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豊穣祈念祭 05
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アリスティードがやって来てから、ネージュが彼の私室に入るのは初めてだ。
「何か飲みますか?」
勧められるがままにソファに座ると、アリスティードが声を掛けてきた。
「いえ、大丈夫です」
ネージュは断ってから、部屋の中を見回した。
彼が屋敷にやってくる前、かつてマルセルが使っていたこの部屋の家具や内装を一新して整えたのはネージュだ。
好みがわからなかったから無難に整えただけなので、気に入らないところは自由に変えてくれていいと伝えてあったのだが、室内は、ネージュが改装の指示をした時のままだった。
「お部屋の中は、何も変えていらっしゃらないんですね」
「特に変える必要性は感じなかったので……。恥ずかしながら、部屋をネージュが整えてくれたと知ったのは最近なんです。ルネが製作に関わった家具を発注して下さってありがとうございました」
アリスティードの祖父、ルネ・リエーヴルは、家具や建具の金具の制作を専門とする彫金職人だ。
彼の部屋に限らず、ここ二十年の間に侯爵家が新調した家具や建具は、基本的にルネの工房の取引先に発注していた。
「少しでも支援になれば、というマルセル様のお心に従っただけです。それに、物自体は大変素晴らしいですし……」
「直接祖父に伝えて下さったら喜ぶと思います」
アリスティードは嬉しそうに微笑むと、ネージュの向かい側に腰掛けた。
この部屋は落ち着く。そして、アリスティードの姿にも。
恐怖と嫌悪に満ちていた心が、少しずつ解きほぐされていくような気がした。
「一つ、お願いをしてもいいですか……?」
「何ですか?」
「私に触れて頂けませんか?」
思い切ってそう告げると、アリスティードは硬直した。
「駄目ですか……」
「いや、ネージュがいいのなら……」
アリスティードの言葉にネージュは安堵すると、ソファから立ち上がって彼に近付き、手を差し出す。
「お願いします」
と告げると、アリスティードの眉がわずかに動いた。
「触るって、そういう……?」
アリスティードの発言の意図がわからず、ネージュは首を傾げた。
何だかよくわからないが、何かが噛み合っていないのはわかる。
「今日……いえ、もう昨日ですね。馬車で帰ってきた時に、御者の手を借りて降りたんです。その時に、触るのが嫌だなと思ってしまって……」
ネージュは理由をきちんと伝える事にした。
「私、接触恐怖症がぶり返したのかもしれません。前にも同じような状態になった事があるんです。マルセル様に引き取られたばかりの時は、誰かに触られるのが怖くって……」
ネージュは差し出した手を引っ込めると、胸の前で握り込んだ。
「ミシェルは大丈夫だったんです。着替えや入浴の時に触れられても全然嫌じゃなかった。親しい人なら大丈夫なのかもしれません。だから、確かめたくて……」
おずおずと説明すると、「わかりました」という返事が返ってきた。
「少しでも嫌だったら遠慮なく教えてください。それで俺があなたを嫌いになったり不快感を覚えるなんて事は、絶対にありえませんから」
ゆっくりとアリスティードの手がネージュに伸ばされた。
ネージュも再び手を彼に向かって差し出す。
アリスティードの指先がネージュに触れた。
――嫌悪感は湧かない。
ネージュは安堵の息をついた。
「大丈夫そうです」
「……これだけで判断できますか?」
「えっと、そうですね。まだわからないので、もう少ししっかり触れて頂いても……」
ネージュが返事をすると、差し出した手が握りこまれた。
「……どうですか?」
「嫌ではないです。良かった……」
心の底から安心してアリスティードを見上げると、何故か彼は息を呑んだ。
「あの、何か……?」
「いや、何でもないです」
目を逸らされてしまった。
「あの、もし嫌でなければ腕や腰にも触れて頂けませんか? 今後、一緒に夜会に出席する機会があると思います。その時に支障があってはいけませんので……」
