上 下
25 / 29

英雄籠絡

しおりを挟む
  2023年6月2日(金) 18:30 唯の部屋
  ※軽度性描写注意



「意味……分かんない」

美月は俯いたまま低い声を吐き捨てた。
その美月を後ろ手に拘束する唯は、美月の肩から顎を離して小さくため息を吐く。
「私説明、下手だよね……分かりづらくてごめんね」

一昨日、美月と別れたあとに自分の身に何が起きたかを唯は滔々と語ってみせた。
自分がどんなにひどい目に遭ったか、ではなかった。
いかに素晴らしい体験を経て新しい自分に生まれ変われたのかという起承転結を、美月の耳元で実に楽しそうに情感高らかに語ってみせたのだった。
小鳥のさえずりを思わせる角の取れた声音は確かに唯のものだったが、それに艶やかなリップノイズと少しばかりのハスキーさが加わった、美月の知らない唯の声だった。その幼さと色気とが同居するウィスパーボイスの洗礼に美月は恍惚と酩酊状態になりながらも何とか話の大筋は理解できた。

その上で、全く意味が分からなかった。
説明が下手だとか、そういう次元の問題ではない。死んだり生き返ったり? 体が泥になって溶け合いました? すると何か? 唯もその男同様に人外となって、好きでもなかった男のことを大好きになって今は付き合ってます?
馬鹿じゃないの?

「馬鹿じゃないの」
馬鹿げている。何だろう、今流行ってるのだろうかこういうアニメだかマンガだか。反吐が出そうだ。唯は普段もっとちゃんとした話に触れているんじゃなかったのか。
「私の言うこと……信じられないよね」
唯がそう呟くと、その声色に対して美月は何か空気を取り繕わなければという焦燥に駆られる。
唯の悲しく寂しそうな声は普段に増して美月の心を妙にざわつかせる。
「でも、こんなん聞かせてさ、どうするの。やっぱり、分かんないよ」
語気を抑えると、今度は逆にすがるような口調になってしまった。
その気勢の弱まりを逃さないとばかりに、再び美月の肩に唯の顎が乗せられる。
ベトっとした感触は、ブラウスにできている顎の形をした汗ジミによるものだ。

「さっき、言ったじゃん」
脳が揺れる。痺れる。
唯の声が、気持ちいい。もっと聞きたい。
「これから美月ちゃんがどうなるか……」
恐怖と快楽、そしてほんの僅かな期待とで美月の情緒は激しく動乱した。
感情の針は日常生活の中で振れる閾値を遥かに超えているが、唯は構うことなく美月の耳に次々に言の葉を忍び込ませる。
「私……美月ちゃんが思っているよりもね、ずっとズルくてドス黒いんだよ」
確かに、唯はさっき公園でそんなことを言った。
「分かんないけど……唯が……私が唯のこと好きになるようにするってことなの?」
自分で言ってみてあまりの馬鹿らしさに失笑する。

しかし実際どうだろう。
唯の声、唯のにおい、背中に感じる唯の体温、ただそこに唯がいるということ。
そのどれもが今の美月にとって凄まじい快楽を励起させる刺激となっている。
これが、唯の言うフェロモンとやらの効果なのだろうか。

「私のことを好きになるっていうのだと……半分正解かな?」
激しい動悸に見舞われる美月とは対照的に唯の調子はあっけらかんと、軽妙でさえある。
「でも、唯には……黒葛君がいるんでしょ。私が、唯に、片想いし続けるようにしたいの?」
唯がそんな姑息で程度の低い当てつけをするとは美月にも思えなかったが、唯の心が自分に向けられなくなることに、なぜだろうか焦燥感を覚えるようになっていた。

「言ったでしょ」
吐息が美月の耳孔を掘る。
「美月ちゃんが欲しいって」
美月の胸が、経験したことのない高鳴りを上げた。
喜びとも驚きとも興奮ともつかない情動の込み上げに心臓を吐き出しそうになる。

