彼福私鬼 〜あちらが福ならこちらは鬼で〜

日内凛

文字の大きさ
上 下
30 / 75
第一章

第24話/遠きあの日、夏祭り

しおりを挟む
櫓から伸びる、色とりどりの提灯の列の下では、浴衣姿の人々が音楽に合わせてステップを踏んでいる。
藍色の空の色が深まるにつれ、一層提灯の灯りが煌々と輝きを増していく。

だんだんと太鼓のリズムが激しさを帯びていく。
会場の熱気は増し、櫓の周りで踊っていた人々はイワシの群れのようにひとつの意志を持った渦となっていく。
その熱狂の様子を、少女──桜永美月は遠巻きに眺めていた。

人々は自分が誰なのかも忘れて、流れに身を委ね、渦の一部になってはさらに別の踊り手を渦に変え、巻き込んでいく。

「これじゃ、探しようがないよ……」
美月は腰を上げ、生まれて初めて袖を通した浴衣に付いた砂を払った。
下ろしたての浴衣は淡い水色の地色で、ところどころにポイントとしてサクラの花びらのあしらいがある。季節感は全くないが大小散ったサクラの花弁が、何となく花火にも見えなくはない。

「せっかくだから遊んでよっと」
嬉しそうに屋台の方へと駆け出した少女を見て、それが両親とはぐれた迷子だと分かる人はいるだろうか。
お小遣いが入った巾着袋を握り締めて盆踊り会場となっている境内を飛び出し、石段を駆け降りていく。
人と人で溢れかえった参道に飛び込んだ少女の姿が一度は見えなくなったが、時折作られる雑踏の隙間からチラチラと高速で動き回る淡い水色が覗く。
子どもゆえに体が小さいということもあるが、それ以上に軽やかな身のこなしで、人の波を泳いでいく美月。
途中、何度も人とぶつかりそうになっては、直前で身を翻し、こともなげに背面に回り込んでそのまま走り去る。
美月は知らなかったが、サッカーでいうターンフェイントの動きそのものだった。
何度となく「危ない!」という声をはるか後方に聞こえては、美月はしししっと笑う。
人がたくさんいて、みんなワイワイしてて、祭りって楽しい! 


屋台の人のかけ声、お客さんの笑い声、キラキラとした照明、露天にならぶたくさんのおもちゃ。鼻をくすぐるソースの香り、ざらめ砂糖の甘い香り……。
美月は生まれてはじめてとなる夏祭りの喧騒の中で胸を躍らせていた。
おこづかい、なにに使おっかな。

ふと、人混みの隙間から鳥居が見えた。
いつの間にか参道の入り口あたりまで来ていたのだった。周囲の屋台もまばらになってきている。
今度はゆっくりお店を見ようと引き返そうとしたところで、足にズキっとした痛みを感じる。
下駄の鼻緒が指の股に深く食い込み、無惨にも破れた柔らかな皮膚に赤いあざができていた。
鼻緒で履く履き物は初めてだったため具合が分からず、履き慣れている運動靴のつもりで駆けていたらこのザマである。

「あてて……」
走っているときは夢中で気付かなかったが、一度傷を意識するとジンジンと痛みが強くなってくるようだった。
気勢を削がれた天狗小僧は辺りを見渡し、休める場所を探す。
露天裏のちょっとした広場にベンチが見えた。
美月はアザができた場所をかばいながら、ぎこちない足取りで向かう。

「なにこのくつ~」
ベンチに腰を下ろし、下駄を投げ出す。
足元は舗装も何もない土が剥き出しの地面だったが構わず両足を下ろした。
足の裏がひんやりと心地いい。
先ほどまで美月を包んでいた喧騒は遠く、もはや人ごとのようだ。
親戚の集まりで子どもたちを差し置いて盛り上がる大人たちのような。
そういえば、パパとママは今頃私がいなくなったことに気付いてくれてるかな。
不思議と、寂しいとは思わなかった。
日中、この神社には自転車で遊びに来ることもあるけれど、別に歩いて帰れない距離ではない。
足もちょっと休めば、多分大丈夫。
むしろ裸足で走って帰ればいいだけじゃない? 私ってあたまいいね!

