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第一章
第30話/いと賑やかな桜永家
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2023年6月2日(金) 20:30 美月家
「え! あれ唯ちゃん? 久しぶり──!」
玄関中を乱反射するソプラノボイスで唯の三半規管が回転した。
上がり端で手を広げ、全力で歓迎の表現をするのは美月の母だった。
身長こそ娘に及ばないものの家系ゆえか小顔で品のある顔つきをしている。
その一方で身に着けているだぼついた白いスウェットの下には年齢相応に肉の付いた洋梨型の身体があることが何となく予想できた。
それに加えて頭の上で纏めた茶色いお団子ヘア、溢れ出るめでたいまでの陽性のオーラもあって唯はその姿に鏡餅を幻視してしまう。
「あ、お、おじゃまします」
まさか覚えられているとは思っていなかった唯は虚を突かれたが、しかし昔からほとんど姿が変わっていない自分なら当然か、と思い直す。
「ねー! パパー! すごいお客さんよー! ねー!」
身を翻し、ソプラノを撒き散らしながら家の奥へと走って行く鏡餅。
唯の家よりひとまわりも大きな家でありながら、その容積に収まりきらない公害レベルの騒音だった。今の時間を思えば客人である唯が近所迷惑を心配するほどに。
美月の母は、体型以外は全く変わっていなかった。
そしてやはり美月にしてこの母あり、と再確認せずにはいられない。
「うっかり『ただいま』って言いそうにならなかった?」
興奮のあまり出し忘れたであろうスリッパを美月が取り出してくれる。
実際、唯はドアを開けた瞬間、反射的にそう言ってしまうところだった。
──私の体、ちゃんと美月ちゃんでもあるんだ。
頬が緩んでしまう。
でもうっかり「お母さん」なんて呼ばないように気を引き締めないと。
ダイニングに案内された唯は複数の椅子に囲まれたテーブルに着いた。
夕食が一膳分、ラップをかけて置いてある。
焼き魚とサラダ、野菜の煮物、副菜が乗った三連の小皿。品目が多い。美月の身体とそこから発揮されるエネルギーの秘密の一端はここにあるのだろう。
「はい、どーぞ。ノドかわいているでしょ」
グラスいっぱいに注がれたお茶を美月がテーブルに運ぶ。
氷は浮かんでないものの、グラス表面をたちまちに覆う結露に喉奥が鳴る。
「ただの麦茶でーす」
美月は悪い笑顔を浮かべながらお皿をレンジへと運ぶ。
その捨て台詞に居た堪れなくなりながらも唯はグラスを口に運んだ。
あ、これおかわりがいるやつ。
喉を鳴らしながらお茶を嚥下していると廊下奥の方からドカンドカンとバスドラムを踏むような地響きが近づいてきた。
「おおおー、唯ちゃん!? わ本物だよ!」
リビングに飛び込んで来たのは美月の父だった。
一瞬、巨大なクマが入ってきたのかとびっくりした唯は口に含んだお茶をテーブルの上にぶちまけてしまいそうになる。
「お、おじゃましてます」
ヅカヅカヅカと床を打ち鳴らしながら迷うことなく唯の真正面に座り、椅子を目いっぱい引いて大きな身体を乗り出す。
恐縮する唯は目を合わせられないが、全身をくまなく観察する大きな眼の動きが視線の圧として手に取るように分かってしまう。
レベルの高い視線ハラスメントのようだがそれほど嫌な気はしない。
この眼には、圧には覚えがあった。
この大きな眼は娘に受け継がれているものだ。
また、その美月も父から日頃向けられているであろうこの眼差しを憎からず思っているということが、今の唯には何となく理解ができる。
「ちょういちょいちょいちょいちょいちょい……」
ひと通り視線を浴びせたと思えばドカッと背もたれに体重を預け、感嘆なのか何なのか良く分からない言葉を発しはじめた。
「なあなあなあなあなあなあなあなあなあなああああ!」
「ちょっとパパうるさい!」
キッチン奥の美月が換気扇の音を押しのける音波を発生させる。本当に騒がしい一家だ。
「だってみっちゃん話がちがうって! ねー! ママー! マッマーッ! 何やってんのー!」
「ピングーかようっさいなさっきから!」
美月は温まった膳をテーブルに運び、唯の隣に座る。
湯気とともに美味しそうな匂いが立ち昇っている。
「ね、パパ悪いんだけど何か作れる? 唯食べてなくってさ」
唯が遠慮する前に美月の父は「ッシャッ」と立ち上がりキッチンに駆け込んでいく。
身体も大きければ声も大きい。動作も大きい。何もかもがデカい。
「悪いよ、美月ちゃん……私別にちょっと食べなくても」
唯は、そして美月も代謝系が変化をしているため、エネルギー摂取の事情も変わっている。
少々食事を抜いても体の機能にさして影響がないことをなんとなくだが理解していた。
「いっしょに食べたいじゃん」
不意に向けられた恋人の微笑みに唯は椅子ごと卒倒しそうになった。
「それにほら、めっちゃパパ張り切ってるし」
キッチンの奥からはガチャガチャというコンロの音とともに火でも吹きそうなほど激しい油の音が聞こえてくる。中華だろうか?