それでも、いくら身体や心が惑乱していようと、その強靭な理性は何とかこの状況に疑義を呈した。
「唯……でもやっぱりおかしいよ、こんな無理矢理なやり方」
唯は少し返答に詰まったようだったが、ややあってまた美月の耳に甘い痺れを送り込む。
「私もね、諦めてたんだよ……」
悲しみの色が滲む声色に美月は胸を痛める。しかし。
「でも……祐樹くんが私に力をくれたの」
パッと花が咲いたように唯の声色が喜色に転じ、美月は耳にまとわりついたものを振り払おうと身を乗り出す。
「やっぱり……黒葛、あんた何なの。唯に何したんだよ」
それまでずっと所在なさげにしていた黒葛だったが突如の恫喝に身を震わせた。
「何か言え……! さっきから唯にばっかしゃべらせて卑怯もの」
「違うの。祐樹くんは許してくれたんだよ。私のワガママをね」
黒葛に向けられた敵意をすぐに唯の言葉が庇う。
それは美月と黒葛の双方を優しくなだめる語調だった。

「無茶苦茶だよ……さっきからさぁ」
自慢の肉体は封じられ、会話をしようにもてんで箸にも棒にも掛からない。
ついに美月の目にも涙が浮かんだ。
それを察したのか、慌てて口をぱくぱくさせるのは黒葛だった。
「ゆ、唯ちゃん……茜川さんは、本当に、さ、桜永さんのこと……好きで」
「黙れ」
必死の弁明は組まれることなく美月の一喝により切り裂かれた。
発言を促したのは美月だったが、一言一句全てが癇に障る言葉だった。
しかし黒葛は視線を外した上で、ポツポツと弁明を続ける。
「僕も……唯ちゃんと一緒になって、すごくそれが分かった。だから」
やはり意味も分からない上に癇に障るが美月は毒気を抜かれてしまう。
唯と似た喋り方だったからだ。
声の抑揚や言葉のの具合。ボイスチェンジャーを使えば唯の喋りとほとんど区別がつかないかもしれない。
「……何が分かんだよお前に唯の」
気勢を削がれた美月の声は打って変わって蚊の鳴くような音だった。
「美月ちゃんにもすぐ分かるよ」
黒葛に代わり唯が答えると、その声で美月が目の前の男のために積み上げていた悪意が一気に瓦解し、そして脱力した。
一体自分は、どうしてしまったというんだろう。


「唯……怖いよ」
「ああ美月ちゃんかわいい……」
いつも自分を守ってくれる美月が目に涙を浮かべてすがってくる倒錯的な状況に、唯の庇護欲が刺激される。
「私もね、祐樹くんと溶けたとき……最初はすごく嫌だったの。怖かったの。でもね、祐樹くんの気持ちがすごく伝わってきてね……ううん、祐樹くんの好きの気持ちが私の好きの気持ちと一緒になったの。だから大丈夫」
そのときの情景を恍惚と思い浮かべているであろう唯の目は、今にも顔から溶け落ちそうだった。
唯の表情を見ることのできない美月にも、その蕩けた顔が容易に想像できてしまう。
そして、ぞっとする。一体、何が大丈夫だというんだろう。

「美月ちゃんも、私のこと……好きになってくれる。祐樹くんのことも、大好きになる。大丈夫」
唯の言葉は、舞い落ちる優しい羽毛だった。
美月の胸の内にひらひらと舞っては不安を覆い隠すように積もっていく。
そうして徐々に不安を忘れ、唯にもう全てを委ねてしまいたくなる美月だったが、ひとつ気になることがあった。
「好きになるって……。何、じゃあ黒葛……、あんた私のこと」
美月は正面の男に焦点を合わせようとして、脱力した首が据わらず見下すような視線になる。
「……うん、ごめん。すごく……好きになってる……」
もじもじと膝を揺らしながら頭頂部の髪の毛をくるくるとより合わせる黒葛。
火照っていた美月の顔から一気に血が引いた。
「冗談よしてよ……」
そう漏らしたのは、自分に向けられた好意もそうだが、一番は黒葛が見せた動作に対してだった。
今の手癖──頭頂部付近の髪の毛をより合わせるようにいじるのは、唯の癖だった。
何か言い淀むときや、難解な本を読んでいるときに無意識に行う、唯の手癖。そのせいで唯の頭のてっぺんにはしばしばいわゆるアホ毛と呼ばれるものが発生している。

「唯ちゃん、あとは……」
この状況下にあってここが黒葛の限界だった。
「うん、私にやらせて。ありがとう」
唯の答えを受け、黒葛は前髪の隙間から美月を一瞥した。
美月はそのとき初めて黒葛の目を見た。
睨むような鋭い目つきは本人のオドオドした態度や喋り方の印象からすると意外に思えたが、何か意志が秘められているように見えた。

