27 / 74
第一章
第21話/深い海の底で
しおりを挟む
突然の停電だった。
部屋の明かりが全て落ち、辺りが闇に包まれた。
横たわる唯の身体に触れる床の感触は硬く、そして冷たい。
床? 今ベッドで……。
「え……あれ……美月ちゃん?」
今の今まで向き合っていたはずの美月の気配がない。
あれだけ絡み合っていたはずの指は、今は虚空を掴んでいる。
瞳孔を極限まで広げてみても、光の粒のひとつも見えず、瞼を開いているのか閉じているのかの区別もつかない。
むしろ瞼を閉じた方が体内の化学反応による光で明るく見えるほどだった。
紛れもない、真なる闇だった。
「美月ちゃん!」
身体を起こした唯が発した音波は虚空に吸い込まれ、返ってくることはない。
本当に自分は声を出せたのか不安になる。
「うそ……何ここ……」
立ちすくむ唯の周囲がパッと照らされる。
開放しきった瞳孔に多量の光が流れ込み、目が眩んだ。
焼かれた網膜を直ちに修復し整え、薄目を開けてみる。
唯を中心として半径10メートル弱ほどがスポットライトを浴びているように明るくなっていた。
光を青白く照らし返している床の地色は濃紺で──まるで深い海の底を思わせる色をしていた。
唯の真下には周囲の闇と同じ黒い影が落ちている。
手をかざして上方に目をやるも、光源は確認できなかった。
ふと、光の円の外周の一部が歪む。
咄嗟に逆方向へ飛び退く唯。助走なし下半身のバネのみで3メートル以上の距離を跳躍した。
闇の中から現れたのは、黒葛だった。
「ごめん……唯ちゃん」
黒葛は数歩進んだあたりで立ち止まった。
大好きな恋人の姿に安堵した唯は全身の緊張を解き、周囲を見渡しながら黒葛に寄っていく。
「祐樹くん……どしたの、これ」
正面に黒葛という物質が存在することで、自分の喉から音がちゃんと出ているという実感が持てる。
「唯ちゃんの、多分意識の深いとこ、だと思う。ここに来るの、時間かかったけど」
唯には言葉の内容が深く理解できなかったが、その口ぶりに黒葛が何か意図をもってこの状況を作ったのだと察する。
しかしいくらなんでも、さすがに間が悪いのではないだろうか?
「今から、美月ちゃんと、いいとこなんだけど……祐樹くんも一緒にする?」
唯は苦笑しながらも首を少し傾げ、黒葛を誘う。
長い間、恋慕ってきた美月だ。ふたりきりで愛し合い、そして懐柔したいという願いがあったが、黒葛も美月のあまりの魅力に我慢できなくなったのだろう。無理からぬことであるし、黒葛と一緒なら、まんざらでもない。
黒葛は唯から視線を外し、濃紺の床に向かって呟く。
「……やっぱり、ダメだよ。やめよう」
「え?」
唯の足が止まった。
一瞬、聞き間違えたかと思ったが、この静謐な空間には互いの声に干渉するようなものは何もない。共犯者の思いもよらぬ言葉に面食らう。
「なんで?」
「なんでって……」
唯の笑顔が引きつる。
「ふたりで……話したじゃん、決めたじゃん」
「そ、そうだけど……」
今になって怖気付いたのだろうか。ただ自分の中に入ったままコトを見ているだけでいいのに。そういう話だったはずだ。
「ね戻して。早く美月ちゃんと一緒になりたい。なろうよ」
黒葛のどうにも煮え切らない態度に苛立つ唯は急かす。美月も待っているはずなのだ。
「絶対、後悔する」
黒葛は拳を握り締め、語気を強めた。
静かであるが、その青暗い気迫にさすがの唯も圧される。
「後悔って……私が? 祐樹くんが?」
「どっちも……だし、桜永さんも」
言い返そうと唯が口を開く前に続く黒葛の言葉で遮られる。
「に、人間じゃなくなるんだよ。色々、普通には生活できなくなる。す……水泳だって」
身体に力が入るあまり声は震え、思いの強さとは裏腹に弱々しい語調になってしまう。
唯は俯き、足元の黒い影に向けて言葉を落とす。
「やっぱり……祐樹くんには分からないんだよ。私の気持ちが」
「わ……分かる」
「分からない!」
先日と違う答えに、唯の怒気が飛んだ。
「私が……どれだけ美月ちゃんのことを……やっと……やっと会えたのに……」
一転して消え入りそうな声はポツリポツリと涙のように黒い床に吸い込まれていく。
唯の心情をそのまま吐露した言葉であることは疑いようもないが、黒葛は違和感を覚える。
やっと会えた? 何かの比喩にしても大袈裟じゃないか?