「……それは、その、……抱き締めろと言われているように聞こえるんですが」
「あ……」
ネージュは頬を染めた。
「言われてみればそうですね。申し訳ありません。私、はしたないお願いを……」
謝罪すると、ため息をつかれた。
「申し訳ないんですが今はちょっと……。えっと、あなたを抱き締めるのが嫌な訳ではなくて、今の状況だと理性が飛ぶかもしれないので」
「え……?」
「俺は一応男なんです。あなたを異性として意識しているし、好意も抱いています。寝室で二人きりという状況で過剰に接触したら……それ以上の事をしてしまうかもしれません……」
アリスティードの発言の真意を理解して、ネージュはかあっと頬を染めた。
まだアリスティードとネージュは本当の意味で夫婦にはなっていない。
怪我が治った後は豊穣祈念祭の準備に追われ、それどころではなかったからだ。
「あの、いいですよ……?」
ネージュは小さな声で告げた。
「侯爵家には後継者が必要です。もし私が義務を果たせそうにないなら他の手段を考えなくてはいけません。……それに、以前も申し上げた事がありますが、アリス様が私の体を見て嫌悪感を抱かれる可能性も……。色々確かめるためにも、その……」
ネージュは言葉を最後まで紡ぎきる事ができなかった。その前にアリスティードの腕が伸びてきて抱き込まれたからだ。
(あ……)
嫌悪感は湧かなかった。むしろ、温かな体温が気持ちいい。
彼の体からは石鹸の匂いがした。
自分が使っているものと同じはずなのに、ちょっと違うのは、彼自身の匂いが混ざっているからだろうか。
何よりも、自分よりも大きな体に抱き込まれると安心する。
もう何年も前、マルセルや世話役の女中に抱き締められた時の記憶が蘇った。
「大丈夫ですか?」
「はい」
彼とは身長差がかなりあるから、目を合わせようと思ったら見上げなくてはいけない。
顔を上げると、熱をはらんだ深緑の瞳が至近距離にあった。
……彼にならこういう目で見られても嫌ではない。
むしろ、嬉しい。
特別な異性として、本当に好意を持ってくれているのだと実感する。
「ナゼールに触られた時は凄く嫌でした。でも、アリス様は全然違います。だから……」
ネージュは思い切って囁いた。
「何か飲みますか?」
勧められるがままにソファに座ると、アリスティードが声を掛けてきた。
「いえ、大丈夫です」
ネージュは断ってから、部屋の中を見回した。
彼が屋敷にやってくる前、かつてマルセルが使っていたこの部屋の家具や内装を一新して整えたのはネージュだ。
好みがわからなかったから無難に整えただけなので、気に入らないところは自由に変えてくれていいと伝えてあったのだが、室内は、ネージュが改装の指示をした時のままだった。
「お部屋の中は、何も変えていらっしゃらないんですね」
「特に変える必要性は感じなかったので……。恥ずかしながら、部屋をネージュが整えてくれたと知ったのは最近なんです。ルネが製作に関わった家具を発注して下さってありがとうございました」
アリスティードの祖父、ルネ・リエーヴルは、家具や建具の金具の制作を専門とする彫金職人だ。
彼の部屋に限らず、ここ二十年の間に侯爵家が新調した家具や建具は、基本的にルネの工房の取引先に発注していた。
「少しでも支援になれば、というマルセル様のお心に従っただけです。それに、物自体は大変素晴らしいですし……」
「直接祖父に伝えて下さったら喜ぶと思います」
アリスティードは嬉しそうに微笑むと、ネージュの向かい側に腰掛けた。
この部屋は落ち着く。そして、アリスティードの姿にも。
恐怖と嫌悪に満ちていた心が、少しずつ解きほぐされていくような気がした。
「一つ、お願いをしてもいいですか……?」
「何ですか?」
「私に触れて頂けませんか?」
思い切ってそう告げると、アリスティードは硬直した。
「駄目ですか……」
「いや、ネージュがいいのなら……」
アリスティードの言葉にネージュは安堵すると、ソファから立ち上がって彼に近付き、手を差し出す。
「お願いします」
と告げると、アリスティードの眉がわずかに動いた。
「触るって、そういう……?」
アリスティードの発言の意図がわからず、ネージュは首を傾げた。
