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第一章
第2話/茜川 唯:2
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2023年5月31日(水) 12:00 昼休み
午前の授業が終わった。
各教室からまばらに出てくるぼそぼそとした人の流れを遡上し、教室へと急ぐ影がひとつ。
片手に茶色の紙袋を掴んだ桜永美月の足取りは、およそ流れに逆らっているとは思えないほど澱みなく、そして最短のライン取りで教室を目指していた。
人と人の合間を流れるように縫うその軌跡は、“泳ぐ”という表現がふさわしい。
陸の上においてもなお水泳部エースの面目躍如というべきだろうか。
その口は真一文字に固く結ばれているが、よく見れば口角がひくついている。
何より、その大きく見開かれた双眸が、彼女の今の感情を雄弁に語って余りある。
すれ違う生徒がその長い髪のはためきに気付き振り返ったときには彼女はすでに別の集団のさらに先に消えてしまっている。加えて、抑えきれず全身から溢れ出る喜色。
いかに学年随一の人気者である美月といえど、今の彼女に声をかけられるのは余程の豪気か、同じく余程気心の知れた親友くらいだろう。
「美月! 昼、食堂いかね?」
美しきイルカの遊泳ルート上に声を置いたのは、小野塚と佐海だった。
「ごめん! 今日もう買ってあるんだ! ありがと!」
親友のランチの誘いに、手を合わせて謝意を表し、またくるりとターンをして教室を目指す。一連の動作において、慣性力のロスは最小限だった。
「あいついいかげん陸上来てくんないかな」
小野塚は苦笑しながらその背中を見送った。
教室に駆け込んだ美月は、茜川唯の席に目をやる。
席の主は机の横にかけてあった弁当袋とともに消えていた。
「もう行っちゃったか」
すぐに身を翻し、今来た廊下を引き返し階段を二段飛ばしで駆け降りる。
水泳で鍛え抜かれた肢体が持ち前の運動神経によりリズミカルに跳ね降りて行く様は、踊り場ですれ違った日本史担当の熊谷先生が、これぞ鵯越えの逆落としか、と感心するほどだった。
上履きを外靴に履き替え、校舎を飛び出した美月は熊谷先生が看破した通りの野生のシカだった。
屋外に放たれたシカは一層速度を増してグラウンドの傍をすり抜け、半ば雑木林と化した研究林を突っ切って行く。
教員用の駐車場を横目に徐々に勾配を増していく路面を駆け上がる。
坂道の頂上付近の急峻部をものともせず登りきると、年季の入った木造の校舎が姿を現した。
旧校舎。いつ取り壊しの話が出てもおかしくないこの建物は現在、部室棟として使われている。
と言っても同好会含めほとんどの部活動の部室は、現在の校舎の空き教室等で都合がつくようになっているので、今この建物を利用している部活動はただのひとつ、茜川唯が所属している文芸部のみだった。
さらに文芸部の部員は茜川唯ひとりなので彼女がこの旧校舎唯一の住人であり、つまりヌシということにもなる。
このほとんど仙人の離れ庵のような立地は、美月のような客人にとってはウンザリさせられるものだ。
しかし、それゆえに学び舎から聞こえ出るあらゆる音――運動部の熱のこもったかけ声や、吹奏楽部の何度も繰り返されるお決まりの練習フレーズ――からすっかり隔絶された空間でもあり、それは本の世界や創作に集中したい文芸部員にとってはかえって理想の環境だったのだ。
今年の春に部の先輩が卒業していった折、『私が引き継いだこの部室の鍵は絶対に学校に返さない!』とおどけて言ってみせたときの唯の笑顔を思い出し、美月はひとりクスッと笑った。
校舎口をくぐった先には薄暗い空間が広がる。
経年により灰白く褪せたスノコに横付けられているローファーがひと組。
よかった。いた。
行儀よく揃えられたその小ぶりな靴のすぐ隣に、それよりひと回り以上も大きなサイズの靴を脱ぎ、揃え並べる。
もはや客人にはとても出せない、くたくたの来客用スリッパに履き替え、パタパタと部室へ続く廊下へと向かう。
一度横着をして靴下のまま歩いたことがあったが、床上をデコレーションする積年のホコリにより酷い目に遭ったのだった。
暗かった玄関から一転、廊下には昼の陽光が窓の並びごとに一定間隔で差し込んでいる。
煤けた窓ガラスを抜けた陽光は光の粒となって散り、静かな廊下をふわふわと漂っている。
この空間の中にあっては、錆と打痕だらけのロッカーや、その上に雑然と積まれているガラスの曇った水槽でさえ、この建物のヌシがしつらえた調度品であるかのように演出されている。
美月は自然とその歩調を緩めた。
一体誰が、風の谷の秘密の地下室で走り回る無粋をできるというのだろう?
