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01 抑圧された侯爵令嬢
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ダンス、ピアノに礼儀作法、絵画。
近隣三ヶ国の言語に地理歴史、政治情勢、国内の貴族の名前に各領地の主要産業。
未来の王太子妃として覚えるべき事は山とありすぎて、私のお粗末な頭はパンクしそう。
ここ、アルビオン王国の王都にある、リグニエット侯爵家のタウン・ハウスの中庭では、庭師が丁寧に手入れした薔薇が、まさに盛りの季節を迎えていた。
特に庭の中央に据えられた、アーチ状に仕立てられた蔓薔薇のゲートはとりわけ美しい。
このアーチを連ねて作った薔薇の回廊は我が家の自慢だ。庭園の奥のガゼボまで続いていて、薔薇で作られた秘密基地のような作りになっている。今の季節、そこのガゼボでお茶をすると、薔薇のいい香りに包まれて、とても優雅な気持ちになる。
四月から五月に暦は変わり、新緑の緑はより濃く色付き、青空とのコントラストが美しい。
外は晴れて気候も良く、うってつけのお散歩日和なのに、悲しいかな、私は家庭教師のワイズ女史とお勉強だ。
「メル様、この場合、フランドール語では、《新しい芽》ではなく、《新芽》という言葉を使われる方がよろしいかと存じます。後ここ、この単語は男性名詞ではなく、女性名詞となりますので、《le》ではなく、《la》に直しましょうね」
(うう……)
フランドール語は嫌いだ。名詞に性別があるだなんて意味がわからない。
私は、ワイズ女史から添削されて返ってきた課題を一瞥し深くため息をついた。
今日の課題は、フランドール語で夜会の招待状を書くことだった。
時候の挨拶に始まり、夜会の日時、場所、訪れを楽しみにしている事を記載し、締めくくる。
ただそれだけの文面なのに、赤インクでの修正で真っ赤っ赤になって返ってきたため、私の心は折れそうだった。
フランドールとヴァイマール、ロマーナ。アルビオンに隣接する、この三ヶ国の言語は、王家に嫁ぐ貴族令嬢には必須の教養とされているけれど、私はこの語学を特に苦手としていた。
どの言語にも男性名詞と女性名詞とかいう訳のわからないものがあるのがいけないのだ。《太陽》は男性、《月》は女性はまだわかるにしても、《絵画》は女性なのに《芸術》は男性って意味がわからない。
この単語の男女の概念は、アルビオン語には存在しないものだから余計に覚えられなくて私の頭を悩ませていた。
日常会話はつたないながらに誤魔化し誤魔化しどうにかなっても、書く方はそうもいかなくて、私は毎回赤修正の入った紙を手にため息をつくのだった。
(ここはアルビオンなんだから、皆アルビオン語を使うべきなのよ)
と言い切りたいところだけど、外交の場ではそうも行かない事は百も承知だ。
『こんにちは』、『ごきげんよう』、『会話は苦手な性質ですので』。この三つを覚えてどうにかしのげと婚約者であるアーサー殿下はおっしゃるのだが、正直こんな重荷、放り投げたいというのが本音である。
栄光ある大アルビオン王国、その第二王子であるアーサー殿下の婚約者という立場など。
何故第二王子なのにアーサー殿下が王太子なのかというと、第一王子であるエリック殿下が病弱な為だ。
私、メルことメリッサ・リグニエットが、王太子殿下の婚約者などと言う立場に選ばれてしまったのは、貴族の派閥のバランス関係や政治的な思惑、アーサー殿下本人の希望など色々なものが複合的に働いた結果らしい。
王太子殿下の婚約者になったのは、殿下本人の希望って言ったけど、実は私は、殿下に好かれてるって訳じゃない。
候補の令嬢を見比べた時、他の令嬢と比べて私が一番マシに見えたらしい。
殿下から面と言われたときには殺意を覚えたが、一介の侯爵令嬢に過ぎない私が、王太子殿下に言い返すことなどできるはずもなく、飲み込むしかなかった。
なんで私なのか。
