彼福私鬼 〜あちらが福ならこちらは鬼で〜

日内凛

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第一章

第14話/優しい幻覚

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  2023年6月2日(金) 18:00 幻覚


今度は視界が揺れることはなかった。

再びあのパステルピンクの無重力世界に放り込まれた美月を、圧倒的な解放感と充足感、多幸感が瞬時に包み込む。
美月は心のままに泳ぎ、浮かび漂い、そして踊った。

なんて優しく自由な世界なんだろう。
この世界は、私を肯定してくれている。
この夢のような世界は、私ひとりのために作られたんじゃないのか?

360度どころか全天球のパノラマを一望し、ふと、さっき見た白くて美味しそうな、わたあめの雲が浮いているのを見つけた。
今度こそ辿り着こう。あの雲に、呼ばれている気がする。

美月はその場でくるんと宙返りをする。
しなやかで長い手足が体幹の流れそのままに追従する。
ネクタイも制服のスカートも新体操のリボンの動きのようにそれに倣った。
リラックスさせた身体の軸を目的地へと合わせる美月。
静止状態からドルフィンキックのひと蹴りで、最大加速度まで到達する。

そのあとは波打った全身を弛緩させ、蹴伸びのまま慣性に任せるだけでよかった。
わたあめの雲がだんだんと近づき、視界いっぱいにまで広がる。
それは思いのほか、巨大な雲だった。
これだけの距離をひと蹴りで泳ぎ切れたことが嬉しく誇らしい。

やっぱり私は今、無敵なんだ。

距離が近づいて分かったが、遠目からはわたあめのように見えた雲はその実、平面的な構造だった。
むしろ白くてふわっと軽い生地の、煎餅のような。

ゴルフのグリーンオンさながらに見事、雲の上に着地する美月。
柔らかな地面の反動で軽く宙に投げ出され、そしてまたふんわりと着地する。

重力がある。
ふかふかの地面に両足のくるぶしまでを埋めた美月は辺りを見渡し、そしてこの広い雲の中央部に“何か”を見つけた。
いや、“何か”じゃない。“誰か”、だ。
雲に埋もれる左右の足を抜いては挿してを繰り返し、その人物のもとに寄ってみる。
その人物は雲の上に横たわったまま動かない。

美月は、この世界は自分のための、自分だけの世界だと錯覚をしていた。
だが今ここに来て、この美しく優しい世界は、あの人物を中心に構成されているという直観を覚える。

雲の中心部に進むにつれて足がどんどん深く埋まっていく。
忘れていた身体の重さを感じる。重力が、だんだんと強くなっているのだ。
あの人は、この世界の“神様”なんだ。
逸る気持ちが美月の重くなる身体を駆り立てる。
早く会いたい。会ってお礼をしたい。

ふと美月が今来た方を振り返ると、パステルピンクの空は薄紫色の色調に変化し、上空の深く濃い青空へなだらかな階調のグラデーションを伸ばしていた。
青空もその面積を広げており、地平線近くにまで綺羅星を振り撒いている。

時間が経って夜になろうとしているから? 
そうじゃない。美月には自然と理解ができた。
広い広いこの夢のような世界の、ここが一丁目の一番地。
そして、この美しい青色の夜空に最も近い場所なんだ。


青色の夜空を仰いだ美月に、天上から風が吹き下りる。
宇宙からの風だ。
その心地のよい天つ風は美月の長い髪とネクタイをたなびかせ、その流れの先へと視線を促す。
その先には、一面黄金の絨毯が広がっていた。
白い雲だったはずの地面はいつの間にか、たわわに実った穂を風になびかせる金色の麦畑に変わっていたのだった。
そしてその麦畑の中心では、“神様”が白いベッドの上に横たわっている。
宇宙から吹き下りた風によって、麦の穂とともに“神様”の黒い髪もそよいでいるのが見えた。

穂をかき分けながら進む美月の歩みに呼応するかのように、地平線近くまでが青色に染まっていく。
決して暗くはなかった。
むしろますます彩度を上げていく青い夜空と金色の原野が空間一帯を照らしていく。
美月が見惚れるその空の色は、深く濃く、どこまでも青い究極の青色だった。
──私はこの空の色を知っている。
何という名前だったかまでは思い出せないのを美月はもどかしく思う。


