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視察 01
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アリスティードが新領主として、領地の視察に向かう日がやってきた。
レーネ侯爵家の屋敷は、家名と同じ名前を持つ領都レーネ市の郊外にある。
既にレーネ市の役人や資本家との顔合わせは済ませているので、この視察では、領内の産業拠点を中心に、一週間の日程であちこち回り、最終日にはアリスティードが生まれ育った町に立ち寄る予定になっていた。
ネージュは妻として同行し、ジャンヌは侍女という事にして連れて行く。
予想通り、使用人達、特にミシェルからは反発があったが、ジャンヌが一緒に来てくれた方が、将来的にアリスティードとの別居がスムーズになると告げて説得した。
世の中の男性の中には、何人もの女性に手を出して爛れた生活を送る人もいると聞く。
アリスティードは今のところジャンヌに一途な姿を見せているが、本性はどうかわからない。
視察中は、どうしても夫婦での行動が多くなる。その中であやまちが起こる可能性はゼロではないのだ。
アリスティードに知られたら、自意識過剰と鼻で笑われるかもしれないが、ネージュは彼をジャンヌと共有するつもりはなかったし、早く静かな生活に入りたいと考えていた。
最初の町への移動は汽車を使う。
アリスティードとネージュが使う個室には、ジャンヌも同席してもらった。
「私、こんなにいい席に乗るの初めて! アリス、連れてきてくれてありがとう」
ジャンヌは、アリスティードに密着し、車窓からの風景を楽しんでいる。
「暇つぶしにチェスでもするか?」
「嫌よ。だってアリスってば手抜いてくれないんだもん」
仲が良さそうな二人の姿は微笑ましい。
(邪魔をしてごめんなさい)
ネージュは心の中で二人に謝った。
ややあって、話し疲れたのか恋人達の会話が途切れた。
ちょうどいい機会なので、ネージュは一つ目の町に着いてからの予定を伝える。
「午前中は織物工場を、午後は農場を見て回ります。申し訳ないのですがジャンヌさんは宿で待機して頂けますか?」
すると、ジャンヌは露骨に顔をしかめた。
「何よ、私は付いていっちゃいけないの?」
「申し訳ありませんが、侯爵家の運営に関わる話し合いが行われる可能性もございますので、侍女を同行させる訳には……その代わり、夜はアリスティード様と一緒に過ごせるようにさせて頂きますので」
「わかってるわよ。言ってみただけ」
不服そうにしながらも納得してくれた様子だったので、ネージュはホッと胸を撫で下ろした。
◆ ◆ ◆
視察一日目の訪問地はコレーヌという町だ。ここには、繊維業の盛んなレーネ侯爵領の中でも、最大の織物工場がある。
そこで作られているのは、売り出してから瞬く間に大流行したパイル線布である。
コレーヌの織物工場は、パイル線布を生み出しただけでなく、機械化を成功させて大量生産をも可能にした。
門外不出となっているその技術は、現在侯爵家の最大の財源となっている。
ジャンヌを町のホテルに送り届けた後、アリスティードはネージュやエリックと一緒に織物工場を訪れた。
工場は、アリスティードにとって居心地がいいとは言えなかった。冷ややかな視線が至る所から向けられるせいだ。
「あなたが先代の……確かにマルセル様に似ていらっしゃる」
ポツリと呟いたのは、工場の経営者であるフェザントという資本家だ。彼はアリスティードに値踏みするような目を向けてくる。
その視線には覚えがあった。結婚式の招待客や屋敷の使用人、領都の役人――これまでに出会った侯爵家の関係者から向けられたものと同じだ。
誰もが不信感や嫉妬、嫌悪など様々な負の感情を含む目をこちらに向けてくる。
アリスティードは改めて悪女の影響力を思い知った。
「……パイル線布が生まれた経緯はご存知ですか?」
フェザントに尋ねられ、アリスティードはエリックから受けた講義を思い出しながら答えた。
