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次の一手編
「自分が活きる路を見つける」か「敵を殺す手段を考える」か【後編】
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昨日からの雨は一向に止まず、窓に当たる雨粒の音が、対局場となる温泉旅館の一室に響き渡る。
白いワンピースを着た京子が対局場に入室すると、まず「おはようございます」と一礼し、それから立会人と記録係にも「おはようございます」と挨拶してから着席した。
そしてプロの対局で着席後、必ずやらなければならない儀式を行う。碁盤を清めるのだ。
京子は碁盤を清める前に、「失礼します」と碁盤に一礼した。そして碁盤の上に置かれた白い布を手に取る。まず、碁笥をゆっくり丁寧に拭き、それから碁盤の右側を同じリズムで拭く。それから碁笥を今拭いた右側に寄せ、今度は碁盤の左側を同じように拭く。拭き終わったら碁笥を中央に戻す。碁盤を清めた布は碁盤の下に置いた。
碁盤を清め終えると、京子はまた碁盤に向かって「失礼しました」と一礼した。
カメラを構えて一連の動作を見ていた、地元京都の新聞記者から溜め息が漏れる。うっかりカメラのシャッターを切るのを忘れたほどに。
それほど京子の所作は美しかった。
『あきた轟新聞』の佐藤も、金緑石戦で初めて碁盤を清める儀式を見た時、全く同じ反応だった。
大舞台を前にした緊張と、戦いの地に降り立つ覚悟とが混ざり合った静寂。嵐の前の静けさとはこの事かと思うほどに。
碁盤を清め終えた京子は、自室から持ってきた鞄からノートや鉛筆を取り出し、サイドテーブルの上に置いた。そして早速ノートを開いて何やら書き込んでいる。京子の対局前のルーティンだ。
(畠山さん。落ち着いているな)
いつも通りの京子の様子に、佐藤は胸を撫で下ろす。昨日の細川との舌戦で、気合いが入り過ぎていないか、心配だったが杞憂だったようだ。
佐藤も昨日の京子と細川とのやり取りは、ハラハラしながら見ていた。
正直、自分も細川に良い印象は持てなかった。ああもハッキリ秋田をこき下ろされれば、誰だって腹が立つ。なので当然取材にも気合いが入る。「報道は平等に」とはわかっているが、昨日のアレを見て、細川も平等に報じようと思う秋田県民など、いないだろう。かといって、あからさまに京子だけを応援できる立場にはないが。だから結果、こうなる。
(畠山さん。がんばれ!)
佐藤は心の中で大声で叫び、出来得る限りの応援をする。
現・真珠王・細川雪江が入室した。京子と同じように、まず一礼し、それから立会人と記録係に。それから着席し、真っ直ぐ京子を見据えた。
「なんや、こんな所でも勉強かいな。学生さんは大変やなぁ」
京子は慌ててノートを閉じた。細川を無視していた訳ではない。集中していて、細川が入室したのに気づかなかっただけだ。しかしこの場で、この嫌みを言われるのは、京子は当然だと思う。絵に描いたような弱肉強食の世界で、今の時点では京子の方が「下」の立場なのだから。
「おはようございます」
京子はノートをサイドテーブルに置き、背筋を伸ばして細川に頭を下げた。それを見て細川真珠王も頭を下げた。
「おはようございます」
細川が顔を上げる。お互い視線を逸らさず、睨み合う。昨日の舌戦の時のような緊張感が走る。お互い早く雌雄を決したいようだ。
「時間になりました。ニギって下さい」
真珠戦 五番勝負 第一局
細川雪江 真珠王 対 挑戦者 畠山京子 二段
第一局なので、ニギリが行われる。京子は今回は黒石を二個取り出した。細川は握った白石を数える。余り無しで京子が黒番となった。
「対局を始めて下さい」
「「お願いします」」
佐藤はカメラを構える。京子が初手を打ち、それから細川が二手目を打った所で退室しなければならない記者にとって、対局が終わるまで入室さえ許されない禁域となるこの部屋での最後の大仕事だ。
佐藤は京子が黒石を持った所から、シャッタースピードを最高速度に設定した連続写真を撮影する。畠山京子の最も美しい瞬間を逃したくないからだ。
京子はいつものように、静かに音を立てずに黒石を碁盤に置く。
置いた瞬間、室内に居た全員が「うっ!」という呻き声を漏らした。
京子が初手に打ったのは、天元だった。
「早速ですが、始めましょうか。細川真珠王」
京子はニヤニヤヘラヘラと笑う。
それを見て細川は眉間に皺を寄せた。
室内には、佐藤のカメラのシャッター音がいつまでも鳴り響いていた。
●○●○●○
田村優里亜は、授業中に思わず大声を張り上げそうになったのを、すんでで止めた。スマホで真珠戦第一局の動画配信サイトを見ていたのだ。
(なに考えてんのよ!京子!まさか、天元は写真撮影用で、記者がいなくなったら、初手からやり直し出来ると思ってるんじゃないでしょうね!?)
