女王様と犬、時々下克上

吉川一巳

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女王様と犬、時々下克上 4

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 いつものアルバイトを終え、ようやくアパートに帰りついた時には小雪がちらついていた。

 明日には積もるかもしれない。

(やだなぁ。学校あんのに)

 私は、憂鬱な気分で足早に自分の部屋へと向かった。そして、部屋の前に立つ人影に気付き、大きく目を見開いた。

(ななななんで? 二度と目の前に現れるなって言ったよね?)

 人影は、ちょうど半月前、彼女と勘違いして私を押し倒してきたあの男だった。

 ふわふわの茶髪に皮ジャン、ジーパンという出で立ちで、ズボンのポケットからじゃらじゃらと鎖が見えており、相変わらずチャラチャラとした感じだった。

 ここには来ないという約束になっていたはずだ。駐輪場の赤のバイクは、気が付いたら消えていたからすっかり安心しきっていたのに。

「あ、あの!」

 存在を無視して素通りしようとしたら呼び止められた。私はしぶしぶ足を止める。

「動画なら投稿する前に消しましたけど何のご用ですか? 二度と会いたくないって私言いましたよね」

 冷たく言い放つと、男はびくりと身を竦ませうつむいた。

「……用がないなら邪魔なのでどいてください。私は家に帰ってくつろぎたいんです」

「……せ、せきに……を」

「は?」

 良く聞き取れなかったので私は首をかしげた。すると男は、唇を噛んでから、まっすぐに私の目を見つめ返してきた。

「責任を、取って欲しくてっ! 俺、この間から変で……あの時のこと思い出さないとできなくなったんだ! だからっ……」

「……何をおっしゃっているのか意味がわからないのですが」

「そ、その……つまり、隠れた性癖を目覚めさせた責任を取ってもらいたくてっ! このままじゃ俺、おかしくなる……」

 言われた事を脳が理解するのに、しばしの時間が必要だった。

 この間の事というと、言葉で責められつつ私の目の前で放尿して、おっきしちゃったけど結局お掃除したらしぼんだアレの事だろうか。

 それを想像しないとできないというのは、つまりアレをナニするオカズが特殊なものになったということ……だよね。ってことは……、

「へんたい?」

「そう……だよ。目覚めさせたのはあんたなんだから、責任取って俺と付き合って欲しい」

 もじもじしながらもはっきり言われて、私の脳は考えることを放棄した。

「……無理です」

 なんとか立ち直り、私は断りの言葉を搾り出した。

「あなたの顔なら別に私じゃなくてもいいと思うんです。他を当たってください」

「いや……この二週間、俺も色々試したんだ。だけどなんか違って……たぶんあんたの何かが俺を目覚めさせるんだと思う」

 試す? 試すって何を試したんだろう。詳しく聞きたいが聞いたら後悔しそうな気もする。

「まだそんなのわかんないじゃないですよ、人生は長いんだしもっと色々試して見ましょうよ!」

「男じゃないあんたに何がわかる! 俺はもう限界なんだ!」

「そんな事私に言われても……とにかく無理なので他を当たってください」

 断固拒否の姿勢を貫き勢いで私は男を睨みつけた。すると男は、ふうっと息をついて肩をすくめる。

「まぁ、断られるのは予想してたよ。それならそれでこっちにも考えがあるんだ。警察行こうか」

「は?」

 男から飛び出した意外な言葉に私は目を丸くした。

「こないだの事、俺も悪かったけどあんたもヤバイ事したってわかってるよな? 俺はどうしてもあんたが欲しい。その為ならなりふり構わずなんでもやるよ。あの動画がネットに晒されても構わない。その代わり、警察沙汰にして、あんたの将来に傷をつけてやる」

「そんな事したらあんただって」

「お互いにボロボロになると思う。それでも俺は構わない」

 男の目は本気で、私は自分の敗北を悟った。







「まずは自己紹介、しよっか。俺は仁科恭平。恭平って呼んでくれていいよ」

 意見が通り、私の部屋に上がりこんだ男は、にこにこしながら名刺を渡してきた。

 ヘアスタイリストと書かれた肩書きに、男――仁科の職業を悟る。

「美容師さん」

 どうりでチャラチャラしている訳だ。名刺によると、駅近くの店で働いているらしい。

「よかったら切ってあげるよ。ちょっと色明るくして、毛先を軽くしたらもっと可愛くなると思うな」

「変な風にされたら困るので遠慮します」

「変になんかしないって。これでも結構指名取ってるんだから、安心して任せて欲しいな」

「……ごめんなさい。まだ仁科さんのことよく知らないので」

「恭平でいいって言ってるのに……えっと、名前……教えて欲しいな」

 やっぱり言わないとダメか。私はため息をついてから仁科に名乗った。

「北條奈緒です」

「奈緒ちゃんかぁ。あ、奈緒ちゃんって呼んでいいよね?」

「……どうぞ」

 本当は嫌だったがこの馴れ馴れしさだ。断っても無駄な気がしたので、私はしぶしぶと了承した。

「奈緒ちゃんは学生?」

「……そうです。大学生です」

「何年生?」

「二年生です」

「二年ってことは十九歳か二十歳? 俺の方が二学年上だ。ねえ、この辺のガッコって事はもしかして県立大?」

「もしかしなくてもそうですね」

「すごいな。めっちゃ頭いいんだね」

「そんなことないです。上には上がいるので」

「いや、俺勉強嫌いで専門行ったから。ちゃんと四大入って真面目にやってるのはえらいと思う。しかも公立だし!」

「それはどうも。……お茶でも入れてきますね。ほうじ茶しかないですけどいいですか?」

 こたつから立ち上がり、台所に向かおうとすると、腕を仁科にとらえられた。

「そんなのいいよ。それより、俺、もう……」

 仁科の目は潤んでいた。言われなくても求められているのだと悟り、私は身を引く。

「お付き合いってまずは清く正しくお互いを知るところから始まると思うんです」

「あんな凄いことしておいて今更でしょ? 俺、おかしくなってるって言ったよね? はっきり言うと俺、溜まってるんだ。思い出しながらやればイけるけど、なんか物足りなくて。どうにかできるのはたぶん奈緒ちゃんだけだと思うんだ!」