廊下突き当たり、向かって右の教室の表札には、この校舎の中で唯一文字が刻まれている。
文芸部。
美月は扉を二、三度ノックする。
「唯、いる? 入っていい?」
しばらくしてドアが開き、部室の主が顔を覗かせる。
右頬を妙に膨らませながら、恥ずかしそうにコクンと頷いた。
「めっちゃリスじゃん」
「……ふぉめんなふぁい……」
笑いながら部室の中に入る美月。
室内には校舎玄関と同様に灯りが点いておらず、カーテンさえ閉め切られているが、決して暗くはない。
日焼けと経年によってすっかり厚みを失ったカーテンは、太陽光線を柔らかいクリーム色の照明に変換するフィルターとなる。
それにより、冷たいコンクリートの白い壁は書籍の本文用紙を思わせる生成り色に染められてる。
部室自体が、本のようだった。
部室の主は教室中央、長机の一角に弁当を広げていた。
その横にまさに今読んでいたであろう本が伏せて置いてある。
ひとり飯のお供は、いまどき老若男女問わずスマホだと決まっているが、唯に限ってはこの旧校舎の時代感と完全に同期している。あるいはこの建物の呪いか何かなのかもしれない。
「唯とお昼食べたかったんだけど、パンの行列がすごくってね~。買うのに時間かかっちゃって」
美月はすっかりクッションがヘタれてしまっている、年代物の長ソファーに腰をかけた。腰を埋めたと言うべきだろうか。
唯はいつもパイプ椅子と長机を使用しているので、このソファーは来客専用――つまり美月専用のポジションとなっている。
「目的のものはちゃんと買えたの?」
頬袋を徐々に小さくしながら唯。
美月は答える代わりに茶色の紙袋をぐいと差し出した。
唯は紙袋の向こうに満面の笑みを見る。
彼女の笑みは大抵が満面だが、これは並々ならぬ、それもかなりの満面具合だ。
幼い頃からの長い付き合いである唯にはそれが分かる。
「まず唯に見せにゃと思ってね! はい!」
満を持して袋から取り出されたものはビニール袋に入った……お惣菜だった。
コロッケとキャベツと……何だろう。
美月の笑みと目の前に差し出されたモノとが結び付かず、唯は首を傾げる。
「美月ちゃんそれは……?」
「えっ? あああー!!」
新商品のバーガーとして購入されたものは、ここに来るまでの美月のアクロバットにも近い激しいアクションに晒されてしまい、無惨にも原型を留めないほどに崩壊してしまっていた。
「これっ……ええーっ!? ウソでしょ!?」
かなりの狼狽が見て取れる。
何せバーガーを食べること、唯に自慢すること、二つの楽しみが奪われてしまったのだ。
「唯~! これね、バーガーなんだよ! ほんとはもっとちゃんとバーガーで!」
身振り手振りを交えて何とか説明しようとする美月の大仰な仕草に唯はくすくすと笑う。
「分かってるよ、美月ちゃん。せっかく見せにきてくれたのに……」
「笑うなぁ~! もういいよ、これ! コロッケサラダパン? 上等じゃん!」
ビニール袋ごと食べてしまいそうな勢いで齧り付く美月に、目を細める唯。
「ふふっ。でも……見せに来てくれてありがとうね」
唯は昼休み、独り部室で昼食を食べることが多い。
静かに本を読める環境ということもあるが、やはり教室で独りでお昼を食べてみじめな気持ちにならないかといえばそれは嘘になる。
ほかの女子たちが気心知れた仲間同士で弁当を囲む中、一人だけどの輪にも入れないというのは特に思春期の女子にとってはつらいものがあった。
そんな唯を見かねたのか、比較的温和な面々で構成されているグループが一緒にお昼を食べてくれたことがあった。
しかし流行に疎い唯は彼女らの話題の一切に着いていくことができず、気を利かせてくれた露骨なフリにもろくに応えられなかった。
優しい彼女らは唯の言葉を待つが、唯はますます沈黙に閉じこもってしまい、そしてそれはグループ全体にとっての遣る瀬なき沈黙になるのだった。
彼女たちがそれに懲りた、ということは決してなかったが、唯にとって自らが和を乱す異物となってしまうことは耐えられるものではなかった。
それ以降、文芸部室という誰に気兼ねすることもなく過ごせる空間が、唯の昼休みのアジールとなったのは自然なことだった。
一方で美月はというと、いつもの“トリオ”でお昼を食べることも少なくないが、特段三人の中で申し合わせている決め事があるわけではなく、その都度まちまちである。
というのも、まず佐海は別クラスの恋人と弁当を広げることがしばしばだ。
また小野塚も小野塚で、例外的に独り飯に抵抗がない人間で、クラス内の何人かの男子がそうしているようにそのときの気分で音楽を聴いたり動画を見ながら気ままに過ごしている。
そして大抵食べ終わったらすぐ昼寝に移行することが多い。
あぶれた美月が弁当を広ようとすると、百人一首もかくやというスピードで、美月という“ジョーカー”を狙うグループからのアプローチを受け引っ張られていってしまう。
しかし、美月がこの4月で唯と同じクラスになってからは、昼休みを文芸部で過ごすことも増えた。
はじめは、昼休みになると逃げるように教室を出ていく唯の姿に同情の気持ちがあったから、というのもあるが、昔から知る幼馴染が大切にし育て上げた、優しくも静謐なこの空間が美月にとっても居心地がいいものだったからだ。
その一方で、この空間を好きになればなるほどに、唯の世界を自分が壊してしまっているのでは、という後ろめたさも感じ始めていた。
「ごめんね、勝手にいつも押しかけちゃってさ。ほら私うるさいし……」
美月の突然の謝罪に驚く唯。
「そんなそんな! そんなことないよ! むしろ私のほうが……悪いと思ってて」
「え? なんで?」
思いがけぬ反応の意を汲もうと美月は唯の目を見るが、その視線は弁当の上に落とされている。あまり箸が進んでいなかった様子が見てとれた。
「美月ちゃん、その、せっかくの昼なのに……私なんかと、じゃなくてもっとお友達とか」
「唯が友達でしょ?」
美月は思わず被せ気味に返してしまう。
なんかって? 何なんか?