と考えたが、いや、それはない。たしか京子も地方対局の記録係の経験があったはず。ならば写真撮影用の手なんて、無いと知ってるはずだ。
(なんで初手天元!?いや、面白いけど!楽しみだけど!)
それにしても、タイトル取れるか取れないかの初戦で、いきなりこんな見せ場を作るかな!?
(ホント天才って、心臓にどんだけ毛が生えてるのよ)
優里亜が大声を張り上げられず悶えていた時、同じ状況に陥っていた人物がもう一人いた。
立花富岳は学習用のタブレットで、京子が初手天元を打ったのを見ていた。
(なんかやるだろうなと思ってたけど、まさか初手天元かよ。あの目立ちたがり屋め)
二手目、細川がどこに打ってくるか、見守る。細川は無難に左下隅小目に打ってきた。
(細川さんは冒険しない、か)
三手目。京子がどこに打つか、早く見たかったのだが、記者の退室に手間取っていた。おそらく現場にいた人間の方が、衝撃が大きかったのだろう。
ややあって、京子が三手目を打った。
「ツケ!?」
富岳は授業中なのも忘れ、思わず立ち上がり、大声で叫んだ。
京子の三手目は、二手目の細川の小目にカカリではなく、星に打ってきたのだ。いきなり戦闘開始だ。
「なに考えてんだ!あいつ!」
「あいつとは誰の事だね?」
老齢の数学教師が、富岳に訊ねる。富岳はそのまま座ろうとしたが、教師に前に出て問題を解くよう言われ、吊し上げられた。が、秒で問題を解くと、教師は舌打ちしていた。
●○●○●○
細川が少し眉間に皺を寄せる。初手天元を見た時は「なめくさりおって!」と、腹が立った。そして三手目はカカリではなくツケ。
(相当早く戦いたいんやな)
と思ったが、相手がカカって来ないならと、こちらは地を取りに行こうと、冷静に四手目は左上隅小目と対処した。
てっきり京子は左下の石を取りにくるのだろうと思ったら、そうではなかった。5手目も4手目の小目に星とツケてきた。
(なに考えてんのやろ。ただの嫌がらせかいな?)
