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第一章
第4話/茜川 唯:4
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2023年5月31日(水) 17:30 放課後
とても言えない。言えやしない。
唯は、長く長く伸びた幼馴染の影が曲がり角の塀に吸い込まれてしまうのを見送った。
“かわいい”なんて、言われたの、いつぶりだろうか。
中学に上がって、初めてセーラー服に袖を通したときに叔母さんが言ってくれたっけ。
でも私はちっとも、かわいいだなんて思わなかった。
まだ私には意味が分からないと思っていたのか、父が冗談めかして呟いた『馬子にも衣装ってやつだな』という評の方が自分でも正しいと思った。
美容院では鏡を正視できない。
裸眼では何も見えないので正視も何もないが、カットの確認で眼鏡をあてがわれた瞬間、ぎょっとしてすぐに目を逸らしてしまう。
ちんちくりんのイモ顔にはどんな髪を載せたらいいのか、美容師さんにとっても難題なのではないだろうか。
普段着は“馬子にも衣装”ですらなく、何をどう着ても試着室の中でげんなりしてしまう。
そもそもサイズがなく、特に靴となると選択肢というものがほぼない。
一方、同じこの町で同じ学年、同じ女性として生まれた彼女はどうだろう。
4月生まれの彼女と3月生まれの自分とでは実質約1年ほどの発育の差がある。
幼い頃からそれは露骨だったが、年を経ても一向にその差は縮まることはなく、むしろ広がっていく一方だった。
モデル顔負けのスタイルの彼女は、何をどう着ようとサマになってしまう。
自分なら致命的な組み合わせとなるものでも、彼女ならそれを絶妙なハズシやこなれ感にしてしまう。
そしてその美しいスタイルをなす身体は伊達でも何でもなく、彼女の並外れた運動能力の根拠にもなっている。
唯は小学校の跳び箱の授業での出来事を思い出さずにはいられない。
運動が苦手な唯の場合、跳び箱を越えるどころか、何とか跳び箱の上にお尻を着いただけで拍手が巻き起こる。
その横で美月は唯より何段も高い段の上で初見にもかかわらず前転宙返りをして見せた。
後で先生にこってりと絞られていたが、あんな芸当は自分が逆立ちしたって無理だろう。
そもそも逆立ちなんてどうやるんだ?
とにかく彼女のそれは、いわば機能に立脚した美だった。
重力や気圧や気温、大気成分等々、地球上の物理的な環境下における人間の形状の最適解、あるいは最大公約数のようなものではないかと唯は常々思う。
人間の材料となる立方体のようなものがあったとして。
この世界に神様がいたとして。
神様が地球の諸条件・要件に見合うようにその立方体を削っていく。
そうして最終的に削り出されたのが桜永美月という彫刻。
美しくないわけがないのだ。
彼女は今までの人生でどれだけの“かわいい”という言葉を浴びてきたのだろう。
あるいは“きれい”“美しい”でも何でもいい。その美を形容し讃える言葉。
厄介なことに、彼女の場合は外見と内面との間に断絶がなく、つまり内面までもが外見の印象そのままの清廉さを備えている。
人の内面など分からないものだ。
自分自身の内面ですらそうなのだから、他人なら尚更。
しかし、唯はこれまでに美月のその人となりに救われてきた当事者として、美月の心の美しさを証明しないといけない局面があるならば、山ほどのエピソードを持参し喜んで証言台に立つだろう。
桜永美月という人間は、あまりにも非現実的でフィクションのようだが、逆にフィクションには出てこないタイプと言えるかもしれない。
完璧がゆえに物語を転がすことができず、却ってキャラクターとして魅力がない。
それにリアリティがない。
しかし、リアリティはないがリアルに存在するのだ彼女は。
その彼女が、私を“かわいい”と言ってくれた。
唯はその時の美月の表情を思い出す。
まっすぐと自分を見据えた、曇りなき星空を湛えた眼。
唯には分かる。つまらない世辞など使う人ではない。
彼女は弁は立てど、手管手練を弄するタイプではない。その必要がないからだ。
自信が持てずにいる自分を慰めてくれたのかもしれないが、“かわいい”と言ってくれたのは、美月の本心だった。
