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次の一手編

誤解を「解く」か「解かない」か

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 女流棋士採用特別試験の初日を終え、田村優里亜は夕暮れの一ケ谷駅のホームでボーっと、つっ立っていた。

 何度も今日の棋譜を思い出す。

 (あっれぇ?今日の凛はガッチリ守ってくる碁だったから、ガッつかずにタイミングを図って攻めようと……)

 と思っていたのだが、気がついたら中央から左辺にかけて凛の黒石が死んでいた。

 (なんで??何が起こったのか、さっぱりわからない!)

 凛は定石通りに打ってきていた。死活も間違えなかった。なのに、気がついたらもう終わっていた。

 ずっと苦手にしていた手塚凛に快勝してしまったのだ。

 勝ったのだから喜んでいいのだが、勝因がわからない。わからないのは不安に拍車が掛かる。

 (このままじゃダメだ。明日の試験に差し障る!)

 誰かに相談しようと、優里亜はスマホを取り出した。

 (ええっと、まずは京子に……)

 と思い、画面をタップしようとして手を止めた。

 (そうだ。もう京子から稽古をつけてもらうのは終わったんだ。それに昨日の今日で京子に相談できる状況じゃ無い。私は中舘英雄えいおの門下生。師匠に相談しよう)

 師匠に電話をするのは一年ぶりだ。その時の電話は女流試験の結果報告だった。

 (試験の初日なのに電話して、先生ビックリするかな?)

 そんなことを考えながら電話をかけた。中舘はすぐに電話に出た。



 ●○●○●○



 中舘の家は優里亜の自宅からほど近い場所にある。父が中舘を師匠にと薦めてくれた理由のひとつだ。岡本の家ほどの大きさではないが、庭付き二階建ての家だ。

 姉弟子で中舘の長女、中舘美海みう二段が玄関を開けてくれた。

「ユリ、今日女流試験の初日だよね。どうしたの?こんな日に電話なんて珍しい」

「うん。ちょっと。もしよければ美海ちゃんも聞いてくれないかな?」

 6歳も年上だが、「妹が欲しかった」という美海は優里亜にちゃん付けで呼ばせている。美優は快諾して、優里亜を家に招き入れた。


 研究会部屋としても使っている、一階にある和室に入る。中舘はもう既に部屋にいた。

「おお。来たか」

 中舘は部屋着に半纏という、いかにも「これぞ日本の日曜日のお父さん」スタイルで、優里亜を出迎えた。

「先生。お休みの所をすみません」

「弟子の話を聞くのも師匠の役目だよ。で、どうした?」

 早速今日の対局の報告をする。優里亜は部屋に四基ある碁盤のひとつに今日打った碁を並べていく。

「……で、ここで相手は投了しました」

「そうか。で、ユリは何を聞きたいんだ?」

 物腰の柔らかい話し声。優里亜の真正面に座った中舘は、優里亜に語りかけるように訊いた。

「えっと……。気づいたら黒石が死んでて……。なんでこんなに早く、相性の悪い対局者を相手に決着がついたのか、訳がわからなくて……」

「つまり、戸惑っている?のかな?」

 美海が優里亜に訊いた。

「そう!それ!」

 上手く言葉にできずにいた気持ちを美海が代弁してくれて、優里亜は思わず大声をあげた。

「なるほど。ところでユリは今、誰から碁を教わっているんだったかな?」

 中舘が聞いた。

「え……、畠山京子二段ですけど……」

「うん、そうだな。それでなんで畠山二段から教わりたかったんだ?」

 中舘が立て続けに質問する。

「AIみたいな碁を打てるようになりたい、と……」

「うん。そのAIみたいな碁じゃないか?これは」

 と言って中舘は盤の中央の白石を指差す。

「以前ならユリはここでコスんで、後は相手の出方待ちしていたはずだけど。今日ユリが打ったこの手なら、次に相手がどこに打っても攻撃に繋げられるじゃないか」

 言われてハッとする。

 (本当だ!全然意識していなかった!なんで気付かなかったんだろう?でもおかしい。私、こんな碁を打つ人間じゃ無かったのに。なんでこうなったんだろう?)

 師匠である中舘にそう言われても、優里亜は合点がいかなかった。

「ユリ。今日の対戦相手と打ったのは、いつ以来?」

 美海が聞いた。

「えっと……。あれ?いつだったっけ?えーと、私がB組に上がってから打ってないから……、2年以上前!?」

「そんなに打ってないなら、お互いの実力はわからなくなっていただろうねぇ」

 中舘の一言に優里亜は呆然とする。

 凛は院生になってから破格のスピードで院生順位を上げていった実力者だ。

 (その実力者に読みで勝ったってこと!?)

「何がそんなに不満なんだ?快勝できたのに」

 中舘の言う通りなのだろう。でも優里亜は何が不満なのかがわからない。でもわからないなりに、とりあえず思い付いた単語を言葉にしてみる。

「もっと苦戦するかと思ってたのに、なんていうか……。そう!手応えが無かった!」

「それだけユリが実力をつけたって事だろう。畠山さんの指導はユリに合っていたみたいだな。ちゃんと『読みの碁』が出来ているじゃないか」

「……!」

 (私が!?読みの碁が出来ている?)

「でっ、でも私、一度も京子に善戦したことなくて、全然敵わなくて……」

 それを聞いた美海がパッカーンと口を開けた。

「なに言ってるの?相手は初年度の挑戦で金緑石アレキサンドライト王になった天才だよ。その天才相手に毎日打ってりゃ、知らず知らずに実力だって伸びてるでしょ?」

 (そういうもんなの!?)

「っていうかね、あんた畠山さんに失礼だよ。天才から毎日稽古つけてもらってるのに、腕の上がった自分の実力を認められないなんて」

 (そ、そうか!?そうなのか!?私、京子に対してそんな失礼なことを……。あ。思い当たる節がある)

「そういえば事あるごとに京子から「実力があるんだから自信を持って」って耳にタコが出来るほど言われた……」

「そう。お父さ……師匠もいつも言ってるでしょ。それをあんたは、いっつも否定して試験で自滅してんのよ」

 美海からこう言われて思い出した。師匠もそう言ってくれていた。なんで師匠の言葉を信じられなかったんだろう?

「ひとつ質問なんだが」

 中舘が口を開いた。

「今年は実力通りの碁を打てたようだけど、『魔術師の弟子』はユリにどんな魔法をかけたんだい?」

「……魔法……?」

 魔術師の二つ名を持つ岡本幸浩。その末弟子の畠山京子。

 いつ、どんな魔法をかけられたのかは、わからない。でも、どんな効き目の魔法なのかは、わかった。

 『私が存分に実力を発揮できる魔法』

 (京子はそんなことも出来るのか……)

 魔法ならいつか切れてしまうかもしれない。でも恐らく京子は魔法が切れるのも計算ずくのはず。たとえ魔法が切れても私が自信を持って戦えるように。


 優里亜は一度目を閉じて、覚悟を決めたように前を見据えた。



 ●○●○●○



 翌日も優里亜は快勝した。しかし翌週の日曜日の対局は大敗してしまった。前日の土曜日、あまりにも気持ち良く打ててまたもや快勝したので、調子に乗って派手にコケた。大怪我だった。優里亜の悪い癖が出た。

 自信が持てない理由はコレなんだと思う。気持ちが大きくなると天狗になって大怪我をする。自分でもよくわかっているつもりだったのに。久々にやってしまった。

 気を引き締め直すつもりで、両頬を両手でパンと叩いてその週の試験を終えた。


 その翌週の土曜日の対戦相手は解良けら鈴菜だった。なぜか京子にマウントを取る囲碁部の中等部一年生だ。

 優里亜は鈴菜とは院生順位の関係で学校でしか打ったことがない。初対戦の時から負けたことがない。この対局も優里亜が快勝した。

 (良かった……。先週派手にコケたから、今日鈴菜に負けたら余計に引きずりそうだなって思ってたけど勝てた!)