加えて、換気扇の出力は最強のはずなのに「ッシャッ」という気合の声が幾度も聞こえてくるのはどういう原理なんだろう。
「ほら、私のも食べて待ってよ……ってシャーシャーうるさいなもー!」
美月がキッチンに向かって吠えた直後だった。
「あァ~、パパありがとォ~!」
今度は後ろから壊れたボリュームのソプラノが響いた。
半分裏声のそれは超音波の領域にも足を突っ込んでいたかもしれない。
「ママどしたのそれー」
美月が驚いたような、しかしどちらかと言えば呆れた声を上げる。
「ちょっと素敵なお客さま用におめかししてみました。どう?」
またもやびっくりした唯には箸を動かす隙さえなかった。
ついさっき玄関の上がり端では上下スウェットだった美月の母が花柄のワンピース姿で登場したのだ。
ブローチと、恐ろしいことにウエストマークのベルトまで着けている。
「恥ずかしいからやめてよもー」
娘の嗜める声に耳を貸すことなく、しずしずとダイニングを横断した美月の母は当たり前のように唯の正面の椅子を引き、しゃなりと腰をかけ、そして口を開く。
「美月の、母です」
「あのねえ、ママ、唯は優しいからそういうの絶対つっこまないからね」
「あそお? でもみっちゃんがフォローしてくれてママ助かっちゃった」
「おっ! めかしこんでどこ行くの」
美月の父が湯気を吹き上げる山盛りの回鍋肉を運んできた。艶やかで色味のよいピーマンと長ネギが食欲をそそる。
美月に促されて箸を伸ばそうとする唯に先んじて肉と野菜をひと掴みにする美月の父。
「おっうっま! ほら唯ちゃんみっちゃん食べて食べて!」
「あ、はい……いただきます」
「なんなんパパ話がちがうってさぁ」
美月は手早く唯のぶんを取り皿によそう。父に全て食べられてしまうと思ったのだろう。
「だっていや見たママ? 唯ちゃん! ね! ほら!」
「何がだよもうさっきからさぁ~」
何から何までが大仰な父の挙動がうるさくて仕方がない。
「ふふふっ、だってねえ、あんな小さかったのに美人さんになって~」
唯は咀嚼する回鍋肉の甘辛さもあってか頬の奥がきゅうと絞られる気がした。
美人。人生初の“美人”をいただいてしまった。
「いやほんとほんと! 唯ちゃん、だってこーんな」
と言いながら床から20センチメートルほど上あたりで手のひらを広げる。
「こーんなだったのが! ね!」
親戚の叔父さんにされるというアレだ。それにしても極端が過ぎる。
「パパそれじゃトッポジージョよ~」
がっはっはと笑いながらトッポジージョとやらのテーマソングを歌い始める父に母も2オクターブ上で合流する。毎日こんな夫婦漫才が繰り広げられているのだろうか。
「唯トッポジージョとか知らんから……。ね、陽輔と恒太は?」
美月の二人の弟だ。
子どもの頃しか知らないが、今どんな男の子になっているのだろう?