唯と溶け合うまでの自分がそうだったように、何か混乱と認知の偏りがあるのかもしれない。
「今、唯ちゃんちょっと変になって──」
「変なの? ね、私の気持ちが変なの?」
うっかり直接的な表現をしたばかりに唯の逆鱗に触れてしまう。
「ちっ、違くて……えと……」
黒葛の表現にも大いに問題があるが、唯は唯でナイーブになればなるほど言葉に対するその敏感な嗅覚が悪い方へ作用してしまうという問題を抱えていた。この状態にある唯の周囲は一面地雷原と化してしまい、踏み抜くことなく会話を行うには唯本人とて難しいと思われる。
もしできるとしたら、その地雷原をひとっ飛びで越え、そのまま唯本人を地雷原の中から蹴り飛ばすような裏技をいとも容易く行える人物──すなわち桜永美月くらいなものだろう。
しかし幸いにして美月同様、黒葛も今や唯にとって最愛の人物なのだ。
地雷は、すぐに蒸発した。
「……祐樹くんは、美月ちゃんが欲しくないの? 一緒になりたくないの?」
愚問と思いつつも、唯は確認をする。
自分の気持ちが転写されているはずの黒葛にその思いがないとは考えられなかった。
そうでなくとも、あの圧倒的美少女である。
頭を掻いたり髪をねじったりしながら黒葛は美月の印象を反芻する。
黒葛にガンを飛ばし、恫喝をし、鬼のような形相で組み敷き、普通の人間であれば即死するような暴力行為に及んだ美月。
そして腕を封じられながらも怪力のまま唯を投げ飛ばし、今はすっかり唯に骨抜きにされ心を奪われてしまった、美月。
「さ、桜永さんは……今日ちゃんと近くで見て、思ってたよりも、なんか……全然……」
次第に弱々しくなるその言葉に、唯は衝撃のあまり卒倒しそうになる。
『思ってたよりもなんか全然?』
およそ美月に対して人類が抱く感想とは思えなかった。いや、その辺の網戸に体当たりしているカナブンにだって美月の美しさは理解できるはずだ。
桜永の美月ちゃんだぞ。
思ったより大したことなかったから、遠慮したいということなのだろうか。
あのアルティメットウルトラスーパー特級美少女が同じクラスにいることさえ知らなかったこの朴念仁なら、もしかしたらあり得るのかもしれない。
呆然とする唯の様子に気付くことなく言葉の続きを探っていた黒葛だが観念した。適当なものが見当たらない。
「全然、数倍、素敵だった。優しかった。かっこよかった。きれいだった」
端的に『超ヤバい』魅力だったが、代入できる表現がないので以前聞いた唯の言葉を援用した。
唯は胸を撫で下ろし、何度も頷く。
「なら……なんで。その人と一緒になれるんだよ、祐樹くんのこと好きになってくれるんだよ」
「それは……」
黒葛はまた美月を反芻してみる。
胸が、熱くなる。
美月は終始、我が身を顧みることなくその身を挺して唯を守ろうとしていた。
自分が傷つくことが怖く何事も一歩踏み出す勇気が持てない黒葛にとって、友人のためには自分の怪我さえも厭わない彼女が眩しかった。
はずみで自分を殺めたと思い込んだときも、保身のことなど欠片も考えていないようだった。
