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第一章

第15話/人ならざる人

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  2023年6月2日(金) 18:30 唯自宅




ああ。
泣き声が聞こえる。

私の大切な人の、泣き声だ。
永い時を共に過ごしてきた、大切な大切な人の。
ずっとこの場所で、どんなに寂しかったことでしょう。
もう大丈夫だから。
私がいるから。
みんながいるから。

だから、どうか泣かないで。

あのとき、言ったでしょう?
あなたが待っているなら、
私はどこへだって行くからね。





断続的に続く、しゃくりあげるような泣き声。
朦朧とする意識の中で唯一具体的なその泣き声を命綱のように辿りながら、美月は徐々に現実へと引き戻されていった。
その中で、泣き声は徐々に艶を帯びた喜びの嬌声へと変わっていった。

美月は思い出す。
旧校舎の玄関に並んだ、大小ふた組のローファー。
暗い廊下に漏れ出た、文芸部室の部屋の明かり。
そして部室の主の、艶かしい声。

徐々に肢体の感覚を取り戻しつつある美月は、どうやら自分の体が横向きになっていることを知る。
体の下は柔らかい──どうやらベッドの上のようだ。
気を失い、夢を見ていたらしい。
どんな夢?
思い出せないけど、何か優しくて──

いやそれよりも、この声だ。
美月は恐る恐る、細目を開ける。
正面、白いシーツのシワの波の向こうでは、嬌声と同じリズムで小さな影が上下に蠢いている。
目を一度閉じてから、意を決して見開く。

上下に動いていた影は、紛れもなく唯だった。
そして、美月はさらに目を見開いてしまう。
唯は、誰か──男にまたがって一心不乱にその腰を動かしている。
現実に引き戻されたはずの思考は再び混乱に陥り、夢の続きを疑う。
しかし残念ながらこの五体の感覚は、現実だ。
肝心なのは、今のこの状況だ。
美月は、唯しかいないはずの唯の家に上がり、そして唯の部屋で……気絶した。
なぜ? あの飲み物のせいだ。
アルコールのような刺激物の匂いを嗅ぎ、意識を失った。やはり薬品の類だろう。
床の上で気絶したはずが、今はベッドの上で、おそらく回復体位で寝かせられている。

そしていつの間にか現れた男。
床に寝そべっているその男が着ているのは、うちの学校のものだ。
唯は自らの意志でこの男にまたがり……きっと性行為というものを行っている最中にある。
つまり、この男が唯の、彼氏ということになる。
でも、唯は公園で私に──。
だめだ、らちがあかない。


このまま寝たふりを続けるべきか逡巡する美月だったが、あまりに不可解な点が多いため、痺れる身体をおして身を起こすことにした。
「あっ、美月ちゃん……、起きた……」
上半身を起こした美月に気が付いた唯が動きを止め、ベッドの方を向く。
唯はブラウス、スカートを着用したまま行為に及んでいた。
胸元のリボンタイが少し緩んでいるが、目立って着崩れてはいないようだった。

「ゆ……唯……。なん……で……」
舌が回らない。
あまりにも分からないことが多すぎて、美月自身何が分からないのかさえも分かっていなかった。
「よかった、美月ちゃん……。強すぎたみたい。ごめんね」

何で家に招いたのか。
何でこんなことをしたのか。
何で今そんなことをしているのか。
何で唯は安堵しているのか。
何で唯は謝っているのか。
何で。
「なんで……」

「ちゃんと説明しようと思ってたんだけど、ごめんね。美月ちゃんが起きないから……エッチしちゃってたの」
興奮しているのか、悪びれることなく繰り出される言葉にはただ喜色と官能の色が滲むだけだ。
「そうじゃなくて……」
「一度外すね」
唯は下で寝そべる男に慈愛の表情を向け、親しみを込めた調子で話しかけた。
膝を立て、小さく鼻を鳴らしながら腰を上げる唯。
すると、それまでスカートに覆い隠されていた男の陰部──からそそり立つ、赤黒く太い棒が露わになる。
目を背けた美月はそれが何であるかを知っている。
知ってはいるが、記憶にある父親のものとも全く違う。
それが勃つ、ということももちろん知っていた。
ほんの子どもの頃、弟たちと一緒にお風呂に入っていた折、自分も弟たちもその機能の意味を知らないまま、指で弾くなどして勃たせて遊んでいたくらいだ。
その記憶にあるものとも当然違う。太さも長さも大きさも。
あれが唯の、あの小さな身体の中に入っていただなんて。