そう考えながらも、細川は6手目も冷静に右下隅小目と地を取りに行く手を打つ。
しかし京子が今打った、この7手目を見て考えが180度変わった。京子は今度は、細川の右下隅小目に星ツケを打たず、左辺の星に打ってきたのだ。
(なんやこれ。もしかして……)
白側から見ると、細川が黒番で三連星を打ったように見えるのだ。三連星は細川が若い頃、最も得意とし、三大女流棋戦を制覇するにまで極めた、細川の必殺の戦法だ。
(こんな形にされるんは、予想できひんかった……)
細川は確信した。私の碁について、この子は徹底的に調べてきている。しかも最近の碁だけでなく、古いものも全て。
京子の企みに気づいた細川は、どう対処しようか、悩んだ。
(落ち着け。三連星は昔の栄華。今は現代の碁に順応した碁に変えて、昨年、真珠王への挑戦権を得たのだから。それに三連星はもう長く打ってないのだから、見誤る事もない。狼狽える必要はない)
まだ7手目だというのに、気付いたら、細川は持ち時間3時間の内の6分の1、30分を使っていた。
(まずい!きっと、こうして時間を使わせるんも、これも作戦のうちや)
細川が碁盤から京子の顔に視線を移す。
京子は再びノートを広げて、すごい速さで鉛筆で何かを書き込んでいた。
細川はずっと京子を睨み付けているのに、京子はそんな細川には全く気にも止めていないようで、一心不乱に鉛筆を動かしている。
(なんや。計画通りで、暇そうやな!)
細川は京子を睨みながら歯軋りする。しかし京子はそんな細川の仕草すら気に止める様子がない。
(ええ度胸しとるやないの)
細川は碁盤に視線を戻す。それから大きく深呼吸した。
確かに近年は三大女流棋戦からも遠ざかっていたが、自分には、女流棋士の実力の底上げをしたという矜持がある。
(魔術師の弟子は、所詮、弟子やろ。あの魔術師を超える弟子なんて、そうそう出る訳ない。ええやないの。あんたの挑戦、受けて立ってやろうやないかい)
細川は白石を持つと、戦闘開始の合図であるかのように、勢いよく碁盤に叩きつけた。
●○●○●○
決着は呆気なかった。
細川がやらかしたのだ。
京子はあの後、細かい碁に誘導して、読み勝負の碁に仕掛けてきたのだ。
『敵の急所は我が急所』と言うくらいだから、最悪、たとえ京子の思惑通り黒と白を間違えても、なんとかなるだろうと思っていたのだが、その油断が命取りとなってしまった。まんまと京子の術中に嵌まり、打ち進めているうちに昔の碁が蘇り『自分は黒で三連星を打っている』と勘違いしてしまったのだ。
自分が長い年月を掛けて築き上げてきた物を、木っ端微塵にぶっ壊されたような碁だった。あまりにも見事な手腕で、細川は恨み節すら出てこなかった。
投了した細川が顔を上げた。
「あんさん。天元の石、結局遊ばせたままやったなぁ」
感想戦に入る。いつ、この天元を活かした手を打ってくるのかと構えていたが、中央での戦いが始まるまで手を加えず、結局、なんのために天元に打ったのか、疑問だけが残った。
細川の問いに京子が答える。
「ええ。天元の石は最初から捨てるつもりでいたので」
「「「はぁ!?天元の石を捨てる!?」」」
京子以外、立会人も記録係も、そして細川も恥も外聞も忘れて叫んだ。
「はい。細川真珠王とは初対局だったので、本当は、相手の出方を見ながら打てる白番が良かったんですけど」
「「「はぁ!?白のほうがいい!?」」」
京子以外の人間が皆、全く同じリアクションで、京子はちょっと仲間はずれにされたような気分になる。
(この子、さっきから何言うてるか、さっぱり分からへん……)
呆然としている細川を尻目に、京子は更に話を続ける。
「もし白が天元の石を取りにくるようならば、隅の地を取りにいけばいいし。取らないなら、中央でガッチリ戦えばいいし」
(言うてる事はわかる。中央より、隅のほうが石の数が少なくても生きれるから。だから、最初は隅を押さえにいく。せやけど、天元に打った初手を捨て石にするて、黒先手の有利を捨てるようなもんやろ!それをこの子は……)
京子以外の人間が呆然としていると、棋院職員が呼びに来た。
大判解説の場でも、客から細川と同じ質問が飛んだが、京子は同じように答え、会場の客も一人残らず同じリアクションをし、京子は再び仲間はずれにされた気分を味わっていた。