同様の条件の令嬢達の中で、見栄えがそれなりに良くて、性格が穏やかそうだったから。
それがアーサー殿下による私の評価である。
私より綺麗な人も、私より教養のある人も沢山いらっしゃるというのに。
もしかしたら、将来愛妾にしたい方が既にいて、私なら何も言わずに受け入れると思って選ばれていたりして。
(ありえそうで嫌だわ……)
何しろアーサー殿下は完全無欠な王子様なので、彼の前に出ると、私は萎縮して何も言えなくなってしまうのだから。
「さて、メル様。今日のフランドール語の授業は一旦これくらいに致しましょう。そろそろ殿下が来られるころではありませんか?」
ワイズ女史がそう切り出すのと、私室のドアがノックされるのはほぼ同時だった。
「失礼致します」
入ってきたのは私付きの侍女であるノエリアだった。
「お嬢様、王太子殿下が参られました」
「まあ、では私はこれで失礼致しますね」
ワイズ女史は、フランドール語の教本をまとめ、部屋を退出する。
後に残されたのは添削だらけの私が書いた招待状だけだ。
それを見て、再びため息をついた後、私はノエリアに尋ねた。
「殿下はどちらにいらっしゃるの? 一階の応接室かしら」
「ここだよ、メル」
部屋の外から聞こえた声に、私はぎょっと目を見開いた。
「殿下! こちらに突然来られるのはお止めくださいと前にも申し上げたはずです!」
「婚約者の部屋を訪れるのに何か問題が? メルの部屋は、いつもいい匂いがするから好きだよ。『女の子は、お砂糖とスパイスと、すてきななにもかもでできている』って実感する」
何故か部屋の外にいたアーサー殿下は、許可を出していないにも関わらず私の部屋に入ってくると、伝承童謡の一節を引用しながら、ひくひくと鼻をひくつかせた。
「レディの部屋の匂いを嗅ぐのはお止め下さい! 恐らくそれは私が使っている香水の匂いでしょう。気に入ったのなら差し上げますから、こちらに突然来られるのは止めてくださいませ」
心臓に悪いから。
伝承童謡によると、男の子は、かえるとかたつむりと子犬の尻尾でできているという。確かに私の弟のクリスを見ていると、小さい頃は虫やザリガニを捕まえたり、壁に穴をあけたり、ろくでもないことばかりして叱られてばっかりだったが、この王太子殿下の場合はその枠には収まらないと思う。
混じりけのない金色の髪に青い瞳、整った容貌にすらりとした立ち姿には、濃紺のフロックコートがよく似合っており、物語から抜け出した王子様そのものだ。
優れているのは容貌だけでなく、学問も芸術も優秀な成績を修め、剣や銃の腕前もかなりのものだという。
性格は、私には少し意地悪だけど、基本的に穏やかで人当たりも良い。
完璧な王太子様、という事で、国民に絶大な人気を誇る王子様なのだ。
かく言う私も、婚約者に選ばれるまでは、殿下に憧れを抱いていた一人である。
今は――未来の王太子妃という立場が恐れ多すぎて、辞退できるものなら辞退したいと思っているけど……。
あの時……王太子妃候補が一度に集められたお茶会の時、本性を知っていたら、何が何でも殿下の目に止まらない様振舞ったのに。
なんて後悔しても今更である。
だって既に私は王太子殿下の婚約者として内外に告知されてしまったのだから。ここから破棄や無効に持っていくなんて、お互いに相当の醜聞でもないと無理である。
素行に一切問題なく、完璧人間の殿下が醜聞なんて起こすとは思えない。かと言って私が暴れたとしても、リグニエット侯爵家に泥を塗るだけで、お父様や未来の後継者である弟の事を考えると、とてもではないが自分から何かを仕出かすなんてできる訳がなかった。
「これは……フランドール語?」
あああまずい。机の上に出しっぱなしだった、添削だらけの招待状が見つかっちゃった。
「メルは語学が本当に苦手だね。でも、ノーランド侯爵夫人をお手本にして頑張ってほしいな。だって君は、いずれ私の隣に立つ人間なんだから」
そういわれた瞬間、ちくりと心臓に棘が刺さったような気がした。
