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アリスティードの恋人 01
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ネージュへの未練を見せていたフェリクス王子だったが、さすがに新婚夫婦の蜜月期間を妨害するほどの常識知らずではなかったらしく、結婚式の翌日には、他の招待客と一緒に首都へと帰っていった。
結婚式をもって、母方の姓を名乗っていたアリスティード・リエーヴルは、正式にレーネ侯爵家に迎え入れられた。これからは、アリスティード・ラ・レーネが彼の正式な名前となる。
ネージュは、女主人の部屋を引き払い、遠く離れた別室へと移動した。
夫婦の寝室で繋がる主人達の部屋とはフロアが違うので、意識しなければ、アリスティードやその恋人と顔を合わせずに済むはずだ。
新しい私室には、アリスティードの許可を得て、かつてマルセルが使っていた想い出の家具を搬入させてもらった。
そのせいで淑女の部屋らしからぬ、重々しい雰囲気の部屋になったが、故人の気配をそこかしこから感じられるのでネージュとしては大満足だった。
現在は、アリスティードに爵位を継承させるための手続きを顧問弁護士のナゼールに依頼し、完了するのを待っている状態である。
この手続きが無事終われば、彼は恋人を迎えに行く。
彼女がやってきたら、侯爵家の暮らしに馴染めるよう、ネージュは最大限に協力するつもりだった。
最近のネージュは、書斎に籠り、領主の仕事をアリスティードに受け渡す準備を進めている。
彼の恋人がやってきたら、女主人の仕事の引き継ぎを始めなければいけないのだ。
なるべく早くこの屋敷を出ていくためにも、今のうちにやれる事はやっておきたかった。
アリスティードには、現在引き継ぎの前準備として会計学やら地理学やら、領主に必要な知識を付けるための講義を受けてもらっている。
講師役はエリックだ。家令の職分には、男性使用人の統括だけでなく、領地経営の補佐も含まれている。
「エリックとアリスティード様は上手くいっているのかしら」
「いえ、申し上げにくいのですが、あまり良く無いみたいです」
ネージュの疑問に答えたのは、資料整理を手伝ってくれていた家政婦長のイレーヌ夫人である。
「新しい旦那様は思い込みが激しいですからね……エリックさんはネージュ様の手先扱いですよ。言葉を尽くしてなんとか、という感じのようです」
アリスティードはネージュが侯爵家の財産を好き勝手に使い、自分のために散財していると思い込んでいる。
だから、嘘を教えて帳簿を誤魔化すのではないかと疑ってかかっており、最初は講義自体を始めるのが大変だったようだ。
「基礎だけを教えるから自分で帳簿を読め、それから判断してくれ、と挑発して、会計学から学んで頂いているみたいですね」
「そう……」
ネージュは顔を曇らせた。
後でエリックには、大好物の甘い焼き菓子を持って行ってあげた方が良いかもしれない。
「幸い飲み込みは早いらしいですけどね。算術は元々得意で、お祖父様の工房の帳簿付けを手伝っていた事もあるそうで」
アリスティードの母方の祖父は彫金職人で、首都で小さな工房を経営している。
小さな工房と侯爵家の領地経営では会計規模が違うが、多少なりとも知識があるのとないのでは学習にかかる時間がかなり変わるはずだ。
マルセルの血を受け継ぐ青年が優秀と聞いて、ネージュは嬉しかった。親の心境である。
「ネージュ様、本気で全ての事業をアリスティード様に受け渡すおつもりですか?」
「ええ。侯爵家の財産を受け取るべきなのはあの方だもの」
ネージュが頷くと、イレーヌ夫人の眉間の皺が深くなった。
「パイル綿布の発案者はネージュ様です。権利を主張されてもいいのではないかと思いますが……」
パイル綿布――その名前通り、パイル(丸いループ状の糸)が生地に織り込まれた綿布の事だ。
古語で『浴布』を意味する『タオル』という製品名で売り出したところ、柔らかさや吸水性の高さが評価されて大当たりし、開発からこちら、侯爵家に莫大な富をもたらし続けている。
「私は思いつきを口に出しただけで……形になったのはマルセル様や職人達が協力してくれたからだわ」
「アイディアにどれだけの価値があるか……」
イレーヌ夫人の発言に、ネージュは曖昧な笑みを浮かべた。
アイディアの価値はわかっているが、その後の職人や技師の努力も知っているので、自分から揉め事を起こすつもりはなかった。
自分が今、まともな生活を送れているのはマルセルのおかげだ。だから、彼が愛した侯爵家やアリスティードの為になるのならそれでいいとネージュは考えていた。