白いワンピースを着た京子が対局場に入室すると、まず「おはようございます」と一礼し、それから立会人と記録係にも「おはようございます」と挨拶してから着席した。
そしてプロの対局で着席後、必ずやらなければならない儀式を行う。碁盤を清めるのだ。
京子は碁盤を清める前に、「失礼します」と碁盤に一礼した。そして碁盤の上に置かれた白い布を手に取る。まず、碁笥をゆっくり丁寧に拭き、それから碁盤の右側を同じリズムで拭く。それから碁笥を今拭いた右側に寄せ、今度は碁盤の左側を同じように拭く。拭き終わったら碁笥を中央に戻す。碁盤を清めた布は碁盤の下に置いた。
碁盤を清め終えると、京子はまた碁盤に向かって「失礼しました」と一礼した。
カメラを構えて一連の動作を見ていた、地元京都の新聞記者から溜め息が漏れる。うっかりカメラのシャッターを切るのを忘れたほどに。
それほど京子の所作は美しかった。
『あきた轟新聞』の佐藤も、金緑石戦で初めて碁盤を清める儀式を見た時、全く同じ反応だった。
大舞台を前にした緊張と、戦いの地に降り立つ覚悟とが混ざり合った静寂。嵐の前の静けさとはこの事かと思うほどに。
碁盤を清め終えた京子は、自室から持ってきた鞄からノートや鉛筆を取り出し、サイドテーブルの上に置いた。そして早速ノートを開いて何やら書き込んでいる。京子の対局前のルーティンだ。
(畠山さん。落ち着いているな)
いつも通りの京子の様子に、佐藤は胸を撫で下ろす。昨日の細川との舌戦で、気合いが入り過ぎていないか、心配だったが杞憂だったようだ。
佐藤も昨日の京子と細川とのやり取りは、ハラハラしながら見ていた。
正直、自分も細川に良い印象は持てなかった。ああもハッキリ秋田をこき下ろされれば、誰だって腹が立つ。なので当然取材にも気合いが入る。「報道は平等に」とはわかっているが、昨日のアレを見て、細川も平等に報じようと思う秋田県民など、いないだろう。かといって、あからさまに京子だけを応援できる立場にはないが。だから結果、こうなる。
(畠山さん。がんばれ!)
佐藤は心の中で大声で叫び、出来得る限りの応援をする。
現・真珠王・細川雪江が入室した。京子と同じように、まず一礼し、それから立会人と記録係に。それから着席し、真っ直ぐ京子を見据えた。
「なんや、こんな所でも勉強かいな。学生さんは大変やなぁ」
京子は慌ててノートを閉じた。細川を無視していた訳ではない。集中していて、細川が入室したのに気づかなかっただけだ。しかしこの場で、この嫌みを言われるのは、京子は当然だと思う。絵に描いたような弱肉強食の世界で、今の時点では京子の方が「下」の立場なのだから。
「おはようございます」
京子はノートをサイドテーブルに置き、背筋を伸ばして細川に頭を下げた。それを見て細川真珠王も頭を下げた。
「おはようございます」
細川が顔を上げる。お互い視線を逸らさず、睨み合う。昨日の舌戦の時のような緊張感が走る。お互い早く雌雄を決したいようだ。
「時間になりました。ニギって下さい」
真珠戦 五番勝負 第一局
細川雪江 真珠王 対 挑戦者 畠山京子 二段
第一局なので、ニギリが行われる。京子は今回は黒石を二個取り出した。細川は握った白石を数える。余り無しで京子が黒番となった。
「対局を始めて下さい」
「「お願いします」」
佐藤はカメラを構える。京子が初手を打ち、それから細川が二手目を打った所で退室しなければならない記者にとって、対局が終わるまで入室さえ許されない禁域となるこの部屋での最後の大仕事だ。
佐藤は京子が黒石を持った所から、シャッタースピードを最高速度に設定した連続写真を撮影する。畠山京子の最も美しい瞬間を逃したくないからだ。
京子はいつものように、静かに音を立てずに黒石を碁盤に置く。
置いた瞬間、室内に居た全員が「うっ!」という呻き声を漏らした。
京子が初手に打ったのは、天元だった。
「早速ですが、始めましょうか。細川真珠王」
京子はニヤニヤヘラヘラと笑う。
それを見て細川は眉間に皺を寄せた。
室内には、佐藤のカメラのシャッター音がいつまでも鳴り響いていた。
●○●○●○
田村優里亜は、授業中に思わず大声を張り上げそうになったのを、すんでで止めた。スマホで真珠戦第一局の動画配信サイトを見ていたのだ。
(なに考えてんのよ!京子!まさか、天元は写真撮影用で、記者がいなくなったら、初手からやり直し出来ると思ってるんじゃないでしょうね!?)