重力は、すでに現実の世界と同じものになっていた。
腰ほどにある丈の金色の麦畑を抜け、白いベッドのもとへと辿り着く。
そこで仰向けに眠る人物を見て美月は息を呑んだ。

──なんて、きれいな人なんだろう。

美月よりも幾らか年上に見える、大人の女性だった。
女性は、一糸纏わぬ姿で白いベッドの上で体を横たえていた。
身長こそ美月にはもうひとつ及ばないものの、優美で洗練された気品ある美しさ。
こんなにきれいで美しい人を、美月はこれまでの人生で見たことがなかった。
しかし、美月はこの女性を

「唯……」

そうだとしか思えなかった。
身長147センチメートルの、思春期も後半に差し掛かろうというのに目立った成長も性徴もなく、本人もそれをコンプレックスに思っている、あの幼馴染。
文字にしてみると、美月の目の前で横たわる女神とは似ても似つかない。
それでも、美月には分かった。
閉じていてもなお慈愛を感じさせる、優しい目。
眼鏡の奥に隠されていた、豊かなまつ毛。
髪型も唯のそれよりはいくらか長めではあるが、面影がある。

そして、女性の左肘にある小さな手術痕が決定的だった。
これは幼い頃に唯が両手を骨折した際に負ったものだ。
ある日、唯が近所の公園にて自転車に乗る練習をしていたときのこと。
手伝いのため自転車の後ろを掴んでいた美月は調子に乗って自転車の速度を上げてしまう。
慌てた唯はハンドル操作を誤り転倒し、地面に着いた両腕を骨折するという事件があった。
その際に左肘は特に当たりどころが悪く粉砕骨折となり、病院で切開をしての手術となったのだった。

回復後、唯本人は、気にしていないしむしろ自転車に乗れるようになってよかった、ありがとうとは言ってくれはしたが、そのときの傷は高校生になった今もその腕に残ったままとなっている。
夏服の季節が訪れる度、美月は取り返しのつかない傷を負わせてしまったことを悔やみ、どうしようもなく居た堪れない気持ちになるのだった。


美月の背後からそよそよと流れてくる風が、唯と思しき女性の全身を撫で、その風の形そのままに髪をなびかせる。
美月と違い、なびくというほどに長い髪ではないが、風に対してあまりにも素直に流れる髪の動きを形容するに、決して不適当ではないように思われた。

長めながら綺麗に切り揃えられたボブの束が風に溶け、風が去るとまた元の形に戻り整い、黄金の麦の光に照らされるキューティクルが現れる。そして風が吹き、また風の形に溶ける髪。
砂浜に寄せては返す波のように、過去から未来にわたって永遠に変わることがない現象のようだった。

同様に、変わらないリズムでゆっくりと動き続ける唯の胸、そして腹部。
ふっくらとした双丘から下り、ちょうどへそあたりで組んだ両手が腹の動きに合わせて上下に動いている。
美月は目の前で眠るプリンセスに心を奪われてしまっていた。
これまで唯に対して抱き感じていた、かわいらしさとは質の異なる、厳かな美しさ。
そしてこの世界の中で唯と巡り会えたという、幸福感。
この安らかな寝顔をいつまでも見ていたいという気持ちがある一方で、切なさも感じていた。

──この愛しく可憐な姫を夢から醒ましたい。そして──

騒ついた波の音とともに風が大きくそよぎ、麦の穂が美月の肌を撫でた。
いつの間にか美月も唯と同じく一糸纏わぬ姿になっていた。
真っ白なベッドのふちに片膝をかけ、唯の身体を揺らさないよう気をつけながら美月もまたその横に裸体を横たえる。

時折まつ毛が細かく震えているのは、今そよいでいるこの風とは無関係に思える。
この正しく眠り姫は、今夢を見ているのだろうか。
どこまでも広く美しいこの世界の中心で、ただひとり。

まつ毛から、なだらかな角度の控えめな鼻、そして唇へと視線を移す。
大人の女性ではあるが、見れば見るほど、確かに美月の知る唯だった。
わずかに開かれた口元では、小ぶりながらぷっくりと血色を湛えた唇が金色の光を反射させている。

──唯、私があなたを──

美月は上体を起こし、右手を唯の頬に添え、ゆっくりと顔を近付ける。
そして目を閉じようとした瞬間。
世界が暗転した。
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