エヴァンジェリン・ノーランド侯爵夫人は、社交界にて完璧な淑女として名高い美女だ。元々裕福な伯爵家に生まれ、美貌と才知に恵まれて育ち、ノーランド侯爵との婚約が発表された際には、何人もの貴公子が涙したという。
けぶるような白金髪に、大きな青い瞳を持つ彼女は、そのスタイルの良さもあいまって、まるで生きる等身大の陶製人形のよう。
顔立ちや頭の回転の速さもさる事ながら、彼女の一番の武器は機知に溢れた話術だ。誰もを引き込み、また愛される魅力に溢れた女性で、今なお社交界の中心に君臨し続けている。現在あの方の年齢は二十八歳。後十歳遅く生まれていたら、恐らくアーサー殿下の妃はあの方だったと思う。
自分がエヴァンジェリン様の足元にも及ばないことは知っているけれど、こうして口に出して比較される度に傷付いていることに、アーサー殿下は果たして気が付いているのだろうか。
「殿下に言われなくてもわかっております。でも、どうしても語学は苦手なのです」
「苦手でも努力はしないと。大丈夫、メルならきっとできるよ」
「……はい」
(努力なんて人の何倍もしているわ)
でもできない。その気持ちは、この優秀な人にはきっと一生わからない。
「まぁ、どうしても苦手なら、堪能なものに下書きを書かせてそれを写せばいいよ。メルの字はとても綺麗だ。丁寧な人柄が字によくあらわれてるね」
「お褒めに預かり光栄です」
「そうだ、今日はこれをメルに持ってきた」
そう言ってアーサー殿下は、包装紙とリボンで綺麗にラッピングされた細長い箱を私に差し出してきた。
「まあ……中を見てもよろしいですか?」
「うん」
アーサー殿下の許可が出たので、私はリボンに手をかけた。
今日は週に一度、婚約者同士の交流を深めるためのお茶会の日だ。
殿下は忙しい学校生活の合間を縫って、こうして毎週欠かさず我が家を訪問してくださる。
そしてその度に、小さなお菓子や花束など、何かと私に持ってきて下さるのだが、消え物ではないものを持ってきて下さるのは誕生日以外では珍しかった。
水色の透かしが入った紙に金色のリボンが結ばれた小さな箱。
しゅるりとリボンを解いて、丁寧に包装紙を剥がしていくと、中から出てきたのは、綺麗な水色に花の模様が刻まれたガラスペンだった。
ガラスペンは、近年極東の島国イーハンで発明された筆記具である。書いて字のごとくガラスでできており、精緻な職人技によって産み出された、透明感がとても美しいペンである。しかも水色は、私の一番好きな色だ。
どのような仕組みになっているのかはよく分からないが、従来の羽根ペンやカリグラフィーペン等よりもインクの保持量が高く、ちょっとした手紙程度なら、インクを一度浸すだけで書き上げられる。
見た目もとても美しいため人気があるが、イーハンからの輸入に依存しているため、手に入りづらいことでも有名だった。
「これを私に?」
頂いたペンは、光に透かすときらきらと輝いてとても綺麗だ。
ペン軸に刻まれたこの花は、かの国で重んじられるというサクラだろうか。
水色を水に見立て、流水の上を流れる花弁を表現した彫刻は、細かい作業を得意とする、イーハンの職人芸の素晴らしさを実感させる。
「メルはとてもよく勉強を頑張っていると聞いたからね。これを使ってもっと励んで欲しいと思って」
それを聞いた瞬間、このペンのようにきらきらとときめいた気持ちが、急速に萎んでいくのを感じた。
私は、もう充分頑張っているのに。
――もっと頑張れと、殿下はおっしゃるのね。
私の中に少しづつ溜まっていっている黒いものに、この方が気付く日はいつか来るのだろうか。
そんな鬱屈とした思いをかかえながら、私は毎日の王太子妃教育を続けていた。
予定では来年の五月、社交のシーズン開幕と同時に、十八歳になった殿下と、十九歳になった私は共に社交界デビューをし、その年の十月に結婚式を挙げることになっている。
これは殿下が来年の八月にパブリックスクールを卒業されるので、それに合わせて組まれたスケジュールだ。
既にこの邸の中では、王家とリグニエット侯爵家との威信をかけた嫁入り支度の準備が始まっていた。
