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エピローグ
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ネージュはアリスティードに誘われて、屋敷の庭を散歩していた。
ちらりと隣を歩く彼の顔を窺うと、その横顔はどこか硬かった。
ネージュに対するアリスティードの態度は、謝罪を受けた日から今日までずっと、一貫して丁寧で優しい。
だけど、常に一定の距離があり、そこから踏み込んで来ようとしないのは、彼の中の後ろめたさのせいだろう。
しかし、アリスティードの深緑の瞳は、マルセルそっくりでありながら、彼にはなかった熱を帯びる事がある。
その瞳を向けられると、ネージュは平静ではいられない。胸の奥が疼いて息が苦しくなる。
きっとこれは恋愛感情だ。
初めて異性に対して覚えるそれに、ネージュは戸惑いながらも自分の幸運を噛み締めていた。
レーネ侯爵家の一員として、将来はマルセルの決めた相手と結婚する覚悟はしていた。
その相手が生理的嫌悪感を覚える見た目や態度だったり、粗暴な人だったりする可能性もあったのだ。
マルセルの面影を宿し、侯爵家を守ろうという意志の持ち主でもあるアリスティードは、ネージュにとって理想的な相手と言っていい。
そんな彼が、ネージュを大切にしてくれるのだ。幸せすぎて、どこかに落とし穴があるのではないかと怖くなってくる。
「少しあそこで休憩しませんか?」
アリスティードが提案してきたのは、四阿の近くに差し掛かった時だった。
四阿の中にはベンチが設置されている。そこに並んで腰かけると、アリスティードは、上着のポケットから小さなビロード張りの小箱を取り出して差し出してきた。
「これは……?」
小箱を受け取ったネージュは、首を傾げながら蓋を開ける。
すると、中には見覚えのあるアクアマリンのブローチが入っていた。
ネージュは大きく目を見開いて、ブローチをまじまじと見つめた。
「祖父があなたに贈ったもので間違いないか、ご確認頂けますか?」
アリスティードに促され、ネージュはブローチを取り出すと、前後に返して隅々までチェックした。
針の部分が少しだけ歪んでいたが、間違いない。これは、ネージュがマルセルから貰ったものだ。
「見つけてくださったんですね……」
嬉しさに視界が滲んだ。
「首都の故買人の所に流れていました。残念ながらそれ以上の後追いは出来ませんでしたが……」
故買人は、盗品を専門に扱う裏社会の商人だ。
恐らくジャンヌは何らかの伝手を使って、裏のマーケットに持ち逃げした宝飾品を売り飛ばしたのだろう。
「アリス様、見つけて下さってありがとうございます。本当に良かった……」
ブローチを握りしめて感謝の気持ちを伝えると、アリスティードの手が頬に伸びてきて、目元に唇を落とされた。
◆ ◆ ◆
透き通るような水色の瞳から零れた涙があまりにも綺麗で、衝動的に口付けたアリスティードは、相反する二つの感情に苛まれていた。
ネージュの喜ぶ姿が見れて嬉しいのに、ブローチの贈り主がマルセルだと思うと身を焦がすような嫉妬心が湧き上がる。
彼女は取り戻したブローチを、今度は決して手放さないだろう。そして以前のように毎日のように身に着けるに違いない。
どろどろとした昏い感情が湧き上がる自分が、酷く醜い生き物になった気がした。
『可哀想に。あなたはただの身代わりだ』
ナゼールの発言が頭の中に響いた。
尋問の時に、アリスティードを嘲笑しながら呪詛めいた言葉を吐いたあの男は、もうこの世にいない。
調査の結果、火災に関与した証拠が見つかったため、アリスティードは領主として厳しい処罰をせざるを得なかった。
この国では放火は絞首刑を最高刑とする重罪である。
あの爆発事故では、三人の命が失われている。
とはいえ、あの男を法廷に送り込めば、レーネ侯爵家の名誉に関わる。だから密かに処罰をするしかなかった。
毒杯か、餓死か。
それを突きつけた結果、ナゼールは毒杯を選択した。
ネージュには、自殺したと事実のみを伝えたが、恐らくアリスティードが何をしたのか察しているに違いない。