リボンタイを結び直す唯の手を見ながら美月は声を震わせる。
「……こんなもの見せるために、わざわざ呼んだの……?」
唯の顔を見ることはできない。
今、唯はどんな表情をしているんだろう。
衣服を正す指の動きや乱れた息遣いから唯の表情を、心情を推測しようとするが、まるで分からない。
これは、自分への当てつけなんだろうか。
唯の気持ちに気付けなかったばかりに。
美月は二つの意味で悲しくなった。

いや、唯はそんなことをする子じゃない。
そもそも唯の様子が変なのは……その男のせいなんじゃないだろうか。
男は一体誰で、何者なんだ。

まだ痺れの残る下半身を腕の力だけで引っ張り上げ、ベッドの上に座り直す。
「美月ちゃん、ちゃんと説明するから……。あの、彼ね……」
男は美月が目を逸らしているうちにズボンを上げていた。
ゆっくりとした動作で立ち上が……らず、かといって座るでもなく、中腰のまま所在なさげにしている。
唯は男の手を引き、自分の隣に並ばせて見せたが、男はどういうわけか美月に背中を向けている。

「あの、ど、どうも……」
男の後頭部から、声が聞こえた。
男は、美月に背中など向けてはおらず、正面を向けて立っていた。
ただ異様に長い前髪で顔全面が覆われており、調子が万全でない美月にはそれが後頭部に見えていたのだった。
男の声に聞き覚えはないが、その前髪と雰囲気には覚えがあった。

「……黒葛……君?」
美月の問いから二、三拍置いて男からまた声が聞こえた。
「あ……はい。……あの……、そうです」
あまりにのんびりと長閑な声の調子に美月は毒気が抜かれる思いがする。

そうです、じゃねぇよ。

「黒葛祐樹くん。私の、恋人」
その隣で少しはにかみながらポツポツと喋る唯の言葉が相対的に早口に聞こえた。余程のことだ。
「あんた……唯に何したの……」
美月の声が震えているのは、痺れのせいではない。
「何かしたんでしょ、唯に。唯に何吹き込んだの何したの」
強い剣幕で詰める美月に黒葛はたじろぐだけだった。

「唯から離れて」
美月がその眼力の全てを懸けて睨みつけるも、いやその気迫に押されてしまった黒葛は固まってしまう。
うっかり自動車の前に飛び出してしまい動けなくなったタヌキだった。
「……離れろ」
美月の口調が明確に敵意を込めたものに変わる。
「離れろって」
最終通告だった。

「いや、あの、僕は」
煮え切らない男の態度に美月の堪忍袋の緒が切れる。
「黒葛……っ」
今使える全筋力をバネに、一直線に飛びかかる美月。
驚き身を引いた唯とは対照的に黒葛は反応するでもなく、己に向けられた運動エネルギー全てを一身に受け、美月とともに床に倒れた。
「ふっざけんなてめ」
わざと受けたことを察した美月は黒葛の襟元を掴み、怒りの馬鹿力のままその上体を持ち上げる。
黒葛のシャツからボタンが2つ3つちぎれ、床に転がった。
「美月ちゃんやめて!」
美月は唯の制止を無視し、抵抗せずされるがままの黒葛を突き飛ばした。
勢いのまま壁に叩きつけられた黒葛の頭部が、あらぬ方向に曲がる。

「あっ……」
美月の頭に上っていた血が一気に引いた。
フクロウかミミズクのように胴体と頭部の向きがあべこべになっている。
そのまま、黒葛の身体は床に崩れ落ちた。
「そんな……私……」
ころ……して……しまった? いやすぐに救急車を──
スマホを取り出そうと美月がバッグを掴んだそのとき。

「……あの、ごめんな、さい……」
倒れた黒葛から聞こえた絞るような声にぎょっとし飛び退いた。
黒葛はそのままゆらりと立ち上がり、ぐるんと首を正位置に戻す。
そして何事もなかったかのようにまた所在なさげにしている。

