上 下
16 / 74
第一章

第10話/桜永美月:4

しおりを挟む
  2023年6月1日(木) 18:00 放課後


近所でありながら、唯の母と最後に会ったのはいつだろうか。


小学校高学年あたりから部活動に時間の多くを割くようになった美月は、自然と唯と遊ぶ機会も減り、ましてや互いの自宅へ上がることなど皆無となっていた。

幼い日の美月は親友であることをいいことに我が物顔で唯の自宅へ上がり込み、唯が不在にもかかわらず飲み物を所望したり、外で遊んで汚れた衣服を洗ってもらったりと、とにかく無礼の限りを尽くしていた。
炭酸飲料の一気飲みで気絶した美月のために救急車を呼ばせてしまったこともあるが、それはまだマシで、一度自らの行いが原因で唯を病院送りにしてしまったことさえある。
さすがにその時は烈火のごとく叱られたが、その後も唯の母はありとあらゆる悪行を重ねたこの厚かましい小鬼をもてなし、変わらずその慈眼を向けてくれたのだった。

それから成長するにつれ、美月は当時いかに自分が厚顔無恥であったかを恥じ入ることになる。
唯の母に対して合わせる顔がないというほどではないにせよ、やはりどこか負い目を感じていたのだった。
加えて、唯の母と美月との共通の話題──つまり唯は、美月の中で今最もセンシティブな話題である。


久しぶりということもあり、何か障りない話題を喋ろうとする前に、唯の母はそれは嬉しそうな表情で口を開いた。
「あの昨日はありがとうね。おうちの方にもお電話すればよかったけど……今どきお電話番号が分からなくって」
「昨日……ですか?」
何のことか分からなかった。
何を家に電話などすることがあるのだろう?
話題への反応ができない美月だが唯の母は続ける。
「唯ちゃん、昨日は美月ちゃんの家に泊まるからって。……また前みたいに仲よくしてくれて本当にありがとうねぇ」
美月の顔に瞬間的に笑顔が張り付けられる。
唯が昨日、私の家に泊まった? それってどういう……。

「あ……」
唯は嘘をついている。家族に。
嘘をついて外泊したのだ。
つまりそれは、家族には言えない場所に。
「あ、それ……あの……」
張り付けた笑顔のまま視線を右下に左下にと泳がせる。
「あ! 多分、別の友達の家で、お泊まり会やるって言ってたやつかも……? です。私も……誘われてたから、なんかごっちゃになったのか……も?」
美月も、嘘をついた。
あまりにも下手な嘘だったが、この場を取りなすにはほかに術はないように思われた。
正直にことを話し、今自分に向けられている優しい慈眼が崩れてしまうのが怖かった。
唯にも、嘘をつかないといけないほどの事情があったのかもしれない。
昨日の夜に何があったのか、自分は何も知らないのだ。

「あ、そうだったの? でもほら、唯ちゃん美月ちゃんと同じクラスになったってね、ずっと喜んでるから、どうか仲よくしてあげてね」
目に浮かぶようだった。
美月が知っている、昨日までの唯のあどけない笑顔。
「私の方こそ……! あの、おばさんもお元気そうでよかったです。また、お邪魔させてください」
美月はバッグの持ち手を握りしめ、深々をお辞儀をする。
頭に取り憑いた何かを振り払うように。
唯の母は美月の姿をひとしきり眺めてからその慈眼をさらに細め、微笑んだ。
「ええ、もちろんいつでも遊びに来てね。声かけてくれてありがとうね」
遠ざかっていく自転車から小さく手が振られている。

その様子はもはや美月の目には映っていなかった。
顔から、頭から、血が引いていくのが分かる。
唯、昨日何があったの?
今、唯は──


『今日は部活行こっかなって』

美月は踵を返し、元来た道を引き返す。

駆け出した美月の視線の先で飛び跳ねているのは、東に向かって長く伸びた自分自身の影だ。
いくら俊足を誇る美月であっても、自分の影に追い付くことはできない。
その学校の方向へと長く長く伸びた影は道を急ぐ美月の心情そのものだった。


正門へ続く学校下の坂を途中で左に折れる。
教員が通勤時に利用する、裏門に続く道だ。
文芸部部室のある旧校舎にはこちらの方が近い。
曲がりくねった坂道を力の限りに駆け上がる途中、すれ違う野球部のランニング集団からどよめきが上がる。
普段の美月なら、その反応に気をよくしていただろうか。
今の美月の耳には自身が切る風の音も、地面に叩きつけられる硬いソールの音さえも聞こえていなかった。


旧校舎に辿り着いた時には辺りは薄暗くなっていた。
呼吸を整えつつ、外よりもさらに暗い玄関をくぐる。
煤けたスノコに靴が横付けされている。いつもそこにあるのは唯の小さな靴がひと組。
しかし、今ここにあるのは──ふた組。

美月の胸が大きく鳴った。
一つ。小さい方のローファーは唯のもの。
そしてもう片方はサイズ的には男子生徒のものだ。
美月はこの玄関に唯以外の靴が置いてあるのを見たことがない。
仲睦まじげに並ぶふた組の靴から少し離れた場所に靴を脱ぎ、スリッパも履かずそのまま廊下を抜けようとした美月の足が止まる。
というよりも、何か床の上のものを踏んだことで不意に足が滑りそうになったのだ。
視線を落とした先では、辺り一面に大量のプリント類が散乱している。

変だおかしい。いつもの“ここ”じゃない。

視線を再び廊下奥の闇に戻し、駆け出す美月。
足裏で蹴られた冷え切ったプリントは蹴り飛ばされても宙を舞うことなく、すぐにまた床に張り付いて冷たくなった。


美月は、闇の中にほのかな明かりを見る。
廊下突き当たり右、文芸部部室のドア窓から漏れていた光だった。
あと数メートルで部室のドアに手が届くというところで美月は思わず足を止めた。
部室から漏れ出ているのは光だけでなかった。

声ならぬ声。
それは、女性の声だった。
喉奥から絞り上げるようにして出された苦悶の音。
それが次第に艶を帯び、最後には歓喜の嬌声へと変貌する。
ひと呼吸のうちに出されるその声が、何度も何度も一定のリズムで繰り出される。
声を出すごとに声色はますます艶かしく淫らになっていくのが分かった。

これって──
大人の女の人の声だ。
唯じゃない、誰か別の人が、この場所で……映画のワンシーンで見たことある……“あれ”をしている。
じゃあ誰が?
そう思いかけた瞬間、女性の声の調子が変化した。

抑えるようなトーンの小さく、鼻にかかった甘い声。
そこにいないと思っていた幼馴染が、くしゃみを我慢するときの声だった。
「小動物の鳴き声みたい」だとからかっていた、そのかわいらしいくしゃみが美月は好きだった。
鼻にかかった声色はそのままに、低音域に艶かしい音色が施されている。
その声が断続的に続いたあと、抑えきれない嬌声の蓋が外れ、再びまた“大人の女の人の声”に変わった。


美月はその場所で10分ほど固まっていた。
実際には2、3分程度かもしれないが、美月にはとても長い時間に感じられた。

床の冷たさに気が付いた美月はゆっくりと二歩、三歩と後退る。
そしてまだ、いや一層色めき立つ幼馴染の嬌声を背に、暗い廊下を歩き、旧校舎を後にした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

落ち込んでいたら綺麗なお姉さんにナンパされてお持ち帰りされた話

水無瀬雨音
恋愛
実家の花屋で働く璃子。落ち込んでいたら綺麗なお姉さんに花束をプレゼントされ……? 恋の始まりの話。

処理中です...