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第一章

第8話/桜永美月:2

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  2023年6月1日(木) 12:00 昼休み


「ちょい、美月ってば」
「あ。う。え?」
小野塚おのづか実咲みさきからの呼びかけに、気の抜けた返事をする美月。
手元の箸で空を掴んだまま、数秒ほどフリーズしていたらしい。
「どしたー。珍しくボーッとしてんね」
惣菜パンを片手に、二人とテーブル向かいに座るのは佐海さかいなぎさ。
「あ、そお? ちょっとエアポケットでした~」
我に帰った美月はウインナーに刺さった爪楊枝をつまみながら、おどけて見せた。


校舎の中庭の一角、藤棚の下のテーブルベンチにて三人は昼食を囲んでいた。
といっても、ほとんど早弁していた実咲はすぐに食べ終わり、なぎさは売店のパンなので弁当を広げているのは美月のみだ。
今の季節、とくに太陽が高い時間は強い日光が差し込む中庭にあって、ここは貴重な陽避けスポットである。
フジの花の季節は終わっているが、初夏の日差しを糧に密に茂った緑が頭上で鮮やかに萌えている。

「なんか悩んでんの」
美月の下手なごまかしをなぎさは見逃さない。
疑問形ながら、語尾を上げずむしろ下げていくイントネーションはいかにも彼女の喋り方らしい。またそれは美月が悩んでいると断定した上で、「嫌ならいいけどよかったら聞くぞ」というニュアンスを含んでもいた。

「ああ、いや、悩みってほどじゃ……ないんだけど」
「あ、分かった」
言い終わるのを待たずに早押しをしたのは実咲だった。
「茜川さんのことでしょ。朝から美月変なんだもん」
正解だった。いつもはしょっちゅうお手つきをするくせに。
しかし、唯のことには違いないが、それに対し自分がどうモヤモヤしているのか、当の美月にも分からないのだった。

「なになにどういうこと?」
美月の希薄なリアクションから逆に正解だと見たなぎさも身を乗り出すが、詳細は実咲の口から述べられた。
「昨日さ、駅の方で遊んでたらさ、デート中っぽい茜川さん見たの」
「え彼氏いんの。超意外なんだけど。どんな男?」
まずい。
この実咲という足の生えたスピーカーを放置しておくとあっという間に学校中、下手をすれば地域一帯に根も葉もない噂が広がってしまう。
美月はすぐに否定する。
「いやいや、実咲も彼氏見てないんでしょ? ほんとにデートか分かんないじゃん。なんか病院行ってたらしいし」
「えーでも男子っぽいバッグ持ってたし何かよそよそしかったしさ、オトコだよあれ。絶、対」
よく一文の中に喜怒哀楽の全てを込めつつ抑揚をもって喋れるものだと美月は感心する。
一度放送部に入ってみればいいのに。

「へー。美月仲良いんでしょ、茜川さんと。知らんの?」
実咲に対してなぎさの声のトーンはずっと低空飛行だ。
しかし稀にギョッとするほどに鋭い凶器をぶっ込んでくるので、こちらも油断ならない。
「何か……昔からずっと一緒だとそういう話しなくってさ……。そうなんかな、彼氏、いるんかな」
美月はほぼ無意識に白米の上のゴマだけを箸の先でつかんでは弄んだ。
そんな美月をひとりでミュージカルでも始めてしまいそうな調子の実咲がからかう。
「ほらほらほらほらジェラシーじゃん。幼馴染に~? 先を越されたのが~? 悔しいんだ?」
「そういうんじゃないって! 越すとか越されるとか……ああ私そういう……恋愛とかよく分かんなくってさぁ……何か全然自分ごとで考えたことないわ」
「はい出たよ強者のよゆ~」
今度は肩をすくめ、欧米じみたリアクションでなぎさに目配せする実咲。
美月はやけっぱちのように白米をかきこみながら実咲のペースに呑まれまいとする。
「もー違うってばー。んだってさぁ、別に実咲も好きな人いないでしょ?」
「まね。今は色々自分でやりたいことあるし別にいっかな」
またトーンを変えて軽やかに話す実咲はカメレオンのようだ。
美月は実咲による一連の揶揄を若干疎ましく思いつつも、それ以上にスリリングな楽しさを覚えてしまう。

