彼福私鬼 〜あちらが福ならこちらは鬼で〜

日内凛

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第一章

第7話/桜永美月:1

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  2023年6月1日(木) 8:15 朝礼前


「おは美月!」
昇降口にて靴を脱ぎかけた美月に声をかけたのは小野塚実咲だった。

「実咲おはよー。朝練?」
「いや昨日遊びすぎちゃったからか寝坊しちゃってさー」
悪びれることなく、むしろサボれたことに喜んでいるかのような声色だった。
美月は昨日、帰り際に遊びに誘われたことを思い出した。
確か、実咲も行くって話だったっけ。寝坊するほどとは、一体どれだけ遊んでいたのやら。

「それよか美月さ、昨日茜川さんと一緒に帰ったんじゃなかったの?」
「ん? 帰ったよー。途中までだけど」
唯と別れたあと、体調が気になった美月はスマホからメッセージを送ってみたが、結局朝まで既読マークが付いていなかった。安静に寝ていたのならいいが。
「ほんとー? 昨日茜川さんひとりで歩いてて~。声かけたけど、なんか無視されちゃった」
階段を上がろうとする美月の足が止まる。

「え? みんな駅の方行ってたんでしょ?」
「うん、カラオケのへん。美月んちとは真逆じゃんね」
美月および唯の自宅は学校の西側方面に位置する。
反対に駅――私鉄の宝月駅があるのは学校から見て南東部であり、ほとんど逆方面だ。
美月と唯が別れた場所から駅までは2キロメートルほどはあるだろうか。

「しかもさ、男子ぽいバッグも持ってたからデートとか? 見られたくなかったのかな~」
実咲の証言する内容が、美月の知る唯の像とまるで結び付かない。
人違いではと思う美月だが、おそらくその場にいたクラスメイトが全員唯だと認めたことになる。

しかし妙だ。
「それって何時くらい?」
「んーだいたい7時半くらいかな?」
「ありがとう、実咲。ちょいごめん、また後で!」
あっという小野塚の声は階段を駆け上がる美月には追い付かなかった。


ドアを開け、入り口まわりのクラスメイトに挨拶をしながらも美月の意識は教室奥、窓側へと向けられていた。
唯は、もう席に着いている。
着いてはいるが、机の上に頭を突っ伏している。
やはりまだ体調が悪いのかもしれない。

美月は自分の席に通学バッグを下ろすことなく、そのまま唯の席に向かった。
机に伏した唯の背中が小さくゆっくりと上下している。眠っているのだろうか。
眠りを妨げるのを申し訳なく思いつつも、声をかけてみる。

「唯……、ね、唯。おはよう」
返事はない。
美月は手を軽く丸め、唯の背中をさするよう叩いてみる。
「ごめん、唯、ねぇ、大丈夫?」
肩がピクッと反応した。
ややあって四肢を緩慢に伸ばしながら唯の頭が持ち上がる。

「唯、おはよ。昨日、大丈夫だった? まだ具合悪いの?」
起き抜けらしく、ゆっくりとした動作でその顔が美月へと向けられた。

「……美月ちゃん……おはよ……。今日もきれいだね……」

思わずドキリとする美月。
およそ唯の口から出てこないような文句──出てくるにしても、もっと言い淀みそうなものだ。
しかし、それよりも。

いつもの分厚い眼鏡の奥に見える、しっとり紅潮した半開きのまぶたと、その下に潜む潤んだ瞳。
紅潮しているのはまぶた、そして頬だけではなく顔全体にも言えるのだが、その一方で肌理きめの細かい肌にはクスミが見られず、血色の良い明るい色をしていた。

さらに、ひとすじの御髪がひっついている、ぷっくりと腫れぼったく膨れた下唇。
グロス塗りたてを思わせる艶は起き抜けのヨダレによるものでもなく、粘膜そのままの艶だった。
その艶は鮮やかな粘膜の色をダイレクトに唇の上に表現している。

髪の艶も、こんなにきれいなキューティクルだっただろうか。
つい今美容院でヘアマスクをあててきたような瑞々しい艶と、地毛の栗色は発色豊かなブラウンカラーをしており、どこか甲虫の羽の構造色をも思わせる奥行きのある色味だった。
それでいて、いつものボブなのにふんわりとエアリーな軽さもある。


かわ……いい。

いや、唯は元々かわいいよね?
思いがけず幼馴染に妙な色気を見てしまった美月だが、気を取り直す。

「ねえ唯、昨日さ、あの後……駅の方行ってたって、熱大丈夫だったの?」
起き抜けでまだ頭が回ってないのだろうか。
潤んだ瞳で美月の姿を捉えたままの唯はやや逡巡し、口を開く。
「……あー、見られてたんだ……。目立つとこ歩いちゃうから……」
美月はその言葉の意味を理解できなかったが、あのあと駅の方に行ったことは確かなようだった。
「私、てっきり唯、そのまま帰って寝てたのかなって。ほら、既読つかないし」
「ごめんごめん、ちょっと駅の方に用事思い出しただけだよ。熱もぜんぜん大丈夫。むしろ超元気だよ」
椅子に座ったまま全身を伸ばし微笑む唯。


