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次の一手編

確率を伝えるには「数字」がいいのか「諺」がいいのか

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 岡本幸浩一門の兄弟子・武士沢ぶしざわ友治ゆうじは、久々にネクタイをし、正装してとある料亭にいた。

 今日、ここに正装して来ているのは、妹弟子・畠山京子のためだ。


 京子の後援会会長に、江田正臣が正式に就任した。江田正臣は武士沢の弟弟子・江田照臣の実兄。あの江田グループの取締役会長だ。

 照臣が岡本に弟子入りするきっかけを作ったのが正臣だったそうで、岡本門下の新年会には毎年参加しているので、もう武士沢との付き合いは20年以上になる。年齢は武士沢のほうが年上なのだが、あの江田グループの御曹司ということもあってか正臣には子供の頃から威圧感があり、どうしても一歩引いて敬語を使ってしまう。

 京子から「後援会会長に江田さんのお兄さんにお願いすることになった」と聞かされた時は心底驚いた。ただ、心配性の武士沢にとっては、全く知らない人間が京子の後援会会長になるよりも、為人を知ってる人間のほうが良かったので、この人選に不満は無い。

 それにしても妹弟子はとんでもない人物を後援会会長にしたもんだ。京子はわかっているのだろうか?日本のトップ企業と手を組んだら、どうなるか。恐らくわかっていないだろう。頭が切れるといってもまだ中学生だ。

 それに、どういう経緯で正臣は京子の後援会会長を引き受けたのか、聞かされていない。新年会でしか顔を合わせていないはずの両者が、一体どこでどんなやり取りをして後援会会長を引き受ける話にまで発展したのか。武士沢はこの会食で、その辺をはっきり聞き出しておきたいと思っている。



 岡本門下生への報告も兼ねて、食事会が開かれる事になった。場所は都内の料亭。30年棋士をしている武士沢も初めて訪れる料亭だ。

 面子は今日の主役・江田正臣と京子。それから師匠の岡本と妻・純子すみこ。京子の兄弟子・武士沢、江田照臣、三島。それから碁会所を経営する京子の母方の祖父・佐々木泰蔵たいぞうも招かれた。武士沢は京子の祖父と会うのは初めてだ。京子の祖父は岡本より年下で長身、口元は京子とよく似ていた。商売人らしく笑顔を絶やさない老人、という印象だった。


 主役である江田会長が上座に座る。その右隣にもう一人の主役である京子が座り、さらにその右隣に京子の祖父。江田会長の真正面の席には岡本夫妻が座った。武士沢以下門下生は空いた席を埋めるように座る。


 岡本が乾杯の音頭を取り、宴が始まった。

 京子は正月以来会っていなかった祖父と他愛ない会話をしている。魚介類好きの三島は出された蟹を無言で食べている。照臣は京子と祖父の会話を目を細めながら聞いている。

 師匠の岡本はというと、大好きな越乃寒梅に口もつけずに、江田会長に向かってこんな質問を投げ掛けた。

「実は私、まだ京子から、正臣君が後援会会長を引き受けるに至った経緯を詳しく聞いていないんですよ。話してもらえるかね」

 武士沢の目がカッと見開く。

 (師匠にも報告してなかったんかーい!)

 と大声でツッコミそうになるのをすんでのところで踏みとどまった。師匠も師匠だ。今の今まで京子から詳しい経緯を聞いていないなんて!放任が過ぎる!

「畠山さん、どういう事だい?説明していないなんて」

 正臣が京子を「名字呼び+さん」付けで呼んで、武士沢は一瞬「おや?」と疑問に思ったが、京子のその後のヘラヘラした笑いに気を逸らされた。

「ごめんなさーい!聞かれなかったから、言わなくてもいいのかなーって」

「そんなわけ、ないだろ!」

 思わず武士沢はツッコんでしまった。コホンと咳払いをして、仕切り直す。

「失礼。江田会長、私も経緯をちゃんと聞いておきたいのですが。説明願えますでしょうか」

 正臣はチラリと京子に目を配る。京子も正臣に一瞥くれる。

「説明するの、私じゃなくていいんですか?」

 京子が岡本ではなく、武士沢のほうを見て言った。

 武士沢は少し悩む。岡本は京子に聞くチャンスはいくらでもあったはずなのに、今まで聞かなかったらしい。ということは、正臣から話を聞き出したい「何か」があるということだろうか?

 もしそうなら、二人とも本当の事を正直に話すとは思えない。正臣は世界を股に掛ける大事業主。京子は嘘を吐かないようのらりくらりと躱す口八丁。それにボロを出さないよう、もう口裏を合わせているだろうし。

 武士沢は岡本に目配せする。岡本はコクリと頷いた。どうやらこの場は武士沢に任せるらしい。

 (なるようにしか、ならないか……)

 それでもあるひとつの懸念だけは排除しておきたい。その質問だけは頃合いを見てぶつけよう。

 さて、どちらに質問するか。一流企業を袖にする百戦錬磨の正臣か。口八丁の京子か。

 (まぁ、嘘は吐かない京子だな)

「じゃあ、京子。説明してくれるか?」

「はい!えーと、去年の年末です。私が対局を終えて、その日同じく対局だった伊田さんとご飯を食べに行ったら、そこに江田会長もいらしてて、ご一緒することになったんです。その席で、まぁ、冗談ぽく「私の後援会会長になってください」と言ったら、本当にやって下さる事になっちゃったんです」

 京子はしれっとこう言った。京子は河川敷での出来事は武士沢達に言うつもりはない。言えばまた武士沢に余計な心配をさせるだけだ。嘘は言わないように上手く誤魔化す。伊田と食事に行った時にはもう江田の後援会会長の話しは本決まりになっていただけで、その店で会うのは予め打ち合わせしていた。河川敷での出来事を無かったことにするために。


「見返りは?」

 武士沢は間髪入れずに正臣に聞いた。ワンクッション入れるより畳み掛けたほうがいいと棋士の勘が言っていた。さらに武士沢は疑問をぶつけた。

「大企業の会長がなんの見返りも無く、たかが中学生を囲うとは思えなくてね」

 江田会長は八海山の入った御猪口を置いて言った。

「見返りならありますよ。まず、畠山さんは4月から小学生向けの塾を始めるそうですね。しかもプログラミングに関する塾だとか。数年先の話にはなりますが、その塾でプログラマーとして将来働きたいと言う子供を優先的に雇おうかと。どんな性格の子なのか全くわからない子よりも、ある程度知っているほうがいい。なぜなら、セキュリティに大きく関わってきますから。顧客名簿や社員名簿、その他個人情報は勿論、企画に関する情報を金次第で簡単に売る人間はいくらでもいますから」

 なるほど。確かに、人を雇う立場の人間からしたら「仕事の出来る人間」であることよりも「信頼できる人間」のほうが、今の時代、最重要なのか。

「それから、その塾で作成したプログラムを優先的に売って下さる契約を結びました。まず手始めに「迎撃型セキュリティプログラム」を1億円で購入致しました」

「いっっ……おく!?高すぎやしませんか?」

 武士沢は思わず大声をあげてしまった。IT関連に疎い武士沢にはどの辺が妥当な金額かはわからないが、中学生に1億円をポンと払うなんて常軌を逸している。

「それだけ畠山さんが作成したセキュリティプログラムは素晴らしい物だったのです。むしろこの値段でも安すぎるくらいです」

 武士沢は三島のほうを見やる。三島は黙々と蟹を食っていた。どうやら三島は知っていたようだ。

 (そんな大金が動いたなら、俺に知らせておけよ!)

 という視線を三島に投げたが、三島は知らん顔で蟹を貪っている。

 こんな大事おおごとになるなら、年末、京子の棋院での説明会に行けば良かった。娘のクリスマスプレゼントを後回しにして。


 正臣は話を続ける。

「それに畠山さんはこれだけの美貌の持ち主ですから。それだけで宣伝効果はあります。棋士として名を馳せたなら尚更でしょう。畠山さんには、我がグループの広告塔になっていただきたいと思っております」

 すっかり失念していた。

 野生の獣のような振る舞いに目が行きがちになるが、この子は『』美少女なのだ。

 広告塔にしたいというのであれば納得がいく。

 しかしそれでは武士沢の懸念は払拭されない。

 武士沢は凄んでこう正臣に聞いた。

「この子をどのようになさるおつもりで?」

「ああ。失礼。言い方が悪かったですね。我が社はコンプライアンス重視の業務形態ですから、間違っても畠山さんにセクハラめいた内容の仕事は依頼致しません」

 京子が「うんうん」と頷く。

「まぁそうですね。私の体に触れようとする輩には、社会的にも肉体的にも死んでいただきますから」

 と言って京子が指をポキポキと鳴らした。

 そうだ。野生動物が平和ボケした現代人に簡単にやられる訳がないか。

「肉体的にはさすがにまずいから、社会的に、だけにしておきなさい」

 武士沢がこう言うと、京子が目を大きく見開いた。

「武士沢さんでもそんな冗談言うんですね!」

 真剣に言ったつもりだったのに。

 まぁいいか。武士沢が懸念していたような手順を踏んで後援会会長になった訳では無いらしいのは、京子を見ていればわかる。

 この子は嘘を吐かない。変わりに何か企んでいる時、ニヤニヤともヘラヘラともつかない不気味な笑い方をする。

 嘘は吐いていない。ただ、本当の事は全部言っていない。

 全てを吐かせたいが、本当の事を聞き出す『話術』が自分には無い。


 岡本も武士沢と同じ結論に至ったのか、それとも京子の話す仕草から引き出したい情報を手に入れたのか、正臣の態度から何かしらの答えを導き出したのか、武士沢と目が合うと「もういい」というようにすぐ伏せた。ひとまず今日はここまで、といったところか。



 正臣は手酌で八海山を注ぐ。一口だけ口をつけると御猪口を置いた。

「畠山さん。先日は仕事を手伝ってくれて、ありがとう。助かったよ」

「それは良かったです」

 京子がニヤニヤヘラヘラと笑う。例の『何か企んでいる時』の笑い方だ。

 武士沢が思わず会話に割り込んだ。

「京子、どんな仕事を手伝ったんだ?」

「プログラミングに関する仕事です」

「……そうか」

 と言うと武士沢は黙ってしまった。もっと突っ込んだ話をしたいのだが、武士沢にはプログラミングに関する知識は皆無だ。何もわからないので、何をどう聞けばいいのかわからない。まるで中学時代に返ったようだ。数学の問題が解けず、先生に質問しようにも、何がわからないのかもわからないから、質問のしようがない。


 京子がどんな仕事を引き受けたのかは知らない。

 ただ、武士沢や岡本が懸念していたような、体を売る仕事ではないのは確かだ。

 そうだ。京子は体など売らずとも頭を売れる。その頭脳で中学生にして1億円を稼いだ。


 私が京子の為にしてやれることは、もう、ひとつしかない。

『人の道を違えないこと』

 それしか出来ない。
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