こんなマンガのような人が現実にいるのだとショックを受けた。
唯の話も自分の中に転写された美月への印象も、多少盛られ誇張されているものだと思っていたがそんなことはなかった。そればかりか、黒葛は改めて美月に惚れてしまっていた。
また唯を守ろうと立ち回った際の自分の心の動き──おそらく自分と混ざった唯の心の情動からして、幼い頃から同じように何度も唯のピンチに駆けつけては窮地を救ってきたのだと、真に理解をした。
「桜永さんは、唯ちゃんのこと……守ろうとして……本当に、唯ちゃんのヒーローなんだね」
「そうだよ、ずっと憧れてた私の大好きな人……やっと、やっと振り向いてくれたのに」
このまま行為に及んだ場合、美月も人間ではなくなってしまう。
そのあとで冷静になった唯はきっと後悔するだろう。彼女の人間としてのその輝かしい日々を奪うことになってしまったことに。
いや、分かっているはずなのだ。自分が、黒葛という男にされてしまったことなのだから。
それでも美月は、きっとそれを笑顔で受け入れるのだろう。唯を後悔さすまいと。泣かすまいと。
今の黒葛には、それが分かる。
なぜなら、唯自身がそれを確かに分かっているからだ。
もう一つ、黒葛には分かっていることがある。
唯は胸の内に、ある“行動規範”を持っている。
迷ったとき、勇気が持てないとき、こうありたいと願うとき、参照する魂の指針。
今のこれは、その“行動規範”に沿っていると言えるだろうか?
「唯ちゃんは、本当にこれでいいの?」
「だ、ダメだけど……ダメだけど、こうするしかないじゃん……」
苦々しく頭を振る唯は目的のために、異常なほどに近視眼的になっている。
黒葛には心当たりしかなかった。
「……やっぱり、前の僕と一緒だ」
唯は歩みを進める黒葛の足運びに嫌な予感を覚える。
「嫉妬、してるでしょ。私が美月ちゃんに取られないかって。大丈夫だから……。祐樹くんのこと、大好きだから」
一歩足を下げつつ、なだめる調子で説こうとする唯。
しかし黒葛は歩みを止めない。
「そういうの、関係ないよ……。もう、やりすぎてるけど……まだ、戻れるから、今な」
「戻れないよ?」
最後の一語すら待たずに言葉が被さり、黒葛の足が止まった。
唯の口は笑っているが、目には光が差していない。
その異様な雰囲気に気圧されるも、踏ん張って心のままに言葉を繰り出す。
「戻せるでしょ、唯ちゃんなら。おうちの人にやったみたいに、暗示か分かんないけど夢ってことにしてさ。美月さんは唯ちゃんのことを好きになって、もうここまででいいじゃん。終わろうよ」
黒葛がひと息で喋った言葉としてはこれまでの人生で最長のものだった。
唯は天を仰ぐ。
光源があるはずの視線の先はどこまでも深く先の見えない暗闇だった。
ここは深海。奈落の底。
「私は……“私”はもう戻れないよ」
コーヒーとミルク。そしてカフェオレ。
覆った水がコップに戻ることは決してない。
「……それをだから、僕は後悔してるんだって」
黒葛は自分で言っておきながら何てムシの良い話だと思う。好きな人と一緒になって、後悔をする?