ふたりがけのベンチに体を横たえ、仰向けのまま目の前に広がる夜空を見上げる。
視界の端から漏れ出る屋台の光が邪魔をするが、いくつかの星の輝きが見えた。
「あれがたぶん土星で、あれがあれだからオリオン座で……あれはなんかカニっぽいからカニ座」

時折身体の上を吹き抜けていく夜風が実に心地いい。
子どもは身体が小さい分、大人が思う以上に放熱効率がいい。
日中の熱でほてった肌も、たった今の全力疾走で生まれた熱も、冷たいベンチと夜の風がきれいに濯いでいく。


気持ちよくなり眠りそうになった美月の耳にふと、すすり泣く声が聞こえてきた。

シクシク。時折ズズっと鼻をすする音。
ハッと身を起こし、耳を澄ましてみる。
広場のさらに奥の暗がりの方からだった。

女の子……の泣く声……?

恐る恐るではあるが、裸足のまま暗がりへと足を進める。
段々と闇に目を慣らした美月は、木の影にしゃがみ座り込んでいる小さな白い影を見つけた。
しゃくり声とともに、震える小さな肩。

「……ねえ」
美月が白い影に声をかけると、その肩がビクっと大きく動いた。
膝を抱え、丸くなっているために顔が見えないが、おかっぱのような髪型と、身に着けている白い浴衣から女の子であるように思えた。
「ねぇ、どうしたの?」
また声をかけると、女の子がゆっくりと顔を上げる。
泣き腫らしてぐしゃぐしゃになった顔が、美月の顔を見つめる。
そのすがるような表情に一瞬ドキリとして後退りそうになったが、泣いている子を放っておけないのはガキ大将としてのエートス以前に美月の性分だった。

「ね、はぐれちゃったの?」
女の子の前にしゃがみ込む。美月よりも幾分小柄ではあるが、ほとんど同年代のように思えた。
「……いきたい……あいたい……ううっ」
嗚咽に混じって、女の子が声を絞り出す。
「パパとママに会いたいの?」
「あいたい……あいたいよ……」
やはり、迷子のようだった。
言葉にしたことで感極まったのか、女の子の嗚咽が激しくなる。
「あのね、私もね、迷子なの」
女の子を元気付けようとしているのか、誇らしげに自らの境遇を主張する美月。なかなか珍しいタイプの迷子である。
「一緒にさ、探さない?」
「……うん」
美月とは逆にちゃんと迷子然とした迷子は頷き、そして美月の態度が奏功したのか、少し落ち着き始めたようだった。

少し安心した美月は、そして大事なことを思い出す。
「ふっふっふ、私はねー、お金がねー、あるんだよー」
手に持っていた巾着袋を女の子の前に差し出して見せる。
「このふくろの中にね、ほら!」
「……?」
開けて見せた袋の口を覗き込む女の子だが、反応が薄い。
妙に思った美月も袋の中を覗き、そして叫び声を上げた。

「えっ? あああー!!」
巾着袋の中には10円玉が3つ、入っているだけだった。
「これっ……ええーっ!? うそーっ!!」
慌てふためく美月は悲鳴とともに巾着袋を何度も振ったり、裏返してもみるが糸くずが出てくるだけだった。
スリリングなカットインに夢中になっていた小さなファンタジスタは、手に握った巾着袋への意識を疎かにしてしまっていたようだ。
激しいアクションの度に巾着袋の隙間から小銭がこぼれ落ちて行ったのだろう。
「あのね、もっとね、あったの! ほんとはちゃんとあったの!」
地団駄を踏みながら、身振り手振りで自分の背丈以上もある金貨の山を表現しようとする美月の姿に、女の子はくすくすと笑みをこぼした。
意図していなかったが、それまで泣いていた女の子が笑顔になったのが嬉しかったのか、美月も釣られて笑う。