次の瞬間、美月の目にはという、あり得ない現象が映っていた。
人が形象を失い一瞬で泥になる現象よりは、人が床の中にドボンと潜るという現象の方が蓋然性が高いと美月の脳が判断したのだろう。
が、黒葛のいた場所に黒い泥だまりが広がっているのを見て、唯から聞かされた“人が泥になる現象”を思い出し、目の前の現実離れした光景に当てはめて何とか理解をしようとする。
それでも脳が追いつかず思考がフリーズしかけた美月に、黒い泥が飛びかかってくる。

思わず目と口を閉じた美月の顔の横をそれは通過していった。
「い、いま……え……?」
はっきりとは見えなかったが、黒い泥は美月を拘束する唯の頭部あたりに吸い込まれていったようだった。
「ふふ……祐樹くんとまた一緒になった……」
振り返ろうとした美月は、身体を傾げて口を大きく開けた唯と目が合った。
「こうやってね、祐樹くんを私の中に入れてね、帰ってきたんだよ。便利でしょ」
唯は見せつけるように口元に付着した黒い飛沫を舌で舐め取った。
美月はその淫靡な仕草に生唾を飲み込みそうになるも気を取り直す。

よく分からないが、これで今この空間には自分と唯しかいなくなった。
唯をおかしくさせた元凶がいない今がチャンスかもしれない。

「唯、絶対助けるから」
美月は後ろ手に組まされてる腕に力の限りを込め、拘束を解こうと試みる。
「くぅ……あぁああ……!」
関節が外れてしまいそうだ。筋が悲鳴を上げているのが分かる。
ごめん、でもお願い。どうか私の言うことを聞いて。

腕を押さえている唯にも美月が尋常ではないほどの力を込めていることが分かる。
もはや人間ではない唯には余力は多分にあるが、拘束を解いた瞬間のエネルギーが美月の腕に深刻なダメージを与えてしまうことは明らかだった。
「やめて、美月ちゃん。美月ちゃんの腕が壊れちゃうよ」
「そんなんいいよ。唯騙されてるよ。ねぇ……警察いこ?」
「美月ちゃん……」
唯は腕を美月の胴にまで回し、後ろ抱きの形を取ろうとする。
拘束というよりもはやハグである体勢により唯の胴体が美月の背中に押し当てられる。
その強い密着感は、瞬間的に美月に恐怖を覚えさせるものだった。

「ごめん唯」
美月は座った体勢から勢いよく立ち上がり、背の低い唯も釣られるように立ち上がってしまう。
「あっ」と唯が言う間に今度は大きく腰を下ろし、唯の体重全てを美月の背中が負う。
「ふっ」
一度軽く振りかぶり、そのまま気合とともに唯の身体をベッドの上に投げつけた。
上体を封じられながらの一か八かの背負い投げだった。
「いっつぁ……」
拘束を解かれた美月だったが、肩を押さえてその場に座り込む。
筋と関節を痛め、腕がこむら返りを起こしている。

「もぉ……無茶するなぁ……びっくりしたよ」
唯は美月渾身の投げ技に受け身を取ることもなく、公園でのブランコのときのように、きれいな着地をしていた。
美月を離さないでいることもできたが、水泳選手である美月の肩が外れてしまう寸前に手を離したのだった。

「唯……絶対……助ける……から」
肩を押さえながら、何とか立ち上がろうとするが、腰が痺れて足に力が入らない。
呼吸は荒くなれど、酸素は一向に美月の身体を巡らない。
それどころか、ますます身体が重くなる気がした。酷使した筋肉に疲労物質が蓄積していっているような。
しかし実際に美月の身体に溜まりその自由を奪っているのは、危険な媚毒だった。

「でもちょうどよかった」
ベッドの上に座り直した唯から腕が伸びてくる。
「ゆっ……」
抵抗することもできず美月は再び片腕を掴まれてしまう。
そして体重40キログラム足らずの唯が、1.5倍以上の重量がある美月の身体を難なくベッドの上に引き上げる。
気絶していた美月をベッドの上に運んだのも、唯一人の手によるものだった。