「も、もっと仲いいお友達とか……。お、小野塚さんとか、佐海さんとか……」
言ってはいけないことを言ってしまったことに気付く唯だが、後悔は先に立つことはない。
俯いた唯の顔から眼鏡が自重でずり落ちてそのまま弁当のおかずに加わってしまいそうだ。
その心情を察した美月は、緩めた口元からため息とも笑い漏らしともつかない吐息をフッと吐き出す。
その風は唯のもとに届くにはあまりにも微かなものだったが、しかし唯の張り詰めた心を解きほぐしていく。
ただの吐息ひとつでも、その“間”や“音の具合”により、付き合いの長い幼馴染がその息に乗せた気持ちが唯には分かるのだ。
ゆっくり顔を上げると、唯が想像した通り、形のよい眉を少しだけ顰めつつも、優しく微笑む美月の顔があった。
「別にね、誰が一番仲いいとか、どっちの方が――とか、そういうんじゃないんだよ。何ていうか……唯も実咲もなぎさも私の大切な友達」
唯の表情から徐々に翳りが晴れていく。
一見しただけでは変化が分からない、その微妙な移ろいを美月が読み取れるのもまた、幼馴染同士が長い時間をかけて育んだ、ふたりだけのリテラシーによるものだった。
「じゃなきゃさ、バーガーこんなにしてまでこんな遠いところ来る?」
安心した美月が空になったビニール袋を掲げておどけて見せる。
少しでも気を紛らわせようとしてくれる親友の優しさが唯の心に身に染みた。
「唯はさぁ、もっと自信持っていいんだよ」
ソファから腰を上げた美月は部室南側の窓に寄る。
書籍を保管する環境としては最悪とも言える南向きの立地だ。
気持ち程度の遮光機能しかないカーテンは、しかしそれでもないよりはマシということで常時閉め切った状態で垂れ下がっている。
カーテンを掻き分け、ペンキが剥がれかけた木製のサッシをつかんだ美月はそのままスライドさせようとするが数センチメートルほどしか動かない。
「窓、建て付けが悪くなってるみたいで――」
「ふん!」
唯の言葉を遮った美月の気合いとともに、木と金属が擦れるのか削れるのかそれとも割れたのか。
およそこの空間に似つかわしくない轟音が鳴り響き、サッシのレール終点いっぱいまで窓が滑った。
カーテンが風でたなびき、室内に陽光が差し込む。
かと思えばすぐにカーテンは窓の外側に引っ張られ、船の帆となった。
「美月ちゃんすごい……私その窓開いたところ見たことないよ」
「ゴリラ女だからね」
力こぶを作って見せる美月に、唯が思わず吹き出す。
「それ、まだ覚えてたの」
「あ! 唯ひどー! あんなこと言われたの忘れるわけないじゃん!」
言葉とは裏腹にケラケラと笑ったあと、美月は風だか気圧だかで横隔膜のように外に膨らんでは部室内に吸い込まれたりを繰り返すカーテンに再び目をやる。
空中のほこりが陽光を受け、キラキラと光を乱反射させながら踊っている。
「さっき、私っぽくないこと言ったなって」
「押しかけて……っていうの?」
風を受け、カーテンと同期してそよぐ美月の長い髪を唯は仰ぐ。
「私あんまり考えるのさ、苦手だから、私がやりたいって思うことをやるわ」
「美月ちゃん……」
「唯にだけね」
振り向きざまに飛んできた美月の殺し文句に、唯は思わずドキリとする。
「こんだけ長い付き合いでもずっと唯は友達でいてくれるじゃん。甘えかもしれないけど、私は唯の前では自然になれるから、うん、だから唯にはやりたいようにやる!」
「自然、なの?」
とても意外だった。
唯からしてみれば、美月は小野塚や佐海と出会ってから水を得た魚のように活き活きとし、つまりそれが生来の彼女の姿だと思っていたからだ。
「実咲たちといるとき、そりゃもちろん、うん、めっちゃくちゃ楽しいよ」
唯の疑問を汲んでか、美月が視線を頭上左上に向けながら、自分自身に確認するように言葉を紡いでいく。
「でもやっぱりさ、それなりにうまいことやらなきゃって……。ほら、実咲しゃべるのめっちゃ速いでしょ?」
ほら、と言われたところで唯にとって同級生たちは目に見えないほどの高速戦闘を繰り広げる特殊な戦闘民族のようなもので、小野塚も美月もさしたる違いがあるようにはとても思えなかった。
「でもそれは実咲もなぎさもきっと同じでさ、私とは違う部分で色々と。例えばなぎさなら彼氏いるけど、私たちとも遊んでくれたりとかさ」
美月にとっては極力に素直な心情の表出なのだろう。
唯にもそれはよく分かるが、しかし言わんとする内容が分かるかというとそれは別である。
「うーん、それぞれで無理してる……って感じなのかな」
釈然としない様子の唯の疑問を、美月は己が胸の内に照射させてみる。
「無理……そーね。無理っていうとちょっと違うかも? 全然、それが嫌とかじゃないしね……むしろそういうのを、多分私らは大事にしてるんだと思う。うん」