女の子はおもむろに懐に手をやり、5枚綴りになった小さな紙片を差し出した。
受け取った美月は少し明るい場所に出て、紙に書かれた文字を読もうとする。
「これ……なに? お……た……の……し……み……なんて読むのこれ」
ひらがな部分は読めたが、続く漢字が読めない。
「おたのしみけん」
ぽつりと呟いた女の子は、ベンチの下に脱ぎ捨てられている下駄を指差す。
「……そのへんなくつ痛くてきらい」
口を捻じ曲げる美月のもとに女の子が近寄り、腰を屈める。

「おまじない」
そう言うと痛々しく腫れている指の又あたりに手のひらをかざし、小さく円を描くように動かし始めた。
怪訝な顔でその動作を見ていた美月だったが、患部にじんわりとした熱を感じたあと、徐々に疼痛が治まっていくのが分かった。
「あっ……痛くない」
女の子が手をどけると、足からはすっかり腫れが引き、元の血色に戻っていた。
「ええ~! すごい! なにこれ!」
驚く美月に女の子は笑って見せる。
「……おまじない」
その笑顔を見ていると不思議と今目の当たりにした魔法的行為が特別なものではなく“そういうものだ”と思えてくる。
「どうも、ありがとう!」
美月は満面の笑みでお礼を述べ、下駄を履き直した。


美月と女の子は露天裏の広場を出てすぐの……すなわち場末の屋台の前を通りかかる。
射的だった。
店の中ではお兄さんが肘を付き呆けている。客が来なくて退屈をしている様子だった。

「銃ね~。これ私多分よゆうのやつ」
隣を歩く迷子に、自分がいかに頼もしい存在であるかのアピールに余念がない美月。
そのまま通り過ぎようとしたところ、女の子が先ほどのお楽しみ券を店主のお兄さんに差し出して見せる。
「おっ、お楽しみ券じゃん。なかなかツウな嬢ちゃんだね」
お兄さんは券を見るなり立ち上がり、台の上のおもちゃの銃にコルクの弾を込めた。
「なにすごい! そんなんなるの!」
お楽しみ券の効力を目の当たりにし興奮する美月と、どこかちょっぴり誇らしげな女の子。

「どっちの嬢ちゃんがやるんだい?」
お兄さんから発せられる強い酒の匂いに美月が反射的に下がる前に女の子が身を引いた。
どうやらやってみて、ということらしい。
適当言わなきゃよかった、と美月は頭を掻く。
美月にとっての初めての夏祭り。当然、屋台の遊びも全てが初めて尽くしである。
銃なんて割り箸でゴム飛ばすくらいしかしたことないんだけどなぁ。

「ほんじゃ、1回どうぞ」
美月は受け取ったライフル型の銃を肩に乗せる。
まるでバズーカのような構えにお兄さんは後ろを向いて吹き出すが、子どもの体格ではむべなるかな。
しかし、これはこれで安定しつつ、美月の顔の位置的にも射線が合わせやすいとも言えなくはない。
美月は大好きなクッキー菓子の箱に狙いを澄ませる。
銃口先を少し振ってみたり、左右の目を互いに開いたり閉じたりを繰り返し、そして大きく息を吸い込み、引き金を引いた。

「おお!」
一番驚いたのは店主だった。
美月の狙い通り、クッキーの箱が倒れたのだった。
「ま、こんなもんかな」
女の子に見えるように、銃口にふっと息を吹きかける美月だったが、内心かなり焦っていたので安堵した。
もっとも、自信がないわけではなかった。
美月は自らの身体を用いたあらゆる行為において天賦の才があり、ほとんど自分のイメージする通りにその身体を駆動させることができる。
同様に自分の身体の領域というものの把握ができているためか、周囲の空間に対しての嗅覚、つまり空間把握能力についても高い精度で持ち合わせていた。
特に今のように目測で距離を測ることは得意中の得意で、無自覚のうちに三角関数の手法に近いものを直観で利用していたことに自分で気付くのは七年後、彼女が中学生になってからのことである。