昼休みの、本の例えも含めて──。
冷たい風が襟元を抜けていく。
あれこれ思いを巡らせているうちに、路上に伸びていた電柱や建物の影もすっかりアスファルトに溶けていた。
アリバイということではないが、唯は宣言通りドラッグストアへ向かうことにした。
少し喉が渇いたし、予備の日焼け止めを買っておくのもいいかもしれない。
まだ夏はこれからなのだ。
公園脇の道を北上し、橋を渡る。
川上から流れてくる冷えた空気が、まだ火照っている体から熱を奪っていく。
肌に触れるブラウスの布地もひやりとして心地がいい。
それなりの汗がブラウスにも移ってしまっていたのだろうが、ラジエーターとしての役目を果たしてくれている。木綿さまさまだ。
途中、犬の散歩をする親子とすれ違う。
父親の手からピンと伸びたリードの先では白い子犬が奇妙な歩き方をしている。
歩幅的には走り方という方が正しいのだろう。
体を地面スレスレに斜めに傾けながら、道路を掻くように前へ前へと邁進している。
二輪車が高速でコーナリングする際の姿勢のようだが、ここは曲がり角などどこにもない直線コースである。
散歩を嫌う子犬の反抗というよりは、スリルを楽しみ、また己が限界を試してみたいという野生の表出であるように思えた。
唯は、かわいい。と思った。
その子犬に引っ張られている父親の後ろでは、男の子が走ったり止まったりを繰り返している。
察するに、あの男の子は路上のマンホールの上でしか呼吸をしてはいけないというルールを自らに課しているのだと思われる。
マンホールの上には安全な結界が張られており、その場所以外で呼吸をした場合、幽霊に見つかって酷い目に遭うとか、そんな過酷な設定でもあるんだろう。
唯にも身に覚えがあった。
唯の場合は横断歩道の白い場所を踏み外すと落下して死んでしまうというものだった。
その男の子を見て唯は、かわいい。と思った。
かわいい。かわいいって一体何だろう。
唯の視線の先では車が右に左に行き交っている。少し大きな通りに出た。
左手、日が沈み群青色になった空に、ライトに照らされたドラッグストアの看板が浮かんでいる。
歩みをそちらに向けながら、唯は思索を続ける。
唯は、美月を素直にかわいい、と思う。
それ以上にかっこいいと思う気持ちの方が強いが、かわいいという形容詞の射程には間違いなく入っている。
容姿はもちろんのこと、目を閉じてもかわいいと認識できる。
あの人たらしと少しでも喋ったことがある人ならば、みな一様にそう思うだろう。
一方で美月に対して抱く“かわいい”が含意するものは、人によって様々だということも唯は理解している。
では自分が美月に対して抱く“かわいい”は、何だろうか。
片側一車線の県道ながら断続的に車が行き交い、その半規則的な車の走行音が自分の頭をクリアにしていくような気がした。
外を歩きながら考え事をするのも、悪くないのかもしれない。
唯は幼馴染の姿を思い浮かべ、同時に湧き出てくる感情に耳を澄ませる。
“かわいい”“かっこいい”という感情よりもさらにその下層から、もっと原初的なある感情がグンと押し上がって来るが、今は一旦それを押さえ付ける。
思いを巡らせながら唯はいつの間にか照明が煌々と輝く店舗入り口にいた。自動ドアが開く。
まるで自分は蛾みたいだな、と唯は自嘲する。
光に誘引された、見すぼらしい蛾。
決して花に遊ぶ蝶ではない。
入り口付近にて展開されている、日焼け止めクリーム特設コーナーには目もくれず、2階の化粧品コーナーに向かった。
フロアまるごとが女性向け化粧品売り場となっている。
女性の“きれい”、そして“かわいい”のための場所……。
明るい店内のいたるところからニョキニョキと笑顔の女性の顔が生えている。
商品の販促用POPだ。
普段テレビを見ることがない唯には、モデルの女性の名前が一切分からない。
それどころか、誰が誰だかほとんど区別がつかない。みな同じ人に見えてしまう。しかし。
「かわいい……」
先ほど道すがら目撃した子犬とも男の子とも異なる、“かわいい”。
それはそうだ。どの女性も自分より歳上で、そして当然自分よりも見目麗しい。
POPの女性と目が合った。
ぱっちりと見開いた、自信に満ち溢れた目。