「こちらの工員が、緯糸と一緒にワイヤーを織り込み、完成した後にワイヤーを抜いてループパイルを織り出す技法を編み出したと聞いています」
「正解です。では、綿布にパイルを、というアイディアを最初に我々に下さったのがネージュ様だという事は?」
「やめて下さい。ただの子供の思い付きです。その時たまたまベルベット製の外套を着ていて、同じような起毛生地を綿でも作れないのかと質問したら、それを面白いと皆様が取り上げてくださっただけで……」
慌てた様子でネージュが割り込んでくる。
「その思い付きのお陰で当工場はこれだけ大きくなったのです。閣下。どうかネージュ様を大切になさって下さい」
フェザントはアリスティードに強い視線を向けてきた。
◆ ◆ ◆
工場見学を終え、フェザントとの会食を終えるとアリスティードはネージュだけを伴い、小回りの利く小型の馬車で農場に向かった。
エリックは別の約束があるので午後は別行動だ。
コレーヌの郊外は、一面の綿花畑となっていた。
ちょうど今は収穫のピークで、畑の綿花には白いコットンボールが付いている。
この地域で繊維業が盛んなのは、気候風土が綿花の栽培に適しているからだ。
アリスティードは領主教育の中で、コレーヌは綿に関わる産業で発展してきたと習った。
一日の予定をすべてこなした時には、夕暮れ時になっていた。
帰路につく馬車の中は、ネージュと二人きりだから気まずい。
隣に座る彼女の顔は無表情で、何を考えているのかわからない。
この女は、どうして恋人を許容しているのだろう。
こちらが酷い態度を取っても気にする様子なく受け入れ、実際にジャンヌを連れてきた後も、一貫してアリスティードとジャンヌを尊重し、領主と女主人の仕事の引継ぎが終わったら、屋敷を去るという姿勢を崩さない。
自分になびかない男には興味がないという意味なのか、それとも……。
(マルセル爺さんを本気で……?)
いや、ならば『あの男』が彼女を散々に罵っていたのは何だったのだろう。
考えていたら頭が痛くなってきたので、アリスティードはネージュから窓のへと視線を移した。
その時である。
馬の嘶きと人の悲鳴が聞こえ、馬車が大きく揺れた。
「きゃ……」
ネージュの体がこちらに倒れ込んでくる。
アリスティードは反射的に手を差し伸べて、彼女の体を抱き止めた。
柔らかな体の感触と甘い香りに、不覚にも胸が高鳴る。
「あの、ありがとうございます」
ネージュが顔を上げた。
至近距離にある美貌に、心拍数が上がった。
彼女が『雪』と名付けられたのは、きっと氷の精霊を思わせる銀髪と水色の瞳のせいに違いない。
「怪我は?」
「アリスティード様が受け止めて下さったから大丈夫です」
ネージュはするりと体を離した。すると、御者が声を掛けてきた。
「旦那様、奥様、申し訳ありません、馬が倒木に足を取られ……」
だが、彼の発言は途中で途切れた。
突如辺りに銃声が響いたのだ。
パン、パン――。
銃声は二回響いた。
驚いて目を見開いたアリスティードの視界に映ったのは、カッと目を見開き、その場に倒れ込む御者の姿だった。
襲撃だ。
瞬時に判断したアリスティードは、ネージュを抱き込みその場に伏せた。
直後また銃声が聞こえた。
「アリスティード様!?」
「伏せてろ!」
アリスティードはネージュに命じると、常に携帯している護身用の拳銃を上着の下のホルスターから抜いて構えた。
続く銃声はない。
馬車が動く気配も、馬が暴れる様子もない。と、いう事は――。
(馬もやられたか)
おそらく御者も。その証拠に、うめき声一つ聞こえてこない。
一体どこのどいつの仕業だろう。こんな町の近くで襲ってくるなんて。富裕層狙いの強盗だろうか。
……と、考えていたら、隣から微かな金属音が聞こえた。
何事かと思うと、ネージュの手に銃があり、アリスティードは目を丸くする。
「扱えるのか」
「一応は」
こんな時でも彼女は冷静だ。パニックになって騒がれるよりずっといいが――。
(見た目通り氷みたいだな)
と評価したアリスティードは、すぐにそれを撤回する。
よく見ると、ネージュの体は小刻みに震えていた。
冷静になって考えると、彼女はか弱い女性なのだ。怖くないはずがない。
