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第一章
プロローグ:1
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それまで静かだった一階のリビングから、シンクの底を打つ水音に混じり、食器の触れ合う音が聞こえてきた。
食事を終えた両親が、二人で片付けをしているのだろう。
黒葛祐樹は自室のベッドに潜り込んだままスマホ画面の右上端に目をやる。
息も絶え絶えなバッテリー残量。その隣の数字は、23:38とある。
今日はまだ、全然早い方だ。
黒葛が漏らしたため息が、ヒビの入ったスマホ画面を少しだけ曇らせた。
今この部屋に存在する光源は、スマホの光だけである。
そのぼんやりと淡い光が照らす黒葛の顔は、伸び切った前髪によって、そのほとんどが覆い隠されてしまっている。
唯一、その簾のような髪の隙間から覗いているのはやや切れ長の片目。
薄く開かれた目の奥にある瞳には、高速でスクロールされる議論とも口論ともつかないやりとりの文字列が映り込んでいる。
黒葛は、今自分が何を見ているのか意識をしていなければ、1分後にはそれまで何をブラウジングしていたのかさえも忘れているだろう。
これは彼にとっては単なるルーチンであり、また黒葛祐樹という人間が日常を送るこの世界から目を逸らすための刹那的な慰めだった。
階下からの水回りの音が、一旦落ち着いた。
もう日付が変わろうとするが、このあと両親はお茶を入れ、気持ちばかりの時を憩う。
今日が金曜日だから、ではない。
両親ともに明日も今日と変わらぬ時間に家を出て、また同じような時間に帰ってくるのだろう。
このわずかな憩いの時が、日々多忙に追われる二人にとっての刹那的な慰めなのだろうか。
そしてこのあと交代で風呂に入り、母親のドライヤーの音と、トイレから聞こえる父親の排尿音を最後にこの家の一日は終わる。
明日も変わらない。いつものことだ。
黒葛はスマホをスリープモードにし、充電器に繋いだ。
電子機器類の待機ランプと、Wi-Fiルーターの小刻みな明滅を残して室内は闇に包まれた。
黒葛は布団を被り直し、目を閉じる。
明日は土曜日。休校日だ。
だからいって、夜更かしをしない黒葛は模範的な高校生と言えるのだろうか?
否、単に彼にとっては平日も休日も等しく無価値なだけである。
かと言って、熱心に活動するペシミストたちのようにこの世に悪意や悲しみも見出せない。
そちらの方がよかったのだろうか、と思ったことさえあった。
それだけの情熱があれば、自分を、世の中を変える原動力にも転化できるかもしれない。
しかし、黒葛はひたすらに虚無的だった。
ただ、日々を流れるままに流し、誰とも、何とも関わることもなく生きて──いっそ、この世から消えてしまえば三方よしだ。
もし自分がいなくなったら、今まさに階下で日々の息継ぎをする両親も、現在のような激務をもって生計を立てなくても済むかもしれない。
特に多忙な母親の疲弊しきった横顔を見る度、黒葛は自身の存在としての罪を突き付けられる気がした。
そのようなとき、仮に黒葛が模範的な高校生だったとしたら、一層勉学に励むか、あるいはアルバイトをして収入を家に入れるなどするかもしれない。
しかし、黒葛はそのどちらでもなかった。
ただ、何もせず、何にも関らず、ひたすらに今という時間が過ぎ行くことに身を任せる。
頭の回転が人一倍遅く、人一倍不器用で人一倍体力もなく、そして何より他者とまともにコミュニケーションをとることができない彼は、それが今できる最善であり、少なくとも最悪ではない。
そう信じている。
その処世術により、黒葛は彼にとって避けようのない、学校という強制されたコミュニティの中においても目立つことがなく、地味な存在であり続けた。
前髪が伸びきり、もはや猫背とは呼べないほどの姿勢の悪さからくる異様な風体であっても、息を、存在自体をも殺すように日々を流す努力の甲斐あってか、彼を気に留めるものはいなかった。
いじめられることもなかったが、そもそも彼を、黒葛祐樹という名前の同級生がいるということを認識できている人がどれだけいるだろうか?