「無理無理無理無理です! 私彼氏できたことないんで。もちろん経験もないですし、あの時は仁科さんに切れててその勢いで色々やったって言うか! 今日のところはお茶を飲んだから帰っていただけないでしょうか!」

「え……? 奈緒ちゃん、もしかして処女……?」

「どうせ今までモテた事なんか一度もないですよ」

 馬鹿にされたと感じたため、ドスを効かせて言い返すと、何故か男は頬を赤く染めた。

「奈緒ちゃん、誰ともシた事、ないんだ……どうしよ、俺、初めての子と付き合うの初めてだ。凄く嬉しい……」

「そ、そうですか」

 喜ばれて悪い気はしないが困惑の方が先に立つ。戸惑う私の頭を、仁科はぽんぽんと叩いた。

「すごく辛いけどしばらくは我慢するよ。奈緒ちゃんのペースに合わせて待つから安心して」

「……はい」

 ちょっといい人かもしれない、と思ったのは一瞬だった。

「あのさ、その代わりと言ってはなんなんだけど、今日はここにずっと居てもいいかな?」

「ずっと!? どういう意味ですか! まさか泊まるつもりですか」

 時刻はもう夜の十一時を回っている。ほぼ初対面に近いのに何を言い出すのか。

「何もしないって約束するからダメかな……?」

「ダメに決まってます! 私のペースに合わせてくれるってさっき言ったじゃないですか。今日のところは帰ってください」

 じろりと睨みつけると、仁科は肩を落とした。

「やっぱダメかぁ。それじゃあさ、せめてぎゅってさせて欲しい」

 切なそうな目で見られて私はたじろいだ。動揺する辺り、既に私はこいつにほだされているのだと思う。

「……わかりました。ちょっとだけですよ」

 こんな風に男の人から求められるのは初めてだからだ。

 仁科の体に全身を包み込まれるとふわりと柑橘系のいい匂いがした。

 なんかむかつく。男の癖に香水なんか使って。

 至近距離で見る仁科の顔は、少しひげが伸びてきているものの、つるつるすべすべなのがまた腹立たしい。

 こっちはちょっとでも不摂生するとすぐに吹き出物ができるのに。

 ……でも、抱きしめられるのは、気持ちいいかも。

 私はあまり親に甘えるタイプじゃなかったから、こんな風にされるのは小さな頃以来だ。仁科の体は男性としては標準的な体型だと思うのだが、私の体はすっぽりと包み込まれてしまう。私の身長は百六十三センチ。女子の中ではやや大きいほうだ。

(男女の体格差ってこんなにあるんだ……)

 人肌のぬくもりに包まれて仁科のなすがままになっていた私は、おへその下あたりに何か硬いものが当たるのに気付いた。

(何これ。ポケットに何入れて……)

 そこではた、と気付く。これはまさか……

「あの、仁科さん、私のおなかに」

「ごめん、この二週間ずっと奈緒ちゃんの事考えてたから。ホントごめん」

「だったら押し付けないでもらえますか?」

「押し付けてなんかっ。奈緒ちゃん柔らかいし結構胸おっきいし……」

 私は思わず軽蔑のまなざしを向けた。すると仁科は息を呑む。かと思うと、思い切り身を離し、頬を赤く染めて口元を押さえた。

(なにごと?)

「奈緒ちゃんその目、反則……。出ちゃった」

 仁科は涙目になっている。上気した頬と相俟って妙に色っぽい。

(出ちゃったって、何が……え?)

 まさか。

 仁科の言葉の意味を理解し、私は呆然と呟いた。

「え……嘘でしょ。だって引っ付いただけ、ですよね……」

「俺、おかしくなってるって言っただろ。俺、自分でも気付いてなかったけどたぶんMの気があるんだと思う……」

 半泣きの表情での告白に私の困惑は深まる。

「え? でもそんな、たったこれだけでイっちゃうとか……どうするんですか下着。そのままで帰るんですか?」

「……持ってきてる」

「は? なんで?」

「だって奈緒ちゃんに会ったら暴発する自信あって……最初から泊まろうとかそういう下心があったわけじゃないから! そこだけは信じて!」

 私は驚きと呆れが入り混じった視線を仁科に向けた。

「奈緒ちゃん、悪いんだけど、シャワーとタオル借りていいかな……? 後始末したら俺、帰るから……」

 泣きそうな顔で言われて心がしくりと痛む辺り、私は既にこいつにほだされているんだろう。

「お風呂沸かします。私湯船にじっくり浸かる主義なので。ちゃんと体温めてから帰らないと風邪引きますよ」

「奈緒ちゃんやさしい……」

「勘違いしないで下さい。ただの同情です」

「それでも俺、嬉しいよ」

 ふわりと笑う仁科を見ると、妙な感情が湧きそうだった。私は慌てて目をそらすと、足早にお風呂場に向かった。
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