彼福私鬼 〜あちらが福ならこちらは鬼で〜

日内凛

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第一章

第18話/回想:黒葛祐樹

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  回想:2023年5月26日(金)
  ※自死描写注意


黒葛は、確かに消えるはずだった。
そういう確信があった。

身勝手な、手前都合ではあるが、言うなれば散骨のつもりだった。
ふるさとの海に還りたい。もっと広くは、母なる大地と、地球とひとつになりたい。
そういうありふれたモチベーションと同じくして、故郷から離れ家族も失った黒葛はせめて心に想う人に溶けることによって、この世からいなくなろうとしたのだった。
黒葛にそれを可能とする異能が発現したのは、あの事故のあとのことだった。




何もかもがうまくいかない人生だった。

世界にも自分自身にも望みが持てず鬱然とした日々の折、わけの分からないままに両親を失ってしまった黒葛には、もうこの世に居続ける意味を、理由を何ひとつとして見出せなかった。
逆に、この世から去る理由などは、その是非はともかくいくらでも述べることができた。
それがあの事件以降の黒葛祐樹という人間だった。


黒葛祐樹は4月28日深夜に発生した原因不明の災害からの、唯一の生還者である。
翌日の昼過ぎ、自宅のベッドの上で丸まっていたところを保護された彼は、移送された病院で治療という名のもと、これまでに経験したことのない──おそらく普通に生活している市民ならば生涯経験することがないであろう密度の検査を朝も夜もなく受けることとなった。
苦痛を伴うものも少なくなく、精神的肉体的にも消耗した退院後の彼に待ち受けていたのは、役人や研究者と思しき人たちからの聴取の日々だった。

大人の男たちによる連日の取り調べ。
役人はその職能なのだろうか、何はせずとも全身から威圧的なオーラを発し、萎縮した黒葛は答弁もままならず、彼らを苛立たせた。
そしてますます攻撃性を帯びた詰問は黒葛の精神をますます疲弊させた。

一方で研究者たちは好奇による高揚をまるで隠そうとせずに黒葛に接した。
研究者は異なる分野ごとに何人もおり、代わる代わる黒葛に面会しては各々独自のアプローチで質問を浴びせ続け、ときには意味不明な持論を展開しては『どうだろうか』とのたまう。
実に楽しそうな彼らとは逆に、“被検体”の気持ちは深く沈み込み、ただでさえ希薄だった感情さえもすっかり失ってしまったようだった。

黒葛には、何も答えようがなかった。
あれは何だったのか、あのとき何が起きたのかを一番知りたかったのは、役人でも研究者でもなくほかならぬ黒葛自身だった。
こんなことならあのとき自分も消えてしまっていた方がどれだけ良かっただろう。

なぜ自分だけ、と自責の念に駆られた。
自分じゃなく、両親が生きてれば喜んだ人がいたはずだ。
あるいは、たまたま外出していたために難を逃れた人はこう言うだろう。

『なんで自分の家族じゃなく、お前が生きているんだ』
消耗し切った黒葛はその妄想を進んで内面化してしまい、そして呪われてしまう。

『僕は死んでいないとおかしいんだ』
そう思うと、スッと自分の中であらゆる筋が通り、どこか心がクリアになった気がした。

もし僕が死んでいたら、検査されることはなく病院の医師も困らせることはなかった。
もし僕が死んでいたら、検察だか警察の人も、あんなにイラつくことはなかっただろう。
僕が生きていて喜んでいたのは、研究者の人たちだけ。
でも彼らの好奇の眼差しが見ていたのは“現場にひとりだけ残っていた人間”であって“黒葛祐樹”ではない。
それに、きっと彼らそれぞれに5月の連休に予定があったはずだ。
それが全て、ダメになってしまった。

僕の家族はいなくなった。
数年前に引っ越してきた縁もゆかりもないこの土地には親族もいない。
学校でも友人はおろか、声をかけてくれる人もいない。
誰も僕を認識していない。
僕がクラスから消えても、誰も気が付かない。
ふと、自分がいなくなった教室の様子を想像してみて、その中でひとり、窓辺の席に座るあるクラスメイトの姿が浮かんだ。

──でも、彼女なら、もしかしたら気付いてくれるだろうか──


最後の聴取が終わり、自宅に戻った黒葛はまっすぐ自室の机へと向かった。
帰路、文房具屋で買ったレターセットの封を開け、中身を広げる。
普段買いつけるようなものでもないため、店頭に並ぶたくさんの便箋類に気圧されもしたが、意外にも迷うことはなかった。
彼女のイメージに合う、淡い黄色がベースの花柄模様のレターセット。
ポイントで細かな装飾の銀の箔押しがなされており、可愛らしくもあり品も感じる。
レジに持っていくのに気恥ずかしさを覚える程度には感情が回復したのだろう。
好きな人のことを思うがゆえ。

