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第十二章〜全てを失っても夢想を手に〜

13.幻想は儚く

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 アルスが生命科に向かっている間、ヒカリはレーツェルの工房にいた。
 レーツェルの工房は大量の鉄の板が転がっていて、魔法使いというより鍛冶師の工房に一見思えてしまう。そんな工房の中を、何か踏んだりしないように慎重にヒカリは歩いていた。

「そんなにビクビクせずとも大丈夫だぜ、ヒカリ。俺の工房に人が怪我するような危ないモンはないからな。」

 そう言われるとヒカリは少し気を抜いて、工房の中にある適当な椅子に腰を落ち着かせる。
 対してレーツェルは地べたに座って、そこら辺に転がっている一つの鉄の板を手に取った。そしてレーツェルは指先に魔法で火を灯し、その鉄の板を熱し始める。

「……それ、何してるんスか?」
「初めて会った時に見せた、あの猫の改良版を作ってるんだ。」

 ヒカリは、前にレーツェルが見せてくれたものは石版であったと思い出す。他にも違いはあるだろうが、大きい変化はそれだろうとヒカリは推測した。

「こうやって熱しているのは、魔法文字を刻みやすくするため。」

 レーツェルは鉄の板を地面に置いた。そしてこれまた地面に置かれているある大きめの判子のような魔道具を手に取る。それは日本で馴染みのある円状ではなく正方形の形を取っていた。
 魔力を込めると、それは駆動音をあげながら動き始めた。先端部分の一部が飛び出て、一つの文字の形を成す。それを熱した鉄に押し当てると、その文字が鉄に刻まれた。

「これを何回もやって、最近の魔法使いは魔道具を作ってるってわけよ。」
「思ったより簡単なんスね。」
「ああ、今はな。昔は手作業でやるから時間はかかるし、誤字も多いし大変だったらしいぜ。」

 レーツェルは続けて判子に魔力を流して文字を刻んでいく。その動きは慣れたものであり、この作業を何度もやっていた事を暗に示していた。

「……よし、できた。」

 数分でそれは終わって、びっしりと術式が刻まれた鉄の板を地面に置いた。レーツェルはその上に手のひらを置き、そこにゆっくりと魔力を流し込む。
 術式は世界と繋がり、そしてその板に神秘を与える。鉄の板を核として幻想は輪郭をなし、小さな猫の形に――

「あ、やべ。」

 ――ならなかった。それは鋭い牙を持つ狼となり、レーツェルの腕に勢いよく噛み付いた。

「レーツェルさん!?」
「大丈夫だ! いや、大丈夫には見えないだろうけど安心しろ!」

 レーツェルの腕に深く牙は刺さり、どくどくと血が溢れる出る。どう見ても重症であり、今にも腕を噛み切られそうである。
 それより前にレーツェルは反対の手で狼の首を掴み、その魔法を解除した。直ぐに狼はその場で霧散していなくなった。鉄の板は音を立ててその場を転がる。
 ヒカリがもう一度腕に目をやる頃には怪我は消えていた。

「前に言ったろ、俺の魔法は幻なんだ。魔法が消えればそれによる影響も全てなくなる。」
「わかっててもびっくりするッスよ! リアル過ぎるんス!」
「だーはっはっは! 俺はほとんどこの魔法だけで賢神になったんだから、そう簡単に見破られちゃ困る。」

 幻想は現実と見紛うからこそ幻想となる。故にこそ幻想魔法はあらゆる人が真実を誤認するような魔法だ。最もスキルに近い魔法であると言っても良い。

「ただまあ、失敗だなこれは。この術式も駄目らしい。」

 悔しそうにレーツェルは地面を転がる鉄の板を手に持つ。

「希少属性の術式化ってのは、実は理論的な部分がほとんどないんだ。優秀な魔法使いが一つの属性を突き詰めると、いずれその属性の核のようなものを感覚的に掴む。それを文字にするってのが術式化で、やる事もほとんど総当たりをするだけのつまらねえ研究だ。」