そもそもこの屋敷を出る日が来たら、修道女のように慎ましい生活を送ろうと思っているのだ。お金があっても何の役にも立たない。
結婚式をもって、母方の姓を名乗っていたアリスティード・リエーヴルは、正式にレーネ侯爵家に迎え入れられた。これからは、アリスティード・ラ・レーネが彼の正式な名前となる。
ネージュは、女主人の部屋を引き払い、遠く離れた別室へと移動した。
夫婦の寝室で繋がる主人達の部屋とはフロアが違うので、意識しなければ、アリスティードやその恋人と顔を合わせずに済むはずだ。
新しい私室には、アリスティードの許可を得て、かつてマルセルが使っていた想い出の家具を搬入させてもらった。
そのせいで淑女の部屋らしからぬ、重々しい雰囲気の部屋になったが、故人の気配をそこかしこから感じられるのでネージュとしては大満足だった。
現在は、アリスティードに爵位を継承させるための手続きを顧問弁護士のナゼールに依頼し、完了するのを待っている状態である。
この手続きが無事終われば、彼は恋人を迎えに行く。
彼女がやってきたら、侯爵家の暮らしに馴染めるよう、ネージュは最大限に協力するつもりだった。
最近のネージュは、書斎に籠り、領主の仕事をアリスティードに受け渡す準備を進めている。
彼の恋人がやってきたら、女主人の仕事の引き継ぎを始めなければいけないのだ。
なるべく早くこの屋敷を出ていくためにも、今のうちにやれる事はやっておきたかった。
アリスティードには、現在引き継ぎの前準備として会計学やら地理学やら、領主に必要な知識を付けるための講義を受けてもらっている。
講師役はエリックだ。家令の職分には、男性使用人の統括だけでなく、領地経営の補佐も含まれている。
「エリックとアリスティード様は上手くいっているのかしら」
「いえ、申し上げにくいのですが、あまり良く無いみたいです」
ネージュの疑問に答えたのは、資料整理を手伝ってくれていた家政婦長のイレーヌ夫人である。
「新しい旦那様は思い込みが激しいですからね……エリックさんはネージュ様の手先扱いですよ。言葉を尽くしてなんとか、という感じのようです」
アリスティードはネージュが侯爵家の財産を好き勝手に使い、自分のために散財していると思い込んでいる。
だから、嘘を教えて帳簿を誤魔化すのではないかと疑ってかかっており、最初は講義自体を始めるのが大変だったようだ。
「基礎だけを教えるから自分で帳簿を読め、それから判断してくれ、と挑発して、会計学から学んで頂いているみたいですね」
「そう……」
ネージュは顔を曇らせた。
後でエリックには、大好物の甘い焼き菓子を持って行ってあげた方が良いかもしれない。
「幸い飲み込みは早いらしいですけどね。算術は元々得意で、お祖父様の工房の帳簿付けを手伝っていた事もあるそうで」
アリスティードの母方の祖父は彫金職人で、首都で小さな工房を経営している。
小さな工房と侯爵家の領地経営では会計規模が違うが、多少なりとも知識があるのとないのでは学習にかかる時間がかなり変わるはずだ。
マルセルの血を受け継ぐ青年が優秀と聞いて、ネージュは嬉しかった。親の心境である。
「ネージュ様、本気で全ての事業をアリスティード様に受け渡すおつもりですか?」
「ええ。侯爵家の財産を受け取るべきなのはあの方だもの」
ネージュが頷くと、イレーヌ夫人の眉間の皺が深くなった。
「パイル綿布の発案者はネージュ様です。権利を主張されてもいいのではないかと思いますが……」
パイル綿布――その名前通り、パイル(丸いループ状の糸)が生地に織り込まれた綿布の事だ。
古語で『浴布』を意味する『タオル』という製品名で売り出したところ、柔らかさや吸水性の高さが評価されて大当たりし、開発からこちら、侯爵家に莫大な富をもたらし続けている。
「私は思いつきを口に出しただけで……形になったのはマルセル様や職人達が協力してくれたからだわ」
「アイディアにどれだけの価値があるか……」
イレーヌ夫人の発言に、ネージュは曖昧な笑みを浮かべた。
アイディアの価値はわかっているが、その後の職人や技師の努力も知っているので、自分から揉め事を起こすつもりはなかった。
自分が今、まともな生活を送れているのはマルセルのおかげだ。だから、彼が愛した侯爵家やアリスティードの為になるのならそれでいいとネージュは考えていた。
そもそもこの屋敷を出る日が来たら、修道女のように慎ましい生活を送ろうと思っているのだ。お金があっても何の役にも立たない。
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