唯は向き直り、語気を強めて返す。
「都合良いこと言わないで。自分だけいい思いして」
「都合良いこと言ってるよ。でもしょうがないじゃん」
黒葛の語尾は唯の口調が感染ったものだった。
語尾だけではなく、いみじくもそれは唯の心の葛藤の叫びそのままでもあった。
自問自答をしている錯覚に唯は返す言葉を見失う。
散々悪事を働き、いざ次の人が同じことをしようとしてそれをどの口が咎められようか。しかし今の黒葛にはほかに術がなかった。
少し息を吐いて、興奮を抑える黒葛。
禁止カードを使う。
唯にとっての奥の手であり、同時に唯に対しても特効の、桜永美月というジョーカー。
そして、唯にとっての、“行動規範”。
今やそれは黒葛にとっての行動規範でもあった。
「『美月さんならきっとそうする』って、本当の唯ちゃんならそう言うから」
「……本当って何? 私は私だよ?」
胸に手を当て唯は訴えかけるが、前半部分は否定ができなかった。
そして黒葛も分かっている。都合よく唯を使い分けているのは、自分なのだ。
「今の唯ちゃんは唯ちゃんのことが見えてない。僕がそうだったから」
目を伏せる黒葛。
自らの欲望が欲望を呼び、膨れ上がった欲望に呑まれた挙句、唯を人でなくしてしまった。
では自分は欲望に隷従するだけの意思なき操り人形だったか?
そうとも言えるかもしれないが、常に意識があり、そして意思があった。
自律して動く黒葛祐樹という一人の人間だった。
何ものかに寄生された宿主が寄生体の都合の良い行動を取るのも、こういうことなのかもしれない。
あるものは寄生体の産卵のため水辺に近寄ったり、またあるものは次なる宿主に見つかりやすい場所に移動し、その体を晒して捕食されてしまう。
あまねく宿主たちは、全てそれが自分の意思による行動だと信じて疑うことはないのだろう。
寄生に限らない。あるいは自死の多くだってそうなのかもしれない。
なぜか、“そうするしかない”、“そうするべきだ”と思い行為に至ってしまうのだ。
「自分が見えてないって……。それは今の祐樹くんだよ」
「それは、そうかも……」
自分というものは、自分自身には永遠に分からないのかもしれない。
しかしこれまで闇の中で彷徨っていた黒葛の内には、自身を照射してくれる光源が今は二つもある。それは錯覚だとしても、信ずるに値するする光だった。
「でも、だから、唯ちゃんに代わって、僕が唯ちゃんを止める。みつ……桜永さんには、僕が説明する。聞いてもらえるとは思えないけど……」
黒葛にはまるで美月と会話ができる自信がなかったが、物理的な意味でのサンドバッグには甘んじようと思った。それでひとまずこの暴走の連鎖が止められるのならば、安いものだろう。
「何、ヒーローのつもりなの? やめてよ」
今更それはないだろうとばかりに唯が口を尖らせる。
無論、承知だった。そう、自分は今更ヒーローになんてなれない。ヒーローにとっての、悪なのだから。
「違うよ。唯ちゃんと、唯ちゃんのヒーローを守るんだ」
突然、空間にドスンという巨大な音が響き地面が揺れる。
次の瞬間、黒葛の背後に幅3メートルほどの黒錆びた鉄板──壁が出現していた。
「え……」
壁の高さは限りなく、どこまでも伸びているようだが暗い闇に溶けて先が見えない。
唯が目を凝らすと、2枚、3枚と天上から同型の壁が落下してくるのが分かった。
「ごめん。唯ちゃんの意識を、落とす」
既に落下している壁のすぐ両隣に2枚、3枚4枚と大きな音を立てて次々に壁が落下してくる様は、ギロチンのウェーブだった。
「なにこれ……」
壁は唯と黒葛の立っている場所を取り囲むように落下してくる。
唯には、これに完全に囲まれた瞬間──つまり自分の背後にまで壁が落下したとき、自分の意識が失われるという予感があった。
黒葛に向き直った唯は焦るでもなく、ただその表情に哀しみの色を滲ませている。
「祐樹くんは……分かってないよ。私のこと」
唯は右手の人差し指を立て、まっすぐに黒葛を指す。
「落ちるのは……祐樹くんだよ」
五月雨に壁が落下してくる中、自分に指を向けた唯の両目が赤く光ったのを見たのを最後に、黒葛は意識を手放した。
部屋の明かりが全て落ち、辺りが闇に包まれた。