 それでも、希少属性は使い手が少ない故に重宝される研究だ。ただでさえ少ない希少属性の持ち主が、偶然にも魔法が好きで研究熱心である、なんていう確率はあまりにも低い。事実、歴史上に名を残す希少属性持ちは基本的に学者ではなく武名を轟かせた英雄だ。
 レーツェルにだって、その選択肢はあった。賢神になれるのだから、冒険者や騎士としても名をあげる事は難しくなかっただろう。

「それでも、俺だけができる研究って言われたら悪い気はしないだろう?」

 ニヤリと、悪戯を考える少年のようにレーツェルは笑う。
 レーツェルが研究をし続けて来た理由は明確である。ただ強い人ラウロに憧れて、ただ特別な自分になりたくて幻想を追い求める。そこには金銭や権力への欲望や、自己を正当化する大義もない。あるのはただ純粋に幻想を追う自分だけだ。
 ヒカリはその姿に、かつてオルゼイで見たテルムの姿を幻視した。浮遊属性の使い手であった彼女も同じで、ただひたすらに自由を追い求めていた。

「凄いッスね、レーツェルさんは。私はいつも、余計な事を考えてばかりで……」
「いや、ヒカリは――うん?」

 部屋の中を鈴の音が満たす。来客用の呼び鈴である。ちょっと待っててくれ、と言ってレーツェルは家の扉の方へと向かう。

「来客なんて珍しいな。」

 レーツェルはそう呟きながら扉を開けた。
 扉の前には黒と見紛う程に暗い紫髪の男がいた。この世界では黒やそれに近い髪色は珍しい。レーツェルは会った事がない人物であると直ぐに理解した。
 その男は何でもないようにレーツェルの腹に左の手を当てた。

「――悪いな。」

 瞬間、レーツェルの体は後ろに吹き飛ぶ。そして地面を転がってヒカリの目の前で倒れ込んだ。
 ヒカリはあまりに突然の事で声が出なかった。しかし相手がそんな事情を考慮するはずもなく、扉をしめずに工房の中へと入り込む。
 男は部屋をぐるりと見渡して、そして最後にヒカリと真正面から目を合わせた。

「あー……俺は魔導機械科のイーグルってモンだ。局長の命令でお前をさらいに来た。黙って従えば怪我はさせねえよ。」

 誘拐犯にしてはあまりにも正直で悪びれもなく、そしてやけに気だるげだった。
 ヒカリは反射的に聖剣を呼び出し、その切っ先をイーグルへと向ける。レーツェルは倒れてはいるが息はあった。それに目立った外傷もない。その事実がヒカリを一度冷静にさせた。

「何で、こんな事をしたんスか?」
「正直に言ってもついてきてもらえないだろうから、だ。俺だって不本意なんだよ。だけどこれやらなきゃクビになっちゃうから、俺。」

 ヒカリは、自分がイーグルに勝てない事を理解していた。ここで戦おうとしてもどうせ負けて、もしかしたらレーツェルも殺されてしまうかもしれない。それがヒカリにとって最も危惧すべきパターンであった。

「……わかりました。私はついて行きます。その代わりにレーツェルさんには――」
「――いや、その必要はないぜヒカリ。」

 扉が閉まる音がした。イーグルにとっては退路を断たれた事になる。それをやったのは、そこで倒れているはずのレーツェルだった。
 一度まばたきをすれば床に転がるレーツェルの姿は消えて、振り返ったイーグルとレーツェルはにらみ合う。

「ここは俺の工房の中だ。何の代償もなしに目的を達成できる思うなよ。」
空想家ファンタジスタ、か。こうなるから一撃で仕留めたかったんだけどな……」

 イーグルは分かりやすくため息を吐いた。

「しょうがないから、この工房ごとぶっ壊そうか。」
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