この4月に学年が変わりクラス替えもあったが、新しいクラスの誰も自分を認識できていないだろう、と黒葛は思う。
誰も自分に興味がないのだ。いや、どうか興味を持たないで欲しい。
何しろほかならぬ自分自身がクラスの誰にも興味を持てず、顔も名前も認識できていないのだ。
ただ一人を除いて。
黒葛は薄目を開ける。
真っ暗な闇の底にあった室内を、カーテン越しに街灯か月の明かりがほんのりと差し込み、薄暗い程度にまで照らしている。
満月ではないようだが、夜空は明るく晴れているようだった。
黒葛は寝転がったまま、ベッドの足の方に手を伸ばし、床に転がっていたティッシュ箱から数枚、ティッシュペーパーを引き抜く。
再び目を閉じた黒葛は、脳裏にぼんやりと一人のクラスメイトの像を浮かべる。
「茜川さん……」
ぽつりとそのクラスメイトの名を口に出した途端、胸が熱くなるのを感じた。
同時に、その胸の高鳴りは黒葛の下半身に伝う。
昂りの波を逃すまいとする黒葛は、頭の中に浮かんだ朧げな像の輪郭をはっきりと結ぶため意識を集中させる。
黒葛にとって、誰かの存在が自分の心の多くの部分を占めてしまうという経験は、過去ないことだった。
どこか唯物的に物事を捉えがちな黒葛にとって、人間は、人間の心の動きというものは理解がしがたく、忌避さえするものだった。
それなのに、この半年ほどずっと心の中に居着いて離れない人がいる、
その人のことを思うと、苦しい。
その苦しさは、遠い昔になくしてしまった大切なものを思い出したときの感情かもしれないし、より極端には、本来自分とともにあるべきものなのに、何かの手違いで今は離れてしまっているものへ思いを馳せる、耐え難い苦しみ。
この心の動きというものは一体何だろうか。
もちろん、黒葛とて木の股から生まれたわけではないし、たとえそうであったとしてもこれが紛れもない“恋”というものだと気付かないわけはなかった。
そしてそれが錯覚であって、認知のバグであるということも理解した上で、このままならない心の動きが恐ろしくもあった。
それでも黒葛はこの理解不能な感情──その心の動きに今夜も身を委ねるのだった。
黒葛が茜川唯と会話をしたのは今から半年ほど前の体育祭が初めてで、その一度きりである。
その後は目すらも合わせていない。
それから茜川唯を度々目で追うようになったが、簾のような前髪越しに文字通りに垣間見るだけの一方通行だった。
幸いにも茜川唯は読書好きであるため、本の世界に夢中な彼女の姿を見ることはたやすい。
それ以外となると、多くは後ろ姿だったり、特に仲がよさそうな友人と二人で話しているときの楽しそうな横顔を盗み見たりする程度だ。
正面から顔を見たのは、その体育祭のときだけだった。
一生懸命思い浮かべようとする茜川唯の姿は、本当に彼女自身のものかどうか、黒葛さえも自信がない。
不思議なもので、これだけ心に想う人であっても、思い浮かべようとすればするほど路上の逃げ水のように像が朧げになっていく。
それでも日々盗み見る顔のイメージを脳内の映像出力機に食わせ、最新の彼女の姿をアップデートさせていく。
クラスの中でもひときわ小さな背丈に、肩に届かない程度に切り揃えられたミディアムボブの栗毛が載る。
顔に比べて大きめな黒縁フレームの眼鏡の奥には、少し垂れ目のくりっとした瞳。
主張は控えめながら愛らしさのある、鼻筋と口元。
イメージが具体的になるにつれ、黒葛の劣情がその下半身に具体的な現象となって現れる。
黒葛は“それ”に手を添え、ゆっくりと上下に動かし始める。
その動きに連動するように、思い浮かべている茜川唯の像も、紙芝居と言っていいほどに荒いコマ数ながらアニメーションとして動き始める。
柔らかく淡い黄味がかった空間の中で、茜川唯は黒葛に微笑みかけている。
黒葛と目が合うとその優しい目を細めて手を振り、髪の毛をふわりと揺らす。
もちろん、これは全て黒葛の妄想による出力である。