横たわる唯の身体に触れる床の感触は硬く、そして冷たい。
床? 今ベッドで……。
「え……あれ……美月ちゃん?」
今の今まで向き合っていたはずの美月の気配がない。
あれだけ絡み合っていたはずの指は、今は虚空を掴んでいる。
瞳孔を極限まで広げてみても、光の粒のひとつも見えず、瞼を開いているのか閉じているのかの区別もつかない。
むしろ瞼を閉じた方が体内の化学反応による光で明るく見えるほどだった。
紛れもない、真なる闇だった。
「美月ちゃん!」
身体を起こした唯が発した音波は虚空に吸い込まれ、返ってくることはない。
本当に自分は声を出せたのか不安になる。
「うそ……何ここ……」
立ちすくむ唯の周囲がパッと照らされる。
開放しきった瞳孔に多量の光が流れ込み、目が眩んだ。
焼かれた網膜を直ちに修復し整え、薄目を開けてみる。
唯を中心として半径10メートル弱ほどがスポットライトを浴びているように明るくなっていた。
光を青白く照らし返している床の地色は濃紺で──まるで深い海の底を思わせる色をしていた。
唯の真下には周囲の闇と同じ黒い影が落ちている。
手をかざして上方に目をやるも、光源は確認できなかった。
ふと、光の円の外周の一部が歪む。
咄嗟に逆方向へ飛び退く唯。助走なし下半身のバネのみで3メートル以上の距離を跳躍した。
闇の中から現れたのは、黒葛だった。
「ごめん……唯ちゃん」
黒葛は数歩進んだあたりで立ち止まった。
大好きな恋人の姿に安堵した唯は全身の緊張を解き、周囲を見渡しながら黒葛に寄っていく。
「祐樹くん……どしたの、これ」
正面に黒葛という物質が存在することで、自分の喉から音がちゃんと出ているという実感が持てる。
「唯ちゃんの、多分意識の深いとこ、だと思う。ここに来るの、時間かかったけど」
唯には言葉の内容が深く理解できなかったが、その口ぶりに黒葛が何か意図をもってこの状況を作ったのだと察する。
しかしいくらなんでも、さすがに間が悪いのではないだろうか?
「今から、美月ちゃんと、いいとこなんだけど……祐樹くんも一緒にする?」
唯は苦笑しながらも首を少し傾げ、黒葛を誘う。
長い間、恋慕ってきた美月だ。ふたりきりで愛し合い、そして懐柔したいという願いがあったが、黒葛も美月のあまりの魅力に我慢できなくなったのだろう。無理からぬことであるし、黒葛と一緒なら、まんざらでもない。
黒葛は唯から視線を外し、濃紺の床に向かって呟く。
「……やっぱり、ダメだよ。やめよう」
「え?」
唯の足が止まった。
一瞬、聞き間違えたかと思ったが、この静謐な空間には互いの声に干渉するようなものは何もない。共犯者の思いもよらぬ言葉に面食らう。
「なんで?」
「なんでって……」
唯の笑顔が引きつる。
「ふたりで……話したじゃん、決めたじゃん」
「そ、そうだけど……」
今になって怖気付いたのだろうか。ただ自分の中に入ったままコトを見ているだけでいいのに。そういう話だったはずだ。
「ね戻して。早く美月ちゃんと一緒になりたい。なろうよ」
黒葛のどうにも煮え切らない態度に苛立つ唯は急かす。美月も待っているはずなのだ。
「絶対、後悔する」
黒葛は拳を握り締め、語気を強めた。
静かであるが、その青暗い気迫にさすがの唯も圧される。
「後悔って……私が? 祐樹くんが?」
「どっちも……だし、桜永さんも」
言い返そうと唯が口を開く前に続く黒葛の言葉で遮られる。
「に、人間じゃなくなるんだよ。色々、普通には生活できなくなる。す……水泳だって」
身体に力が入るあまり声は震え、思いの強さとは裏腹に弱々しい語調になってしまう。
唯は俯き、足元の黒い影に向けて言葉を落とす。
「やっぱり……祐樹くんには分からないんだよ。私の気持ちが」
「わ……分かる」
「分からない!」
先日と違う答えに、唯の怒気が飛んだ。
「私が……どれだけ美月ちゃんのことを……やっと……やっと会えたのに……」
一転して消え入りそうな声はポツリポツリと涙のように黒い床に吸い込まれていく。
唯の心情をそのまま吐露した言葉であることは疑いようもないが、黒葛は違和感を覚える。
やっと会えた? 何かの比喩にしても大袈裟じゃないか?