「……た、助け……」
それでもなおベッドから這い降りようとする美月。
助けは来ないのに。
苦笑する唯はその身体を引き戻そうとして、手を止める。

「た、助け……助けるから……私が……」
うわ言のように呟きながらも、あくまでも自分を案じている美月を唯はたまらなく愛しく思う。
「美月ちゃんは……やっぱり私のヒーローだよ」
唯はベッドから半分ほど身を乗り出している美月の身体を、その小さな身体に引き寄せ、抱きしめる。

「ゆ、唯……だめ……やめて……」
美月は幼馴染による強い抱擁に身に覚えのない多幸感を覚える。
いや……知っている。
幼い頃、母の胸に抱かれ、父の大きな背に負われたときに感じた、優しくも甘い充足感。
しかし、なぜ。満たされた気持ちになりながら、なぜこんなにも切ないのだろう。

「やっと……つかまえた」
胴に巻き付いた唯の手のひらがさわさわと美月の身体のラインを確かめている。
その一つひとつの動作に美月の肌は歓喜と興奮の汗を吹き出し、ブラウスの上に手形をいくつも残していくようにも思えた。
「はなして……お願い……」
美月は弛緩した腕に力を込め、張り付いて離れない唯の肩へと触れる。
しかしろくに力の入らない腕は唯の肩から腕を彷徨い、そして背中へと回った。
いみじくも抱き合う形になったが、朦朧とした意識の中で美月はほとんど無意識だった。
一方の唯は歓喜のあまり気がおかしくなりそうだった。
「ああ……美月ちゃん……」
腕を支点に自らの腰を、足を美月側へ引き寄せる。
姿勢を崩した唯に引かれるように美月もまた体勢を崩し、二人は抱き合ったままベッドの上に横になった。

「唯……変だよ……こんなの……」
困惑しながらもされるがままの美月だが、唯の背中を手のひらでさすっている。さすってしまう。
唯はもどかしく思いながらも密着した身体を少し離し、二人の顔は鏡写しのように向き合った。
「み、見ないで……」
一瞬、唯の顔を見てしまった美月はすぐに目を逸らす。目を合わせたままだと本当に自分がどうにかなってしまいそうだった。
いや、もうおかしくなっていることは分かる。が、もう本当に引き返せなくなってしまう。
唯は美月の頬に手を添える。
「ほら、逸らさない」
先日、二人で下校した際のやりとりの意趣返しだった。

あのときは火照る唯の頬に対してひんやりとした美月の手のひらだったが、今は二人ともたぎる熱、汗をその手のひらに湛えている。
紅潮する美月の頬。一方の唯も長年の想い人と結ばれることへの期待でその全細胞が煮えたぎっている。

「美月ちゃん、私の目を見て」
その目は蕩けたゼリーだった。
唯の、ではない。美月の黒いダイヤの瞳はすっかり蕩け、まともに世界を映すことができなくなっていた。
その蕩けた目は持ち主の意思とは無関係に、唯の目にのみに焦点を合わせてしまう。
そして網膜に焼き付けるのだった。全てをゆるし、肯定してくれる、優しくも魔性の瞳を。

「あ……」
美月の意識が、唯の瞳の中に吸い込まれていく。
そうしてからになっていく隙だらけの意識に唯が侵入してくる。愛の言葉を抱えて。
「美月ちゃん……大好き」
美月の全身を唯の言葉が駆け抜け、その軌跡には痺れを伴った快楽が追従する。
もう、美月は目を離せなかった。
唯を、自分にとめどない快楽をくれるこの人を、目から耳から、五感の全てで取り込みたい。

「ねぇ美月ちゃん……」
呼びかけの声とともに、唯の熱い吐息が美月の顔にかかる。
劣情を掻き立てる甘く官能的な……発情しきったケモノの匂いだった。
「今から……私と……ひとつになって欲しい……」
「ひ……ひとつ……?」
美月には“ひとつになる”の具体的な意味が分からなかったが、“ひとつになる”というその概念に、あるいはその音の響きに胸が高鳴り、全身がざわめく。
この胸の高鳴りを素直に分析するならどうだろうか。
おそらく、目の前の幼馴染に自分を明け渡したいし、自分もこの幼馴染が欲しいと思う。
。美月の本能がそう騒ぎ立てる。