実際に黒葛は茜川唯に微笑みかけられたことも、手を振られたこともない。
脳内の妄想出力機を起動させる黒葛の右手に徐々に力が入ると、添える程度だったはずのものが強い握りに変わり、上下に往復する速度も上がっていく。
妄想の中の黒葛は微笑みかける茜川に手を伸ばすが、届かない。
茜川はそこにいるのに、いくら追いかけても近付くことができない。
黒葛はいつまでも的に当たることができない、空中で止まった矢のようだった。
普段ならもっとスムーズな逢瀬を繰り広げることができるが、妄想出力機の調子が悪いことも、たまにはある。
せめて妄想くらい自由にできればと思う。
単に疲れているからなのか、それとも茜川を汚すことへの罪悪感がそうさせるのか黒葛自身にも分からない。
触れたい。茜川さんに触れたい。
話したい。
一緒に本を読みたい。
一緒の時間を過ごしたい。
一緒に笑って、
一緒に────交わりたい。
黒葛は上映中の淡い黄色のスクリーンを破り裂いた。
優しい笑みを浮かべた茜川が映っていたスクリーンは飛散しその断片は闇に溶けて消えるが、その奥からまた一枚スクリーンがぼうと現れ、新たなフィルムが投影され始める。
投影されているのは、白い──裸体のみ。
先ほどのような明るい背景色もなく、映写機から伸びているのは、茜川唯の姿形をした白い光だった。
闇に浮かぶ茜川は、映写機に──黒葛に向けて、笑いかける。
先ほどまでの優しく柔和な微笑みではない。
甘く、淫らな、男を、黒葛を誘惑する官能的な笑み。
密やかに口角を上げた口元は小さく開き、熱く湿った吐息を断続的に漏らしている。
モノトーンだった映像には次第に赤みが加わり、茜川の頬、瞼、そして唇と、色を染めていく。
毛細血管への血の巡りそのものであり、そしてそれは黒葛の海綿体にとっても同様だった。
同刻、黒葛の自宅を含む地域の上空に異変が起こっていた。
快晴の夜空の一部分が徐々に朱を帯び、それは次第に周囲に見えていた星々の一切を隠すほどの燃えるような赤い色彩へと変化した。
のち、この光景を見たあるものは、赤い番傘が広がったようだった、と言い、またあるものは赤い環状の虹がかかっていた、赤色のオーロラだった、とも証言している。
そして深夜の時間帯である。
町の住民の多くは屋内にいたため空の異様を目にすることはなかったが、一方で上空で巻き起こる鳴動を聞いている。
雷鳴でもあり地鳴りのようでもある、およそ聞き覚えのない轟だった。
ただ、季節の変わり目であることに加え、昨今の不安定な気候による突発的な雷の発生など珍しいことでもなく、特段気にかけるものもいなかった。
それは黒葛にとっても同じだった。
いや、行為に夢中になっていた彼の耳に、その爆発音にも似た空の悲鳴が届いていたかどうかは、分からない。
黒葛が妄想劇場で繰り広げる、想い人との逢瀬もいよいよ佳境に差し掛かろうというそのとき、部屋に閃光が走る。
カーテンの隙間から差し込んだ鋭い雷光に、布団を被り夢中にある黒葛は気付かなかった。
黒葛が閉じた瞼の裏で見ていたのは、ただ自らの身体の上で淫らに踊り狂う、茜川唯の裸体のみ。
結合した黒葛と茜川は、指を絡め合いながら動き、互いの存在を確かめ合う。
小刻みに揺れる布団の上を断続的に雷光が走り抜ける中、臨界に差し掛かろうとしていた黒葛は妄想および右手の強度を上げた。
黒葛はより強く茜川を求め、茜川もより淫らに応え、求め合う。
それまで茜川の下だった黒葛は上体を起こし、茜川を組み敷くように上に覆い被さる。
細く小さな手足が黒葛の肩に、腰に回し絡み付けられた。
そのままキス──と呼ぶにはあまりに情趣に欠ける、互いの口を塞ぎ合う口付けをする。
二体の生物の表面積が最も小さくなったその瞬間。
「茜川さ……ん……出る……っ」
黒葛の全身を駆け抜けた、欲情の成果をティッシュの中に吐き出そうというときだった。
先ほどの爆発音とは比較にならない、耳をつんざく衝撃音とともに部屋全体が大きく揺れる。