実咲が口に咥えたストローの先端がなぎさに向けられる。
「まぁ……なぎさ見てるといいなぁとか思うこたあるけどね」
「いいも悪いもどっちもだね。それ込みで楽しいんだけど」
「ハー! 悟ってんねー。私たちとはレイヤーが違う感じ」
掲げた手のひらを上下に動かして見せる実咲。
その手の動きを目で追いながら美月も問うてみる。
「やっぱさ、なぎささ。恋人できたら色々変わるもんなの?」
「変わる?」
「ほら、なんか……性格とか? あと……んまぁとにかく色々さ」
美月は今朝の唯を思い浮かべるも、何がどう変わったともうまく説明ができない。
少し逡巡してなぎさが答える。
「んー、人によるんじゃない? それで言うと片思いの時の方が変わったって言ってた。彼氏は」

美月の記憶では、なぎさに恋人ができたのは去年の2学期だったと思うが、それを境になぎさの何かが変わったということはなかった、と思う。
もちろん、三人揃って過ごす時間は減ったが、だからといって三人の関係性も特段変化はしなかった。
それぞれが必要以上に依存し合う関係ではなかったこともあるが、一番はなぎさ自身がその泰然自若とした性質でもってトリオのバランサーとして機能していたということを、美月も実咲も理解している。
そのために、なぎさが努力をしているということも。
佐海なぎさといういかにも境界めいた名前をしている彼女はいついかなる時も無風で変化がない、ように見える。
なぎさというより凪である。
もしマンガならたいらの安定やすさだみたいな名前になっているんじゃなかろうかと美月は思う。
「あ、そっか。なぎさは鬼アプローチされてたもんね」
実咲も当時のことを思い出す。
毎日のように『なんかぐいぐい来るんだけど』とさすがのなぎさも困惑気味だったことを覚えている。
「そ。私はだからまぁ折れたわけで、今は普通に彼のこと好きだけど、それで別に私なんか変わったかなー」
「なぎさは外れ値ってやつだから参考にならなさそー」
空の紙パックをストローで膨らませながらそう言う実咲だったが、美月も大いに同意する。
それでもなぎさも、確実に何かしらは変わっているのだろうけど。


パンを食べ終えたなぎさは頭の後ろで腕を組み、おもむろに口を開く。
「……そいやさ、茜川さん、コンタクトにしてたよ」
その口ぶりに『そういえば』というほどの急進感は一切なかった。
タイミングがあれば言ってもいいかな、程度のものだったのだろう。
佐海なぎさ。あなどれぬ女よ。
美月はやはりこの親友にも実咲とは別種のスリルを覚える。
「うっそマジで? 昨日メガネだったと思ったけど」
驚いた実咲は膨らんだ紙パックを危うくなぎさに向けて吹き飛ばすところだった。
「午前授業一緒でさ。普通にかわいかった。ああでも彼氏いるならなんか納得だわ。あの感じ」
あの感じってどの感じ? それを私は知りたいんだ。

美月はまた今朝の起き抜けの唯を思い出そうとする。
かわいい……かった。けど、唯のかわいらしさって、何だろう、もっと、もうちょっと何というか。
もどかしい。唯ならもっと上手く言葉にできるんだろうけど。
「もだからさ、昨日駅前の眼科行ってレーシックしたんだって。あと……元からあの子かわいいからね、普通に」
美月はそう自分で言っておきながら普通にかわいいって何だろうと思う。
唯は全然普通じゃねえわ。