下書きもせず、想い人への気持ちを綴る。
自分の考えを、意味をもった言葉として口にすることが苦手だった。
頭の中では思考の奔流が渦を巻いているが、いざそれを外に出そうとすると、どこかで突っ掛かってしまい、うまく出力ができない。
脳の、思考の出口というものがあるのか分からないが、そこにできた巨大な榴が邪魔をしているような。
もっと物理的には声帯そのものが仕事を放棄してしまっているような。
いずれにせよ、交通整理ができぬまま渋滞した思考はますます無軌道に暴走し、脳内はさらにカオティックになる。この散らかった部屋の有様そのままだ。

それでも、考えを文章にして表現することは、喋ることよりは幾分かマシだった。
筆が非常に遅いこともあり文筆自体決して得意とは言えないのだが、小学生の頃は作文で何度か賞を取ったことがある。
淡い黄色の便箋が、次第に鉛色へと染まっていく。
黒葛の筆は澱みなく動き、そして雄弁だった。
恋文というものを書くのは生まれて初めて、それどころか手紙というものの作法も知らない黒葛は自分でも驚いていた。
思いを文字で吐き出すごとに、脳がクリアになっていくのが分かる。
それは同時に、彼女に対して抱く想いを確認し、それをさらに強める行為でもあった。
最終的に想いの丈は伸びに伸び、便箋三枚にわたる大作となった。

出会いの場面に始まり、ボキャブラリーの限りを尽くした愛の表現。そして感謝の言葉。
ここまで重すぎる感情を一方的にぶつけられて、喜ぶどころか恐怖を感じ、正気さえも疑うのが普通だろう。
近視眼的な精神状態になっている黒葛でさえ、それは分かっていた。

そう、僕は正気ではない。なぜなら僕は今から死ぬのだから。


ベッドのフレームに紐を巻きつけ、しっかりと結びつける。
高さはいらない。テレビのニュースでもやっていたので、それをヒントにネットでも調べた。
彼女への手紙は机の上に置いている。
何か事故について思い出すことがあれば、と渡された弁護人のアドレスへメールの送信予約をした。
朝になると自分が死んだこと、事件について本当に何も知らないし分からない、といった内容を記したメールが飛ぶようになっている。それまでには自分は完全に蘇生不能な状態になっているはずだ。
首に全体重がかかるように整え、最後の支えを外そうとして思い浮かべたのは父と母と、そして。

──茜川さん、ありがとう
淡い黄色で華やいだ黒葛の思考は、一瞬で闇に包まれた。



天井だ。

黒葛の目に映っているのは、見慣れた天井だった。
身を起こし、月明かりで青白く光るベッドの方を見る。

──失敗した? でも。
首をさすり、気付く。
紐が切れたのだ。もしくは結び方が悪かったか。
床でだらしなく伸びている紐を手にとり違和感を覚えた黒葛は部屋の電気を点ける。
紐は、輪を作ったままだった。
輪の先を辿ると、紐の反対側はベッドのフレームに固く結ばれたままだった。
どういうことだろう。無意識に輪を外した? 
いや、輪は頭が通らない細さに絞られている。
しっかり体重がかかったということだ。ではなぜ紐の輪が首から外れたのだろう。
まるで、“すり抜けた”みたいに。

──すり抜けた?
思考を反芻する。何か違和感がある。
紐なら

黒葛は両手で掴んだ紐を目の前でピンと張ってみる。
そのままゆっくりと両腕を引き、紐を喉仏に当てる。
──紐は、こんなふうにすり抜けるんじゃないだろうか。
さらに腕を引く。喉仏に押し当てられた紐は直線のまま、ずぶずぶと黒葛の喉に埋まっていく。
驚きはない。なぜだろうか、そうなるだろうという確信があった。
紐を首の半分ほど埋めたところで腕を戻し、顔の前でそれを観察する。
何の変哲もない、ただの丈夫な紐。
喉仏を触る。今の奇術じみたことなど素知らぬ様子で黒葛の意思のまま上下に動き、機能をしている。
紐が喉を通過している間、呼吸はできていたし痛みも感じなかった。
それは当たり前だ。だ。


家を出た黒葛は自宅周辺で一番階数の多いアパートの最上階にいた。
外通路から身を乗り出し、コンクリートで舗装された地面を見る。

黒葛はためらうことなく頭から身を投げた。恐怖はなかった。
頭が地面に触れた瞬間、顎を引く。
本来頭が受けるはずだった衝撃が保留されている刹那、首から背中と順に滑らかな接地をさせる。
同様に腰も接地しようかというところで、大きく振りかぶっていた下半身を一気に地面に叩きつける。
両足が粉砕され、血──ではなく、黒い泥が飛び散った。

遠目から見ると、体の下半分が地面に埋まってるようにしか見えなかっただろう。
最初に地面に触れたはずの頭部は無傷で、意識も健在だ。
落下のエネルギーのほとんどを肩代わりして崩壊した足だが、黒い泥として飛び散った破片がそれぞれ意志を持っているかのように主の下に集まり、再び元の足を構成した。
衝撃が体内を伝った際にボロボロになった臓器や骨格もすぐに元通り再構築されていた。痛みもない。