三人だけでこれだけやかましいのに、エネルギーの塊である中学生男子二人が加わって何が
起こるのか想像がつかない。恐ろしい何かが魔界から召喚されたりしないだろうか。
「もうご飯食べてバスケット行っちゃったよ。もったいないね~。こうちゃんなんか唯ちゃんのこと大好きだったのにね~」
唯は初耳だった。そう言えば下の弟の方はよく後ろをついて来ていた気がしなくもない。
「もー、それ言っちゃるなし~」
回鍋肉の山が美月と美月の父によってあっという間に崩されていた。
あれだけ喋りながらいつ食べていたのか不思議だ。
賓客であったはずの唯はほとんど言葉を発することないまま、食事を終えた。
唯は、喋りながらペースを落とさず食事をすることが苦手だ。
喋ろうとすると言葉に集中して箸が止まってしまうし、逆に食べることに集中していると食卓で交わされる会話が頭に入ってこない。それは自宅の食卓でもそうで、唯はいただきますとごちそうさま以外はまず自分からはしゃべらないし、ほかの家族もそう積極的には喋らない。
それが家庭の食卓の風景として当たり前だと思っていたので唯は苦ではないし、むしろ楽ですらあった。
一方、美月家のこのマンガのように賑やかな食卓はどうだろうか。
普段の食卓とのあまりの温度差に置いてけぼりになった唯だったが、しかし、一切気を遣われることなく美月家のおそらくありのままの空気の中に迎えられたことが却って唯としては気が楽だった。
何よりごちそうさまをして心が温まる気持ちになっているのは、食事の美味しさはもちろん、この家族の空気を自分の中に混ざっているはずの美月が好きだからなのだろうと思う。
食後のダイニングは食器を片付ける音とシンクの水音くらいで静かなものだった。
仕事の電話で引っ込んだ美月の父が騒音の多くを占めていたらしい。
つるりと平らげられた皿は本来なら美月ひとり分のはずがさらに増えて四人分もの量だった。
ただでさえ多かった皿をいそいそと食洗機へ運ぶ美月。
唯も手伝おうと席を立とうとして、唯ちゃん、と美月の母に呼び止められる。
目尻に細かな皺が寄ってはいるものの、ゆで卵を思わせる質感の肌、そして人好きのする愛嬌のある顔立ちをしている。
「みっちゃんをよろしくね」
その言葉の意味するところが、同じクラスになったこと、そして今日の外泊のことなのだと分かっていてもドキリとする。
美月の勘が鋭さは、父譲りか、母譲りか。いずれにせよ昔から、ひょうきんなようでなかなか油断がならないのが美月の母だった。
「は、はい。こちらこそ、です」
「はいはいもういいからいいから」
食洗機を仕掛けた美月が、母と唯の間を遮るようにテーブルの上を拭く。
「ゆっくりお茶でもしたいのにね~」
「ママありがと。悪いけど、急ぐから。ほら唯」
美月の手招きに従い椅子から立ち上がる唯。
いくらここが自分の家であるという錯覚のようなものはあるにせよアウェイであることに変わりはなく、美月のリードが頼もしい。美月の両親はどちらも好印象を持ってはいるが、それでも緊張はするものだ。
「ちょっと準備するから、私の部屋いこ」
唯は美月に続いて自宅よりもだいぶ緩やかな傾斜の階段を上がった。
「え! あれ唯ちゃん? 久しぶり──!」
玄関中を乱反射するソプラノボイスで唯の三半規管が回転した。
上がり端で手を広げ、全力で歓迎の表現をするのは美月の母だった。
身長こそ娘に及ばないものの家系ゆえか小顔で品のある顔つきをしている。
その一方で身に着けているだぼついた白いスウェットの下には年齢相応に肉の付いた洋梨型の身体があることが何となく予想できた。
それに加えて頭の上で纏めた茶色いお団子ヘア、溢れ出るめでたいまでの陽性のオーラもあって唯はその姿に鏡餅を幻視してしまう。
「あ、お、おじゃまします」
まさか覚えられているとは思っていなかった唯は虚を突かれたが、しかし昔からほとんど姿が変わっていない自分なら当然か、と思い直す。
「ねー! パパー! すごいお客さんよー! ねー!」
身を翻し、ソプラノを撒き散らしながら家の奥へと走って行く鏡餅。
唯の家よりひとまわりも大きな家でありながら、その容積に収まりきらない公害レベルの騒音だった。今の時間を思えば客人である唯が近所迷惑を心配するほどに。
美月の母は、体型以外は全く変わっていなかった。
そしてやはり美月にしてこの母あり、と再確認せずにはいられない。
「うっかり『ただいま』って言いそうにならなかった?」
興奮のあまり出し忘れたであろうスリッパを美月が取り出してくれる。
実際、唯はドアを開けた瞬間、反射的にそう言ってしまうところだった。
──私の体、ちゃんと美月ちゃんでもあるんだ。