さすがに悪く取りすぎだった。
アリスティードは自己嫌悪を覚えると、心の中でネージュに謝った。
レーネ侯爵家の屋敷は、家名と同じ名前を持つ領都レーネ市の郊外にある。
既にレーネ市の役人や資本家との顔合わせは済ませているので、この視察では、領内の産業拠点を中心に、一週間の日程であちこち回り、最終日にはアリスティードが生まれ育った町に立ち寄る予定になっていた。
ネージュは妻として同行し、ジャンヌは侍女という事にして連れて行く。
予想通り、使用人達、特にミシェルからは反発があったが、ジャンヌが一緒に来てくれた方が、将来的にアリスティードとの別居がスムーズになると告げて説得した。
世の中の男性の中には、何人もの女性に手を出して爛れた生活を送る人もいると聞く。
アリスティードは今のところジャンヌに一途な姿を見せているが、本性はどうかわからない。
視察中は、どうしても夫婦での行動が多くなる。その中であやまちが起こる可能性はゼロではないのだ。
アリスティードに知られたら、自意識過剰と鼻で笑われるかもしれないが、ネージュは彼をジャンヌと共有するつもりはなかったし、早く静かな生活に入りたいと考えていた。
最初の町への移動は汽車を使う。
アリスティードとネージュが使う個室には、ジャンヌも同席してもらった。
「私、こんなにいい席に乗るの初めて! アリス、連れてきてくれてありがとう」
ジャンヌは、アリスティードに密着し、車窓からの風景を楽しんでいる。
「暇つぶしにチェスでもするか?」
「嫌よ。だってアリスってば手抜いてくれないんだもん」
仲が良さそうな二人の姿は微笑ましい。
(邪魔をしてごめんなさい)
ネージュは心の中で二人に謝った。
ややあって、話し疲れたのか恋人達の会話が途切れた。
ちょうどいい機会なので、ネージュは一つ目の町に着いてからの予定を伝える。
「午前中は織物工場を、午後は農場を見て回ります。申し訳ないのですがジャンヌさんは宿で待機して頂けますか?」
すると、ジャンヌは露骨に顔をしかめた。
「何よ、私は付いていっちゃいけないの?」
「申し訳ありませんが、侯爵家の運営に関わる話し合いが行われる可能性もございますので、侍女を同行させる訳には……その代わり、夜はアリスティード様と一緒に過ごせるようにさせて頂きますので」
「わかってるわよ。言ってみただけ」
不服そうにしながらも納得してくれた様子だったので、ネージュはホッと胸を撫で下ろした。
◆ ◆ ◆
視察一日目の訪問地はコレーヌという町だ。ここには、繊維業の盛んなレーネ侯爵領の中でも、最大の織物工場がある。
そこで作られているのは、売り出してから瞬く間に大流行したパイル線布である。
コレーヌの織物工場は、パイル線布を生み出しただけでなく、機械化を成功させて大量生産をも可能にした。
門外不出となっているその技術は、現在侯爵家の最大の財源となっている。
ジャンヌを町のホテルに送り届けた後、アリスティードはネージュやエリックと一緒に織物工場を訪れた。
工場は、アリスティードにとって居心地がいいとは言えなかった。冷ややかな視線が至る所から向けられるせいだ。
「あなたが先代の……確かにマルセル様に似ていらっしゃる」
ポツリと呟いたのは、工場の経営者であるフェザントという資本家だ。彼はアリスティードに値踏みするような目を向けてくる。
その視線には覚えがあった。結婚式の招待客や屋敷の使用人、領都の役人――これまでに出会った侯爵家の関係者から向けられたものと同じだ。
誰もが不信感や嫉妬、嫌悪など様々な負の感情を含む目をこちらに向けてくる。
アリスティードは改めて悪女の影響力を思い知った。
「……パイル線布が生まれた経緯はご存知ですか?」
フェザントに尋ねられ、アリスティードはエリックから受けた講義を思い出しながら答えた。
「こちらの工員が、緯糸と一緒にワイヤーを織り込み、完成した後にワイヤーを抜いてループパイルを織り出す技法を編み出したと聞いています」
「正解です。では、綿布にパイルを、というアイディアを最初に我々に下さったのがネージュ様だという事は?」