黒葛は立ち上がり、衣服の埃を払う。
破れたシャツやズボンの解れまでもが元通りになっていた。
今のように受け身を取らず頭から落ちたままでも死なない、という確信はあった。
ただ、だけのことでしかない。

そして、できた。
運動がまるでできなかった自分が、あれほど思い通りにならなかった自分の身体がイメージ通りに動かせる。
というよりも生まれて初めて自分の身体を手に入れることができたとすら思えた。


自宅に戻った黒葛は思い出してみる。
地震があった日、その瞬間、黒葛は自慰をしていた。
好きな人を想い、絶頂し、体が溶けてしまいそうな快楽に包まれたまさにそのとき、世界が揺れ、本当に

きっとそのときにみんなが“溶けた”んだ。家族も、近所の人も、犬も猫もなにもかも。
でも、自分だけが戻ってきた。溶けた体を再生させて。
なぜなのかは、黒葛自身にも分からない。
確かなのは、肉体と意識がない混ぜになり時間の感覚さえも分からなくなる中、黒葛は想い人と交わり果てた多幸感、その残滓のただなかにいたということだ。
あのとき溶けた黒葛を包んでいた、ぼんやり淡いイメージは徐々に具体的なものへと変わっていき──それは先ほどまで妄想の中で激しく情交していた、紛れもない茜川唯の笑顔だった。
そして黒葛はベッドの上で五体をもって目覚めたのだった。


黒葛はまた、イメージをしてみる。
あのときのように、全身を自分の意思で“溶かす”ことができるだろうか。
オーガズムのときの、あの感じ。誰かとひとつになる、体が溶ける感覚。
セックスなどしたことのない黒葛でも、実際に融解を経験した今なら理解ができる気がした。

何かとひとつになるためには、自分という存在をなくさなければいけない。
それは、自分の欲望を実現させるために、それを願う自分自身を否定する必要があるということだった。
二律背反のようだが、唯を求める気持ちの一方、この世から消えようとした黒葛の中で、ひとつの筋が通る気がした。
そのアイデアに沿う形で黒葛は自分の指先に意識を集中させ、人差し指の先端を溶かす。そしてすぐに戻す。
ここまでは当たり前のようにできる。
が、果たして全身をくまなく溶かして、またあのときのように戻ることができるだろうか?

あの日、人の形に戻った黒葛はその直後、自宅の居間で二つの黒い泥だまりを発見した。
直感的にそれが、今の今まで自分の父と母だったものだと理解できた。
地震とともに自分の体が泥のように溶けたのは、オーガズムによる錯覚でも幻視でもなかったということも、そのときに初めて理解した。
黒葛は必死に呼びかけた。
床に広がる得体の知れない泥に向かって、泣きながら父さん母さんと呼びかけ続けた。
物言わぬ泥はついに物を言わぬまま、しばらくして黒い霧となり、カーペットにシミの一つ残すことなく消えてしまった。

おそらく全身を溶かしたままでいると、自分もああやって消えてしまう。
それもいいと思った。体がおかしなことになってしまった自分が死ぬには、それが確実だろう。
朝には予約したメールが送信されてここに人が来るかもしれないが、家族同様行方不明扱いになりそのままこの世の全てから黒葛祐樹という存在は忘れ去られるのだろう。
でもどうせ死ぬなら、泥から戻ることができるか試してみてもいいかもしれない。

自分の体に意識を集中させ、“全身の声”に耳を傾ける。
あくまで比喩的な表現ながら、今の黒葛は熟練のヨギーのように自身の肉体と対話をすることができた。
そして、何となくだが泥から再生するイメージが分かった気がした。

誰かと繋がるために自己否定をし溶けた自分という存在。
それの容れ物でもある肉体を再生するには、今度は自分の存在を肯定しないといけない。
いや、なにも自分自身が肯定しなくてもいい。
あのとき、溶けてしまった黒葛を再生させたのは、黒葛の妄想上の唯だった。

──茜川さんが、また僕をこの世界に呼び戻してくれる。
単純ながら、黒葛にとってはそれが現実的な再生のマニュアルでありしるべだった。

ひと呼吸してから、黒葛はその全身を泥と化した。
着衣までもが一緒に溶けた。
泥になった黒葛は驚くが、衣服も知らず知らず“自分の存在”として認識する範囲に含まれるのだろうと思う。
そして想像する。
自分を肯定し、そして世界に呼び戻してくれる唯を。
すると立ちどころに黒い泥が人の形に変化をした。
黒葛は、戻って来ることができた。


唯への感謝の念を覚える黒葛は、前以上に唯を求める感情が強くなっていることに気が付く。
より、唯と溶け合いたくなっている。
昂りを抑えようと自慰を行うが、それでも鎮まらなかった。
それどころか、ますます唯への性的なる欲望が膨らんでいく。

会いたい。茜川さんと繋がりたい。溶けたい。一緒にいたい。
連鎖する欲望が黒葛の思考を支配していき、そしてある結論を得る。

そうだ。

そうすれば、いつまでもずっと一緒にいられる。

茜川さんに溶けよう。
溶けて、自分は消えよう。

最後のそのときには、もう自分の再生は必要ないのだ。
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