頬が緩んでしまう。
でもうっかり「お母さん」なんて呼ばないように気を引き締めないと。
ダイニングに案内された唯は複数の椅子に囲まれたテーブルに着いた。
夕食が一膳分、ラップをかけて置いてある。
焼き魚とサラダ、野菜の煮物、副菜が乗った三連の小皿。品目が多い。美月の身体とそこから発揮されるエネルギーの秘密の一端はここにあるのだろう。
「はい、どーぞ。ノドかわいているでしょ」
グラスいっぱいに注がれたお茶を美月がテーブルに運ぶ。
氷は浮かんでないものの、グラス表面をたちまちに覆う結露に喉奥が鳴る。
「ただの麦茶でーす」
美月は悪い笑顔を浮かべながらお皿をレンジへと運ぶ。
その捨て台詞に居た堪れなくなりながらも唯はグラスを口に運んだ。
あ、これおかわりがいるやつ。
喉を鳴らしながらお茶を嚥下していると廊下奥の方からドカンドカンとバスドラムを踏むような地響きが近づいてきた。
「おおおー、唯ちゃん!? わ本物だよ!」
リビングに飛び込んで来たのは美月の父だった。
一瞬、巨大なクマが入ってきたのかとびっくりした唯は口に含んだお茶をテーブルの上にぶちまけてしまいそうになる。
「お、おじゃましてます」
ヅカヅカヅカと床を打ち鳴らしながら迷うことなく唯の真正面に座り、椅子を目いっぱい引いて大きな身体を乗り出す。
恐縮する唯は目を合わせられないが、全身をくまなく観察する大きな眼の動きが視線の圧として手に取るように分かってしまう。
レベルの高い視線ハラスメントのようだがそれほど嫌な気はしない。
この眼には、圧には覚えがあった。
この大きな眼は娘に受け継がれているものだ。
また、その美月も父から日頃向けられているであろうこの眼差しを憎からず思っているということが、今の唯には何となく理解ができる。
「ちょういちょいちょいちょいちょいちょい……」
ひと通り視線を浴びせたと思えばドカッと背もたれに体重を預け、感嘆なのか何なのか良く分からない言葉を発しはじめた。
「なあなあなあなあなあなあなあなあなあなああああ!」
「ちょっとパパうるさい!」
キッチン奥の美月が換気扇の音を押しのける音波を発生させる。本当に騒がしい一家だ。
「だってみっちゃん話がちがうって! ねー! ママー! マッマーッ! 何やってんのー!」
「ピングーかようっさいなさっきから!」
美月は温まった膳をテーブルに運び、唯の隣に座る。
湯気とともに美味しそうな匂いが立ち昇っている。
「ね、パパ悪いんだけど何か作れる? 唯食べてなくってさ」
唯が遠慮する前に美月の父は「ッシャッ」と立ち上がりキッチンに駆け込んでいく。
身体も大きければ声も大きい。動作も大きい。何もかもがデカい。
「悪いよ、美月ちゃん……私別にちょっと食べなくても」
唯は、そして美月も代謝系が変化をしているため、エネルギー摂取の事情も変わっている。
少々食事を抜いても体の機能にさして影響がないことをなんとなくだが理解していた。
「いっしょに食べたいじゃん」
不意に向けられた恋人の微笑みに唯は椅子ごと卒倒しそうになった。
「それにほら、めっちゃパパ張り切ってるし」
キッチンの奥からはガチャガチャというコンロの音とともに火でも吹きそうなほど激しい油の音が聞こえてくる。中華だろうか?
加えて、換気扇の出力は最強のはずなのに「ッシャッ」という気合の声が幾度も聞こえてくるのはどういう原理なんだろう。
「ほら、私のも食べて待ってよ……ってシャーシャーうるさいなもー!」
美月がキッチンに向かって吠えた直後だった。
「あァ~、パパありがとォ~!」
今度は後ろから壊れたボリュームのソプラノが響いた。
半分裏声のそれは超音波の領域にも足を突っ込んでいたかもしれない。
「ママどしたのそれー」
美月が驚いたような、しかしどちらかと言えば呆れた声を上げる。
「ちょっと素敵なお客さま用におめかししてみました。どう?」
またもやびっくりした唯には箸を動かす隙さえなかった。
ついさっき玄関の上がり端では上下スウェットだった美月の母が花柄のワンピース姿で登場したのだ。
ブローチと、恐ろしいことにウエストマークのベルトまで着けている。
「恥ずかしいからやめてよもー」
娘の嗜める声に耳を貸すことなく、しずしずとダイニングを横断した美月の母は当たり前のように唯の正面の椅子を引き、しゃなりと腰をかけ、そして口を開く。
「美月の、母です」
「あのねえ、ママ、唯は優しいからそういうの絶対つっこまないからね」
「あそお? でもみっちゃんがフォローしてくれてママ助かっちゃった」
「おっ! めかしこんでどこ行くの」