唯と溶け合うまでの自分がそうだったように、何か混乱と認知の偏りがあるのかもしれない。
「今、唯ちゃんちょっと変になって──」
「変なの? ね、私の気持ちが変なの?」
うっかり直接的な表現をしたばかりに唯の逆鱗に触れてしまう。
「ちっ、違くて……えと……」
黒葛の表現にも大いに問題があるが、唯は唯でナイーブになればなるほど言葉に対するその敏感な嗅覚が悪い方へ作用してしまうという問題を抱えていた。この状態にある唯の周囲は一面地雷原と化してしまい、踏み抜くことなく会話を行うには唯本人とて難しいと思われる。
もしできるとしたら、その地雷原をひとっ飛びで越え、そのまま唯本人を地雷原の中から蹴り飛ばすような裏技をいとも容易く行える人物──すなわち桜永美月くらいなものだろう。
しかし幸いにして美月同様、黒葛も今や唯にとって最愛の人物なのだ。
地雷は、すぐに蒸発した。
「……祐樹くんは、美月ちゃんが欲しくないの? 一緒になりたくないの?」
愚問と思いつつも、唯は確認をする。
自分の気持ちが転写されているはずの黒葛にその思いがないとは考えられなかった。
そうでなくとも、あの圧倒的美少女である。
頭を掻いたり髪をねじったりしながら黒葛は美月の印象を反芻する。
黒葛にガンを飛ばし、恫喝をし、鬼のような形相で組み敷き、普通の人間であれば即死するような暴力行為に及んだ美月。
そして腕を封じられながらも怪力のまま唯を投げ飛ばし、今はすっかり唯に骨抜きにされ心を奪われてしまった、美月。
「さ、桜永さんは……今日ちゃんと近くで見て、思ってたよりも、なんか……全然……」
次第に弱々しくなるその言葉に、唯は衝撃のあまり卒倒しそうになる。
『思ってたよりもなんか全然?』
およそ美月に対して人類が抱く感想とは思えなかった。いや、その辺の網戸に体当たりしているカナブンにだって美月の美しさは理解できるはずだ。
桜永の美月ちゃんだぞ。
思ったより大したことなかったから、遠慮したいということなのだろうか。
あのアルティメットウルトラスーパー特級美少女が同じクラスにいることさえ知らなかったこの朴念仁なら、もしかしたらあり得るのかもしれない。
呆然とする唯の様子に気付くことなく言葉の続きを探っていた黒葛だが観念した。適当なものが見当たらない。
「全然、数倍、素敵だった。優しかった。かっこよかった。きれいだった」
端的に『超ヤバい』魅力だったが、代入できる表現がないので以前聞いた唯の言葉を援用した。
唯は胸を撫で下ろし、何度も頷く。
「なら……なんで。その人と一緒になれるんだよ、祐樹くんのこと好きになってくれるんだよ」
「それは……」
黒葛はまた美月を反芻してみる。
胸が、熱くなる。
美月は終始、我が身を顧みることなくその身を挺して唯を守ろうとしていた。
自分が傷つくことが怖く何事も一歩踏み出す勇気が持てない黒葛にとって、友人のためには自分の怪我さえも厭わない彼女が眩しかった。
はずみで自分を殺めたと思い込んだときも、保身のことなど欠片も考えていないようだった。