「あと4枚だよね……。ね、4回も遊べるってこと?」
景品のクッキーを女の子に分けてあげながら尋ねると、頷くような、首を斜めに傾けるような、なんとも微妙な仕草をする。女の子にもよく分かってないのかもしれない。
「ね、これ……私落としちゃいそうだから持っててくれる?」
巾着袋の件で反省した美月は一度受け取った券を女の子に返した。
いくら身の回りの空間を把握する力が高かろうが、美月のそそっかしさは時にそれを凌駕する。本人にも大いに自覚があるところだった。


そのあと、美月と女の子は輪投げと的当てゲームをして遊んだ。
というより、実際にゲームをプレイしたのはどちらも美月だった。
最初に輪投げで遊んだ美月は、的当ては女の子にやってもらおうと勧めてみたが、女の子は頑なに拒み、そして美月にやって欲しがった。
この手の“身体能力が試される系”の遊びは美月の好物なのでシブシブながらも満更でもなかった。
何より、その投球フォームにモチベーションの全てが表現されていたと言える。
浴衣の下のズロースのことなどお構いなしの、足を振り上げてからのダイナミックなマサカリ投法。
その強烈なインパクトに思わず足を止めた通行人たちから喝采を浴び、的には当たらなかったものの、すっかり気を良くしたのだった。

「なんか今日はね~、ちょっとだけ的に当たんなかったけど~」
ちょっとどころか大暴投もいいところだったが、夜店の的当てゲームの範疇を超えた豪球速だった。
「……かっこ、よかった」
「え? えへへ、そうお?」
往来で受けた歓声も気持ちよかったが、この寡黙な女の子からの賛詞が妙にこそばゆく、嬉しい。しかし。
「ね、あと2枚になっちゃったね。こんなに使ってよかったの?」
残念賞のスナック菓子を頬張りながら訊ねる美月。
同じお菓子を手に女の子は嬉しそうに頷く。
ならいいけどぉ~。

非日常の空間で自由気ままに遊ぶ美月はふわふわと夢心地にあった。夏祭り、最高では?
軽い疲労感もあいまって半ば酩酊状態ともいえる美月だったが、ある屋台のノボリを見つけた途端その視界がクリアになる。
「あー! あれって!」
ノボリのもとに駆け寄る美月。
いつの間にか女の子と手を繋いでおり、美月に引っ張られる形で女の子も追従する。
水が張られた青いプールの中では赤と黒の小さな魚たちがひよひよとひしめき合っている。
金魚すくい。絵本で見たことがある。あの、伝説の。

「ね、これ、私やってみたい……!」
これまでになく迫真の欲望を滾らせる美月に、女の子はにこやかにお楽しみ券を差し出した。
「ありがとう……!」
券を受け取る美月の顔は屋台の照明の具合か、劇画のような顔つきになっている。
「はい、どうぞ」
店主からお椀とポイを渡され、腕まくりとともに股を大きく開いてしゃがみ込む美月。
どれだけズロースが見えているかが美月という少女の気合いを測る物差しになっているようだった。
すなわち、丸見えである。

「おりゃ!」
気合いとともに群れのかたまり目掛けて差し込んだポイだったが、勢いのあまり金魚に触れる前にアミの和紙が溶けてしまった。
「ありゃ?」
「お嬢ちゃん金魚すくい初めて?」
屈み込む店主に、悲愴と絶望を掛け合わせたような劇画顔を向ける美月。
「じゃあもう1回サービスだ。ほら、こうやって……」
心優しき店主が見せる手本の一部始終を、美月は見開いたその大きな眼でトレースを試みる。
ポイは美月のそれとは全く異なる角度で入水し、そしてあらかじめ狙ったであろう金魚の進路上に置かれたかと思うと次の瞬間にはお椀の中に1匹の金魚が水揚げされていた。一瞬の早業。
でも、あみのとこが破れていないのはなんでだろう。