――かつてマルセルがダニエルを処罰した時のように。
アリスティードはエリックから、マルセルがどうダニエルを処罰したのか聞いている。窓のない部屋に監禁し、自ら死を選ぶように仕向けたのだ。
はからずも祖父と同じやり方でネージュを傷付けた罪人を裁いた事に、アリスティードは複雑な感情を抱かずにはいられなかった。
『死者を超えるのは難しいですよ。思い出の中で美化されていきますからね』
また幻聴が聞こえた。
そんな事、言われるまでもなくわかっている。
屋敷の中に残る若かりし頃の祖父の肖像画は、恐ろしい程にアリスティードとそっくりだった。
それだけではなく、祖父の肖像画を年代順に並べると、自分の老い方が想像できた。
ネージュが祖父を心から慕っているのは痛いほどにわかる。だから苦しい。彼女はアリスティードを受け入れ、尽くしてくれるけれど、結局その理由は祖父に行き着くに違いない。
自分はマルセルではない。
ちゃんと『アリスティード』を見てくれているのか。
確かめたいが恐ろしくて聞けない。そして、勝算が低い事は自分でも痛いほどにわかっていた。
心の中に浮かぶのは後悔だ。
騙されていたとはいえ、彼女に酷い態度を取ってしまった。
謝罪して、彼女も受け入れてはくれたけれど、過去の過ちは決して消えない。
もし、祖父の身代わりだとハッキリと突きつけられたら、きっと自分は立ち直れない。
それだけでなく、衝動と激情のままに彼女に酷い事をしてしまうかもしれない。
ナゼールはネージュを『魔性』と言った。
アリスティードもその通りだと思う。
気が付いたら自分も彼女に惹き付けられ、狂おしい程の執着心を抱くようになっていたのだから。
名実ともにネージュは自分のものなのに、その心は自分のものではないかもしれない。それが許せない。辛い。
さりとて確かめる意気地もない。そんな自分にアリスティードは心の中で自嘲した。
ネージュの涙に触れた唇は、苦味を含んだ塩の味がした。
身を離すと、ネージュは、直前までアリスティードの唇が触れていた場所を指先でなぞった。
潤んだ淡い水色の双眸がアリスティードに向けられる。
次の瞬間、アリスティードは衝動的にネージュを抱き締めると、その唇を奪っていた。
ちらりと隣を歩く彼の顔を窺うと、その横顔はどこか硬かった。
ネージュに対するアリスティードの態度は、謝罪を受けた日から今日までずっと、一貫して丁寧で優しい。
だけど、常に一定の距離があり、そこから踏み込んで来ようとしないのは、彼の中の後ろめたさのせいだろう。
しかし、アリスティードの深緑の瞳は、マルセルそっくりでありながら、彼にはなかった熱を帯びる事がある。
その瞳を向けられると、ネージュは平静ではいられない。胸の奥が疼いて息が苦しくなる。
きっとこれは恋愛感情だ。
初めて異性に対して覚えるそれに、ネージュは戸惑いながらも自分の幸運を噛み締めていた。
レーネ侯爵家の一員として、将来はマルセルの決めた相手と結婚する覚悟はしていた。
その相手が生理的嫌悪感を覚える見た目や態度だったり、粗暴な人だったりする可能性もあったのだ。
マルセルの面影を宿し、侯爵家を守ろうという意志の持ち主でもあるアリスティードは、ネージュにとって理想的な相手と言っていい。
そんな彼が、ネージュを大切にしてくれるのだ。幸せすぎて、どこかに落とし穴があるのではないかと怖くなってくる。
「少しあそこで休憩しませんか?」
アリスティードが提案してきたのは、四阿の近くに差し掛かった時だった。
四阿の中にはベンチが設置されている。そこに並んで腰かけると、アリスティードは、上着のポケットから小さなビロード張りの小箱を取り出して差し出してきた。
「これは……?」
小箱を受け取ったネージュは、首を傾げながら蓋を開ける。
すると、中には見覚えのあるアクアマリンのブローチが入っていた。
ネージュは大きく目を見開いて、ブローチをまじまじと見つめた。
「祖父があなたに贈ったもので間違いないか、ご確認頂けますか?」
アリスティードに促され、ネージュはブローチを取り出すと、前後に返して隅々までチェックした。
針の部分が少しだけ歪んでいたが、間違いない。これは、ネージュがマルセルから貰ったものだ。