欲しい。
あげたい。
なりたい。
なってほしい。
唯になりたい。
唯を、私にしたい。
唯とひとつになりたい。
なんで唯とひとつじゃないんだろう。

「だめ……?」
「そっ……」
唯の悩ましげな表情に、そんなことは……と言いかけて口籠る。
「もう……お部屋のにおい、気にならなくなってるでしょ」
確かに、そうだった。今は普通に呼吸ができているどころか、荒い呼気を繰り返しているが、平気だ。
「今もね……すごいプンプンしてるんだよ……。でも平気なのはね」
美月の耳元で悪魔が囁く。
「美月ちゃんがもうそれだけ私のこと、好きになってるから」
美月は自分の脳の中からプツプツという音を聴く気がした。
何かが千切れる音かもしれないし、逆に新しい何かが芽生える音かもしれない。
思考がふやけ蕩けた美月は白目を剥きかけている。
サナギは成虫へと変態するにあたり、一度自らの体をドロドロに融解させた上で新たに再構築する。その過程で脳の組成も変わる。
まさにそれが美月の脳でも行われようとしていた。

「ああ美月ちゃん美月ちゃん」
美月の様子に、唯が泣きたくなるほどの歓喜の声を上げる。
もう人ではない唯には分かるのだ。
美月ちゃんが変わっていく。私を受け入れ、愛し合うための準備を始めている。
美月の全身から唯のそれ似た、ケモノの匂いが立ち昇り始める。
美月が欲しいと思うモノを惑わし、美月のモノにするための誘因香。

「唯……唯、私変だよ……なんで……」
美月が、自分の意思とは無関係にメスとしての蓋を開いた瞬間だった。
羽化の始まりと、少女の時代の終わり。
かつてない美月の色香にあてられた唯も、湧き立ち上がってくる芳香を余すことなく吸い込み、その身と心を昂らせていく。
「美月ちゃん……キス……したい」
「き、きす……?」
その蠱惑的な響きに、美月には拒む理由がなかった。
むしろ、それをしないとおかしいとさえ思う。
美月のおとがいが震えながら少しだけ上向くのを唯は逃さなかった。
「んっ」
スイッチを入れられた電磁石のごとく美月に吸い付く唯の唇。
唯が何度も何度も夢見ていた、優しく牧歌的ですらある美月との初めてのキスとは趣を異にするものだった。

「ぁ……ゆぃ……」
しかし、美月の表情に戸惑いの色はなかった。
ただ、柔らかくもありながら張りのある、不思議な感触に美月の思考が奪われていく。
知らない感触だが、身体は知っているように思えた。
この身体が作られてから17年間、待ち侘びていた感触。
先祖代々、どころか地球の生物がただの一本の管の形をしていた頃から営まれてきた、結合の嚆矢である、儀式。
顔を傾けたり、唇をずらしたりしながら、互いの接合部の形を確かめ合う。
唇だけではなかった。背中に回しあった腕で身体を寄せ合い、互いに存在そのものを確かめ合った。
唯は確かにここにいる。
でも、もどかしい。もっと確かめたい。服が、邪魔だ。

形象を取り戻しつつあった美月の思考は、唇を割って口内に入ってきた熱いぬめりの塊によってまた溶かされてしまう。
最初はそれが何か分からなかったが、自分の口内にも同じものがあることに気付く。
大量の唾液を湛えた唯の舌はきれいに噛み合わされた美月の歯茎を蹂躙しながら、その表面に粘液を塗りたくっていく。
それは表面麻酔だった。
歯科医療のそれと違うのは、治療のためではなく、美月の口内全てを掌握するための外堀を埋める行為に近い。
そして、埋められたはずの外堀はすぐに唯の毒に侵され、唯のモノとされてしまった。
美月の歯茎が脳に疼きという信号を送る。

 『唯を受け入れて。一緒に気持ちよくなろうよ』

美月は、開門した。
同時に押し寄せる蛇のような舌と、唾液の洪水。
粘液はたちどころに美月の口内を麻痺させ、そして美月の舌も懐柔する。
唯の蛇が美月の舌を蛇に変え、二対の海蛇は粘液の海で絡まり踊った。
二人の口元からは絶え間なく水音が響き、口の端から溢れ出た熱い唾液がシーツの上にはたたとシミをつくる。
そして多量の粘液を残して唯が蛇を引き上げた。