 翌日曜日の対局は辛勝ながら勝利出来た。

 そしてさらに翌週。最終日。ラストの一戦だ。

 ここまで優里亜は5勝1敗。他の受験者は2敗以上しており、今日優里亜が勝てば他の受験者の勝敗関係なく、自力で合格が決まる。

 最終戦の相手は外来受験者。地方出身の元院生だ。毎週棋院に通うのが困難になり院生をやめたが、毎年こうして外来受験に来ている。

 地方出身という点が京子と被る。

 (やっぱり大変なのかな?地方から出てくるって。往復の交通費だって馬鹿にならないだろうし。院生研修は土日と連続してあるから、日帰りにするか泊まるか、どっちにしても費用は嵩むし)
 
 そんな事を考えていたら、職員から号令がかかった。

「対局を始めて下さい」


 不思議だった。これで合否が決まるというのに、緊張していない。なぜだろう?と思いながら、優里亜は黒石を掴んで碁盤に叩きつけた。



 ●○●○●○



 優里亜は棋院を出ると、急いでスマホの電源を入れて京子のもとに電話を入れた。

 まず先に師匠に電話するべきなのはわかっているが、どうしても京子に先に報告したかった。

 しかし京子は出なかった。呼び出し音は鳴らず、すぐに留守番電話に切り替わった。

 その後、何度か電話したが繋がらず、京子から「おめでとうございます」という素っ気ないLINEが届いたのは、深夜になってからだった。



 ●○●○●○



 翌週、中舘一門の会食の席に畠山京子も呼ばれていた。

「中舘先生、なんかすみません。お邪魔して」

 京子は言葉ではこう言ってはいるが、嫌そうではない。

 優里亜の女流棋士採用試験合格パーティーに京子も招かれたのだ。中舘門下生は勿論、優里亜の両親と弟も出席している。

 パーティーといっても、中舘の知り合いが経営している小さなイタリアンレストランを貸し切りにした、内輪だけの気楽でささやかな立食パーティーだ。

「いいや。邪魔ではないよ」

「そうよ京子ちゃん」

 優里亜の母は、店に京子が入って来てからというもの、ずっと京子のそばから離れない。姉かと思わせるほど若々しい母だ。

「優里亜を合格させてくれて、本当にありがとう」

 優里亜の母は京子の手を取って礼を言った。

「私も畠山さんに会ってお礼を言いたかったんだよ。優里亜を合格させてくれて、本当にありがとう」

 そう言って中舘も京子に頭を下げた。

「いえいえいえ!中舘先生までやめて下さい!田村先輩が頑張ったんですから!先輩をもっと誉めてあげて下さい!」

「やだー!いい子!」

 すでにホロ酔いの美海が、京子に突然後ろから抱きついた。

「ちょっと、美海ちゃん!何してんの!」

 今日の主役・優里亜が酔っぱらいの美海を止める。美海は膨れっ面で優里亜に噛みついてきた。

「なによ。焼きもち?」

「うん。焼きもち」

「あら。珍しく素直じゃん」

「ていうか京子。私の時は避けたよね!?すっごく傷ついてるんだけど。なんで?」

 先週、学校で合格を直に報告した時、抱きついてお礼を言おうとしたら、避けられたのだ。

「ああ、あれ。不愉快にさせたなら、謝ります。すみませんでした。あれは……」

 京子は優里亜の胸を見ながらこう言った。

「圧死しそうだったんで」

「あー、わかるー。ユリの胸は凶器だよねー」

 美海も京子に同意してくれた。

「セクハラ!」

 と言いつつも優里亜は少しほっとする。嫌われていた訳では無かった。と思いきや、京子はこう続けた。

「それもありますけど、先輩とは春からライバルになるわけですから。馴れ合いになるのもどうかな、と思いまして。先制パンチです」

「……!!私が!?京子のライバル!?」

「ええ。だってこれからは同じ土俵の上で戦うんじゃないですか」

「そうだよねー。翠玉エメラルド戦なんか、高い確率で当たるだろうしねー」

 京子と美海がうんうんと頷く。今日初めて会ったのに、二人はもう既に意気投合している。

「……私をライバルって言ってくれるの?」

「当たり前じゃないですか。何回言わせるんですか。「先輩、強いんだから自信を持って」って」

 あれって、そういう意味もあったんだ……。

 涙が溢れてきそうになるのを堪える。そんな風に思っていてくれたなんて知らなかった。

 試験直前にあんな風に言われて、恨んだりしたけど。京子は本当に私の合格を祈っていてくれたんだ。

「あの……。京子、一年間稽古つけてくれて本当にありがとう。私、がんばるよ。『畠山京子の弟子』として!」