――私の気持ちなど置き去りにして。
(引用 『マザー・グース2』 講談社文庫 谷川俊太郎訳)
近隣三ヶ国の言語に地理歴史、政治情勢、国内の貴族の名前に各領地の主要産業。
未来の王太子妃として覚えるべき事は山とありすぎて、私のお粗末な頭はパンクしそう。
ここ、アルビオン王国の王都にある、リグニエット侯爵家のタウン・ハウスの中庭では、庭師が丁寧に手入れした薔薇が、まさに盛りの季節を迎えていた。
特に庭の中央に据えられた、アーチ状に仕立てられた蔓薔薇のゲートはとりわけ美しい。
このアーチを連ねて作った薔薇の回廊は我が家の自慢だ。庭園の奥のガゼボまで続いていて、薔薇で作られた秘密基地のような作りになっている。今の季節、そこのガゼボでお茶をすると、薔薇のいい香りに包まれて、とても優雅な気持ちになる。
四月から五月に暦は変わり、新緑の緑はより濃く色付き、青空とのコントラストが美しい。
外は晴れて気候も良く、うってつけのお散歩日和なのに、悲しいかな、私は家庭教師のワイズ女史とお勉強だ。
「メル様、この場合、フランドール語では、《新しい芽》ではなく、《新芽》という言葉を使われる方がよろしいかと存じます。後ここ、この単語は男性名詞ではなく、女性名詞となりますので、《le》ではなく、《la》に直しましょうね」
(うう……)
フランドール語は嫌いだ。名詞に性別があるだなんて意味がわからない。
私は、ワイズ女史から添削されて返ってきた課題を一瞥し深くため息をついた。
今日の課題は、フランドール語で夜会の招待状を書くことだった。
時候の挨拶に始まり、夜会の日時、場所、訪れを楽しみにしている事を記載し、締めくくる。
ただそれだけの文面なのに、赤インクでの修正で真っ赤っ赤になって返ってきたため、私の心は折れそうだった。
フランドールとヴァイマール、ロマーナ。アルビオンに隣接する、この三ヶ国の言語は、王家に嫁ぐ貴族令嬢には必須の教養とされているけれど、私はこの語学を特に苦手としていた。
どの言語にも男性名詞と女性名詞とかいう訳のわからないものがあるのがいけないのだ。《太陽》は男性、《月》は女性はまだわかるにしても、《絵画》は女性なのに《芸術》は男性って意味がわからない。
この単語の男女の概念は、アルビオン語には存在しないものだから余計に覚えられなくて私の頭を悩ませていた。
日常会話はつたないながらに誤魔化し誤魔化しどうにかなっても、書く方はそうもいかなくて、私は毎回赤修正の入った紙を手にため息をつくのだった。
(ここはアルビオンなんだから、皆アルビオン語を使うべきなのよ)
と言い切りたいところだけど、外交の場ではそうも行かない事は百も承知だ。
『こんにちは』、『ごきげんよう』、『会話は苦手な性質ですので』。この三つを覚えてどうにかしのげと婚約者であるアーサー殿下はおっしゃるのだが、正直こんな重荷、放り投げたいというのが本音である。
栄光ある大アルビオン王国、その第二王子であるアーサー殿下の婚約者という立場など。
何故第二王子なのにアーサー殿下が王太子なのかというと、第一王子であるエリック殿下が病弱な為だ。
私、メルことメリッサ・リグニエットが、王太子殿下の婚約者などと言う立場に選ばれてしまったのは、貴族の派閥のバランス関係や政治的な思惑、アーサー殿下本人の希望など色々なものが複合的に働いた結果らしい。
王太子殿下の婚約者になったのは、殿下本人の希望って言ったけど、実は私は、殿下に好かれてるって訳じゃない。
候補の令嬢を見比べた時、他の令嬢と比べて私が一番マシに見えたらしい。
殿下から面と言われたときには殺意を覚えたが、一介の侯爵令嬢に過ぎない私が、王太子殿下に言い返すことなどできるはずもなく、飲み込むしかなかった。
なんで私なのか。
同様の条件の令嬢達の中で、見栄えがそれなりに良くて、性格が穏やかそうだったから。
それがアーサー殿下による私の評価である。
私より綺麗な人も、私より教養のある人も沢山いらっしゃるというのに。