「美月ちゃん……オトナのキスだよ……」
美月はまだ舌をコロコロとさせながら進んで口内に唯の唾液を塗り込んでいる。

「飲んで」
唯のその言葉を待っていたのか、すぐに喉を大きく鳴らして美月はあのジュースの原液である媚毒を経口で取り入れた。
すぐに脳の一部がしびれ麻痺をする一方で美月の身体中を劣情が駆け巡る。
もう、美月の中に媚毒に対して警戒するような野暮なものは何ひとつ残っていなかった。美月の意識も、無意識の防衛本能も、全てが諸手を挙げて唯の毒を歓迎している。
そう、これを飲めば……私は……唯になれる。
美月は唯の身体を抱きしめ、自らの上に覆い被せて載せる。
水は、低きに流れる。

「唯……も、もっと……」
顔の下で口を開けてせがむ美月に、唯の中で慈愛と嗜虐という相反する感情が湧き上がる。
あんなに強くて誰よりもかっこいい美月が、自分の下でいじらしく求めてくる。

もう、逃さない。私のモノにする。
私のことだけを見る私だけの美月ちゃんにする。

唯が泡混りのジュースを垂らすと、美月はその粘液の糸を、大きく伸ばした舌に器用に絡めながら口内に収めていく。
「おい……し……い……ゆい……」
麻薬の作用に朦朧とする意識の中で、美月は自分の身体が変わっていくのを感じていた。
唯の全てを愛し、受け入れる身体へと。

美月の五感の全てが更新されていく。

美月は指を這わせる。唯の背中を。髪の感触を覚えるため。
耳を澄ます。唯の呼吸音を覚えるため。
鼻を鳴らす。唯の匂いを覚えるため。
舌を踊らせる。唯の味を覚えるため。
それらを、ゆっくり首を左右に揺らしながら行なった。
唯の顔を、様々な角度で、網膜に焼き付けるため。

そうして美月は自らの心に、身体に進んで毒を回していった。
唯が行わなければいけないのは、その毒が抜けないように蓋をすることだった。
「美月ちゃん……」
甘い吐息とともに愛しい人の名前を呼ぶ。
「私のこと、好きになって……?」
美月の中では、すでに自明の理となっているものだった。
しかし、宣言しなければいけない。いや、したい。胸の内を告白をしたい。
「うん……」
唯と美月の全細胞が美月の次なる言葉に耳を澄ませる。

「唯……好き。大好き」

歓喜とともに身震いし絶頂をする唯と、真理が書き変わり反転する快楽の渦に呑まれる美月。
互いの身体を痛いほどに抱きしめ、どれだけ相手を欲しているかを表現し合う。
ピッタリとくっついた二人はひとつの円柱となってゴロゴロと転がり、やがて解けてベッドの上に二つの身体を横たえる。
身体を離しながらも、恋人のように絡ませ合った指と、熱のこもった視線で互いを繋ぎ止める。いや、繋ぎ止める必要はないのだ。ただただ、欲望と、そして慈しみの表明だった。

人間の身体のうち触覚の解像度が最も高く、敏感にそして繊細に触れたものを認識する、指。
そしてこの世で最も速い光という現象の入り口である、目。
往々にして、未知との遭遇はその二つの感覚器から始まる。
感覚器というよりも相手に対して完全に開かれたそれはもはや受容器の方が近いだろうか。
うっかり二つの視線の間に入ってしまった光は合わせ鏡の中に閉じ込められ、永遠に出口を失ったように思ったことだろう。
それほどまでに、二人は長い時間、瞬きもせずに見つめ合っていた。
潤み、蕩ける瞳に瞬きは必要なかった。
蕩けた唯の瞳がついに顔からこぼれ落ちたかと思うほど、大粒の涙が溢れては唯の顔の下のシーツにシミを作る。

唯はこの日を何度夢見たことだろう。決して叶わないと自分に言い聞かせ諦めようとしては夢に見てしまう、想い人との逢瀬、目合まぐわい。
悲しくないのに、どんなに悲しいときよりも涙が出て止まらない。

今まさに全細胞を開き、唯を受容している美月にもその涙が悲しみによるものではないことが分かっていた。
それでも、いじらしい愛し君の涙を指の先で拭ってあげたい気持ちに駆られる。
これまで、過去何度もそうしてきたように。
この絡み合った指を離してでも? 必死にすがりつく小さな指たちを振り切って?