垂直の揺れに突き上げられた黒葛の体が、ベッドからふわりと浮き上がった。
食事を終えた両親が、二人で片付けをしているのだろう。
黒葛祐樹は自室のベッドに潜り込んだままスマホ画面の右上端に目をやる。
息も絶え絶えなバッテリー残量。その隣の数字は、23:38とある。
今日はまだ、全然早い方だ。
黒葛が漏らしたため息が、ヒビの入ったスマホ画面を少しだけ曇らせた。
今この部屋に存在する光源は、スマホの光だけである。
そのぼんやりと淡い光が照らす黒葛の顔は、伸び切った前髪によって、そのほとんどが覆い隠されてしまっている。
唯一、その簾のような髪の隙間から覗いているのはやや切れ長の片目。
薄く開かれた目の奥にある瞳には、高速でスクロールされる議論とも口論ともつかないやりとりの文字列が映り込んでいる。
黒葛は、今自分が何を見ているのか意識をしていなければ、1分後にはそれまで何をブラウジングしていたのかさえも忘れているだろう。
これは彼にとっては単なるルーチンであり、また黒葛祐樹という人間が日常を送るこの世界から目を逸らすための刹那的な慰めだった。
階下からの水回りの音が、一旦落ち着いた。
もう日付が変わろうとするが、このあと両親はお茶を入れ、気持ちばかりの時を憩う。
今日が金曜日だから、ではない。
両親ともに明日も今日と変わらぬ時間に家を出て、また同じような時間に帰ってくるのだろう。
このわずかな憩いの時が、日々多忙に追われる二人にとっての刹那的な慰めなのだろうか。
そしてこのあと交代で風呂に入り、母親のドライヤーの音と、トイレから聞こえる父親の排尿音を最後にこの家の一日は終わる。
明日も変わらない。いつものことだ。
黒葛はスマホをスリープモードにし、充電器に繋いだ。
電子機器類の待機ランプと、Wi-Fiルーターの小刻みな明滅を残して室内は闇に包まれた。
黒葛は布団を被り直し、目を閉じる。
明日は土曜日。休校日だ。
だからいって、夜更かしをしない黒葛は模範的な高校生と言えるのだろうか?
否、単に彼にとっては平日も休日も等しく無価値なだけである。
かと言って、熱心に活動するペシミストたちのようにこの世に悪意や悲しみも見出せない。
そちらの方がよかったのだろうか、と思ったことさえあった。
それだけの情熱があれば、自分を、世の中を変える原動力にも転化できるかもしれない。
しかし、黒葛はひたすらに虚無的だった。
ただ、日々を流れるままに流し、誰とも、何とも関わることもなく生きて──いっそ、この世から消えてしまえば三方よしだ。
もし自分がいなくなったら、今まさに階下で日々の息継ぎをする両親も、現在のような激務をもって生計を立てなくても済むかもしれない。
特に多忙な母親の疲弊しきった横顔を見る度、黒葛は自身の存在としての罪を突き付けられる気がした。
そのようなとき、仮に黒葛が模範的な高校生だったとしたら、一層勉学に励むか、あるいはアルバイトをして収入を家に入れるなどするかもしれない。
しかし、黒葛はそのどちらでもなかった。
ただ、何もせず、何にも関らず、ひたすらに今という時間が過ぎ行くことに身を任せる。
頭の回転が人一倍遅く、人一倍不器用で人一倍体力もなく、そして何より他者とまともにコミュニケーションをとることができない彼は、それが今できる最善であり、少なくとも最悪ではない。
そう信じている。
その処世術により、黒葛は彼にとって避けようのない、学校という強制されたコミュニティの中においても目立つことがなく、地味な存在であり続けた。
前髪が伸びきり、もはや猫背とは呼べないほどの姿勢の悪さからくる異様な風体であっても、息を、存在自体をも殺すように日々を流す努力の甲斐あってか、彼を気に留めるものはいなかった。
いじめられることもなかったが、そもそも彼を、黒葛祐樹という名前の同級生がいるということを認識できている人がどれだけいるだろうか?