どうやら美月自身は勝手に得心したようだが、肝心の唯にはピンとこない話だった。
その様子を見た美月は今度は視線を右上にやり、また何かを確かめるようにしながら再び言葉を紡いでいく。
「……全然合ってるかわからないけど。そうね。んー唯はさ、本を読むのに……例えば……内容をね、本の中身を脳に直接インストールされて、それで読んだー! ってなる?」
指を頭に当ててみたり、本を読む仕草をしたりと、美月はその恵まれた肢体を存分に駆使しながら大袈裟すぎるほどの身振り手振りをして見せる。
演劇のシーンを見ているような気になった唯は、女優の名演で具体的なイメージを得ることができた。
「それは……やっぱり嫌かなぁ」
たったひとりの観客の反応に頷く美月。
続く演技にもさらに熱がこもっていく。
「私も、多分そうで……さらに言えば紙の本でね、こう、ページめくりながらさ、こう文字を追っていきたいわけ。でもそりゃ当然、直接内容を頭にインストールするより全然エネルギー使うと思うんだけど、でもそういうのが大事っていうのかな……」
演技を完遂したのか、美月は腕を組んで唯に向き直った。
「私にとって実咲やなぎさはさ、刺激的な……まぁ未知なる本なワケですよ。当然読むのは大変だけど、ううん、読む過程がだいじっていうか」
抽象的な内容でも、瞬時に相手がイメージしやすいアナロジーに変換ができる。
美月は先ほど「考えるのが苦手」と言ったが唯にしてみればとんでもない話で、理数系に限れば学年トップの成績を誇る秀才だ。
昔、割り算の筆算が全く理解できなかった唯は算数の得意な美月に泣きついたことがあった。
ところが彼女は独自に編み出した完全オリジナルの解法を使用しており、唯を余計に混乱させてしまったということがあった。
その一方で文系科目があれほどまでにポンコツなのが不思議で仕方がない。
「本……ちょっとわかった気がする」
唯も頷くが、その上でやはり気になるのは。
「じゃあ、私は……? 私は本じゃないのかなぁ……」
「そうねー……」
美月は少し思い巡らせ、すぐに人差し指を立てて見せる。
「ああ、ほらあれ! 無人島に持って行きたい一冊!とか! あとね、例えばさ、ほら子どもの頃に読んだ大切な――忘れられない一冊とか、そういうのかも。うんそうだ」
唯は自宅の押し入れの奥にきっと今もしまわれているはずの本たちを思い出す。
表紙カバーが破れてなくなり、製本の糊が割れてページがバラバラになってもなお何度も何度も読み返した伝記本、児童文学書たち。
「……それじゃあ、美月ちゃんに刺激はあげられそうにないね」
肩をすくめながら笑う唯の顔には、しかしさっきまでの翳りはなくなっていた。
美月も笑顔を返し、追撃せんとばかりに言葉を繋げる。
「でも今読み返すと発見があるやつ」
窓のカーテンがひときわ大きくはためき、美月の左腕を掠めていく。
ふと左手首に着けた腕時計に目をやった美月の声が校舎内に響きわたる。
「あ!! もうこんな時間だ! 唯~、がんばってお弁当食べて!」
「わぁ本当だ! 急がないと」
予鈴がいつの間にか鳴っていたらしい。
この旧校舎は学校内のあらゆる音から隔絶されている場所であるが、それはよりにもよってチャイムさえも例外ではなかった。
「おりゃ!」
ガツンという音とともに再び窓が閉められる。
船の帆となっていたカーテンは次第に元の色褪せたただの薄い布に戻っていった。
「唯、私次の教室遠いからごめんけど先出るね~」
「あ、うん! あの、美月ちゃんありがとうお昼!」
唯がそう返事し終えるまでにすでに美月は疾風のように消えていたが、半開きになったドアの隙間から、にょっきりとサムズアップサインが伸びる。
それがすぐに引っ込むと、およそスリッパを履いているとは信じがたい高速のビートを刻む韋駄天の足音が、遠くに消えていった。
弁当のラストスパートを無理矢理に流し込んだ水筒の蓋を閉め、唯も唯なりに足早に廊下に出て部室を施錠をする。
無人島へ持って行きたい一冊かー。
唯の頬がゆるむ。
それとも、忘れられない一冊……。
午後の授業に遅れてしまうことはもう確定しているが、駆け足を踏む唯の顔には喜色が滲んでいる。
ふと、廊下の先、錆びのまわったロッカー奥に積まれた箱の山がぐらりと動いたのが見えた。
ぎょっとして足を止めた瞬間、箱の山の影から黒い何かが飛び出し、玄関の方へ消える。
それに続いて積み上がった箱が崩れ、中にしまってあった古いプリント類が床に散乱した。
「あちゃー」
現在この建物を利用しているのは唯しかいない。
部室どころか玄関の鍵も預かっている状況で、守衛さえも巡回に来ないのだ。