こんなマンガのような人が現実にいるのだとショックを受けた。
唯の話も自分の中に転写された美月への印象も、多少盛られ誇張されているものだと思っていたがそんなことはなかった。そればかりか、黒葛は改めて美月に惚れてしまっていた。
また唯を守ろうと立ち回った際の自分の心の動き──おそらく自分と混ざった唯の心の情動からして、幼い頃から同じように何度も唯のピンチに駆けつけては窮地を救ってきたのだと、真に理解をした。
「桜永さんは、唯ちゃんのこと……守ろうとして……本当に、唯ちゃんのヒーローなんだね」
「そうだよ、ずっと憧れてた私の大好きな人……やっと、やっと振り向いてくれたのに」
このまま行為に及んだ場合、美月も人間ではなくなってしまう。
そのあとで冷静になった唯はきっと後悔するだろう。彼女の人間としてのその輝かしい日々を奪うことになってしまったことに。
いや、分かっているはずなのだ。自分が、黒葛という男にされてしまったことなのだから。
それでも美月は、きっとそれを笑顔で受け入れるのだろう。唯を後悔さすまいと。泣かすまいと。
今の黒葛には、それが分かる。
なぜなら、唯自身がそれを確かに分かっているからだ。
もう一つ、黒葛には分かっていることがある。
唯は胸の内に、ある“行動規範”を持っている。
迷ったとき、勇気が持てないとき、こうありたいと願うとき、参照する魂の指針。
今のこれは、その“行動規範”に沿っていると言えるだろうか?
「唯ちゃんは、本当にこれでいいの?」
「だ、ダメだけど……ダメだけど、こうするしかないじゃん……」
苦々しく頭を振る唯は目的のために、異常なほどに近視眼的になっている。
黒葛には心当たりしかなかった。
「……やっぱり、前の僕と一緒だ」
唯は歩みを進める黒葛の足運びに嫌な予感を覚える。
「嫉妬、してるでしょ。私が美月ちゃんに取られないかって。大丈夫だから……。祐樹くんのこと、大好きだから」
一歩足を下げつつ、なだめる調子で説こうとする唯。
しかし黒葛は歩みを止めない。
「そういうの、関係ないよ……。もう、やりすぎてるけど……まだ、戻れるから、今な」
「戻れないよ?」
最後の一語すら待たずに言葉が被さり、黒葛の足が止まった。
唯の口は笑っているが、目には光が差していない。
その異様な雰囲気に気圧されるも、踏ん張って心のままに言葉を繰り出す。
「戻せるでしょ、唯ちゃんなら。おうちの人にやったみたいに、暗示か分かんないけど夢ってことにしてさ。美月さんは唯ちゃんのことを好きになって、もうここまででいいじゃん。終わろうよ」
黒葛がひと息で喋った言葉としてはこれまでの人生で最長のものだった。
唯は天を仰ぐ。
光源があるはずの視線の先はどこまでも深く先の見えない暗闇だった。
ここは深海。奈落の底。
「私は……“私”はもう戻れないよ」
コーヒーとミルク。そしてカフェオレ。
覆った水がコップに戻ることは決してない。
「……それをだから、僕は後悔してるんだって」
黒葛は自分で言っておきながら何てムシの良い話だと思う。好きな人と一緒になって、後悔をする?