この4月に学年が変わりクラス替えもあったが、新しいクラスの誰も自分を認識できていないだろう、と黒葛は思う。
誰も自分に興味がないのだ。いや、どうか興味を持たないで欲しい。
何しろほかならぬ自分自身がクラスの誰にも興味を持てず、顔も名前も認識できていないのだ。
ただ一人を除いて。
黒葛は薄目を開ける。
真っ暗な闇の底にあった室内を、カーテン越しに街灯か月の明かりがほんのりと差し込み、薄暗い程度にまで照らしている。
満月ではないようだが、夜空は明るく晴れているようだった。
黒葛は寝転がったまま、ベッドの足の方に手を伸ばし、床に転がっていたティッシュ箱から数枚、ティッシュペーパーを引き抜く。
再び目を閉じた黒葛は、脳裏にぼんやりと一人のクラスメイトの像を浮かべる。
「茜川さん……」
ぽつりとそのクラスメイトの名を口に出した途端、胸が熱くなるのを感じた。
同時に、その胸の高鳴りは黒葛の下半身に伝う。
昂りの波を逃すまいとする黒葛は、頭の中に浮かんだ朧げな像の輪郭をはっきりと結ぶため意識を集中させる。
黒葛にとって、誰かの存在が自分の心の多くの部分を占めてしまうという経験は、過去ないことだった。
どこか唯物的に物事を捉えがちな黒葛にとって、人間は、人間の心の動きというものは理解がしがたく、忌避さえするものだった。
それなのに、この半年ほどずっと心の中に居着いて離れない人がいる、
その人のことを思うと、苦しい。
その苦しさは、遠い昔になくしてしまった大切なものを思い出したときの感情かもしれないし、より極端には、本来自分とともにあるべきものなのに、何かの手違いで今は離れてしまっているものへ思いを馳せる、耐え難い苦しみ。
この心の動きというものは一体何だろうか。
もちろん、黒葛とて木の股から生まれたわけではないし、たとえそうであったとしてもこれが紛れもない“恋”というものだと気付かないわけはなかった。
そしてそれが錯覚であって、認知のバグであるということも理解した上で、このままならない心の動きが恐ろしくもあった。
それでも黒葛はこの理解不能な感情──その心の動きに今夜も身を委ねるのだった。
黒葛が茜川唯と会話をしたのは今から半年ほど前の体育祭が初めてで、その一度きりである。
その後は目すらも合わせていない。
それから茜川唯を度々目で追うようになったが、簾のような前髪越しに文字通りに垣間見るだけの一方通行だった。
幸いにも茜川唯は読書好きであるため、本の世界に夢中な彼女の姿を見ることはたやすい。
それ以外となると、多くは後ろ姿だったり、特に仲がよさそうな友人と二人で話しているときの楽しそうな横顔を盗み見たりする程度だ。
正面から顔を見たのは、その体育祭のときだけだった。
一生懸命思い浮かべようとする茜川唯の姿は、本当に彼女自身のものかどうか、黒葛さえも自信がない。
不思議なもので、これだけ心に想う人であっても、思い浮かべようとすればするほど路上の逃げ水のように像が朧げになっていく。
それでも日々盗み見る顔のイメージを脳内の映像出力機に食わせ、最新の彼女の姿をアップデートさせていく。
クラスの中でもひときわ小さな背丈に、肩に届かない程度に切り揃えられたミディアムボブの栗毛が載る。
顔に比べて大きめな黒縁フレームの眼鏡の奥には、少し垂れ目のくりっとした瞳。
主張は控えめながら愛らしさのある、鼻筋と口元。
イメージが具体的になるにつれ、黒葛の劣情がその下半身に具体的な現象となって現れる。
黒葛は“それ”に手を添え、ゆっくりと上下に動かし始める。
その動きに連動するように、思い浮かべている茜川唯の像も、紙芝居と言っていいほどに荒いコマ数ながらアニメーションとして動き始める。
柔らかく淡い黄味がかった空間の中で、茜川唯は黒葛に微笑みかけている。
黒葛と目が合うとその優しい目を細めて手を振り、髪の毛をふわりと揺らす。
もちろん、これは全て黒葛の妄想による出力である。
実際に黒葛は茜川唯に微笑みかけられたことも、手を振られたこともない。
