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次の一手編

「愛人をやめる」か「飼い殺しにされる」か

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 バスルームの鏡に映る裸体をじっと眺める。

 同年代の友人達はもう乳房が垂れ下がり始め、腹に余計な肉も付いている。

 その点、私は大丈夫。ほうれい線だって目立ってないし、まだまだ二十歳で充分通用する。


 シャワーを浴び終えた松山まつやま愛梨華えりかはバスタオル一枚だけを纏い、バスルームを出た。

 秋田市内にあるタワーマンションから見る夜景は中々のものだ。来月はクリスマスというせいもあるかもしれないけど、こんな田舎でも捨てたもんじゃないと思う。


 愛梨華はパソコンデスクに向かう平田ひらた賢吾けんごに背後から抱きつく。今、平田の妻は2人目の子供を産むために実家に帰っている。


「microSDカード、何が書いてあったの?」

 今日、県知事と県出身著名人とのテレビ対談の収録後。囲碁棋士の小娘から秘密裏に渡されたmicroSDカード。

 家に帰り、中を見てみると『パスワード ※※※※※※※※※※※※※※※※』と書かれた画面しか出てこなかった。捨てようかと思っていたところに彼からLINEが来た。彼にもあの小娘はmicroSDカードを渡していた。彼のmicroSDカードには意味不明の文字の羅列しか書かれてなかった。私に渡されたmicroSDカードの中身に彼のパスワードを入力してみると、『第一次産業』『第二次産業』『第三次産業』……以下略と、タイトルの付いたファイルが出てきた。

 一つ一つ確認していくつもりが、一つのファイルの情報量があまりにも膨大で、愛梨華は先にシャワーを浴びることにした。


「書いてない」

「え?」

「俺の名前。俺はそこそこの役職についてる。もし初めから俺に渡すつもりなら、名前ぐらい書いておくだろ。ということは、あの子はあの場で渡す人間を決めたんだろうな」

 平田がクックッと声を出さずに笑う。

 この人がこういう笑い方をする時、何を考えているのか知っている。彼と関係になった時もそうだった。

 『自分の思い通りに動かせる玩具』

 彼は新しい玩具を手に入れようとしている。


「これなんか面白いぞ」

 平田がパソコン画面を指差す。

「秋田内陸鉄道沿線の空き家をリノベーションして、オートキャンプ場やグランピング施設にするんだってさ。大自然のど真ん中だから、キャンパーには垂涎ものだよな」

 またクックッと平田は声を出さずに笑う。

 愛梨華は面白くない。自分が目の前にいるのに、楽しそうに別の女の話をするなんて!

「そんな費用、どこから捻出するの。お金さえあれば、私達県職員だって、地域再生事業としてやってるっての!」

 すると平田はマウスを動かしトップページを開く。どうやら小娘の自己紹介ページらしい。

「この子。東京で起業したんだってさ。その会社名義で空き家を購入するらしい。俺には企業を誘致したって実績が付く。実際には俺は何もしてないのに、企業があちらからやって来る。すげー楽できるって訳だ」

 平田はあの小娘を「この子」と言った。あの小娘を子供扱いするうちはまだ大丈夫、と自分に言い聞かせる。

「あの子、まだ中学生よね?商取引出来る年齢じゃないでしょ?」

「まぁ、実際に取引するのは後見人だろうな」

「後見人?だったら、こんな回りくどいやり方しないで、その後見人を直接私達の所に送ればいいじゃない」

 あの時、じっと平田の動向を見ていたのに、いつmicroSDカードを受け取ったのか気付かなかった。握手したときだろうとは思うけど、その時は小娘が彼と握手した事に腹を立て、それどころじゃなかった。

「結局この子、私達に何をやらせたい訳?」

 平田はまたクックッと笑う。

「自分の手で秋田の情勢を変えたいんだろう。だけど、まだ子供だから「大人に口出しするな」とか「子供のクセに」とか言われて取り合ってもらえないと分かってる。おまけに女の子だしね。男に見下される。だからから手を回すんだろう。俺に影武者になれっていう意味だと思う」