「はっ!?弟子!?いや、そこは『師事』でしょ!?中舘先生に面目が……」

 優里亜が思わず笑う。京子のこんなに焦った表情を見たのは初めてだったからだ。

 優里亜にからかわれたと気づいた京子は、優里亜が持っていた烏龍茶の入ったグラスの中に、自分が飲んでいたオレンジジュースを注ぎ込んだ。

 まるで姉妹のようにはしゃぐ二人を見て、美海も京子にちょっかいをだし、みんなが笑った。


「あー。それにしても合格できて本当に良かったー!私、今年合格できなかったら、家を出ようと思ってたんだ」

 優里亜の爆弾発言に、京子も美海も動きが止まる。この二人以上に驚いたのが、3人のやり取りを微笑みながら眺めていた母だった。

「ウソ!?なんで?なんで家を出るのよ?優里亜、そんなに家にいるの不満?」

 母の予想外の発言に、優里亜は戸惑う。

「え?だって、「高校2年の試験までに合格できなかったら棋士を諦めて大学受験しろ」って、お父さんもお母さんも……」

「やだ!優里亜、覚えてたの!?」

 母の思わぬ発言その2に優里亜は半眼になる。

「お母さん。それ、どういう意味?」

「あのね。あれは、あなたをやる気にさせるためだったのよ。あなた院生になった頃、同い年の子と打てるのが余程嬉しかったのか、ずーっと負け続けて帰ってきてね。負けたのに嬉しそうにしてるから、どうしたら「プロになる」って意味を教えられるかなーって、お父さんと話してて。危機感を持たせればやる気を出すんじゃないかって。それでああ言ったのよ」

 優里亜は絶句して立ち尽くす。

「え……?じゃあ私、お父さんお母さんの言った冗談を真に受けて?」

「ごめんねー!お父さんと話して「一年経てば忘れるだろ」って。でも優里亜は忘れなかったのね。そんなに思い詰めていたなんて思わなくて!」

 優里亜は思わず膝から崩れ落ちる。

 (あんなに試験に落ちる度に「どうしよう」「どうしよう」て……。私をやる気にさせるため?)

「先輩。私も先輩に謝らなければならないことが」

「なに!?京子まで!?」

「実は、今の逸話を利用させて頂きました」

「……は?」

「先輩、実力はあるのに、いつも試験になると実力を発揮できていないようでしたので、どうしたら試験の緊張を和らげられるか、この一年間ずっと模索していました。それで一か八か試験前日に勝負手を打ってみました」

「……もしかして、それが?」

 最後の稽古の日、囲碁将棋部部室から教室に帰る渡り廊下でのやり取りだ。

「はい。です。どっちに転ぶかハラハラドキドキしましたが。先輩を不安にさせて、すみませんでした」

 優里亜は床にへたりこんだまま、口をポカンと開ける。

 (私、どんだけみんなの掌の上で弄ばれてるの?)

「京子ちゃん。この子って自己肯定感低いから苦労したでしょ?」

 優里亜の母はまるで女子高生同士が会話しているかのようにキャッキャとはしゃぐ。

「そうなんですよ。天の邪鬼だから誉めても素直に認めないんですもん。やりにくいったらありゃしない」

 言葉遣いは京子のほうがおばさん臭い。

「ごめんなさいねー。京子ちゃんにも苦労をかけちゃって」

「本当に苦労しました」

 と言って肩をトントンと叩いた。本当におばさん臭い。

 優里亜はしゃがみこんだまま頭の中をなんとか整理する。がいろんな事が走馬灯のように流れてきて、情報処理が追い付かない。

 (そうだ。忘れよう。合格したって事実だけ受け入れよう)

 優里亜は考えるのを放棄した。

 が、ひとつ思い出した事があった。

「そうだ!京子に聞きたいことがあったんだ!私が電話した日、あんなに遅くまで何してたの?」

 少なくとも女子中学生は家に帰っていないとおかしい時間だった。

「ああ。あの日ですか。先輩にも後日メールを送りますので」

「私?」

「はい。それまで待てないと言うなら美海さんから聞いて下さい」

「?」

 今日初めて会ったって言ってたのに。お互いのメールアドレスは知ってる?ん?でもなんで今時メール?LINEじゃなくて?


「やーん!京子ちゃーん!美海なんてつれなーい!美海て呼んでぇー!なんなら「お姉ちゃん」でもいいよー!」

 (この女、自分が気に入った子には誰彼構わず「美海ちゃん」て呼ばせるのかよ!)



 この美海の一言ですっかり正気を取り戻した優里亜は、酔っぱらいの面倒を兄弟子に押し付け、京子と試験で打った碁の検討を始めた。
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