と考えたが、いや、それはない。たしか京子も地方対局の記録係の経験があったはず。ならば写真撮影用の手なんて、無いと知ってるはずだ。
(なんで初手天元!?いや、面白いけど!楽しみだけど!)
それにしても、タイトル取れるか取れないかの初戦で、いきなりこんな見せ場を作るかな!?
(ホント天才って、心臓にどんだけ毛が生えてるのよ)
優里亜が大声を張り上げられず悶えていた時、同じ状況に陥っていた人物がもう一人いた。
立花富岳は学習用のタブレットで、京子が初手天元を打ったのを見ていた。
(なんかやるだろうなと思ってたけど、まさか初手天元かよ。あの目立ちたがり屋め)
二手目、細川がどこに打ってくるか、見守る。細川は無難に左下隅小目に打ってきた。
(細川さんは冒険しない、か)
三手目。京子がどこに打つか、早く見たかったのだが、記者の退室に手間取っていた。おそらく現場にいた人間の方が、衝撃が大きかったのだろう。
ややあって、京子が三手目を打った。
「ツケ!?」
富岳は授業中なのも忘れ、思わず立ち上がり、大声で叫んだ。
京子の三手目は、二手目の細川の小目にカカリではなく、星に打ってきたのだ。いきなり戦闘開始だ。
「なに考えてんだ!あいつ!」
「あいつとは誰の事だね?」
老齢の数学教師が、富岳に訊ねる。富岳はそのまま座ろうとしたが、教師に前に出て問題を解くよう言われ、吊し上げられた。が、秒で問題を解くと、教師は舌打ちしていた。
●○●○●○
細川が少し眉間に皺を寄せる。初手天元を見た時は「なめくさりおって!」と、腹が立った。そして三手目はカカリではなくツケ。
(相当早く戦いたいんやな)
と思ったが、相手がカカって来ないならと、こちらは地を取りに行こうと、冷静に四手目は左上隅小目と対処した。
てっきり京子は左下の石を取りにくるのだろうと思ったら、そうではなかった。5手目も4手目の小目に星とツケてきた。
(なに考えてんのやろ。ただの嫌がらせかいな?)
そう考えながらも、細川は6手目も冷静に右下隅小目と地を取りに行く手を打つ。
しかし京子が今打った、この7手目を見て考えが180度変わった。京子は今度は、細川の右下隅小目に星ツケを打たず、左辺の星に打ってきたのだ。
(なんやこれ。もしかして……)
白側から見ると、細川が黒番で三連星を打ったように見えるのだ。三連星は細川が若い頃、最も得意とし、三大女流棋戦を制覇するにまで極めた、細川の必殺の戦法だ。
(こんな形にされるんは、予想できひんかった……)
細川は確信した。私の碁について、この子は徹底的に調べてきている。しかも最近の碁だけでなく、古いものも全て。
京子の企みに気づいた細川は、どう対処しようか、悩んだ。
(落ち着け。三連星は昔の栄華。今は現代の碁に順応した碁に変えて、昨年、真珠王への挑戦権を得たのだから。それに三連星はもう長く打ってないのだから、見誤る事もない。狼狽える必要はない)
まだ7手目だというのに、気付いたら、細川は持ち時間3時間の内の6分の1、30分を使っていた。
(まずい!きっと、こうして時間を使わせるんも、これも作戦のうちや)
細川が碁盤から京子の顔に視線を移す。
京子は再びノートを広げて、すごい速さで鉛筆で何かを書き込んでいた。
細川はずっと京子を睨み付けているのに、京子はそんな細川には全く気にも止めていないようで、一心不乱に鉛筆を動かしている。
(なんや。計画通りで、暇そうやな!)
細川は京子を睨みながら歯軋りする。しかし京子はそんな細川の仕草すら気に止める様子がない。
(ええ度胸しとるやないの)
細川は碁盤に視線を戻す。それから大きく深呼吸した。
確かに近年は三大女流棋戦からも遠ざかっていたが、自分には、女流棋士の実力の底上げをしたという矜持がある。
(魔術師の弟子は、所詮、弟子やろ。あの魔術師を超える弟子なんて、そうそう出る訳ない。ええやないの。あんたの挑戦、受けて立ってやろうやないかい)
細川は白石を持つと、戦闘開始の合図であるかのように、勢いよく碁盤に叩きつけた。
●○●○●○
決着は呆気なかった。
細川がやらかしたのだ。
京子はあの後、細かい碁に誘導して、読み勝負の碁に仕掛けてきたのだ。
『敵の急所は我が急所』と言うくらいだから、最悪、たとえ京子の思惑通り黒と白を間違えても、なんとかなるだろうと思っていたのだが、その油断が命取りとなってしまった。まんまと京子の術中に嵌まり、打ち進めているうちに昔の碁が蘇り『自分は黒で三連星を打っている』と勘違いしてしまったのだ。
自分が長い年月を掛けて築き上げてきた物を、木っ端微塵にぶっ壊されたような碁だった。あまりにも見事な手腕で、細川は恨み節すら出てこなかった。
投了した細川が顔を上げた。
「あんさん。天元の石、結局遊ばせたままやったなぁ」
感想戦に入る。いつ、この天元を活かした手を打ってくるのかと構えていたが、中央での戦いが始まるまで手を加えず、結局、なんのために天元に打ったのか、疑問だけが残った。
細川の問いに京子が答える。
「ええ。天元の石は最初から捨てるつもりでいたので」
「「「はぁ!?天元の石を捨てる!?」」」
京子以外、立会人も記録係も、そして細川も恥も外聞も忘れて叫んだ。
「はい。細川真珠王とは初対局だったので、本当は、相手の出方を見ながら打てる白番が良かったんですけど」
「「「はぁ!?白のほうがいい!?」」」
京子以外の人間が皆、全く同じリアクションで、京子はちょっと仲間はずれにされたような気分になる。
(この子、さっきから何言うてるか、さっぱり分からへん……)
呆然としている細川を尻目に、京子は更に話を続ける。
「もし白が天元の石を取りにくるようならば、隅の地を取りにいけばいいし。取らないなら、中央でガッチリ戦えばいいし」
(言うてる事はわかる。中央より、隅のほうが石の数が少なくても生きれるから。だから、最初は隅を押さえにいく。せやけど、天元に打った初手を捨て石にするて、黒先手の有利を捨てるようなもんやろ!それをこの子は……)
京子以外の人間が呆然としていると、棋院職員が呼びに来た。
大判解説の場でも、客から細川と同じ質問が飛んだが、京子は同じように答え、会場の客も一人残らず同じリアクションをし、京子は再び仲間はずれにされた気分を味わっていた。
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