つまり、これを片付けるのは唯以外にいない。
「もう授業始まっちゃうよ……。また次来たときでいっか……」
最低限、床の色が見える程度によけ、手についた埃を払いながら玄関の方を見やる。
「……ネコかな」
午前の授業が終わった。
各教室からまばらに出てくるぼそぼそとした人の流れを遡上し、教室へと急ぐ影がひとつ。
片手に茶色の紙袋を掴んだ桜永美月の足取りは、およそ流れに逆らっているとは思えないほど澱みなく、そして最短のライン取りで教室を目指していた。
人と人の合間を流れるように縫うその軌跡は、“泳ぐ”という表現がふさわしい。
陸の上においてもなお水泳部エースの面目躍如というべきだろうか。
その口は真一文字に固く結ばれているが、よく見れば口角がひくついている。
何より、その大きく見開かれた双眸が、彼女の今の感情を雄弁に語って余りある。
すれ違う生徒がその長い髪のはためきに気付き振り返ったときには彼女はすでに別の集団のさらに先に消えてしまっている。加えて、抑えきれず全身から溢れ出る喜色。
いかに学年随一の人気者である美月といえど、今の彼女に声をかけられるのは余程の豪気か、同じく余程気心の知れた親友くらいだろう。
「美月! 昼、食堂いかね?」
美しきイルカの遊泳ルート上に声を置いたのは、小野塚と佐海だった。
「ごめん! 今日もう買ってあるんだ! ありがと!」
親友のランチの誘いに、手を合わせて謝意を表し、またくるりとターンをして教室を目指す。一連の動作において、慣性力のロスは最小限だった。
「あいついいかげん陸上来てくんないかな」
小野塚は苦笑しながらその背中を見送った。
教室に駆け込んだ美月は、茜川唯の席に目をやる。
席の主は机の横にかけてあった弁当袋とともに消えていた。
「もう行っちゃったか」
すぐに身を翻し、今来た廊下を引き返し階段を二段飛ばしで駆け降りる。
水泳で鍛え抜かれた肢体が持ち前の運動神経によりリズミカルに跳ね降りて行く様は、踊り場ですれ違った日本史担当の熊谷先生が、これぞ鵯越えの逆落としか、と感心するほどだった。
上履きを外靴に履き替え、校舎を飛び出した美月は熊谷先生が看破した通りの野生のシカだった。
屋外に放たれたシカは一層速度を増してグラウンドの傍をすり抜け、半ば雑木林と化した研究林を突っ切って行く。
教員用の駐車場を横目に徐々に勾配を増していく路面を駆け上がる。
坂道の頂上付近の急峻部をものともせず登りきると、年季の入った木造の校舎が姿を現した。
旧校舎。いつ取り壊しの話が出てもおかしくないこの建物は現在、部室棟として使われている。
と言っても同好会含めほとんどの部活動の部室は、現在の校舎の空き教室等で都合がつくようになっているので、今この建物を利用している部活動はただのひとつ、茜川唯が所属している文芸部のみだった。
さらに文芸部の部員は茜川唯ひとりなので彼女がこの旧校舎唯一の住人であり、つまりヌシということにもなる。
このほとんど仙人の離れ庵のような立地は、美月のような客人にとってはウンザリさせられるものだ。
しかし、それゆえに学び舎から聞こえ出るあらゆる音――運動部の熱のこもったかけ声や、吹奏楽部の何度も繰り返されるお決まりの練習フレーズ――からすっかり隔絶された空間でもあり、それは本の世界や創作に集中したい文芸部員にとってはかえって理想の環境だったのだ。
今年の春に部の先輩が卒業していった折、『私が引き継いだこの部室の鍵は絶対に学校に返さない!』とおどけて言ってみせたときの唯の笑顔を思い出し、美月はひとりクスッと笑った。
校舎口をくぐった先には薄暗い空間が広がる。
経年により灰白く褪せたスノコに横付けられているローファーがひと組。
よかった。いた。
行儀よく揃えられたその小ぶりな靴のすぐ隣に、それよりひと回り以上も大きなサイズの靴を脱ぎ、揃え並べる。
もはや客人にはとても出せない、くたくたの来客用スリッパに履き替え、パタパタと部室へ続く廊下へと向かう。
一度横着をして靴下のまま歩いたことがあったが、床上をデコレーションする積年のホコリにより酷い目に遭ったのだった。
暗かった玄関から一転、廊下には昼の陽光が窓の並びごとに一定間隔で差し込んでいる。
煤けた窓ガラスを抜けた陽光は光の粒となって散り、静かな廊下をふわふわと漂っている。
この空間の中にあっては、錆と打痕だらけのロッカーや、その上に雑然と積まれているガラスの曇った水槽でさえ、この建物のヌシがしつらえた調度品であるかのように演出されている。
美月は自然とその歩調を緩めた。
一体誰が、風の谷の秘密の地下室で走り回る無粋をできるというのだろう?