「見つけてくださったんですね……」
嬉しさに視界が滲んだ。
「首都の故買人の所に流れていました。残念ながらそれ以上の後追いは出来ませんでしたが……」
故買人は、盗品を専門に扱う裏社会の商人だ。
恐らくジャンヌは何らかの伝手を使って、裏のマーケットに持ち逃げした宝飾品を売り飛ばしたのだろう。
「アリス様、見つけて下さってありがとうございます。本当に良かった……」
ブローチを握りしめて感謝の気持ちを伝えると、アリスティードの手が頬に伸びてきて、目元に唇を落とされた。
◆ ◆ ◆
透き通るような水色の瞳から零れた涙があまりにも綺麗で、衝動的に口付けたアリスティードは、相反する二つの感情に苛まれていた。
ネージュの喜ぶ姿が見れて嬉しいのに、ブローチの贈り主がマルセルだと思うと身を焦がすような嫉妬心が湧き上がる。
彼女は取り戻したブローチを、今度は決して手放さないだろう。そして以前のように毎日のように身に着けるに違いない。
どろどろとした昏い感情が湧き上がる自分が、酷く醜い生き物になった気がした。
『可哀想に。あなたはただの身代わりだ』
ナゼールの発言が頭の中に響いた。
尋問の時に、アリスティードを嘲笑しながら呪詛めいた言葉を吐いたあの男は、もうこの世にいない。
調査の結果、火災に関与した証拠が見つかったため、アリスティードは領主として厳しい処罰をせざるを得なかった。
この国では放火は絞首刑を最高刑とする重罪である。
あの爆発事故では、三人の命が失われている。
とはいえ、あの男を法廷に送り込めば、レーネ侯爵家の名誉に関わる。だから密かに処罰をするしかなかった。
毒杯か、餓死か。
それを突きつけた結果、ナゼールは毒杯を選択した。
ネージュには、自殺したと事実のみを伝えたが、恐らくアリスティードが何をしたのか察しているに違いない。
――かつてマルセルがダニエルを処罰した時のように。
アリスティードはエリックから、マルセルがどうダニエルを処罰したのか聞いている。窓のない部屋に監禁し、自ら死を選ぶように仕向けたのだ。
はからずも祖父と同じやり方でネージュを傷付けた罪人を裁いた事に、アリスティードは複雑な感情を抱かずにはいられなかった。
『死者を超えるのは難しいですよ。思い出の中で美化されていきますからね』
また幻聴が聞こえた。
そんな事、言われるまでもなくわかっている。
屋敷の中に残る若かりし頃の祖父の肖像画は、恐ろしい程にアリスティードとそっくりだった。
それだけではなく、祖父の肖像画を年代順に並べると、自分の老い方が想像できた。
ネージュが祖父を心から慕っているのは痛いほどにわかる。だから苦しい。彼女はアリスティードを受け入れ、尽くしてくれるけれど、結局その理由は祖父に行き着くに違いない。
自分はマルセルではない。
ちゃんと『アリスティード』を見てくれているのか。
確かめたいが恐ろしくて聞けない。そして、勝算が低い事は自分でも痛いほどにわかっていた。
心の中に浮かぶのは後悔だ。
騙されていたとはいえ、彼女に酷い態度を取ってしまった。
謝罪して、彼女も受け入れてはくれたけれど、過去の過ちは決して消えない。
もし、祖父の身代わりだとハッキリと突きつけられたら、きっと自分は立ち直れない。
それだけでなく、衝動と激情のままに彼女に酷い事をしてしまうかもしれない。
ナゼールはネージュを『魔性』と言った。
アリスティードもその通りだと思う。
気が付いたら自分も彼女に惹き付けられ、狂おしい程の執着心を抱くようになっていたのだから。
名実ともにネージュは自分のものなのに、その心は自分のものではないかもしれない。それが許せない。辛い。
さりとて確かめる意気地もない。そんな自分にアリスティードは心の中で自嘲した。
ネージュの涙に触れた唇は、苦味を含んだ塩の味がした。
身を離すと、ネージュは、直前までアリスティードの唇が触れていた場所を指先でなぞった。
潤んだ淡い水色の双眸がアリスティードに向けられる。
次の瞬間、アリスティードは衝動的にネージュを抱き締めると、その唇を奪っていた。
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