辺なら」
クローゼットの端に立てかけられている茶色の紙袋を引っ張り出し、中を漁る。
覗き込もうとした唯の視線が、美月の背中に遮られた。
それは背中に目でも付いているかのような動きだった。
「唯、これ……あのキモいかもだけど」
伏目がちな美月の手に、水色とピンク色のブラジャーが握られている。
「これ、美月ちゃんの?」
苦そうなものを飲み込むような頷きのあと、美月らしからぬダラダラとした弁明が続いた。
「私の、中学くらいのときの……なんだけど。全然ね、半年も使ってなくって。サイズ合わなくなったやつ、だからまとめてそろそろ処分しようと思ってたんだけど……」
唯の表情がパッと色めく。
「えええっ! いいの?」
「いやじゃなければ……だけど。唯の今のサイズだと、ちゃんとしといた方がいいかなって」
「いやじゃない全然いやじゃない! そか、私……そういうの全然考えてなかった」
唯は無計画に身体を操作してしまったため、それによって何が起こるかまで全く想像が及んでいなかった。
いや、それより美月ちゃんのお下がりを使っていいなんて? それなんてご褒美?
目をキラキラさせている唯の様子に少し安堵した美月は頭を掻きながら提案してみる。
「ほんでさ、明日とか……買いに行かない? 下着」
「えっ……」
それって。
「私も……買わなきゃだし。まぁ、その、デ、デート?」
「い……いく! 行きたい!」
お古の下着を握り締めて目を輝かせている唯を見て美月も心が弾みだす。
もちろん、このお古がそのまま使えるとは思えなかった。
まだゴムもワイヤーも健在だが、体格的にアンダーのサイズが合わない可能性が高い。
唯がどう思っているか分からないが、きちんとしたサイズのものを手にいれるまでの、つまり間に合わせのつもりだった。
唯も美月も、今は手持ちの下着に合わせて胸の大きさを元のサイズに“擬態”させている。
美月は元々Gだったが、唯に大きくされた今、どうなっていることか恐ろしくもある。
「私サイズあるかな……」
悩ましげな言葉とは裏腹にその口元は綻んでしまう。
できれば、唯とおそろいの下着を買いたいと思った。下着は結構な出費なのであまり積極的に買いたいものではなかったが、どんなものを選ぼうか楽しみになってきた。
下着は一に着け心地、二に透けにくいもの、三にコスパを基準に消極的選択で選んでいたが、きっとこれまでとは違う視点で買い物が楽しめるだろう。
自分だけじゃなく、それを見せて楽しませたいと思う人がいるのだから。
「お着替えも持ったし……ん?」
部屋を出ようとした美月は、壁の方を向いたまま動こうとしない唯に気付く。
「唯、なんか? どしたの?」
「美月ちゃん、その、本棚見ちゃだめ?」
唯はカーテンの下ろされている本棚を指差した。
「へ? いいよ。何も面白くないと思うけど」
美月も本棚に寄り、脇に垂れている紐を引っ張りカーテンを上げる。
「わぁ……」
自分の本棚とは全く異なる“質感”に唯は声を漏らす。
中段あたりの“ゴールデンスペース”には教材類や問題集が固められ、その下の段は雑誌の段になっている。
サイエンス系のものから、美容、ファッション、スポーツ系と幅広い。
上の方の段には使い古された赤本がいくつかある他、四六版サイズの理数系の図書が並ぶ。
最上段は文庫と新書のスペースだが、比較的小ぶりな問題集も見られた。
「ね、おもんないでしょ~」
苦笑する美月。やはり、本棚さえも我ながら華がなく、かわいくない。
唯だったら、教材と書籍類とを一緒くたにすることはしなさそうだな、と思った。
「ううん……私と……全然世界が違うんだね、やっぱり」
本棚の前でしゃがむ唯。一番下段は図鑑類だった。
「あっ、このへん懐かしい」
少し前に爆発的に流行った大人向けのビジュアル図鑑とともに、見覚えのある子ども向けの図鑑がいくつかある。どれも年季を感じさせるが、中でも特に恐竜の図鑑が突き抜けて使用感があった。
唯は子どもの頃、これを二人で一緒に読んでいたのを思い出した。
開いたページの中からそれぞれ恐竜を一匹選んで、どっちが強いか勝負するという、謎の遊び。大抵、美月の謎の理屈で言いくるめられて唯が負けるだけの。
「恐竜、好きだったもんね、美月ちゃん」
「今もバチバチに好きだよ。ロマンしかなくない?」
そういえば美月が通学バッグに付けている変なキャラクターのぬいぐるみも恐竜がモチーフかと思われた。美月がチャットアプリのアイコンにもしている、あの赤いトカゲのような何か。