もしかしたら、将来愛妾にしたい方が既にいて、私なら何も言わずに受け入れると思って選ばれていたりして。
(ありえそうで嫌だわ……)
何しろアーサー殿下は完全無欠な王子様なので、彼の前に出ると、私は萎縮して何も言えなくなってしまうのだから。
「さて、メル様。今日のフランドール語の授業は一旦これくらいに致しましょう。そろそろ殿下が来られるころではありませんか?」
ワイズ女史がそう切り出すのと、私室のドアがノックされるのはほぼ同時だった。
「失礼致します」
入ってきたのは私付きの侍女であるノエリアだった。
「お嬢様、王太子殿下が参られました」
「まあ、では私はこれで失礼致しますね」
ワイズ女史は、フランドール語の教本をまとめ、部屋を退出する。
後に残されたのは添削だらけの私が書いた招待状だけだ。
それを見て、再びため息をついた後、私はノエリアに尋ねた。
「殿下はどちらにいらっしゃるの? 一階の応接室かしら」
「ここだよ、メル」
部屋の外から聞こえた声に、私はぎょっと目を見開いた。
「殿下! こちらに突然来られるのはお止めくださいと前にも申し上げたはずです!」
「婚約者の部屋を訪れるのに何か問題が? メルの部屋は、いつもいい匂いがするから好きだよ。『女の子は、お砂糖とスパイスと、すてきななにもかもでできている』って実感する」
何故か部屋の外にいたアーサー殿下は、許可を出していないにも関わらず私の部屋に入ってくると、伝承童謡の一節を引用しながら、ひくひくと鼻をひくつかせた。
「レディの部屋の匂いを嗅ぐのはお止め下さい! 恐らくそれは私が使っている香水の匂いでしょう。気に入ったのなら差し上げますから、こちらに突然来られるのは止めてくださいませ」
心臓に悪いから。
伝承童謡によると、男の子は、かえるとかたつむりと子犬の尻尾でできているという。確かに私の弟のクリスを見ていると、小さい頃は虫やザリガニを捕まえたり、壁に穴をあけたり、ろくでもないことばかりして叱られてばっかりだったが、この王太子殿下の場合はその枠には収まらないと思う。
混じりけのない金色の髪に青い瞳、整った容貌にすらりとした立ち姿には、濃紺のフロックコートがよく似合っており、物語から抜け出した王子様そのものだ。
優れているのは容貌だけでなく、学問も芸術も優秀な成績を修め、剣や銃の腕前もかなりのものだという。
性格は、私には少し意地悪だけど、基本的に穏やかで人当たりも良い。
完璧な王太子様、という事で、国民に絶大な人気を誇る王子様なのだ。
かく言う私も、婚約者に選ばれるまでは、殿下に憧れを抱いていた一人である。
今は――未来の王太子妃という立場が恐れ多すぎて、辞退できるものなら辞退したいと思っているけど……。
あの時……王太子妃候補が一度に集められたお茶会の時、本性を知っていたら、何が何でも殿下の目に止まらない様振舞ったのに。
なんて後悔しても今更である。
だって既に私は王太子殿下の婚約者として内外に告知されてしまったのだから。ここから破棄や無効に持っていくなんて、お互いに相当の醜聞でもないと無理である。
素行に一切問題なく、完璧人間の殿下が醜聞なんて起こすとは思えない。かと言って私が暴れたとしても、リグニエット侯爵家に泥を塗るだけで、お父様や未来の後継者である弟の事を考えると、とてもではないが自分から何かを仕出かすなんてできる訳がなかった。
「これは……フランドール語?」
あああまずい。机の上に出しっぱなしだった、添削だらけの招待状が見つかっちゃった。
「メルは語学が本当に苦手だね。でも、ノーランド侯爵夫人をお手本にして頑張ってほしいな。だって君は、いずれ私の隣に立つ人間なんだから」
そういわれた瞬間、ちくりと心臓に棘が刺さったような気がした。
エヴァンジェリン・ノーランド侯爵夫人は、社交界にて完璧な淑女として名高い美女だ。元々裕福な伯爵家に生まれ、美貌と才知に恵まれて育ち、ノーランド侯爵との婚約が発表された際には、何人もの貴公子が涙したという。