指が使えないなら──

美月は唯に顔を近づける。
そしておもむろに口を開き、舌を伸ばして涙の滴を舐め取った。
予想だにしなかった大胆で淫靡な、しかしどこまでも優しいその仕草に唯は心安らぎつつも同時に劣情を催す。
またそれは身体の動くまま淫らな行為に及んだ美月も同じだった。
お互い、その言葉にならない興奮を相手に伝えようと口付けをしようとしたそのときだった。

唯の視界が一瞬にして真っ暗な闇に沈んだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

茶番には付き合っていられません

わらびもち
恋愛
私の婚約者の隣には何故かいつも同じ女性がいる。 婚約者の交流茶会にも彼女を同席させ仲睦まじく過ごす。 これではまるで私の方が邪魔者だ。 苦言を呈しようものなら彼は目を吊り上げて罵倒する。 どうして婚約者同士の交流にわざわざ部外者を連れてくるのか。 彼が何をしたいのかさっぱり分からない。 もうこんな茶番に付き合っていられない。 そんなにその女性を傍に置きたいのなら好きにすればいいわ。

臆病な僕らは、健気なΩの愛を乞う

野中にんぎょ
BL
※この小説は、オメガバースです※ ※受け二人に対し、攻めは一人だけです※ ※都×小雪、都×理人、理人×小雪の表現があります※  東神田小雪(28歳・Ω)は社会学者である夫の都(28歳・α)と平穏な生活を送っていたが、都から突然「都の運命の番」である霧島理人(19歳・Ω)を紹介され、一夫多夫制を提案される。戸惑う小雪と理人だったが、都に言いくるめられ、試験的に一つ屋根の下で暮らすことに。反発し合う小雪と理人。けれど三人で暮らすうち、互いに心身の変化が訪れて……?  三人で紡いでいく、新しい日々。そして「僕ら」は、愛になる。

【二章開始】『事務員はいらない』と実家からも騎士団からも追放された書記は『命名』で生み出した最強家族とのんびり暮らしたい

斑目 ごたく
ファンタジー
 「この騎士団に、事務員はいらない。ユーリ、お前はクビだ」リグリア王国最強の騎士団と呼ばれた黒葬騎士団。そこで自らのスキル「書記」を生かして事務仕事に勤しんでいたユーリは、そう言われ騎士団を追放される。  さらに彼は「四大貴族」と呼ばれるほどの名門貴族であった実家からも勘当されたのだった。  失意のまま乗合馬車に飛び乗ったユーリが辿り着いたのは、最果ての街キッパゲルラ。  彼はそこで自らのスキル「書記」を生かすことで、無自覚なまま成功を手にする。  そして彼のスキル「書記」には、新たな能力「命名」が目覚めていた。  彼はその能力「命名」で二人の獣耳美少女、「ネロ」と「プティ」を生み出す。  そして彼女達が見つけ出した伝説の聖剣「エクスカリバー」を「命名」したユーリはその三人の家族と共に賑やかに暮らしていく。    やがて事務員としての仕事欲しさから領主に雇われた彼は、大好きな事務仕事に全力に勤しんでいた。それがとんでもない騒動を巻き起こすとは知らずに。  これは事務仕事が大好きな余りそのチートスキルで無自覚に無双するユーリと、彼が生み出した最強の家族が世界を「書き換えて」いく物語。  火・木・土曜日20:10、定期更新中。  この作品は「小説家になろう」様にも投稿されています。

魔力ゼロの出来損ない貴族、四大精霊王に溺愛される

日之影ソラ
ファンタジー
魔法使いの名門マスタローグ家の次男として生をうけたアスク。兄のように優れた才能を期待されたアスクには何もなかった。魔法使いとしての才能はおろか、誰もが持って生まれる魔力すらない。加えて感情も欠落していた彼は、両親から拒絶され別宅で一人暮らす。 そんなある日、アスクは一冊の不思議な本を見つけた。本に誘われた世界で四大精霊王と邂逅し、自らの才能と可能性を知る。そして精霊王の契約者となったアスクは感情も取り戻し、これまで自分を馬鹿にしてきた周囲を見返していく。 HOTランキング&ファンタジーランキング1位達成!!