「あと小説とかマンガは一回全部弟にあげちゃったからね。読みたくなったら弟の部屋行くし」
唯は立ち上がりながらざっと本棚に並ぶ背表紙の上に目を滑らせてみる。
ほとんど、何が書かれてあるかまるで分からなかった。おそらく数学だか物理だかその手の内容だろうか。その中で上段の文庫本に、自分の本棚にもある本を見つけた。
「おお……唯一の共通点。これ私も好きー」
科学者でありながら文学への造詣も深く、幾多の名随筆を残した寺田寅彦の作品集だった。
「それパパのだけど借りパクしちゃってるわ。エッセイっていうの? そういうの。何か読みやすくていいよね」
寺田寅彦は明治生まれの作家になるので、より最先端の科学事情に興味があると思っていた美月が好きだと言うのは何だか意外に思えた。氏の随筆は日常におけるありふれた現象に触れているものが多く、幼い頃から五感をフルに使い世界と戯れていた美月には何か琴線に触れるものがあったのだろうか。ありとあらゆる世界のありようを情感豊かな筆致で表現する文体は唯にとっても親しみが持てるものだった。
「私はサイエンス系はさっぱりだけど、この人の文章はすごく好きだよ」
「へぇ……。だったら岡潔とか好きかもね。こっちは完全に数学だけど。なんか、唯に本薦めるの畏れ多いよね」
苦い笑みを浮かべる美月に、唯がブンブンと首を横に振る。
「そんなことないよ! 自分だと辿りつかないと思うから……。うれしい……ありがとうね」
そう言いながらメモをする唯のスマホ画面を盗み見る美月。
『おかきよし』だって。かわいい。
「私、夏目漱石がすごい好きなんだけど、寺田寅彦は弟子筋なんだよね。弟子というか生徒というか」
美月は驚く。夏目漱石って、昔のお札の人で、教科書にも何度か出てきたような。
「えっ、意外と唯それベタな感じじゃないの? 夏目漱石って」
「いやほんとね、奥深くって~。漢詩とかもうすごいからね……。あと講演を起こしたやつとか大好きなのあるんだけど、じゃあ私から今度それお薦めするね」
唯の仕草から、色々と語りたいのを我慢しているのが分かる。
本当に、唯は本が好きなんだ。
好きな人が好きなものを語るを見ると、どうやら心にくるものがあるらしい。
悲しくもないのに、ただただ目頭が熱くなる気がした。
「私に読めるかな……。でも唯がオススメしてくれるなら読みたいな」
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これを機に、唯の“好き”を自分の“好き”にできたらいいな、と思う。
ああ、なんかすごく恋人っぽいかも。
ニヤニヤする美月だったが、ふと唯が片肘を頬に何か考えている様子を見る。
「ん? どしたの?」
「あ、ああごめんね、なんでもないんだけど……」
頬から手を離し美月に笑って見せる唯だったが、すぐにまた表情に影が差した。
「寺田寅彦で思い出したんだけど……。ほら、“天災は忘れた頃にやってくる”っていうのもこの人の言葉なんだよね」
ハッとする美月も思わず唇に手を当てる。
天災。
「災害は……でも忘れる間もなく来る感じだよね……なんか最近はさ」
2006年生まれの美月は物心がついた辺りの頃、あの大震災を経験する。
震源地から離れていながらも震度5強の揺れに見舞われ、さらにその後のニュースで延々と流されていた衝撃的な映像は、忘れたくても忘れられるものではなかった。
またそれからも数年ごとに日本各地で規模の大きな地震が発生したり、地震だけではなく大雨による水害は毎年どこかが甚大な被害を被っている。
発生地域にあまりにも節操がないため、日本地図にダーツを投げてたまたま当たった場所が被災地となるような、そんな理不尽ささえも感じずにはいられない。
そして……この度、この町を、黒葛を襲った、災害。
あれも自然災害だとでもいうのだろうか?
考え込んでいた美月だったが、シャツの裾を引っ張られ我に返る。
「ごめん、祐樹くん、待たせちゃうから……そろそろ行かなきゃ」
唯も同じことを考えていたのだろう。そしてそうなると自然に黒葛のことが気になったようだった。
本棚のカーテンを下ろした美月はフッと微笑みを浮かべる。
「そだね。唯をひとりじめしてたらシットされそう……けど」
「あ」
美月の腕が唯を包む。
「ちょっとだけ。充電」
唯も恋人の優しい胸の香りに顔を埋めて、美月の腰に手を回した。
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