「やってごらん」
店主からポイを受け取った美月は少し思案し、手首を振りながらシャドウでイメージする。
「……よーし」
群れから少し離れて泳ぐ、赤い花のような尾びれをひらひらとさせた一匹のリュウキンに狙いを定める。
優雅なリュウキンが美月の想定する地点に入った瞬間、美月の中であらかじめ組まれていた動作のプログラムが発動。
店主の手本に限りなく近い動きによりリュウキンはプールからお椀の中に移された。

「おお、お嬢ちゃん筋がいいよ、いやうまいもんだ」
「やった……!」
美月は真顔でポイを握った拳を掲げる。
「おめでとう! はいどうぞ!」
店主からたっぷりの水が入った透明のビニール袋を渡される。
その中でも変わらず優雅に泳ぐリュウキンを見ていると達成感と喜悦が湧き上がってきた。
「やったー! とれたよ!」
金魚を女の子に掲げて見せる美月。
女の子は音こそ立てないが、ぱちぱちと手を叩いて笑顔を綻ばせている。

「はい、これ、あげるね」
美月はその笑顔に向けてビニール袋を差し出した。
「……いい……の……?」
女の子は驚いた様子ながらも小さく手を伸ばしている。欲しかったのだろう。
「うん! だいじに飼ったげてね!」
「……ありがとう」
女の子は目を細め、ビニール袋を大事そうに抱えた。
美月は自分ばかり楽しんでしまっていたので、どこか安心した気持ちになった。
それに念願の金魚すくいなるものを堪能できすっかりご満悦だ。

「あと1枚……だけど、なんかする?」
美月が訊ねると女の子は周囲を見渡して、斜向かいにある屋台を指差した。
くじ引き。美月自慢の運動能力の出る幕はなさそうである。
「くじ? 私こういうのぜんぜんだめで~」

「わたし、やりたい」
初めて女の子が意志を示したことに嬉しくなり、美月は何度も強く頷いた。
「うん、やってみて!」
女の子は景品をひと通り見たあと、店内奥にかかっているキャラクターの仮面の方を一瞥した。
「じゃこん中に手を入れて、1枚だけ紙引いてねー」
店主が穴の空いた箱を差し出す。
中は三角形に折られた色とりどりの紙で満たされていた。

女の子は箱の中に手を入れ、今まで見せたことのない真剣な表情となる。
どこか感情に乏しかった目を大きく見開き、まっすぐに美月を見据えている。
それに気付いた美月は手を振って何か応援なりしようしたが、腕を上げかけて止めた。
女の子の目の焦点は、美月には合っていないようだった。
不思議な感覚だった。自分を見ているのに、見ていない。

そして……美月は今初めて気付いたが、それはすごく……ものすごくきれいな目だった。
美月がどこか呆気に取られている間に女の子は紙を引いており、店主がそれを広げて見せる。
「ジャン! 景品は、“お面”でしたー。じゃこん中から好きなん選んでー」
女の子は迷うことなく、動物モチーフのキャラクターのお面を指さした。

美月はほほう、とアゴに指をそえる。
知ってる知ってる。
ポシェットモンスターみたいな名前のゲームの人気キャラクターでしょ。
キツネのキャラのね。

店主からお面を受け取ると、それを美月に差し出す。
「え……これ、くれるの? 欲しかったんじゃないの?」
首をふり、にこりと微笑む。
「にあうと、おもった」
「え、そう? ふふっ!」
美月はお面を受け取り、早速つけてみる。
「コン! なんてね。ありがとう!」
本当はこのキャラクターのことを詳しく知らないが、片手をくいっと折り曲げて、キツネ的なポーズをとってみる。
ん? もしかしてこれじゃ招き猫かも。


