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11章 

近づく距離

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 一か月後、アイから電話が来た。聞けば千紗の会社を経由して企業案件の広告動画を受けるという。

「アイさんが受けるんですか?」
「うん。あの千紗ちゃんがバイトしてるとこの部長さんが話まとめてくれた。有能だわ。千紗ちゃん、撮影するからまたアシスタントに来て。打ち上げもするから、夜の予定も開けておいてね」
「私、忙しくって。それに私関係なくないですか? アイさん事務所所属だし、人手足りてますよね?」
 
 個人でやっている千紗と違い、アイは大手事務所に所属している。

 断ろうとすると、

「あのね、会社からバイト代出るって。日給五万。これに私からのお礼もつける」
「え、やります」

 貧乏暇なしの千紗は、5万円にすぐ飛びついた。





 当日の撮影はみなとみらいで行われた。

「なんか近未来みたいですね」
「なに言ってんの! 昭和から来たみたいなこと言わないで。千紗ちゃんいくつよ」
「21歳です」

 撮影には、井村やその他会社の人間も来ていた。

「千紗ちゃん、変なとこない?」

 念入りにアイをチェックする。モデル並みの高身長にバランスの取れたプロモーション。アイは突出した歌唱力で人気が出たが、ルックスもそこいらの芸能人と混ざってもおかしくないほどだ。

「完璧です」
 
 今日は企業がネットで流すCMを撮影するから、プロのメイクアップアーティストも来ている。いつもとは違う雰囲気だった。

「企業とタイアップするってこんなに大変なんですね」
「規模が違うからね。知名度アップには最適よ」
「はぁ」

 千紗にとっては、こんな日の当たる世界は縁がない。一人でひっそりやるのが合っている。
 ──同業者だけどアイさんはあっちの人間なんだよなぁ。
 あっちとはリア充のことである。冴えない人生を送る千紗とは別の世界線にいるアイは眩しい。
 千紗は、アイの指示通り、撮影中テキパキと動いた。

「ありがとう~。千紗ちゃんって有能だよね、ちょっぴり抜けてるところもあるけど、根が真人間というか」
「こちとら生まれた時から真人間ですよ!」

 幼稚園、小学校、中学と、日陰ではあるが真面目に生きて順調に過ごしてきた。
 なにか一つ歯車が狂って、思わぬところまで来てしまったが。

 撮影が始まると、アイさんはカメラの前で煌びやかな笑顔を見せながら、力強い歌声を響かせる。
 プロが集まっているだけあって、アイさんの魅力を最大限引き出すように尽力していた。千紗が一人で撮る動画とはやはりわけが違う。
 やはりアイは凄い。存在感も歌唱力もプロだ。ランドマークを背景にして、さぞかし映える映像になりそうだ。
 アイさんによると、企画から撮影やロケーションの手配、進行まですべて井村がやったという。

「すごい有能だったよ! 彼狙い目だと思うけどなぁ」
「私には関係ありません」

 いよいよ本番の撮影が始まった。
 以前アイの歌に合わせて一緒に演奏した気持ちよさを思い出し、千紗は自然とリズムに合わせて指を動かしていた。
 わずか5分程度のCM動画だったが、撮影は丸一日かかった。

 撮影終了後、後方で見守っていた井村が声をかけてきた。皆撮影後の打ち上げに行くようだった。

「お疲れ様。良かったら食事でも」
「私は結構です」
「はいはい! 行きますとも。でも、ちょっと個人で使う写真撮ってから行くから二人で先に行っててもらっていい?」

 あとから行くというアイさんに促され、井村と二人で先に行くことになってしまった。他のスタッフも来るのかと思っていたら、そうではないらしい。

「アイさん来ないですね」
 
 近くにあった、洒落たイタリアンのお店に二人で先に入ったが、肝心のアイが来ない。

「もう少ししたら来るよ」
「でも主役なのに」
「うん。先に食べててくださいって連絡来た」
「……アイさんと個人的にも連絡取り合ってるんですね」

 千紗は井村の連絡先なんて知らなかった。なんとなくモヤモヤする。別に井村とメッセージのやりとりなんてする必要もないが。

「契約するのに必要だから、他意はないよ」

 なんとなく釈然としないまま、運ばれてきた前菜を口に運ぶ。

「お酒はどうする?」
「今日は一杯だけにします」

 前回イライラしてつい飲みすぎたので、遠慮したかったが、メニューもシャンパンがおいしそうで無類の酒好きの千紗はつい頼んでしまった。

「あの、前回って私変なことしましたか?」
「ん。した」
「えっ! なにを」
「観覧車一緒に乗ってくれたら話す」
「そういうのって彼女と乗るものでは?」
「彼女にしたい人を誘うのもアリだと思うけど」

 真っすぐな目で見つめられて、思わず下を向く。
 ──どこまで本気かわかんないなぁ。

 恋愛経験のない千紗には微妙な言い回しはわからない。少なくとも、千紗に好意を抱いているのは間違いなさそうだった。
 前菜のカプレーゼが運ばれてきた。

「たくさん食べてね」

 普段貧しい食生活を送っているので、高級レストランは緊張する。
 ──一口200円くらいしそう。
 
「私、別にかわいくないですし、物好きですか? 冴えない女専門とか?」
「いや、眼鏡くらいじゃそのかわいさは隠せてないよ」
「くっ」

 なんだろう、こういうことを平気で言うのは。最近ニュースで見た国際ロマンス詐欺の手口がこんなふうな甘い言葉で女性を惑わしていた。
 井村が千紗を騙してもなにも搾り取ったりはできないはずだが。
 ──もしかして体目当て? ヤリモクってやつ?
 