廊下突き当たり、向かって右の教室の表札には、この校舎の中で唯一文字が刻まれている。
文芸部。
美月は扉を二、三度ノックする。
「唯、いる? 入っていい?」
しばらくしてドアが開き、部室の主が顔を覗かせる。
右頬を妙に膨らませながら、恥ずかしそうにコクンと頷いた。
「めっちゃリスじゃん」
「……ふぉめんなふぁい……」
笑いながら部室の中に入る美月。
室内には校舎玄関と同様に灯りが点いておらず、カーテンさえ閉め切られているが、決して暗くはない。
日焼けと経年によってすっかり厚みを失ったカーテンは、太陽光線を柔らかいクリーム色の照明に変換するフィルターとなる。
それにより、冷たいコンクリートの白い壁は書籍の本文用紙を思わせる生成り色に染められてる。
部室自体が、本のようだった。
部室の主は教室中央、長机の一角に弁当を広げていた。
その横にまさに今読んでいたであろう本が伏せて置いてある。
ひとり飯のお供は、いまどき老若男女問わずスマホだと決まっているが、唯に限ってはこの旧校舎の時代感と完全に同期している。あるいはこの建物の呪いか何かなのかもしれない。
「唯とお昼食べたかったんだけど、パンの行列がすごくってね~。買うのに時間かかっちゃって」
美月はすっかりクッションがヘタれてしまっている、年代物の長ソファーに腰をかけた。腰を埋めたと言うべきだろうか。
唯はいつもパイプ椅子と長机を使用しているので、このソファーは来客専用――つまり美月専用のポジションとなっている。
「目的のものはちゃんと買えたの?」
頬袋を徐々に小さくしながら唯。
美月は答える代わりに茶色の紙袋をぐいと差し出した。
唯は紙袋の向こうに満面の笑みを見る。
彼女の笑みは大抵が満面だが、これは並々ならぬ、それもかなりの満面具合だ。
幼い頃からの長い付き合いである唯にはそれが分かる。
「まず唯に見せにゃと思ってね! はい!」
満を持して袋から取り出されたものはビニール袋に入った……お惣菜だった。
コロッケとキャベツと……何だろう。
美月の笑みと目の前に差し出されたモノとが結び付かず、唯は首を傾げる。
「美月ちゃんそれは……?」
「えっ? あああー!!」
新商品のバーガーとして購入されたものは、ここに来るまでの美月のアクロバットにも近い激しいアクションに晒されてしまい、無惨にも原型を留めないほどに崩壊してしまっていた。
「これっ……ええーっ!? ウソでしょ!?」
かなりの狼狽が見て取れる。
何せバーガーを食べること、唯に自慢すること、二つの楽しみが奪われてしまったのだ。
「唯~! これね、バーガーなんだよ! ほんとはもっとちゃんとバーガーで!」
身振り手振りを交えて何とか説明しようとする美月の大仰な仕草に唯はくすくすと笑う。
「分かってるよ、美月ちゃん。せっかく見せにきてくれたのに……」
「笑うなぁ~! もういいよ、これ! コロッケサラダパン? 上等じゃん!」
ビニール袋ごと食べてしまいそうな勢いで齧り付く美月に、目を細める唯。
「ふふっ。でも……見せに来てくれてありがとうね」
唯は昼休み、独り部室で昼食を食べることが多い。
静かに本を読める環境ということもあるが、やはり教室で独りでお昼を食べてみじめな気持ちにならないかといえばそれは嘘になる。
ほかの女子たちが気心知れた仲間同士で弁当を囲む中、一人だけどの輪にも入れないというのは特に思春期の女子にとってはつらいものがあった。
そんな唯を見かねたのか、比較的温和な面々で構成されているグループが一緒にお昼を食べてくれたことがあった。
しかし流行に疎い唯は彼女らの話題の一切に着いていくことができず、気を利かせてくれた露骨なフリにもろくに応えられなかった。
優しい彼女らは唯の言葉を待つが、唯はますます沈黙に閉じこもってしまい、そしてそれはグループ全体にとっての遣る瀬なき沈黙になるのだった。
彼女たちがそれに懲りた、ということは決してなかったが、唯にとって自らが和を乱す異物となってしまうことは耐えられるものではなかった。
それ以降、文芸部室という誰に気兼ねすることもなく過ごせる空間が、唯の昼休みのアジールとなったのは自然なことだった。
一方で美月はというと、いつもの“トリオ”でお昼を食べることも少なくないが、特段三人の中で申し合わせている決め事があるわけではなく、その都度まちまちである。
というのも、まず佐海は別クラスの恋人と弁当を広げることがしばしばだ。
また小野塚も小野塚で、例外的に独り飯に抵抗がない人間で、クラス内の何人かの男子がそうしているようにそのときの気分で音楽を聴いたり動画を見ながら気ままに過ごしている。
そして大抵食べ終わったらすぐ昼寝に移行することが多い。
あぶれた美月が弁当を広ようとすると、百人一首もかくやというスピードで、美月という“ジョーカー”を狙うグループからのアプローチを受け引っ張られていってしまう。
しかし、美月がこの4月で唯と同じクラスになってからは、昼休みを文芸部で過ごすことも増えた。
はじめは、昼休みになると逃げるように教室を出ていく唯の姿に同情の気持ちがあったから、というのもあるが、昔から知る幼馴染が大切にし育て上げた、優しくも静謐なこの空間が美月にとっても居心地がいいものだったからだ。
その一方で、この空間を好きになればなるほどに、唯の世界を自分が壊してしまっているのでは、という後ろめたさも感じ始めていた。
「ごめんね、勝手にいつも押しかけちゃってさ。ほら私うるさいし……」
美月の突然の謝罪に驚く唯。
「そんなそんな! そんなことないよ! むしろ私のほうが……悪いと思ってて」
「え? なんで?」
思いがけぬ反応の意を汲もうと美月は唯の目を見るが、その視線は弁当の上に落とされている。あまり箸が進んでいなかった様子が見てとれた。
「美月ちゃん、その、せっかくの昼なのに……私なんかと、じゃなくてもっとお友達とか」
「唯が友達でしょ?」
美月は思わず被せ気味に返してしまう。
なんかって? 何なんか?
