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甘いパン
しおりを挟む男は、電話を切ったと同時に深い溜息をつきながら椅子に深くもたれかかった。
そして眉間のしわに指を当てて考え込んで、
デスクの上にあるコーヒーカップに手を伸ばした。
電話で報告を聞く前には、まだ暖かかったものも、今ではすっかり冷め切っていた。
一口飲んで、舌打ちをする。
その様子を、ビクビクと伺っていた秘書である有森 結(ありもり ゆい)はそっと立ち上がり、
男のためにコーヒーを入れなおした。
男の名前は、白石 慧(しらいし さとし)。ロマンチストな母親からつけられたこの名前が
吐き気が出るほどいやだった。
ロマンスを夢見て、現実を見ないまま死んでいった母親は、少女のように微笑んで死んでいった。
そのことを思い出すたびに、鳥膚が立ち、自分がどこに立っているのか、わからない不安に襲われるため、
なるべく思い出さないようにしていた。
「クソッ」
軽く舌打ちをし、パソコンの画面に食いつくように見入る。
そして机の上の書類を片手にイライラと考え込んでいた。
「社長。コーヒーをここに置きます」
秘書は、おどおどとコーヒーをパソコンがある場所から遠いところにそっと置く。
それに対し、お礼もなにも言わないまま視線もパソコンから離さないようにコーヒーに口を付け、
また考え込む。
このパン屋がどうしても邪魔だ。
なぜここまで条件がそろっているのに立ち退こうとしない。
廃れた商店街を街ごと買取り大型ショッピングモールを建設予定していたが、
一軒だけどうしても承諾しない店がある。自分のところだけ経営が上場しているわけでもないのに。
大方、両親が残したとか、自分で立ち上げて思いれがあるとか
どうでもいいような理由だろう。
それか、条件をもっと良くしてもらうために渋っているか。
そのような店に自分はどうすべきか。何度も考えていた。
ショッピングモール計画はこの会社ではかなり大きなプロジェクトとなっており、
大きな利益を生み出すだろうと誰もが予想していた。
そのため、何が何でも成功させたかった。
だからといって暴力などを使って立ち退いてもらう事は慧の方針とは違う。
なので会社の人間が何度も何度も足を運んで丁寧に説明して
説得にかかっていたというのに。
男は不意にその店を見てみたいと思った。
どんな店なのか。
店の名前は、「ピノキオ」
店主の名前は 大塚 ちひろ 27歳。その若さで一人で店をやりくりしているらしい。
資料を何度も読んでいるうちになぜだか興味が湧いた。
資料の中から地図を見つけ出すと、住所を確認し、部屋においてあるコートかけからコートを取り
部屋にいた秘書に、
「外出する。数時間でもどる」
とだけ告げると颯爽と部屋から出た。
会社のエントラップに出ると男の運転手が静かに車を横付けした。
そして運転手がドアを開けて男が乗るのを待っている。
乗り込もうと車のドアに手をかけたが、ふと駐車場のほうを見、
運転手に向って自分の車で行くと告げスタスタと役員駐車場の方へと向って歩いた。
現在、午後6時。
その時間までお店が開いている保障はないが、なぜだか開いている予感がする。
エンジンをかけても静かであるその車は、
目的地である所まで音楽がなるわけでもなく、急なブレーキがかかることもなく、
ただ静かに主を運んだ。
「ここか」
車の中から、男はその店を覗いている。
店に横付けするのではなく、反対車線から店を眺めていた。
外観は、ちいさなちいさな外国の家といったところか。赤と白のテントが
張ってありまだ店が開いているようだった。
どこにでもありそうなパン屋で入り口の前にはちょっとしたテーブルが置いてあったり、
かわいらしく小さな花があちこち咲いている。
しかし、それよりも中の灯りがとても柔らかく
いつでも優しく迎えてくれるそんな雰囲気を醸し出しており、
男にとって遠くから見ているだけなのになぜか居心地が悪くなった。
もうそろそろ店じまいなのだろう。
棚にあったパンを一つのプレートに集めている女性が見える。
肩位まで伸ばしたふわふわの髪を一つまとめにし、
真っ白なコックコートにキャロット色のスカーフを首に巻いている姿は、
とても清潔感に溢れていた。
男は、その女性に吸い寄せられるかのように車から降り立ち、
店の中へと入った。
中ではオルゴールの音楽が柔らかい空間を作っていた。
「いらっしゃいませ」
男の姿を見て、にっこりと微笑むその女性。
しばしその女性を見つめ体が動かなかった男に対して、