脳内の妄想出力機を起動させる黒葛の右手に徐々に力が入ると、添える程度だったはずのものが強い握りに変わり、上下に往復する速度も上がっていく。
妄想の中の黒葛は微笑みかける茜川に手を伸ばすが、届かない。
茜川はそこにいるのに、いくら追いかけても近付くことができない。
黒葛はいつまでも的に当たることができない、空中で止まった矢のようだった。
普段ならもっとスムーズな逢瀬を繰り広げることができるが、妄想出力機の調子が悪いことも、たまにはある。
せめて妄想くらい自由にできればと思う。
単に疲れているからなのか、それとも茜川を汚すことへの罪悪感がそうさせるのか黒葛自身にも分からない。
触れたい。茜川さんに触れたい。
話したい。
一緒に本を読みたい。
一緒の時間を過ごしたい。
一緒に笑って、
一緒に────交わりたい。
黒葛は上映中の淡い黄色のスクリーンを破り裂いた。
優しい笑みを浮かべた茜川が映っていたスクリーンは飛散しその断片は闇に溶けて消えるが、その奥からまた一枚スクリーンがぼうと現れ、新たなフィルムが投影され始める。
投影されているのは、白い──裸体のみ。
先ほどのような明るい背景色もなく、映写機から伸びているのは、茜川唯の姿形をした白い光だった。
闇に浮かぶ茜川は、映写機に──黒葛に向けて、笑いかける。
先ほどまでの優しく柔和な微笑みではない。
甘く、淫らな、男を、黒葛を誘惑する官能的な笑み。
密やかに口角を上げた口元は小さく開き、熱く湿った吐息を断続的に漏らしている。
モノトーンだった映像には次第に赤みが加わり、茜川の頬、瞼、そして唇と、色を染めていく。
毛細血管への血の巡りそのものであり、そしてそれは黒葛の海綿体にとっても同様だった。
同刻、黒葛の自宅を含む地域の上空に異変が起こっていた。
快晴の夜空の一部分が徐々に朱を帯び、それは次第に周囲に見えていた星々の一切を隠すほどの燃えるような赤い色彩へと変化した。
のち、この光景を見たあるものは、赤い番傘が広がったようだった、と言い、またあるものは赤い環状の虹がかかっていた、赤色のオーロラだった、とも証言している。
そして深夜の時間帯である。
町の住民の多くは屋内にいたため空の異様を目にすることはなかったが、一方で上空で巻き起こる鳴動を聞いている。
雷鳴でもあり地鳴りのようでもある、およそ聞き覚えのない轟だった。
ただ、季節の変わり目であることに加え、昨今の不安定な気候による突発的な雷の発生など珍しいことでもなく、特段気にかけるものもいなかった。
それは黒葛にとっても同じだった。
いや、行為に夢中になっていた彼の耳に、その爆発音にも似た空の悲鳴が届いていたかどうかは、分からない。
黒葛が妄想劇場で繰り広げる、想い人との逢瀬もいよいよ佳境に差し掛かろうというそのとき、部屋に閃光が走る。
カーテンの隙間から差し込んだ鋭い雷光に、布団を被り夢中にある黒葛は気付かなかった。
黒葛が閉じた瞼の裏で見ていたのは、ただ自らの身体の上で淫らに踊り狂う、茜川唯の裸体のみ。
結合した黒葛と茜川は、指を絡め合いながら動き、互いの存在を確かめ合う。
小刻みに揺れる布団の上を断続的に雷光が走り抜ける中、臨界に差し掛かろうとしていた黒葛は妄想および右手の強度を上げた。
黒葛はより強く茜川を求め、茜川もより淫らに応え、求め合う。
それまで茜川の下だった黒葛は上体を起こし、茜川を組み敷くように上に覆い被さる。
細く小さな手足が黒葛の肩に、腰に回し絡み付けられた。
そのままキス──と呼ぶにはあまりに情趣に欠ける、互いの口を塞ぎ合う口付けをする。
二体の生物の表面積が最も小さくなったその瞬間。
「茜川さ……ん……出る……っ」
黒葛の全身を駆け抜けた、欲情の成果をティッシュの中に吐き出そうというときだった。
先ほどの爆発音とは比較にならない、耳をつんざく衝撃音とともに部屋全体が大きく揺れる。
垂直の揺れに突き上げられた黒葛の体が、ベッドからふわりと浮き上がった。
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