自分がこの世の誰よりもかわいくて美しいと信じて疑わない目だ。
アイライナーの広告としては凄まじい訴求力、そして説得力がある。
──この商品でかわいくて美しい私のようになりなさいな。
そもそも素材としてのモノが違うのだから錯覚でしかないと唯は理解しつつも、商品を使用することでその威光にあやかれたら、と思ってしまう。
しかしペンのサンプルが添えられた鏡を見て唯は我に返る。
そこに映っていたのは、大きな黒縁眼鏡をかけた、野暮ったい女だった。
眼鏡の奥の目は分厚いレンズで縮小されて目というよりもはやシジミのようだ。
シジミに何をどうデコレーションすればハマグリになるというのだろう。
自分が化粧などと、ちゃんちゃらおかしな話だった。
急に恥ずかしくなった唯は周囲を見渡した。
イモ女が色気付いてコスメを吟味していたところを誰かに見られていたらと、唯の年齢並みにはある自意識が騒ぎ出す。
奥の方に少しだけ人の頭が見えたような気がしたが、幸い周囲には客も店員もいなかった。
唯はまだ自宅に予備があるスキンケア用品のボトルをひとつ掴み、階段へと向かう。
そうだ。自分にはスキンケアまでが関の山なのだ。とりあえず、今は。
でもいつか、こんな自分も近づけるだろうか? 憧れの、あの彼女のように。
そこで唯は、気付いた。
自分が彼女に見る“かわいい”は、“あやかりたい”という気持ちがベースにあるのかもしれない。そうなると、彼女に抱く“かっこいい”とも繋がりそうだ。
逆に、彼女が自分に対して言った“かわいい”は?
唯の鼻から笑いが呼気として漏れる。
それこそ愚問だ。
自分が子犬や男の子に対して抱いた“かわいい”と同じ種類のものなのだろう。
少なくとも、“あやかりたい”ではない。
──私なんかあやかったら、それは“デバフ”ってやつだよ、美月ちゃん。
デバフ。能力が下がり、弱体化すること。
芸能まわりの流行には疎い唯も言葉の流行には耳聡い。
普段ゲームをしない唯だが、日常でも使いやすく気に入っているゲーム用語だ。
そして、自嘲しながらも彼女のことを考えると、自分に強烈な“バフ”がかかるのが分かる。
バフ。デバフとは反対に、能力が上がり、強化すること。
そうだ。それで、いいのだ。
とても言えない。言えやしない。
唯は、長く長く伸びた幼馴染の影が曲がり角の塀に吸い込まれてしまうのを見送った。
“かわいい”なんて、言われたの、いつぶりだろうか。
中学に上がって、初めてセーラー服に袖を通したときに叔母さんが言ってくれたっけ。
でも私はちっとも、かわいいだなんて思わなかった。
まだ私には意味が分からないと思っていたのか、父が冗談めかして呟いた『馬子にも衣装ってやつだな』という評の方が自分でも正しいと思った。
美容院では鏡を正視できない。
裸眼では何も見えないので正視も何もないが、カットの確認で眼鏡をあてがわれた瞬間、ぎょっとしてすぐに目を逸らしてしまう。
ちんちくりんのイモ顔にはどんな髪を載せたらいいのか、美容師さんにとっても難題なのではないだろうか。
普段着は“馬子にも衣装”ですらなく、何をどう着ても試着室の中でげんなりしてしまう。
そもそもサイズがなく、特に靴となると選択肢というものがほぼない。
一方、同じこの町で同じ学年、同じ女性として生まれた彼女はどうだろう。
4月生まれの彼女と3月生まれの自分とでは実質約1年ほどの発育の差がある。
幼い頃からそれは露骨だったが、年を経ても一向にその差は縮まることはなく、むしろ広がっていく一方だった。
モデル顔負けのスタイルの彼女は、何をどう着ようとサマになってしまう。
自分なら致命的な組み合わせとなるものでも、彼女ならそれを絶妙なハズシやこなれ感にしてしまう。
そしてその美しいスタイルをなす身体は伊達でも何でもなく、彼女の並外れた運動能力の根拠にもなっている。
唯は小学校の跳び箱の授業での出来事を思い出さずにはいられない。
運動が苦手な唯の場合、跳び箱を越えるどころか、何とか跳び箱の上にお尻を着いただけで拍手が巻き起こる。
その横で美月は唯より何段も高い段の上で初見にもかかわらず前転宙返りをして見せた。
後で先生にこってりと絞られていたが、あんな芸当は自分が逆立ちしたって無理だろう。
そもそも逆立ちなんてどうやるんだ?