不思議そうに見上げるように首をかしげて、
「どうされましたか?」
とかわいらしい声がもう一度男の耳に届いた。
どうしたのだろうか。
頭をフルフルとかろうじて動かし、パンの置いてある棚の方へ
フラフラしながら歩いていった。
甘いものが苦手なこの男は、クリームパンや、チョココロネといった
甘いパンのみ余っているのを見て、うっといやそうな溜息を一つ落としつつも
一種類づつトレーの上に乗せて会計するところへ向う。
手馴れた手つきでレジを打ち、お金を出している間にお店のイラストが入った紙袋に
詰め込まれていった。
お金を渡そうとしたときに、女性はじっと男性を見つめた。
「あの、甘いもの好きですか?」
男は、唐突に聞かれて思わずうなずくことしか出来なかった。
「よかった。じゃあ、これ試作品なんですが、食べてみてください」
そういってアンパンらしきものを紙袋に詰め込まれた。
アンパン・・・。あんこを思い出すだけでも吐き気がしそうな男にとって
何よりも嫌いなもののはずなのだが。
「ありがとう」
珍しくも微笑んで、男は答えていた。
その微笑に、一瞬赤くなった女性は満面の笑みで男性をドアまで送った。
「お仕事、お疲れ様です。ありがとうございました」
『お仕事、お疲れ様です』
彼女の言葉が、男の心を軽くした。
さっきまで、あんなにイライラしていたのが嘘のようだった。
自然と帰る足取りまで軽くなる。
車にたどり着き、シートに乗り込むともう一度店の方を見て車を発進させた。
ちひろは、男を見送った後、店じまいを始める。
最近、立ち退きの話しばかりで正直心が疲れきっていたが、
最後のお客の笑顔を見てなぜだか疲れが飛んでいった。
それくらいの威力が彼にはあった。
とてもパン屋に来るような身なりではなく、
一流のものを身につけていたのは入ったときからわかった。
冷たそうな目。
全く無駄のない体。
髪も短くセットされており几帳面さが出ていた。
そして品があって、目が自然とそっちの方に引き寄せられる何かがあり
魅力があったのだ。
最初はまた立ち退きの話をするセールスと思っていた。
自分をじっと見たときは、特に。
しかし、すぐに視線から外れてパンを、しかも甘いパンをトレーに乗せ
持ってきたのをみて純粋に甘いパンが好きな男性なのだと知り、
勝手に勘違いしてしまって申しわけないという気持ちで、
新製品のパンを一緒に袋につめた。
極め付けがあのありがとうと言ったときの表情。
あんなに魅力的な笑顔を見たのは初めてだった。
最初の表情からは想像もつかないくらい柔らかな笑顔。
そのギャップに驚いて、魅かれてしまって
自分の耳が赤くなっていくのが、恥かしかった。
思い出している今でさえ、まだ耳が赤い。
「ちーたん、顔赤いよ?どうしたの?」
下から6歳の男の子がエプロンの裾を引っ張って声をかけてきた。
「あれ、健太。もうそんな時間?」
「そうだよ。ちーたん、またぼーってしてたの?ほら店じまいしないと」
時計を見ると7時半近くになっていた。
男が来てから30分は呆けていたということになる。
「ありゃ、ごめん。今、急いで片付けるから」
「僕も手伝うよ」
にっこりと笑った笑顔は、女性の大切な人を思い出させる。
その相手ががんばれと言ってくれるようで、やる気を奮い立たせた。
「うん、じゃあ汚れたトレーを流しに浸けてくれる?」
「わかった。ついでに洗っておくね」
少年が元気よく裏の方に向かうのを微笑ましく見てシャッターを下ろした。
あの男性が、もう一度この店に来るとは限らない。
それにお店もいつまで続けられるかどうかもわからない状況にある。
いろんな人の夢がつまったこの店はどうしても閉めることが出来なかったため、
今は頑として立ち退きに反対しているが、
この地域では反対しているのが自分だけだと思うと、
少々心が落ち込んできていた。
毎日毎日、心が折れてきているのがその女性にもわかっているのだ。
せめて買い取る人間がもう少しあたたかみのある人間であれば・・・・・・。
そう願っても自分のような人間にあえるような人物じゃない事は十分にわかっていた。
うわさでは最近社長になったばかりだがかなりのやり手で
不要と思った人間は簡単に切り捨てるという話や、
お金のことしか考えていないなどあまりいいうわさは聞かない。
そんな人にこのお店の思いれなど関係ないだろう。
ちひろは溜息をつきながらこの先どうすればいいか誰にも相談できないこの状況を
まるで迷路みたいだと一人呟き店に鍵をかけた。
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