「保護者みたいだなぁ美月。あ、だからか。昔から応援してるアイドルがデビューした時の寂しさ?」
「ワシが育てたのに? ボクが先に好きだったのに?」
ふたたび揶揄の矛先を美月に定めた実咲になぎさも加勢した。
「もーだーかーら、ちなうちなうって」
ハエを払う仕草で否定してみる美月だったが、確かに実咲たちの言うことはそれほど外れていないような気もした。
それを察したのか、実咲が美月の肩をポンと叩く。
「ま、誰にでも巣立ちの日は来るわけですよ、おかーさん?」
「んなん分かっとら! ごちそーさま!」
パチンと音を立てて箸箱を閉じ、手を合わせる。
クセになっている食後の挨拶だが、今の話題を幕引きしてしまいたいという表現でもあった。

……まぁ唯がいいならいいんだけどさ。

美月は、自分に言い聞かせるように心の中で小さく呟いた。




放課後になり、なぎさは借りていた物理のノートを返そうと美月を探したが、教室内に姿はなかった。

「実咲よー。美月は? もう帰った?」
「3年の人から呼び出し」
授業が終わり、部活へ向かう準備をしながら実咲が答える。
美月が呼び出されるということは、すなわち愛の告白である。

「最近また増えたなー」
そう言いながらノートに添えるメモ書きを作るなぎさ。
〈美月ん♥ ノートありがとニャン!〉
腹に『な』という文字を書かれた猫のイラストから、およそなぎさ本人の口から出ないであろうセリフが吹き出されている。
「夏休みまでにってやつじゃね? ゴールデンウィーク逃すようなヘタレはダメダメだと思うけどぉ~」
なぎさのメモ書きを横目で見ながら実咲は辛辣な、しかしごもっともと言える意見を述べる。
「当たって砕けろかね。あんなムリめなの、よーチャレンジする気になるわ」
「歳上だとワンチャンありって思うんじゃね。知らんけどぉ~」

この一年間、美月の近くにいたふたりにとってはもう珍しくも何ともないただの“負け確イベント”だった。
もはや玉砕することで闘魂が注入される類のセレモニーとしての趣を帯び始めているような気がする。あるいは記念受験的な。美月にとってはいい迷惑だが。
「美月もさ、1回お試しでー、とかやってみてもいいんじゃねとは思うけど」
まさにそのパターンで結果両想いになったなぎさが言うと説得力がある。

「あいつ無駄に自分に正直なんだよなー」
実咲は手慣れた手つきでスパイクに紐を通していく。
「ほら、好奇心強いくせに自分が納得できないことすんの超嫌うじゃん」
「陸上来てくんないこと?」
「それもあるけど」

なぎさも美月が散々実咲からのアプローチを受けていることを知っている。
実咲は短距離走の選手だが、体育の授業での50メートル走では美月の後塵を拝してしまった。そのタイム6秒台。男子と比べてもかなり速い部類になる。
スパイクありきでの100メートル走なら負けないとは思うが、やはり陸の上での美月の本気を見てみたい。

「あいつ頭いいから世の中の全部に納得があるとか思ってんの。適当にxでもyでも代入すりゃいいのによ」
「ほほー。文系らしからぬことを言いなさる」
食ったような言い方をするなぎさだったが、この実咲の割り切りの良い部分が好きだった。
それは美月もきっと、同じなのだと思う。

「私はバカだからとりあえず走るに限る。しょっと」
最後の紐を通し終えた実咲は椅子から立ち上がり、スパイクケースを肩にかけ、なぎさに笑って見せる。
「ま、何でもいいわ。美月が元気ならそれが」
一貫して無表情だったなぎさも笑みを浮かべ、首肯する。
「んだね。でも……茜川さんのこともあるし、そろそろひょっとしたらひょっとするかもよ」
なぎさは教室の後ろの方、茜川唯の席を振り返る。

その席にはすでに通学バッグはかかっていなかった。
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