とにかく彼女のそれは、いわば機能に立脚した美だった。
重力や気圧や気温、大気成分等々、地球上の物理的な環境下における人間の形状の最適解、あるいは最大公約数のようなものではないかと唯は常々思う。
人間の材料となる立方体のようなものがあったとして。
この世界に神様がいたとして。
神様が地球の諸条件・要件に見合うようにその立方体を削っていく。
そうして最終的に削り出されたのが桜永美月という彫刻。
美しくないわけがないのだ。
彼女は今までの人生でどれだけの“かわいい”という言葉を浴びてきたのだろう。
あるいは“きれい”“美しい”でも何でもいい。その美を形容し讃える言葉。
厄介なことに、彼女の場合は外見と内面との間に断絶がなく、つまり内面までもが外見の印象そのままの清廉さを備えている。
人の内面など分からないものだ。
自分自身の内面ですらそうなのだから、他人なら尚更。
しかし、唯はこれまでに美月のその人となりに救われてきた当事者として、美月の心の美しさを証明しないといけない局面があるならば、山ほどのエピソードを持参し喜んで証言台に立つだろう。
桜永美月という人間は、あまりにも非現実的でフィクションのようだが、逆にフィクションには出てこないタイプと言えるかもしれない。
完璧がゆえに物語を転がすことができず、却ってキャラクターとして魅力がない。
それにリアリティがない。
しかし、リアリティはないがリアルに存在するのだ彼女は。
その彼女が、私を“かわいい”と言ってくれた。
唯はその時の美月の表情を思い出す。
まっすぐと自分を見据えた、曇りなき星空を湛えた眼。
唯には分かる。つまらない世辞など使う人ではない。
彼女は弁は立てど、手管手練を弄するタイプではない。その必要がないからだ。
自信が持てずにいる自分を慰めてくれたのかもしれないが、“かわいい”と言ってくれたのは、美月の本心だった。
昼休みの、本の例えも含めて──。
冷たい風が襟元を抜けていく。
あれこれ思いを巡らせているうちに、路上に伸びていた電柱や建物の影もすっかりアスファルトに溶けていた。
アリバイということではないが、唯は宣言通りドラッグストアへ向かうことにした。
少し喉が渇いたし、予備の日焼け止めを買っておくのもいいかもしれない。
まだ夏はこれからなのだ。
公園脇の道を北上し、橋を渡る。
川上から流れてくる冷えた空気が、まだ火照っている体から熱を奪っていく。
肌に触れるブラウスの布地もひやりとして心地がいい。
それなりの汗がブラウスにも移ってしまっていたのだろうが、ラジエーターとしての役目を果たしてくれている。木綿さまさまだ。
途中、犬の散歩をする親子とすれ違う。
父親の手からピンと伸びたリードの先では白い子犬が奇妙な歩き方をしている。
歩幅的には走り方という方が正しいのだろう。
体を地面スレスレに斜めに傾けながら、道路を掻くように前へ前へと邁進している。
二輪車が高速でコーナリングする際の姿勢のようだが、ここは曲がり角などどこにもない直線コースである。
散歩を嫌う子犬の反抗というよりは、スリルを楽しみ、また己が限界を試してみたいという野生の表出であるように思えた。
唯は、かわいい。と思った。
その子犬に引っ張られている父親の後ろでは、男の子が走ったり止まったりを繰り返している。
察するに、あの男の子は路上のマンホールの上でしか呼吸をしてはいけないというルールを自らに課しているのだと思われる。
マンホールの上には安全な結界が張られており、その場所以外で呼吸をした場合、幽霊に見つかって酷い目に遭うとか、そんな過酷な設定でもあるんだろう。
唯にも身に覚えがあった。
唯の場合は横断歩道の白い場所を踏み外すと落下して死んでしまうというものだった。
その男の子を見て唯は、かわいい。と思った。
かわいい。かわいいって一体何だろう。
唯の視線の先では車が右に左に行き交っている。少し大きな通りに出た。
左手、日が沈み群青色になった空に、ライトに照らされたドラッグストアの看板が浮かんでいる。
歩みをそちらに向けながら、唯は思索を続ける。
唯は、美月を素直にかわいい、と思う。
それ以上にかっこいいと思う気持ちの方が強いが、かわいいという形容詞の射程には間違いなく入っている。