 千紗は自分の豊かな胸を隠すように腕で隠した。みんなが美人や派手な子を好きなわけではない。だから井村が千紗のようなタイプを好きでもおかしくない。
 自分でも無駄にいい体をしている自覚はあるので、警戒してみた。

 その後もパスタや魚介の煮込みをたらふく食べ、いい気分になる。

「いいね。食べっぷり」
「私ガツガツしてますか?」
「いや、美味しそうに食べててかわいいなって。そういえばアイさんは?」
「なんか用ができたって。デザートはいる?」
「じゃぁ……」
 
 勧められるままにフルーツタルトと、ジェラートを食べてしまう。美味しすぎて、明日からの貧しい食生活が辛くなりそうなほどだった。

 そもそも打ち上げと聞いていたのに誰も来ない。
 夜景の見える高層階から、綺麗な景色が見える。
 ──なんかこれデートみたいじゃない?

「そろそろ行こうか。まだ食べる?」
「いえ。さすがにもう無理です」

 食事のあと、なんだかんだ言いくるめられて、観覧車に一緒に乗ってしまった。高所は苦手だというのに。なんだか必死な井村を断りきれなかった。

「女の子が好きそうなお店と思ったけど、夜景とか興味ないよね」

 井村がすまなそうに言う。

「いえ。嫌いってことはないです。私にも夜景がきれいだと思う心はあります」
「コンサートとかライブのがよかったかな。音楽好きでしょ?」
「え?」
 
 井村にそんな話をしたことはない。

「アイさんが歌ってる時、すごい輝いた目で見てたから」
「アイさんが凄いからです。私は音楽とか全然わからなくて」
「じゃあ漫画は? アニメとか」
「亡くなった父が好きで一緒に見てましたけど……」

 なんでこんな話をするんだろう。

「高倉さんの好きなことが知りたい」
「私は一人でいるのが好きです」

 我ながら社会不適合っぽい回答だと思いつつ事実なので仕方がない。

「そっか……。でもさ、誰かと好きなものを共有するのは楽しいよね。アイさんの歌だって一人で聴くより、一緒に感動を分かち合う人がいたら嬉しいんじゃないかと」
「そうかもしれないですね」

 千紗の場合、ネット上ではあっても自分の演奏に熱狂してくれるファンがいるのは嬉しい。そういうことだろうか。

「俺は高倉さんと共有したい、楽しい事とか。悲しいことでもなんだって」

 これは告白だろうか。鈍い千紗でもさすがに井村が自分を口説いているのがわかる。ただ肝心の千紗は井村がまだ苦手だった。
 一緒にいるとそわそわして本当に落ち着かない。

 そんな時、突然観覧車の動きが止まり、車内にアナウンスが流れた。

「安全確認のため一時停止致します」
「な、なに?」
「なにかあったのかな」
「どっどうしよう。閉じ込められたら」

 高いところも密室も苦手な千紗はパニックになった。

「大丈夫だよ。地震とか停電ではなさそうだし。もしかして高いところとか閉所が苦手とか?」

 井村の慰める言葉も届かないほど千紗は震えていた。心臓がばくばくして、手足が段々冷たくなって痺れてきた。

「高倉さん!? 過呼吸かな」

 井村が千紗の背を撫でる。

「一回息止めて……ゆっくり吐いて。吸いすぎないで。そう。大丈夫だから。すぐに戻るよ」
「は、はぁ……」

 1分ほどゆっくり呼吸を繰り返すと、手足の痺れも治ってきた。

「あ……」

 気づけば密室で、強く抱きしめられていた。おそらくほんの数分間だったはずだが、その温もりは、千紗の恐怖心を和らげてくれた。

「ただいま、電気系統のトラブルの確認が終わりましたので、運転を再開します」

 アナウンスが流れる。

「もう大丈夫です」

 そう言っても井村は強く抱きしめたまま離してくれなかった。心臓の音が聞こえるほど密着している時間は、長いような短いような不思議な感じがした。

「もう着くから。無理やり付き合わせてごめん」

 だんだん観覧車が地上に近づくと、井村が言った。
 井村のせいではないと言いたかったが、なぜだか言葉が出なかった。
 無事観覧車が地上に戻ったあとも、千紗の手を握ったままだった。
 ──どうしよう。振り払うのもなんか気が引けるし。

「送るよ」

 互いに無言のまま、千紗の家まで送ると、井村は、

「ごめん。高いところが苦手って知らなくて。次はもっとマシなとこに誘うから」
「井村さんのせいじゃないです。ありがとうございました」

 二人の間にはなんだか、いつもと違う妙な空気が流れていた。
 その日は、日課となっている田吾作への連絡をしようとして、なぜだかできなかった。
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