「美月ちゃん、すごいねぇ。すぐそんなに動けるなんて」
呆然と立ちすくむ美月の両腕を、唯の細く小さな手が掴み、後ろ手に拘束する。
「でも、私の恋人にひどいことしないでね?」
美月が腕を動かそうとするも、万力で挟まれているかのように一切の自由が利かない。
本来、美月と唯の腕力には雲泥の差がある。
腕相撲ではたとえ唯が両手を使ったところで美月に土を着けることは叶わないだろう。
しかし今、美月が全力で足掻こうとしている一方、それを抑えている唯は至って涼しい顔だ。

「唯……本当に、唯なの?」
「そうだよ。美月ちゃんの幼馴染で美月ちゃんのことが大好きな唯だよ」
後ろから聞こえてくる声が美月の脳に甘い痺れをもたらす。
「じゃ……なんでこんなことするの。何飲ませようとしたの」
身をよじりながら、美月はまだテーブルの上にある3つのグラスを顎で指す。
どれも手付かずのままだが氷はすっかり溶けてしまっている。
「あれね、美月ちゃん用に作ってみた私の特濃唾液ジュース」
「だ、だえ……? え……?」

耳を疑った。今、何と言った?
「美月ちゃんのことを考えながらね、私のフェロモンを唾液に混ぜてブレンドした特製ジュース」
説明されたところで理解ができるわけがなかった。
気持ちが悪ければ、たちも悪い、それも恐ろしく笑えない冗談にしか聞こえない。
「意味……わかんない何それギャグ?」
狼狽、というよりほとんどドン引きしている美月に、唯が後ろから優しく囁く。
「美月ちゃん、こっち見て」
その言葉に釣られるままに顔を向けると、口をもごもごさせている唯の顔があった。
間近で見る唯の顔にドキリとした美月に、息が吹きかけられる。
飛沫こそないが、香水のひと吹きだった。
美月の視界中に桃色の花が咲き乱れ、そして世界が、唯の顔がぐにゃりと歪む。
心臓の鼓動が一気に激しくなり、身体中から汗が吹き出した。

「すごい? 私のフェロモン」
三たび気を失う寸前だった美月にはほとんど聞こえていなかった。
唯は美月の左肩に顎をのせ、深い呼気を伴った発声を行う。
「これ嗅いだら私にメロメロになっちゃうの」
「え……。ゆ、ゆい……?」
美月は頭の左半分に居た堪れないほどのこそばゆさを覚える。
その甘い痺れは頭から首から、肩から、全身へ伝い広がっていく。
そして湧き起こる、知らない情動。

肩に触れている小さな頭を今すぐ胸に抱え込みたい。
身の自由を奪っている細腕に自分の腕を絡ませたい。
なぜ? 理由もなく、無条件にそれを行いたい。
普段ならちゃんと制御できている自分の身体がまるで言うことを聞かない。

「とりあえず、座ろっか。座ろ?」
唯に促され、言われるがままにその場に座る美月だったが、ほとんど腰が崩れてへたり込んだという方が近い。
足に、腰にまた力が入らなくなっている。
美月は、危険を感じる。
フェロモン云々は理解不能だが、今は唯から離れなければ自分がおかしくなってしまいそうだった。
なんとか拘束から抜けようと身をよじらせるがびくともしない。

「ねぇ、唯、離してよ。分かったから、ちゃんと聞くから」
「だめ」
美月の体が震える。
恐怖と、その声の妖艶さに。
また左肩に小さな顎が乗せられる。
その感触だけで美月の全身が総毛立つ。

「このまま聞いて……? 美月ちゃんの耳元で……話聞かせてあげたいの」
その声に、鼓膜を通じて魂までもが震える思いがした。
このままもし美月の意識が上の空になったとしても、悪魔の囁きはその身体そのものに“物語”を刻むのだろう。
美月の身体はその予感に震えるが、それは果たして恐怖かそれとも。

「じゃあ、教えてあげるね」
小さな悪魔が艶やかな唇の端を吊り上げた。

「私が……どうやって変わったか……美月ちゃんがこのあとどうなるのか……」
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