「も、もっと仲いいお友達とか……。お、小野塚さんとか、佐海さんとか……」
言ってはいけないことを言ってしまったことに気付く唯だが、後悔は先に立つことはない。
俯いた唯の顔から眼鏡が自重でずり落ちてそのまま弁当のおかずに加わってしまいそうだ。
その心情を察した美月は、緩めた口元からため息とも笑い漏らしともつかない吐息をフッと吐き出す。
その風は唯のもとに届くにはあまりにも微かなものだったが、しかし唯の張り詰めた心を解きほぐしていく。
ただの吐息ひとつでも、その“間”や“音の具合”により、付き合いの長い幼馴染がその息に乗せた気持ちが唯には分かるのだ。
ゆっくり顔を上げると、唯が想像した通り、形のよい眉を少しだけ顰めつつも、優しく微笑む美月の顔があった。
「別にね、誰が一番仲いいとか、どっちの方が――とか、そういうんじゃないんだよ。何ていうか……唯も実咲もなぎさも私の大切な友達」
唯の表情から徐々に翳りが晴れていく。
一見しただけでは変化が分からない、その微妙な移ろいを美月が読み取れるのもまた、幼馴染同士が長い時間をかけて育んだ、ふたりだけのリテラシーによるものだった。
「じゃなきゃさ、バーガーこんなにしてまでこんな遠いところ来る?」
安心した美月が空になったビニール袋を掲げておどけて見せる。
少しでも気を紛らわせようとしてくれる親友の優しさが唯の心に身に染みた。
「唯はさぁ、もっと自信持っていいんだよ」
ソファから腰を上げた美月は部室南側の窓に寄る。
書籍を保管する環境としては最悪とも言える南向きの立地だ。
気持ち程度の遮光機能しかないカーテンは、しかしそれでもないよりはマシということで常時閉め切った状態で垂れ下がっている。
カーテンを掻き分け、ペンキが剥がれかけた木製のサッシをつかんだ美月はそのままスライドさせようとするが数センチメートルほどしか動かない。
「窓、建て付けが悪くなってるみたいで――」
「ふん!」
唯の言葉を遮った美月の気合いとともに、木と金属が擦れるのか削れるのかそれとも割れたのか。
およそこの空間に似つかわしくない轟音が鳴り響き、サッシのレール終点いっぱいまで窓が滑った。
カーテンが風でたなびき、室内に陽光が差し込む。
かと思えばすぐにカーテンは窓の外側に引っ張られ、船の帆となった。
「美月ちゃんすごい……私その窓開いたところ見たことないよ」
「ゴリラ女だからね」
力こぶを作って見せる美月に、唯が思わず吹き出す。
「それ、まだ覚えてたの」
「あ! 唯ひどー! あんなこと言われたの忘れるわけないじゃん!」
言葉とは裏腹にケラケラと笑ったあと、美月は風だか気圧だかで横隔膜のように外に膨らんでは部室内に吸い込まれたりを繰り返すカーテンに再び目をやる。
空中のほこりが陽光を受け、キラキラと光を乱反射させながら踊っている。
「さっき、私っぽくないこと言ったなって」
「押しかけて……っていうの?」
風を受け、カーテンと同期してそよぐ美月の長い髪を唯は仰ぐ。
「私あんまり考えるのさ、苦手だから、私がやりたいって思うことをやるわ」
「美月ちゃん……」
「唯にだけね」
振り向きざまに飛んできた美月の殺し文句に、唯は思わずドキリとする。
「こんだけ長い付き合いでもずっと唯は友達でいてくれるじゃん。甘えかもしれないけど、私は唯の前では自然になれるから、うん、だから唯にはやりたいようにやる!」
「自然、なの?」
とても意外だった。
唯からしてみれば、美月は小野塚や佐海と出会ってから水を得た魚のように活き活きとし、つまりそれが生来の彼女の姿だと思っていたからだ。
「実咲たちといるとき、そりゃもちろん、うん、めっちゃくちゃ楽しいよ」
唯の疑問を汲んでか、美月が視線を頭上左上に向けながら、自分自身に確認するように言葉を紡いでいく。
「でもやっぱりさ、それなりにうまいことやらなきゃって……。ほら、実咲しゃべるのめっちゃ速いでしょ?」
ほら、と言われたところで唯にとって同級生たちは目に見えないほどの高速戦闘を繰り広げる特殊な戦闘民族のようなもので、小野塚も美月もさしたる違いがあるようにはとても思えなかった。
「でもそれは実咲もなぎさもきっと同じでさ、私とは違う部分で色々と。例えばなぎさなら彼氏いるけど、私たちとも遊んでくれたりとかさ」
美月にとっては極力に素直な心情の表出なのだろう。
唯にもそれはよく分かるが、しかし言わんとする内容が分かるかというとそれは別である。
「うーん、それぞれで無理してる……って感じなのかな」
釈然としない様子の唯の疑問を、美月は己が胸の内に照射させてみる。
「無理……そーね。無理っていうとちょっと違うかも? 全然、それが嫌とかじゃないしね……むしろそういうのを、多分私らは大事にしてるんだと思う。うん」
どうやら美月自身は勝手に得心したようだが、肝心の唯にはピンとこない話だった。