そのとき、美月は後ろの方で自分の名前を呼ぶ声を聞いた。
パパだ。ママもいる! お面をずらし、声がした方を振り返る。
相変わらずの人の波の先は身長の低い子どもには窺えないが、それは確かに、両親の声だった。
「私のパパとママが来たみたい。ね、パパとママにも探すの手伝ってもらお」
美月は両親がいると思われる方を指さすが、そこで肝心なことに気が付く。

「あ、名前、聞いてなかった……。ごめんね、私は美月っていうの。桜永美月。あなたは?」
「……ぃ」
女の子の口が小さく動くが、美月の耳に届く前に喧騒に溶けてしまう。
「え?」
「……ぅぃ……」
「うい……ちゃん?」
女の子が微笑む。そして、辿々しくも口を開く。

「……あ、あの……」
美月も微笑み返し、首を少しだけ傾げて“ういちゃん”の言葉を待つ。
「……みつけてくれて……ありがとう。あそんでくれて……ありがとう」
あまりにも小さなボリュームだったが、美月はその言葉が自分の耳に、いや体に届いた瞬間に自分の中に溶け沈み込んでいくような感覚を覚えた。

──『ありがとう』

あまりに単純で意味の分かりきった言葉だが、その言葉の意味というものが、真に理解できた気がした。
美月は、美月の行為はういちゃんにとって、“有難く”“滅多にない”ことであって、それが彼女の全存在に何をもたらしたかという、表現行為。
美月の体中を、止めどない多幸感・至福感が駆け巡る。
それはつまり、ういちゃんの今の感情そのものだった。
受け取った感情でその小さな体の中を飽和させてしまった美月も、彼女なりの感情表現をして見せる。いや、せずにはいられなかった。
「私こそ! すっごいたのしかったよ! ありがとう、ういちゃん!」
満面の笑みで手を広げその場で何度も飛び上がり跳ねる美月。

ひとしきり感謝を伝えた後、ういちゃんの両肩をポンと叩く。
「ちょっと待ってね、パパとママ連れてくるから」
ういちゃんは金魚が入ったビニール袋を胸に大事そうに抱え、もう片方の手を美月に小さく振る。
振り向き様に駆け出した美月は人にぶつかり、反動で地面に腰をついてしまう。
「あ、ごめんなさ……」
「みっちゃん!」
美月の父親の声。
ぶつかったのは、父親の大きな足だった。
その足の向こうから、大好きな母親の顔も覗く。
「パパ! ママ!」
母が泣いているのを見た途端、美月にも涙が込み上げて来、そしてそれはすぐに堰を切って溢れ出した。
「もー……! みっちゃん……よかった……よかったよ……もー」
嗚咽を搾り出す母に抱きしめられる美月もまた、泣きじゃくった。
「ごめんなさいごめんなさい」

美月はハッとして涙をぬぐい、来た方を振り返る。
「迷子の友だちといっしょにいて、あの」
辺りを見渡し、楽しい時を共に過ごした友人を探すが、その友人、ういちゃんの姿は、もうそこにはなかった。

「ういちゃん……?」


2012年の夏は厳しい残暑の夏だった。
盆が過ぎたあたりからがこの年の本当の夏だった。

この日、夏祭りの目玉のプログラムである盆踊りは終幕したが、往来の喧騒は、まだまだ治まる気配はない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

研修医と指導医「SМ的恋愛小説」

浅野浩二
恋愛
研修医と指導医「SМ的恋愛小説」

一夏の性体験

風のように
恋愛
性に興味を持ち始めた頃に訪れた憧れの年上の女性との一夜の経験

ドマゾネスの掟 ~ドMな褐色少女は僕に責められたがっている~

ファンタジー
探検家の主人公は伝説の部族ドマゾネスを探すために密林の奥へ進むが道に迷ってしまう。 そんな彼をドマゾネスの少女カリナが発見してドマゾネスの村に連れていく。 そして、目覚めた彼はドマゾネスたちから歓迎され、子種を求められるのだった。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

処理中です...