転生ヒロインの意地

焼きたてメロンパン
恋愛
薄いですが恋愛要素が含まれているため、恋愛ジャンルに入れさせていただきました。 現代日本人だった主人公(♀)は、目が覚めると乙女ゲームの世界にヒロインとして転生していた。 乙女ゲームといえば恋愛! イケメンとのキャッキャうふふな薔薇色ライフが待っている! 胸を膨らませた彼女だったが、イケメンたちに囲まれて笑う悪役令嬢の姿を見て愕然とした。 調べたところ悪役令嬢は幼少期からの転生者であり、破滅フラグを防ぐためイケメンたちを『攻略』したのだ。 さらに悪役令嬢は現代知識を使ってさまざまな品を開発しており、イケメンのみならず全校生徒からの信頼も厚かった。 周りに味方がおらず孤立していたヒロインだったが、そんななか彼女がとった行動は…

転移先は薬師が少ない世界でした

饕餮
ファンタジー
★この作品は書籍化及びコミカライズしています。 神様のせいでこの世界に落ちてきてしまった私は、いろいろと話し合ったりしてこの世界に馴染むような格好と知識を授かり、危ないからと神様が目的地の手前まで送ってくれた。 職業は【薬師】。私がハーブなどの知識が多少あったことと、その世界と地球の名前が一緒だったこと、もともと数が少ないことから、職業は【薬師】にしてくれたらしい。 神様にもらったものを握り締め、ドキドキしながらも国境を無事に越え、街でひと悶着あったから買い物だけしてその街を出た。 街道を歩いている途中で、魔神族が治める国の王都に帰るという魔神族の騎士と出会い、それが縁で、王都に住むようになる。 薬を作ったり、ダンジョンに潜ったり、トラブルに巻き込まれたり、冒険者と仲良くなったりしながら、秘密があってそれを話せないヒロインと、ヒロインに一目惚れした騎士の恋愛話がたまーに入る、転移(転生)したヒロインのお話。

比翼連理の異世界旅

小狐丸
ファンタジー
前世で、夫婦だった2人が異世界で再び巡り合い手を取りあって気ままに旅する途中に立ち塞がる困難や試練に2人力を合わせて乗り越えて行く。

パパの見た目は15歳〜童顔の大黒柱〜

スーパー・ストロング・マカロン
キャラ文芸
季節原(きせつばら)春彦、42歳。 男手一つで春彦を育てた父・春蔵と似て頑固ではあるが、妻と娘と息子を愛する一家の大黒柱だ。 仕事に追われて目まぐるしい日々をおくる春彦ではあったが、ささやかながらも幸せを感じていた矢先、大学を卒業後、一心不乱に働き続けた会社が突然倒産した。 仕事は父の春蔵が一代で築いた団子屋で働く事になったものの、仕事に明け暮れて気付かなかった春彦は愛すべき家族に多くの問題を抱えていた事を知る。 少年のような顔立ちの童顔中年オヤジが家庭を守る為にいざ立ち上がる! ーーーー主な登場人物の紹介ーーーー 季節原 春彦・・・理屈っぽく父親譲りの頑固者ではあるが正義感が強く家族を愛する42歳の厄年オヤジ。 年齢を重ねても周囲の人が驚愕するほど、異常なまでに少年時代と変わらない幼くキュートな顔立ちに悩む。 季節原 夏子・・・春彦の妻40歳。 春彦とは高校時代からの恋人。 幸の薄い顔(美人)で家族想いの穏やかな性格。 誤解からある悩みを抱えてしまった。 "家族が1番大切"が口癖。 季節原 秋奈・・・春彦の長女で高校1年生15歳。 中学時代から付き合っていた大好きな彼氏との思いもよらぬトラブルで、人間不信となる。 身なりも派手になり学校も休みがちとなっていく。 口うるさく自分と同年代のような顔つきの父・春彦を嫌悪している。 季節原 冬児・・・春彦の長男で小学5年生10歳。 父の教えを守り正義感からいじめられていた友人を助けだした事から、目をつけらてしまう…。 父親である春彦を心から尊敬している。 季節原 春蔵・・・春彦の父親75歳。 一代で築いた団子屋"春夏秋冬"を営む。 頑固でぶっきらぼうだが、孫には非常に甘い一面も。 妻に先立たれてから、持病を悪化させており体調が優れない生活をおくっている。 サクラ・・・春蔵が飼っている雑種のメス犬。 年齢は不明。 ※暴力的描写、性的描写あり。

処理中です...