唯は向き直り、語気を強めて返す。
「都合良いこと言わないで。自分だけいい思いして」
「都合良いこと言ってるよ。でもしょうがないじゃん」
黒葛の語尾は唯の口調が感染ったものだった。
語尾だけではなく、いみじくもそれは唯の心の葛藤の叫びそのままでもあった。
自問自答をしている錯覚に唯は返す言葉を見失う。
散々悪事を働き、いざ次の人が同じことをしようとしてそれをどの口が咎められようか。しかし今の黒葛にはほかに術がなかった。
少し息を吐いて、興奮を抑える黒葛。
禁止カードを使う。
唯にとっての奥の手であり、同時に唯に対しても特効の、桜永美月というジョーカー。
そして、唯にとっての、“行動規範”。
今やそれは黒葛にとっての行動規範でもあった。
「『美月さんならきっとそうする』って、本当の唯ちゃんならそう言うから」
「……本当って何? 私は私だよ?」
胸に手を当て唯は訴えかけるが、前半部分は否定ができなかった。
そして黒葛も分かっている。都合よく唯を使い分けているのは、自分なのだ。
「今の唯ちゃんは唯ちゃんのことが見えてない。僕がそうだったから」
目を伏せる黒葛。
自らの欲望が欲望を呼び、膨れ上がった欲望に呑まれた挙句、唯を人でなくしてしまった。
では自分は欲望に隷従するだけの意思なき操り人形だったか?
そうとも言えるかもしれないが、常に意識があり、そして意思があった。
自律して動く黒葛祐樹という一人の人間だった。
何ものかに寄生された宿主が寄生体の都合の良い行動を取るのも、こういうことなのかもしれない。
あるものは寄生体の産卵のため水辺に近寄ったり、またあるものは次なる宿主に見つかりやすい場所に移動し、その体を晒して捕食されてしまう。
あまねく宿主たちは、全てそれが自分の意思による行動だと信じて疑うことはないのだろう。
寄生に限らない。あるいは自死の多くだってそうなのかもしれない。
なぜか、“そうするしかない”、“そうするべきだ”と思い行為に至ってしまうのだ。
「自分が見えてないって……。それは今の祐樹くんだよ」
「それは、そうかも……」
自分というものは、自分自身には永遠に分からないのかもしれない。
しかしこれまで闇の中で彷徨っていた黒葛の内には、自身を照射してくれる光源が今は二つもある。それは錯覚だとしても、信ずるに値するする光だった。
「でも、だから、唯ちゃんに代わって、僕が唯ちゃんを止める。みつ……桜永さんには、僕が説明する。聞いてもらえるとは思えないけど……」
黒葛にはまるで美月と会話ができる自信がなかったが、物理的な意味でのサンドバッグには甘んじようと思った。それでひとまずこの暴走の連鎖が止められるのならば、安いものだろう。
「何、ヒーローのつもりなの? やめてよ」
今更それはないだろうとばかりに唯が口を尖らせる。
無論、承知だった。そう、自分は今更ヒーローになんてなれない。ヒーローにとっての、悪なのだから。
「違うよ。唯ちゃんと、唯ちゃんのヒーローを守るんだ」
突然、空間にドスンという巨大な音が響き地面が揺れる。
次の瞬間、黒葛の背後に幅3メートルほどの黒錆びた鉄板──壁が出現していた。
「え……」
壁の高さは限りなく、どこまでも伸びているようだが暗い闇に溶けて先が見えない。
唯が目を凝らすと、2枚、3枚と天上から同型の壁が落下してくるのが分かった。
「ごめん。唯ちゃんの意識を、落とす」
既に落下している壁のすぐ両隣に2枚、3枚4枚と大きな音を立てて次々に壁が落下してくる様は、ギロチンのウェーブだった。
「なにこれ……」
壁は唯と黒葛の立っている場所を取り囲むように落下してくる。
唯には、これに完全に囲まれた瞬間──つまり自分の背後にまで壁が落下したとき、自分の意識が失われるという予感があった。
黒葛に向き直った唯は焦るでもなく、ただその表情に哀しみの色を滲ませている。
「祐樹くんは……分かってないよ。私のこと」
唯は右手の人差し指を立て、まっすぐに黒葛を指す。
「落ちるのは……祐樹くんだよ」
五月雨に壁が落下してくる中、自分に指を向けた唯の両目が赤く光ったのを見たのを最後に、黒葛は意識を手放した。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる