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次の一手編
「自分の役目を全うする」か「気分転換する」か
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岡本家にある大盤解説用の碁盤を背景にして、京子はモニター越しに加賀谷に話しかける。
「加賀谷さん、今晩は!」
イヤホンを通しても京子の声は大きい。前もって音量を絞っておいたのに、それでも耳がキーンと遠鳴りする。
【圃畦塾】開講から2ヶ月強。オンライン授業担当の講師・加賀谷伸行は、京子と二人きりのオンライン会議に参加していた。加賀谷の素性は誰にも知らせていない。総務の神崎も名前を知っているだけだ。知っているのは弁護士の新井雅美だけだ。
「秋田犬先生、大好評ですよ!すごく楽しいし、勉強もわかりやすいって!」
京子が作ったアバター・秋田犬先生。この秋田犬先生は、京子が小学一年生の頃から作成していた学習アプリ『秋田犬にもわかる』シリーズに登場する先生役アバターだ。この『秋田犬~』シリーズは、某学習塾に販売したのだが、『作成者である畠山京子および圃畦塾は無償で使用可』という契約を結んでいたのだ。その秋田犬先生を無人で運用出きるよう、学習用AIを搭載加工したのが加賀谷なのだ。小学校の必須科目全てに対応している。三島にも出来そうだが、なぜ加賀谷なのかというと、秋田犬らしくするため時折秋田弁を喋る仕様にしたためだ。
【圃畦塾】では不登校児童のために、オンラインフリースクールも行っている。しかし最近では「もっと勉強したい」という子の声に答え、誰でもオンライン授業に参加できるようにした。そもそもAIが先生なので、スタッフの手がかからないうえに、一人一人その子の学習の進み具合に合わせられるので、子供も大人もWin-Winが成り立つ。
しかし弊害もあった。オンラインにしたことによって、教科ごとの勉強の進み具合に差が出てきた。だが圃畦塾では教科ごとに個別指導方式を取っているので、差が出るのは想定済みで、今月6月から週一・日曜日に加賀谷とオンライン会議を開くことになったのだ。その会議の一回目が今日だ。
今、どの子がどのレベルの授業を受けているのか、状況確認のための会議だ。
教科の好き嫌いはしょうがないとはいえ、あまりにも好きな教科と嫌いな教科の進み具合が大きすぎると、学校での授業に差し障るため、バランスを取る。
しかし本来、圃畦塾はプログラミング塾だ。なのでプログラミングに関しては、ストップをかけずにどんどん先に授業内容を進めていく。
「それから友喜くんなんだが」
圃畦塾オープン初日、京子に「ゲームなんてつまらない」と言った小学3年生の男の子だ。
「他の教科はそうでもないんだが、最近、『プログラミング』の進み具合が速くてね。相当自習していて、もう俺達で作成した特別カリキュラムの6年生分までを終えたようなんだ」
「ほお!それはすごいですね!やる気満々ですね!」
「ああ。本人も「早く難しい勉強したい」と言ってたよ」
ちなみに友喜の話を聞いたのは秋田犬先生だ。キーワードに引っ掛かると画像を保存する仕組みだ。
「だからやる気のあるうちに、本格的なプログラミングのカリキュラムに進めてもいいんじゃないかと思う」
「『鉄は熱いうちに打て』ですね!」
子供の興味はすぐ変わる。飽きるのが早い。アレが流行っていると言えば皆がアレに飛び付き、今まで夢中になっていたものには見向きもしなくなる。
だからやる気のあるうちに、プログラミング沼に沈めてしまおうという魂胆だ。
「わかりました。では以降はこちらでお預かりします」
同じ大学に通っていた三嶋の友人が、希望していない職種の部署に配置されたと、2週間で会社をやめたそうだ。三嶋から【圃畦塾】の話を聞き、京子が面接を行い、【プログラミング講師】として雇うことにした。プログラミング知識も技術も、三嶋よりも格段に上だったからだ。以後は彼にこの子の指導を任せる。
「……今日はこんなとこですかね」
一通りの報告を終え、お互い一息吐く。京子は水出しのほうじ茶を、加賀谷は冷めてしまったコーヒーを啜った。
「で、加賀谷さん。お元気でしたか?」
「だからな、それ、最初にする挨拶だろ」
去年のお盆の時も、正月に会った時もこうだった。どうにもこの子は順番がおかしい。
「ご両親もお元気ですか?」
京子のこの言葉に、加賀谷は眉間に皺を寄せた。
「親父がな、そろそろ危ない」
「え?」
「今、入院してるんだよ。ちょうど1ヶ月前からな。胃癌でお盆までもたないらしい」
「……それ、早く言って下さいよー!」
迂闊だった。イヤホンの音量を戻していたので、脳内に京子の声が大音量で響く。慌ててイヤホンを外したが、時既に遅し。
「何かお手伝い出来ることは?看病とかやってるんですか?もし仕事に支障があるようならば……」
画面越しに何かを早口で捲し立てるのは分かったが、イヤホンを外したのに気づいていないのか、京子は喋るのを止めない。
京子が一息ついたところで、加賀谷はまたイヤホンを装着した。
「落ち着け。あのな、入院先は終末期医療と言って、いわゆる「看取り介護」をやってくれる病院なんだ。だから毎日見舞いに行ってくるだけで、仕事には支障は無い」
「病院の場所はどこなんです?自宅から近いんですか?それでも毎日お見舞いに行くだけでも、負担になりますよ!」
京子は変わらず大声で興奮している。無理もない。加賀谷にはもうひとつ、重要な役割がある。財務担当だ。
【圃畦塾】の月謝は「経営が成り立つのか?」と言うほど安い。その安さを補っているのが、この加賀谷だ。某貿易会社を首になってから、トレーダーとして生活費だけを稼いできた。そのトレーダーとしての腕を今は【株式会社KーHO】の資金繰りに役立てている。単位が単位なので、楽しすぎて最初の頃はとんでも無い額を稼いでしまった。しかし京子も京子で、「これでやりたい事を後回しにせずに済みました」と、数年先に予定していた事業を前倒しすることに決めた。今は稼ぎすぎないように必要な分だけ回している。
その大事な金蔓が戦闘不能になる可能性があると聞けば、誰だって焦りもするだろう。
「ここから車で10分もかからない所だから。今までだって、ちゃんと仕事をこなしてこれただろ」
親父が入院したのは1ヶ月前。1ヶ月間なんの問題も無くやってこれた。葬儀会社も決めて、今出来うる準備は進めてあり、圃畦塾には極力迷惑がかからないようにしてある。
「仕事の心配をしてるんじゃないんですよ!看病疲れで、加賀谷さんが倒れる心配をしてるんですよ!それにお母様も健在なのでしょ?もしお母様も倒れたら、加賀谷さん1人で2人の面倒を看なきゃならなくなるじゃないですか!」
加賀谷が何かを言いかけて口を噤む。
(全く、この子は。気を回しすぎだ)
大人を手玉に取り、使い回すだけ使い回す。
他人を駒かロボットぐらいにしか思って無いんじゃないのかと思いきや、こんな風に気を使う。
不器用な子なんだと思う。
口下手で、言葉足らずで。
時に人から反感を買っていると、愚痴を聞かされた。4月、塾開講後の状況を聞いた時、同じ学校に通う囲碁の先輩を嫌な気持ちにさせたかもしれないと、項垂れていた。
どんな幼少期を過ごしたのか、聞いた。予想通りの答えが返ってきた。こんな性格の子になるだろうな、という感想だった。
「東京から人を送ります。介護のプロを」
「ちょっ、ちょっと待て!」
京子の申し出に、加賀谷は慌てる。
「言っただろ!その必要はないから!ちゃんと秋田の病院にだって看護師はいるんだから!それに、もしヤバそうだったら、ちゃんと救援要請するから!」
ここまで言ってもまだ納得がいかないのか、画面越しの京子は膨れっ面だ。
「遠慮せずに、無理そうだったらすぐ言って下さいね!絶対に!約束ですよ!」
約束と聞いて、加賀谷はハッと息を飲む。
(約束なんて、いつ以来かな)
前の会社をクビになり、以来ずっと家に籠りっきりで、他人とは関わらないようにして10年以上暮らしてきた。約束を取り付ける相手なんて、いなかった。
「分かった。約束する」
加賀谷はモニターの画面ではなく、カメラに向かって答えた。
「約束しましたからね!嘘吐いたら本当に針千本飲ませますからね!」
子供じみた言い方に、加賀谷は思わず微笑む。
「分かったよ、ボス。俺はボスには逆らわないから」
「時には逆らって下さいよ!部下が上司に提言出来ない会社なんて、典型的なブラック企業じゃないですか!うちをブラック企業にする気ですか!?」
思わず笑ってしまう。あんな手を使って俺を仲間に引き込んでおいて、よくもブラック企業にするなと言えたもんだ。
「何がおかしいんですか!?」
画面の向こうがまた膨れっ面になる。
加賀谷は声をあげて笑う。駆け引きは上手いくせに、こういう所はまだまだ子供なんだと思わせる。歪に成長してしまっていると感じる。なんとか修正できないものだろうか。それとも余計なお世話だろうか?これが畠山京子の魅力のひとつだとも思えるから。
「俺よりも、自分の心配しろよ。もうすぐなんだろ?女流棋戦の、えーと、なんて言ったかな?真珠戦だっけ?」
もうすぐ『真珠戦決勝リーグ』の最終戦が行われる。京子はここまで無敗であるが、もう一人無敗がいるため、挑戦者決定には次の対局で勝利することが条件となる。
「おおーっ!加賀谷さんが棋戦について、勉強してくれてるー!」
「当たり前だろ。ボスが転ぶか勝ち上がるかで、あの計画が大きく変わるだろ」
一年半前、加賀谷に渡した『畠山京子50年計画』の中学3年のページに書かれてあった計画だ。
ここまでほぼ計画通り進んでいる。
とんでもない事だと思う。囲碁の世界は分からないが、中学生が大人に立ち向かって行く大変さは理解は出来る。
有名な師匠に付いて、しかもその師匠は女性の弟子は取らない主義らしくて、それでも初の女弟子にしてもらって。さぞ嫉妬の目で見られたことだろう。「注目されてこそプロなんだから、気にしていない」とは言っても、年頃の子供だ。さぞストレスになっているだろう。
「任せてくださいよ!伊達に『岡本幸浩の弟子をやってない』って、証明してきますよ!」
画面の向こうのボスが、親指を立てて白い歯を見せる。「どこからその自信が出てくるんだ」とツッコミたくなるほどのドヤ顔で。
(うん。この子は『他人にストレスを与えるタイプ』だったな)
「真珠戦の第一局は、京都の舞鶴なんですよ!加賀谷さん、看病の気分転換に大盤解説を見に京都に来て下さいよ!お母様と一緒に!」
京子にこう言われて、加賀谷は記憶を辿る。
(そういや家族旅行なんて、行ったことないな)
出不精な父親のせいで、旅行どころか、家族との外出の思い出すら無い。
あの父親に付き合わされ、今まで自分のやりたいことを我慢してきた母親には、温泉宿に宿泊ぐらいの親孝行は、しても良いのかもしれない。
「まだ挑戦者に決まって無いんだろ?」
「自信あるんで」
本当にこの自信はどこからくるんだろう?それともこう言って自分を奮い立たせているのだろうか?どちらも正解のような気がする。
「そうか。でも今は、いつ病院から呼び出しがかかるか、分からないから、親父を看取ってからかな」
「そうですか。そうですね。その時が来たら、こちらにも連絡下さいね」
「ああ。わかった」
予定より30分押しで、今日のオンライン会議は終わった。
●○●○●○
その日の夜、加賀谷はパソコンに向かい、真珠戦第一局の行われる温泉宿を検索した。
今日、京子に「京都に来てくれ」と言われて、その気になった。変な意味では無く、純粋に京都観光したいと思った。何度か仕事で行ったことはあるが、金閣寺も清水寺も東寺も、いつも京都らしい所は何も見ずに帰るしか無かった。洛中は人が多いだろう。避けたほうが良さそうだ。舞鶴なら天の橋立がいいか。
よくよく考えてみると、外泊するのは会社を辞めてから一度も無いかもしれない。
(気分転換か。悪くない)
十数年ぶりの京都。思わず鼻歌が出る。仕事抜きだと思うだけで、こんなにも楽しいのか。
加賀谷はマウスを走らせる。真珠戦第一局の行われる温泉宿を調べる。手頃な値段の部屋から、およそ金持ちでなければ泊まれないだろと思う程高額な部屋まである。
「そうか。この高額な部屋で対局するのか。すげーな、うちのボス」
まだ挑戦者に決まった訳ではないのに、そんな事を考えながらマウスを走らせていると、スマホが鳴った。
画面には父親の入院先の病院名が表示されていた。
「加賀谷さん、今晩は!」
イヤホンを通しても京子の声は大きい。前もって音量を絞っておいたのに、それでも耳がキーンと遠鳴りする。
【圃畦塾】開講から2ヶ月強。オンライン授業担当の講師・加賀谷伸行は、京子と二人きりのオンライン会議に参加していた。加賀谷の素性は誰にも知らせていない。総務の神崎も名前を知っているだけだ。知っているのは弁護士の新井雅美だけだ。
「秋田犬先生、大好評ですよ!すごく楽しいし、勉強もわかりやすいって!」
京子が作ったアバター・秋田犬先生。この秋田犬先生は、京子が小学一年生の頃から作成していた学習アプリ『秋田犬にもわかる』シリーズに登場する先生役アバターだ。この『秋田犬~』シリーズは、某学習塾に販売したのだが、『作成者である畠山京子および圃畦塾は無償で使用可』という契約を結んでいたのだ。その秋田犬先生を無人で運用出きるよう、学習用AIを搭載加工したのが加賀谷なのだ。小学校の必須科目全てに対応している。三島にも出来そうだが、なぜ加賀谷なのかというと、秋田犬らしくするため時折秋田弁を喋る仕様にしたためだ。
【圃畦塾】では不登校児童のために、オンラインフリースクールも行っている。しかし最近では「もっと勉強したい」という子の声に答え、誰でもオンライン授業に参加できるようにした。そもそもAIが先生なので、スタッフの手がかからないうえに、一人一人その子の学習の進み具合に合わせられるので、子供も大人もWin-Winが成り立つ。
しかし弊害もあった。オンラインにしたことによって、教科ごとの勉強の進み具合に差が出てきた。だが圃畦塾では教科ごとに個別指導方式を取っているので、差が出るのは想定済みで、今月6月から週一・日曜日に加賀谷とオンライン会議を開くことになったのだ。その会議の一回目が今日だ。
今、どの子がどのレベルの授業を受けているのか、状況確認のための会議だ。
教科の好き嫌いはしょうがないとはいえ、あまりにも好きな教科と嫌いな教科の進み具合が大きすぎると、学校での授業に差し障るため、バランスを取る。
しかし本来、圃畦塾はプログラミング塾だ。なのでプログラミングに関しては、ストップをかけずにどんどん先に授業内容を進めていく。
「それから友喜くんなんだが」
圃畦塾オープン初日、京子に「ゲームなんてつまらない」と言った小学3年生の男の子だ。
「他の教科はそうでもないんだが、最近、『プログラミング』の進み具合が速くてね。相当自習していて、もう俺達で作成した特別カリキュラムの6年生分までを終えたようなんだ」
「ほお!それはすごいですね!やる気満々ですね!」
「ああ。本人も「早く難しい勉強したい」と言ってたよ」
ちなみに友喜の話を聞いたのは秋田犬先生だ。キーワードに引っ掛かると画像を保存する仕組みだ。
「だからやる気のあるうちに、本格的なプログラミングのカリキュラムに進めてもいいんじゃないかと思う」
「『鉄は熱いうちに打て』ですね!」
子供の興味はすぐ変わる。飽きるのが早い。アレが流行っていると言えば皆がアレに飛び付き、今まで夢中になっていたものには見向きもしなくなる。
だからやる気のあるうちに、プログラミング沼に沈めてしまおうという魂胆だ。
「わかりました。では以降はこちらでお預かりします」
同じ大学に通っていた三嶋の友人が、希望していない職種の部署に配置されたと、2週間で会社をやめたそうだ。三嶋から【圃畦塾】の話を聞き、京子が面接を行い、【プログラミング講師】として雇うことにした。プログラミング知識も技術も、三嶋よりも格段に上だったからだ。以後は彼にこの子の指導を任せる。
「……今日はこんなとこですかね」
一通りの報告を終え、お互い一息吐く。京子は水出しのほうじ茶を、加賀谷は冷めてしまったコーヒーを啜った。
「で、加賀谷さん。お元気でしたか?」
「だからな、それ、最初にする挨拶だろ」
去年のお盆の時も、正月に会った時もこうだった。どうにもこの子は順番がおかしい。
「ご両親もお元気ですか?」
京子のこの言葉に、加賀谷は眉間に皺を寄せた。
「親父がな、そろそろ危ない」
「え?」
「今、入院してるんだよ。ちょうど1ヶ月前からな。胃癌でお盆までもたないらしい」
「……それ、早く言って下さいよー!」
迂闊だった。イヤホンの音量を戻していたので、脳内に京子の声が大音量で響く。慌ててイヤホンを外したが、時既に遅し。
「何かお手伝い出来ることは?看病とかやってるんですか?もし仕事に支障があるようならば……」
画面越しに何かを早口で捲し立てるのは分かったが、イヤホンを外したのに気づいていないのか、京子は喋るのを止めない。
京子が一息ついたところで、加賀谷はまたイヤホンを装着した。
「落ち着け。あのな、入院先は終末期医療と言って、いわゆる「看取り介護」をやってくれる病院なんだ。だから毎日見舞いに行ってくるだけで、仕事には支障は無い」
「病院の場所はどこなんです?自宅から近いんですか?それでも毎日お見舞いに行くだけでも、負担になりますよ!」
京子は変わらず大声で興奮している。無理もない。加賀谷にはもうひとつ、重要な役割がある。財務担当だ。
【圃畦塾】の月謝は「経営が成り立つのか?」と言うほど安い。その安さを補っているのが、この加賀谷だ。某貿易会社を首になってから、トレーダーとして生活費だけを稼いできた。そのトレーダーとしての腕を今は【株式会社KーHO】の資金繰りに役立てている。単位が単位なので、楽しすぎて最初の頃はとんでも無い額を稼いでしまった。しかし京子も京子で、「これでやりたい事を後回しにせずに済みました」と、数年先に予定していた事業を前倒しすることに決めた。今は稼ぎすぎないように必要な分だけ回している。
その大事な金蔓が戦闘不能になる可能性があると聞けば、誰だって焦りもするだろう。
「ここから車で10分もかからない所だから。今までだって、ちゃんと仕事をこなしてこれただろ」
親父が入院したのは1ヶ月前。1ヶ月間なんの問題も無くやってこれた。葬儀会社も決めて、今出来うる準備は進めてあり、圃畦塾には極力迷惑がかからないようにしてある。
「仕事の心配をしてるんじゃないんですよ!看病疲れで、加賀谷さんが倒れる心配をしてるんですよ!それにお母様も健在なのでしょ?もしお母様も倒れたら、加賀谷さん1人で2人の面倒を看なきゃならなくなるじゃないですか!」
加賀谷が何かを言いかけて口を噤む。
(全く、この子は。気を回しすぎだ)
大人を手玉に取り、使い回すだけ使い回す。
他人を駒かロボットぐらいにしか思って無いんじゃないのかと思いきや、こんな風に気を使う。
不器用な子なんだと思う。
口下手で、言葉足らずで。
時に人から反感を買っていると、愚痴を聞かされた。4月、塾開講後の状況を聞いた時、同じ学校に通う囲碁の先輩を嫌な気持ちにさせたかもしれないと、項垂れていた。
どんな幼少期を過ごしたのか、聞いた。予想通りの答えが返ってきた。こんな性格の子になるだろうな、という感想だった。
「東京から人を送ります。介護のプロを」
「ちょっ、ちょっと待て!」
京子の申し出に、加賀谷は慌てる。
「言っただろ!その必要はないから!ちゃんと秋田の病院にだって看護師はいるんだから!それに、もしヤバそうだったら、ちゃんと救援要請するから!」
ここまで言ってもまだ納得がいかないのか、画面越しの京子は膨れっ面だ。
「遠慮せずに、無理そうだったらすぐ言って下さいね!絶対に!約束ですよ!」
約束と聞いて、加賀谷はハッと息を飲む。
(約束なんて、いつ以来かな)
前の会社をクビになり、以来ずっと家に籠りっきりで、他人とは関わらないようにして10年以上暮らしてきた。約束を取り付ける相手なんて、いなかった。
「分かった。約束する」
加賀谷はモニターの画面ではなく、カメラに向かって答えた。
「約束しましたからね!嘘吐いたら本当に針千本飲ませますからね!」
子供じみた言い方に、加賀谷は思わず微笑む。
「分かったよ、ボス。俺はボスには逆らわないから」