容姿はもちろんのこと、目を閉じてもかわいいと認識できる。
あの人たらしと少しでも喋ったことがある人ならば、みな一様にそう思うだろう。
一方で美月に対して抱く“かわいい”が含意するものは、人によって様々だということも唯は理解している。
では自分が美月に対して抱く“かわいい”は、何だろうか。
片側一車線の県道ながら断続的に車が行き交い、その半規則的な車の走行音が自分の頭をクリアにしていくような気がした。
外を歩きながら考え事をするのも、悪くないのかもしれない。
唯は幼馴染の姿を思い浮かべ、同時に湧き出てくる感情に耳を澄ませる。
“かわいい”“かっこいい”という感情よりもさらにその下層から、もっと原初的なある感情がグンと押し上がって来るが、今は一旦それを押さえ付ける。
思いを巡らせながら唯はいつの間にか照明が煌々と輝く店舗入り口にいた。自動ドアが開く。
まるで自分は蛾みたいだな、と唯は自嘲する。
光に誘引された、見すぼらしい蛾。
決して花に遊ぶ蝶ではない。
入り口付近にて展開されている、日焼け止めクリーム特設コーナーには目もくれず、2階の化粧品コーナーに向かった。
フロアまるごとが女性向け化粧品売り場となっている。
女性の“きれい”、そして“かわいい”のための場所……。
明るい店内のいたるところからニョキニョキと笑顔の女性の顔が生えている。
商品の販促用POPだ。
普段テレビを見ることがない唯には、モデルの女性の名前が一切分からない。
それどころか、誰が誰だかほとんど区別がつかない。みな同じ人に見えてしまう。しかし。
「かわいい……」
先ほど道すがら目撃した子犬とも男の子とも異なる、“かわいい”。
それはそうだ。どの女性も自分より歳上で、そして当然自分よりも見目麗しい。
POPの女性と目が合った。
ぱっちりと見開いた、自信に満ち溢れた目。
自分がこの世の誰よりもかわいくて美しいと信じて疑わない目だ。
アイライナーの広告としては凄まじい訴求力、そして説得力がある。
──この商品でかわいくて美しい私のようになりなさいな。
そもそも素材としてのモノが違うのだから錯覚でしかないと唯は理解しつつも、商品を使用することでその威光にあやかれたら、と思ってしまう。
しかしペンのサンプルが添えられた鏡を見て唯は我に返る。
そこに映っていたのは、大きな黒縁眼鏡をかけた、野暮ったい女だった。
眼鏡の奥の目は分厚いレンズで縮小されて目というよりもはやシジミのようだ。
シジミに何をどうデコレーションすればハマグリになるというのだろう。
自分が化粧などと、ちゃんちゃらおかしな話だった。
急に恥ずかしくなった唯は周囲を見渡した。
イモ女が色気付いてコスメを吟味していたところを誰かに見られていたらと、唯の年齢並みにはある自意識が騒ぎ出す。
奥の方に少しだけ人の頭が見えたような気がしたが、幸い周囲には客も店員もいなかった。
唯はまだ自宅に予備があるスキンケア用品のボトルをひとつ掴み、階段へと向かう。
そうだ。自分にはスキンケアまでが関の山なのだ。とりあえず、今は。
でもいつか、こんな自分も近づけるだろうか? 憧れの、あの彼女のように。
そこで唯は、気付いた。
自分が彼女に見る“かわいい”は、“あやかりたい”という気持ちがベースにあるのかもしれない。そうなると、彼女に抱く“かっこいい”とも繋がりそうだ。
逆に、彼女が自分に対して言った“かわいい”は?
唯の鼻から笑いが呼気として漏れる。
それこそ愚問だ。
自分が子犬や男の子に対して抱いた“かわいい”と同じ種類のものなのだろう。
少なくとも、“あやかりたい”ではない。
──私なんかあやかったら、それは“デバフ”ってやつだよ、美月ちゃん。
デバフ。能力が下がり、弱体化すること。
芸能まわりの流行には疎い唯も言葉の流行には耳聡い。
普段ゲームをしない唯だが、日常でも使いやすく気に入っているゲーム用語だ。
そして、自嘲しながらも彼女のことを考えると、自分に強烈な“バフ”がかかるのが分かる。
バフ。デバフとは反対に、能力が上がり、強化すること。
そうだ。それで、いいのだ。
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