けぶるような白金髪に、大きな青い瞳を持つ彼女は、そのスタイルの良さもあいまって、まるで生きる等身大の陶製人形のよう。
顔立ちや頭の回転の速さもさる事ながら、彼女の一番の武器は機知に溢れた話術だ。誰もを引き込み、また愛される魅力に溢れた女性で、今なお社交界の中心に君臨し続けている。現在あの方の年齢は二十八歳。後十歳遅く生まれていたら、恐らくアーサー殿下の妃はあの方だったと思う。
自分がエヴァンジェリン様の足元にも及ばないことは知っているけれど、こうして口に出して比較される度に傷付いていることに、アーサー殿下は果たして気が付いているのだろうか。
「殿下に言われなくてもわかっております。でも、どうしても語学は苦手なのです」
「苦手でも努力はしないと。大丈夫、メルならきっとできるよ」
「……はい」
(努力なんて人の何倍もしているわ)
でもできない。その気持ちは、この優秀な人にはきっと一生わからない。
「まぁ、どうしても苦手なら、堪能なものに下書きを書かせてそれを写せばいいよ。メルの字はとても綺麗だ。丁寧な人柄が字によくあらわれてるね」
「お褒めに預かり光栄です」
「そうだ、今日はこれをメルに持ってきた」
そう言ってアーサー殿下は、包装紙とリボンで綺麗にラッピングされた細長い箱を私に差し出してきた。
「まあ……中を見てもよろしいですか?」
「うん」
アーサー殿下の許可が出たので、私はリボンに手をかけた。
今日は週に一度、婚約者同士の交流を深めるためのお茶会の日だ。
殿下は忙しい学校生活の合間を縫って、こうして毎週欠かさず我が家を訪問してくださる。
そしてその度に、小さなお菓子や花束など、何かと私に持ってきて下さるのだが、消え物ではないものを持ってきて下さるのは誕生日以外では珍しかった。
水色の透かしが入った紙に金色のリボンが結ばれた小さな箱。
しゅるりとリボンを解いて、丁寧に包装紙を剥がしていくと、中から出てきたのは、綺麗な水色に花の模様が刻まれたガラスペンだった。
ガラスペンは、近年極東の島国イーハンで発明された筆記具である。書いて字のごとくガラスでできており、精緻な職人技によって産み出された、透明感がとても美しいペンである。しかも水色は、私の一番好きな色だ。
どのような仕組みになっているのかはよく分からないが、従来の羽根ペンやカリグラフィーペン等よりもインクの保持量が高く、ちょっとした手紙程度なら、インクを一度浸すだけで書き上げられる。
見た目もとても美しいため人気があるが、イーハンからの輸入に依存しているため、手に入りづらいことでも有名だった。
「これを私に?」
頂いたペンは、光に透かすときらきらと輝いてとても綺麗だ。
ペン軸に刻まれたこの花は、かの国で重んじられるというサクラだろうか。
水色を水に見立て、流水の上を流れる花弁を表現した彫刻は、細かい作業を得意とする、イーハンの職人芸の素晴らしさを実感させる。
「メルはとてもよく勉強を頑張っていると聞いたからね。これを使ってもっと励んで欲しいと思って」
それを聞いた瞬間、このペンのようにきらきらとときめいた気持ちが、急速に萎んでいくのを感じた。
私は、もう充分頑張っているのに。
――もっと頑張れと、殿下はおっしゃるのね。
私の中に少しづつ溜まっていっている黒いものに、この方が気付く日はいつか来るのだろうか。
そんな鬱屈とした思いをかかえながら、私は毎日の王太子妃教育を続けていた。
予定では来年の五月、社交のシーズン開幕と同時に、十八歳になった殿下と、十九歳になった私は共に社交界デビューをし、その年の十月に結婚式を挙げることになっている。
これは殿下が来年の八月にパブリックスクールを卒業されるので、それに合わせて組まれたスケジュールだ。
既にこの邸の中では、王家とリグニエット侯爵家との威信をかけた嫁入り支度の準備が始まっていた。
――私の気持ちなど置き去りにして。
(引用 『マザー・グース2』 講談社文庫 谷川俊太郎訳)
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