その様子を見た美月は今度は視線を右上にやり、また何かを確かめるようにしながら再び言葉を紡いでいく。
「……全然合ってるかわからないけど。そうね。んー唯はさ、本を読むのに……例えば……内容をね、本の中身を脳に直接インストールされて、それで読んだー! ってなる?」
指を頭に当ててみたり、本を読む仕草をしたりと、美月はその恵まれた肢体を存分に駆使しながら大袈裟すぎるほどの身振り手振りをして見せる。
演劇のシーンを見ているような気になった唯は、女優の名演で具体的なイメージを得ることができた。
「それは……やっぱり嫌かなぁ」
たったひとりの観客の反応に頷く美月。
続く演技にもさらに熱がこもっていく。
「私も、多分そうで……さらに言えば紙の本でね、こう、ページめくりながらさ、こう文字を追っていきたいわけ。でもそりゃ当然、直接内容を頭にインストールするより全然エネルギー使うと思うんだけど、でもそういうのが大事っていうのかな……」
演技を完遂したのか、美月は腕を組んで唯に向き直った。
「私にとって実咲やなぎさはさ、刺激的な……まぁ未知なる本なワケですよ。当然読むのは大変だけど、ううん、読む過程がだいじっていうか」
抽象的な内容でも、瞬時に相手がイメージしやすいアナロジーに変換ができる。
美月は先ほど「考えるのが苦手」と言ったが唯にしてみればとんでもない話で、理数系に限れば学年トップの成績を誇る秀才だ。
昔、割り算の筆算が全く理解できなかった唯は算数の得意な美月に泣きついたことがあった。
ところが彼女は独自に編み出した完全オリジナルの解法を使用しており、唯を余計に混乱させてしまったということがあった。
その一方で文系科目があれほどまでにポンコツなのが不思議で仕方がない。
「本……ちょっとわかった気がする」
唯も頷くが、その上でやはり気になるのは。
「じゃあ、私は……? 私は本じゃないのかなぁ……」
「そうねー……」
美月は少し思い巡らせ、すぐに人差し指を立てて見せる。
「ああ、ほらあれ! 無人島に持って行きたい一冊!とか! あとね、例えばさ、ほら子どもの頃に読んだ大切な――忘れられない一冊とか、そういうのかも。うんそうだ」
唯は自宅の押し入れの奥にきっと今もしまわれているはずの本たちを思い出す。
表紙カバーが破れてなくなり、製本の糊が割れてページがバラバラになってもなお何度も何度も読み返した伝記本、児童文学書たち。
「……それじゃあ、美月ちゃんに刺激はあげられそうにないね」
肩をすくめながら笑う唯の顔には、しかしさっきまでの翳りはなくなっていた。
美月も笑顔を返し、追撃せんとばかりに言葉を繋げる。
「でも今読み返すと発見があるやつ」
窓のカーテンがひときわ大きくはためき、美月の左腕を掠めていく。
ふと左手首に着けた腕時計に目をやった美月の声が校舎内に響きわたる。
「あ!! もうこんな時間だ! 唯~、がんばってお弁当食べて!」
「わぁ本当だ! 急がないと」
予鈴がいつの間にか鳴っていたらしい。
この旧校舎は学校内のあらゆる音から隔絶されている場所であるが、それはよりにもよってチャイムさえも例外ではなかった。
「おりゃ!」
ガツンという音とともに再び窓が閉められる。
船の帆となっていたカーテンは次第に元の色褪せたただの薄い布に戻っていった。
「唯、私次の教室遠いからごめんけど先出るね~」
「あ、うん! あの、美月ちゃんありがとうお昼!」
唯がそう返事し終えるまでにすでに美月は疾風のように消えていたが、半開きになったドアの隙間から、にょっきりとサムズアップサインが伸びる。
それがすぐに引っ込むと、およそスリッパを履いているとは信じがたい高速のビートを刻む韋駄天の足音が、遠くに消えていった。
弁当のラストスパートを無理矢理に流し込んだ水筒の蓋を閉め、唯も唯なりに足早に廊下に出て部室を施錠をする。
無人島へ持って行きたい一冊かー。
唯の頬がゆるむ。
それとも、忘れられない一冊……。
午後の授業に遅れてしまうことはもう確定しているが、駆け足を踏む唯の顔には喜色が滲んでいる。
ふと、廊下の先、錆びのまわったロッカー奥に積まれた箱の山がぐらりと動いたのが見えた。
ぎょっとして足を止めた瞬間、箱の山の影から黒い何かが飛び出し、玄関の方へ消える。
それに続いて積み上がった箱が崩れ、中にしまってあった古いプリント類が床に散乱した。
「あちゃー」
現在この建物を利用しているのは唯しかいない。
部室どころか玄関の鍵も預かっている状況で、守衛さえも巡回に来ないのだ。
つまり、これを片付けるのは唯以外にいない。
「もう授業始まっちゃうよ……。また次来たときでいっか……」
最低限、床の色が見える程度によけ、手についた埃を払いながら玄関の方を見やる。
「……ネコかな」
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