「やめて下さい。ただの子供の思い付きです。その時たまたまベルベット製の外套を着ていて、同じような起毛生地を綿でも作れないのかと質問したら、それを面白いと皆様が取り上げてくださっただけで……」
慌てた様子でネージュが割り込んでくる。
「その思い付きのお陰で当工場はこれだけ大きくなったのです。閣下。どうかネージュ様を大切になさって下さい」
フェザントはアリスティードに強い視線を向けてきた。
◆ ◆ ◆
工場見学を終え、フェザントとの会食を終えるとアリスティードはネージュだけを伴い、小回りの利く小型の馬車で農場に向かった。
エリックは別の約束があるので午後は別行動だ。
コレーヌの郊外は、一面の綿花畑となっていた。
ちょうど今は収穫のピークで、畑の綿花には白いコットンボールが付いている。
この地域で繊維業が盛んなのは、気候風土が綿花の栽培に適しているからだ。
アリスティードは領主教育の中で、コレーヌは綿に関わる産業で発展してきたと習った。
一日の予定をすべてこなした時には、夕暮れ時になっていた。
帰路につく馬車の中は、ネージュと二人きりだから気まずい。
隣に座る彼女の顔は無表情で、何を考えているのかわからない。
この女は、どうして恋人を許容しているのだろう。
こちらが酷い態度を取っても気にする様子なく受け入れ、実際にジャンヌを連れてきた後も、一貫してアリスティードとジャンヌを尊重し、領主と女主人の仕事の引継ぎが終わったら、屋敷を去るという姿勢を崩さない。
自分になびかない男には興味がないという意味なのか、それとも……。
(マルセル爺さんを本気で……?)
いや、ならば『あの男』が彼女を散々に罵っていたのは何だったのだろう。
考えていたら頭が痛くなってきたので、アリスティードはネージュから窓のへと視線を移した。
その時である。
馬の嘶きと人の悲鳴が聞こえ、馬車が大きく揺れた。
「きゃ……」
ネージュの体がこちらに倒れ込んでくる。
アリスティードは反射的に手を差し伸べて、彼女の体を抱き止めた。
柔らかな体の感触と甘い香りに、不覚にも胸が高鳴る。
「あの、ありがとうございます」
ネージュが顔を上げた。
至近距離にある美貌に、心拍数が上がった。
彼女が『雪』と名付けられたのは、きっと氷の精霊を思わせる銀髪と水色の瞳のせいに違いない。
「怪我は?」
「アリスティード様が受け止めて下さったから大丈夫です」
ネージュはするりと体を離した。すると、御者が声を掛けてきた。
「旦那様、奥様、申し訳ありません、馬が倒木に足を取られ……」
だが、彼の発言は途中で途切れた。
突如辺りに銃声が響いたのだ。
パン、パン――。
銃声は二回響いた。
驚いて目を見開いたアリスティードの視界に映ったのは、カッと目を見開き、その場に倒れ込む御者の姿だった。
襲撃だ。
瞬時に判断したアリスティードは、ネージュを抱き込みその場に伏せた。
直後また銃声が聞こえた。
「アリスティード様!?」
「伏せてろ!」
アリスティードはネージュに命じると、常に携帯している護身用の拳銃を上着の下のホルスターから抜いて構えた。
続く銃声はない。
馬車が動く気配も、馬が暴れる様子もない。と、いう事は――。
(馬もやられたか)
おそらく御者も。その証拠に、うめき声一つ聞こえてこない。
一体どこのどいつの仕業だろう。こんな町の近くで襲ってくるなんて。富裕層狙いの強盗だろうか。
……と、考えていたら、隣から微かな金属音が聞こえた。
何事かと思うと、ネージュの手に銃があり、アリスティードは目を丸くする。
「扱えるのか」
「一応は」
こんな時でも彼女は冷静だ。パニックになって騒がれるよりずっといいが――。
(見た目通り氷みたいだな)
と評価したアリスティードは、すぐにそれを撤回する。
よく見ると、ネージュの体は小刻みに震えていた。
冷静になって考えると、彼女はか弱い女性なのだ。怖くないはずがない。
さすがに悪く取りすぎだった。
アリスティードは自己嫌悪を覚えると、心の中でネージュに謝った。
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