なんだろう。
何か、自分の知っている唯とどこか違う。

思ったより元気そうな唯に安心しつつも、戸惑いを覚える美月。
いつもより、妙に自信に溢れているというか。
「そか、それならいいけど……」

「あ、眼科」
美月が一旦自席へ向かおうとした時、不意に唯が文脈にない言葉を発する。
「眼科?」
聞き間違いかと鸚鵡オウム返しをする美月。
「そう、眼科行ってたの。レーシック? だっけ? ほら」
言うなり唯はトレードマークである大きな黒縁眼鏡を外して見せる。
「あー、全然見えるよこれ。レーシックすごいねぇ」
机の上に置かれた眼鏡。
その黒いフレームにはまる分厚いレンズは机の木目を極端なまでに湾曲させている。
ものすごい度数だ。

「今までかけてたのに、それ。平気なの?」
「ちょうど今レーシックが効いてきた感じ? よくわかんないけど」
「よくわかんないって……」
そんなコンビニに行くようなノリで、よく分からないまま目の手術をして、よく分からないタイミングで視力が回復するものなのだろうか。
両目ともに裸眼視力が1.5以上ある美月には事情が分からないことではあるが、しかしこれは明らかに妙だ。

「だって、昨日もそれまでもレーシック? するって聞いたことなかったし……ほんとに見えてるの?」
「見えてるよ」
やはり唯らしからぬ自信に満ちた即答に戸惑う美月の一方、唯は悠然と教室内を見渡し、そして教室の前の方を指差した。
「ほら、6579。あそこに落ちてる消しゴムのバーコードの下4桁」

消しゴム……?
唯が指で示した方向を同じように目で追う美月だがバーコード以前にその消しゴムすら見つからない。
「教卓の下」
言われるまま教室の前の方に行き、教卓の下を覗く。
すると、確かに申し訳程度にカバーのついた小さな消しゴムが落ちているのが見えた。
埃を払いながら拾い上げる。
カバーはすっかり短くなっており、バーコード下の数字も6579という下4桁しか残っていなかった。

「ね? 見えてるでしょ?」
ちびた消しゴムを手に戻ってきた美月に笑いかける唯。
視力が良い悪いの問題ではない気がする。
消しゴムは教卓の影に溶けて、完全に見えなくなっていたはずだ。

「なにこれ、そういう仕込み?」
理解ができない状況に、本当にドッキリの一環かと思う気持ち半分、また戸惑いを隠す気持ち半分で唯と同じように笑って見せる。
唯はその反応に軽く吹き出したあと、美月に向けた裸眼をうっとりと細めながら二、三度瞬きをする。
唯が眼鏡をかけはじめたのは、小学生になるとほぼ同時期だった。
ゆえに美月にはしばらく唯の裸眼を見る機会はなかったが、その目は意外にも大きく、またまつ毛も密に生え揃っている。
しっとりと、朝露が降りているかのように潤ったまつ毛だった。
瞬きの度にまつ毛が揺れ、朝露は霧となり教室の空気に溶けていく。

「……美月ちゃんは、やっぱり、いいよねぇ……」
「唯やっぱまだ熱」
ふと、窓から入り込んだ風を受け、美月の声が途切れる。
唯の風下にいた美月の鼻腔内を、甘くも香ばしく……どこかほろ苦い香りが刺激したのだ。
シャンプーではないかもしれない。
香水……それもムスク系に近い印象がある。

唯が、香水? それもムスク?


HR開始前の予鈴が鳴る。

「ねえ、唯、今日昼なんだけど」
美月はやはりどこか妙な様子の唯の具合が気になり、約束を取り付けようとする。
「あー、今日ちょっと昼先約があって。ごめんね」
先約? いや、唯にも色々あるのだろう。
「そっか、じゃさ、よかったらまた一緒に帰らない?」
「今日は部活行こっかなって」
すっかり袖にされてしまった美月は、そっか、としか言えなかった。

じゃあまた、と自席へと身を翻すその背中を見つめながら、唯は誰にも聞こえない小さな声でひとり、呟く。

「……人間って、本とはまた違うんだよね」
昨日、唯を看破した美月への反駁とも言える言葉だった。

「人間はさ、日々改版するんだよ……」
そして、微笑みを浮かべる。

美月には一度として見せたことがない、妖しくも艶かしい笑みを。


「美月ちゃんは……私が……改版してあげるね」
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