何だかよくわからないが、何かが噛み合っていないのはわかる。
「今日……いえ、もう昨日ですね。馬車で帰ってきた時に、御者の手を借りて降りたんです。その時に、触るのが嫌だなと思ってしまって……」
ネージュは理由をきちんと伝える事にした。
「私、接触恐怖症がぶり返したのかもしれません。前にも同じような状態になった事があるんです。マルセル様に引き取られたばかりの時は、誰かに触られるのが怖くって……」
ネージュは差し出した手を引っ込めると、胸の前で握り込んだ。
「ミシェルは大丈夫だったんです。着替えや入浴の時に触れられても全然嫌じゃなかった。親しい人なら大丈夫なのかもしれません。だから、確かめたくて……」
おずおずと説明すると、「わかりました」という返事が返ってきた。
「少しでも嫌だったら遠慮なく教えてください。それで俺があなたを嫌いになったり不快感を覚えるなんて事は、絶対にありえませんから」
ゆっくりとアリスティードの手がネージュに伸ばされた。
ネージュも再び手を彼に向かって差し出す。
アリスティードの指先がネージュに触れた。
――嫌悪感は湧かない。
ネージュは安堵の息をついた。
「大丈夫そうです」
「……これだけで判断できますか?」
「えっと、そうですね。まだわからないので、もう少ししっかり触れて頂いても……」
ネージュが返事をすると、差し出した手が握りこまれた。
「……どうですか?」
「嫌ではないです。良かった……」
心の底から安心してアリスティードを見上げると、何故か彼は息を呑んだ。
「あの、何か……?」
「いや、何でもないです」
目を逸らされてしまった。
「あの、もし嫌でなければ腕や腰にも触れて頂けませんか? 今後、一緒に夜会に出席する機会があると思います。その時に支障があってはいけませんので……」
「……それは、その、……抱き締めろと言われているように聞こえるんですが」
「あ……」
ネージュは頬を染めた。
「言われてみればそうですね。申し訳ありません。私、はしたないお願いを……」
謝罪すると、ため息をつかれた。
「申し訳ないんですが今はちょっと……。えっと、あなたを抱き締めるのが嫌な訳ではなくて、今の状況だと理性が飛ぶかもしれないので」
「え……?」
「俺は一応男なんです。あなたを異性として意識しているし、好意も抱いています。寝室で二人きりという状況で過剰に接触したら……それ以上の事をしてしまうかもしれません……」
アリスティードの発言の真意を理解して、ネージュはかあっと頬を染めた。
まだアリスティードとネージュは本当の意味で夫婦にはなっていない。
怪我が治った後は豊穣祈念祭の準備に追われ、それどころではなかったからだ。
「あの、いいですよ……?」
ネージュは小さな声で告げた。
「侯爵家には後継者が必要です。もし私が義務を果たせそうにないなら他の手段を考えなくてはいけません。……それに、以前も申し上げた事がありますが、アリス様が私の体を見て嫌悪感を抱かれる可能性も……。色々確かめるためにも、その……」
ネージュは言葉を最後まで紡ぎきる事ができなかった。その前にアリスティードの腕が伸びてきて抱き込まれたからだ。
(あ……)
嫌悪感は湧かなかった。むしろ、温かな体温が気持ちいい。
彼の体からは石鹸の匂いがした。
自分が使っているものと同じはずなのに、ちょっと違うのは、彼自身の匂いが混ざっているからだろうか。
何よりも、自分よりも大きな体に抱き込まれると安心する。
もう何年も前、マルセルや世話役の女中に抱き締められた時の記憶が蘇った。
「大丈夫ですか?」
「はい」
彼とは身長差がかなりあるから、目を合わせようと思ったら見上げなくてはいけない。
顔を上げると、熱をはらんだ深緑の瞳が至近距離にあった。
……彼にならこういう目で見られても嫌ではない。
むしろ、嬉しい。
特別な異性として、本当に好意を持ってくれているのだと実感する。
「ナゼールに触られた時は凄く嫌でした。でも、アリス様は全然違います。だから……」
ネージュは思い切って囁いた。
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