「時には逆らって下さいよ!部下が上司に提言出来ない会社なんて、典型的なブラック企業じゃないですか!うちをブラック企業にする気ですか!?」
思わず笑ってしまう。あんな手を使って俺を仲間に引き込んでおいて、よくもブラック企業にするなと言えたもんだ。
「何がおかしいんですか!?」
画面の向こうがまた膨れっ面になる。
加賀谷は声をあげて笑う。駆け引きは上手いくせに、こういう所はまだまだ子供なんだと思わせる。歪に成長してしまっていると感じる。なんとか修正できないものだろうか。それとも余計なお世話だろうか?これが畠山京子の魅力のひとつだとも思えるから。
「俺よりも、自分の心配しろよ。もうすぐなんだろ?女流棋戦の、えーと、なんて言ったかな?真珠戦だっけ?」
もうすぐ『真珠戦決勝リーグ』の最終戦が行われる。京子はここまで無敗であるが、もう一人無敗がいるため、挑戦者決定には次の対局で勝利することが条件となる。
「おおーっ!加賀谷さんが棋戦について、勉強してくれてるー!」
「当たり前だろ。ボスが転ぶか勝ち上がるかで、あの計画が大きく変わるだろ」
一年半前、加賀谷に渡した『畠山京子50年計画』の中学3年のページに書かれてあった計画だ。
ここまでほぼ計画通り進んでいる。
とんでもない事だと思う。囲碁の世界は分からないが、中学生が大人に立ち向かって行く大変さは理解は出来る。
有名な師匠に付いて、しかもその師匠は女性の弟子は取らない主義らしくて、それでも初の女弟子にしてもらって。さぞ嫉妬の目で見られたことだろう。「注目されてこそプロなんだから、気にしていない」とは言っても、年頃の子供だ。さぞストレスになっているだろう。
「任せてくださいよ!伊達に『岡本幸浩の弟子をやってない』って、証明してきますよ!」
画面の向こうのボスが、親指を立てて白い歯を見せる。「どこからその自信が出てくるんだ」とツッコミたくなるほどのドヤ顔で。
(うん。この子は『他人にストレスを与えるタイプ』だったな)
「真珠戦の第一局は、京都の舞鶴なんですよ!加賀谷さん、看病の気分転換に大盤解説を見に京都に来て下さいよ!お母様と一緒に!」
京子にこう言われて、加賀谷は記憶を辿る。
(そういや家族旅行なんて、行ったことないな)
出不精な父親のせいで、旅行どころか、家族との外出の思い出すら無い。
あの父親に付き合わされ、今まで自分のやりたいことを我慢してきた母親には、温泉宿に宿泊ぐらいの親孝行は、しても良いのかもしれない。
「まだ挑戦者に決まって無いんだろ?」
「自信あるんで」
本当にこの自信はどこからくるんだろう?それともこう言って自分を奮い立たせているのだろうか?どちらも正解のような気がする。
「そうか。でも今は、いつ病院から呼び出しがかかるか、分からないから、親父を看取ってからかな」
「そうですか。そうですね。その時が来たら、こちらにも連絡下さいね」
「ああ。わかった」
予定より30分押しで、今日のオンライン会議は終わった。
●○●○●○
その日の夜、加賀谷はパソコンに向かい、真珠戦第一局の行われる温泉宿を検索した。
今日、京子に「京都に来てくれ」と言われて、その気になった。変な意味では無く、純粋に京都観光したいと思った。何度か仕事で行ったことはあるが、金閣寺も清水寺も東寺も、いつも京都らしい所は何も見ずに帰るしか無かった。洛中は人が多いだろう。避けたほうが良さそうだ。舞鶴なら天の橋立がいいか。
よくよく考えてみると、外泊するのは会社を辞めてから一度も無いかもしれない。
(気分転換か。悪くない)
十数年ぶりの京都。思わず鼻歌が出る。仕事抜きだと思うだけで、こんなにも楽しいのか。
加賀谷はマウスを走らせる。真珠戦第一局の行われる温泉宿を調べる。手頃な値段の部屋から、およそ金持ちでなければ泊まれないだろと思う程高額な部屋まである。
「そうか。この高額な部屋で対局するのか。すげーな、うちのボス」
まだ挑戦者に決まった訳ではないのに、そんな事を考えながらマウスを走らせていると、スマホが鳴った。
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