美月の父が湯気を吹き上げる山盛りの回鍋肉を運んできた。艶やかで色味のよいピーマンと長ネギが食欲をそそる。
美月に促されて箸を伸ばそうとする唯に先んじて肉と野菜をひと掴みにする美月の父。
「おっうっま! ほら唯ちゃんみっちゃん食べて食べて!」
「あ、はい……いただきます」
「なんなんパパ話がちがうってさぁ」
美月は手早く唯のぶんを取り皿によそう。父に全て食べられてしまうと思ったのだろう。
「だっていや見たママ? 唯ちゃん! ね! ほら!」
「何がだよもうさっきからさぁ~」
何から何までが大仰な父の挙動がうるさくて仕方がない。
「ふふふっ、だってねえ、あんな小さかったのに美人さんになって~」
唯は咀嚼する回鍋肉の甘辛さもあってか頬の奥がきゅうと絞られる気がした。
美人。人生初の“美人”をいただいてしまった。
「いやほんとほんと! 唯ちゃん、だってこーんな」
と言いながら床から20センチメートルほど上あたりで手のひらを広げる。
「こーんなだったのが! ね!」
親戚の叔父さんにされるというアレだ。それにしても極端が過ぎる。
「パパそれじゃトッポジージョよ~」
がっはっはと笑いながらトッポジージョとやらのテーマソングを歌い始める父に母も2オクターブ上で合流する。毎日こんな夫婦漫才が繰り広げられているのだろうか。
「唯トッポジージョとか知らんから……。ね、陽輔と恒太は?」
美月の二人の弟だ。
子どもの頃しか知らないが、今どんな男の子になっているのだろう?
三人だけでこれだけやかましいのに、エネルギーの塊である中学生男子二人が加わって何が
起こるのか想像がつかない。恐ろしい何かが魔界から召喚されたりしないだろうか。
「もうご飯食べてバスケット行っちゃったよ。もったいないね~。こうちゃんなんか唯ちゃんのこと大好きだったのにね~」
唯は初耳だった。そう言えば下の弟の方はよく後ろをついて来ていた気がしなくもない。
「もー、それ言っちゃるなし~」
回鍋肉の山が美月と美月の父によってあっという間に崩されていた。
あれだけ喋りながらいつ食べていたのか不思議だ。
賓客であったはずの唯はほとんど言葉を発することないまま、食事を終えた。
唯は、喋りながらペースを落とさず食事をすることが苦手だ。
喋ろうとすると言葉に集中して箸が止まってしまうし、逆に食べることに集中していると食卓で交わされる会話が頭に入ってこない。それは自宅の食卓でもそうで、唯はいただきますとごちそうさま以外はまず自分からはしゃべらないし、ほかの家族もそう積極的には喋らない。
それが家庭の食卓の風景として当たり前だと思っていたので唯は苦ではないし、むしろ楽ですらあった。
一方、美月家のこのマンガのように賑やかな食卓はどうだろうか。
普段の食卓とのあまりの温度差に置いてけぼりになった唯だったが、しかし、一切気を遣われることなく美月家のおそらくありのままの空気の中に迎えられたことが却って唯としては気が楽だった。
何よりごちそうさまをして心が温まる気持ちになっているのは、食事の美味しさはもちろん、この家族の空気を自分の中に混ざっているはずの美月が好きだからなのだろうと思う。
食後のダイニングは食器を片付ける音とシンクの水音くらいで静かなものだった。
仕事の電話で引っ込んだ美月の父が騒音の多くを占めていたらしい。
つるりと平らげられた皿は本来なら美月ひとり分のはずがさらに増えて四人分もの量だった。
ただでさえ多かった皿をいそいそと食洗機へ運ぶ美月。
唯も手伝おうと席を立とうとして、唯ちゃん、と美月の母に呼び止められる。
目尻に細かな皺が寄ってはいるものの、ゆで卵を思わせる質感の肌、そして人好きのする愛嬌のある顔立ちをしている。
「みっちゃんをよろしくね」
その言葉の意味するところが、同じクラスになったこと、そして今日の外泊のことなのだと分かっていてもドキリとする。
美月の勘が鋭さは、父譲りか、母譲りか。いずれにせよ昔から、ひょうきんなようでなかなか油断がならないのが美月の母だった。
「は、はい。こちらこそ、です」
「はいはいもういいからいいから」
食洗機を仕掛けた美月が、母と唯の間を遮るようにテーブルの上を拭く。
「ゆっくりお茶でもしたいのにね~」
「ママありがと。悪いけど、急ぐから。ほら唯」
美月の手招きに従い椅子から立ち上がる唯。
いくらここが自分の家であるという錯覚のようなものはあるにせよアウェイであることに変わりはなく、美月のリードが頼もしい。美月の両親はどちらも好印象を持ってはいるが、それでも緊張はするものだ。
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