「はあ!?影武者!?何様なのよ!あの子!」

「あはは!それだよ、それ」

「何が?」

「何故あの子が俺達を選んだのか、だよ。君のその表情だよ。誰にでもわかっただろうね。君のその目付き、女同士の闘争劇さながらだったからね」

 愛梨華は慌てて目を伏せる。

 だが今さら取り繕ってももう遅い。平田は愛梨華の裏の顔にとっくに気付いている。簡単に誘いに乗ってきたから気楽に遊べる女だと思っていたのに、不倫相手の男の家に平気で上がり込む、こんなに重い女だったとは計算外だった。

 平田はパソコンを睨みながら話を続ける。

「一歩外に出れば、知り合いに一人も出会わずに帰れない時なんて無い、秋田は狭い社会だ。もし黒い噂が流れれば、俺は潔癖さが求められる県職員を今まで通り続けられるか、分からない。君だってそうだろう?俺と君はあの子に弱みを握られたんだ」

 たった一瞬、愛梨華が小娘を睨み付けただけ。その一瞬だけであの小娘に逆らえない脅迫を受けているというのか。


「愛梨華。年が明けたら東京に行ってあの子に会ってきてくれないか?『もしこの話を受けてもらえるなら、来年の成人の日に女性の方を東京にお使いに寄越して欲しい。詳細な計画書を渡したい』と書いてあるんだ。頼まれてくれないか?」

 どうやら平田は、中学生の小娘の妄想を実現させるつもりらしい。

「まさかあの子のこの絵空事に荷担するつもり?」

「ああ。なかなか面白そうだしね。それにこの子の計画、実現不可能な計画ではないしね。しかも全部俺の手柄にしていいそうだ」

「あなたの手柄に?」

「うん。『あんまり方々で名を上げると、妬み嫉みの格好の的になるから、自分は表向きは囲碁棋士だけで頑張ってるフリをする』んだってさ。策士だね」

 また平田がクックッと声を出さずに笑う。


 愛梨華はホッと息を吐く。あの小娘は、平田をこき使うだけ使って、使い捨てにするのだと思った。でも、それでもやっぱり面白くはない。小娘にいいように顎でこき使われるようにしか思えない。

 平田もそれに気付いているだろう。でも彼は面白がっている。だから彼の出世に悪影響が出ないなら、それでいい。平田はいつか秋田県庁を統べる人間になるのだから。


「なんで成人の日なの?あの子、お正月に秋田に帰って来るんじゃないの?その時でよくない?しかもなんでなの?」

「男だとパパ活してると思われるからだろ。年内は予定がギッシリで、正月くらいはのんびりしたい、だってさ。成人の日じゃないと時間を作れないそうだ。行ってきてくれないか?なんなら、高級レストランで食事でも奢らせればいいんじゃないか?」

「中学生に?集ってるとしか思われなくない?」

「中学生でも起業家で社長だよ。必要経費で落とせるだろ」

 そう言うと平田は愛梨華のバスタオルを剥ぎ取り、身体を引き寄せ、裸体の愛梨華を膝の上に乗せた。キスした唇を首筋から乳房へと這わせ愛撫する。愛梨華は熱い溜め息を吐き、平田の上で身体をくねらせる。


 逆らえる訳がない。彼との関係が続く限りは。



 ●○●○●○



 予定通り『秋田新幹線こまち』は東京駅に到着し、松山愛梨華は新幹線南乗換口から姿を表した。

「ここです!ここ!」

 聞き覚えのある声が愛梨華の耳に入ってくる。あの小娘、畠山京子だ。赤いコートに赤いマフラー、手袋に靴、鞄まで赤。全身赤まみれのコーディネートだ。

 何がそんなに嬉しいのか、小娘は満面の笑みを浮かべて愛梨華に近づいて来た。

「お久しぶりです!来てくれてありがとうございます!フラれるかな?って思ってたから、すっごく嬉しいです!長旅お疲れさまでした!」

 あの時の私は、その他大勢の中の一人だ。仕事用の地味なメイクで髪は後ろで一つに束ねた、目立たない格好をしていたのに。なんで今のこの姿とあの時の地味な女が同一人物だとわかったのか。

 そう思った愛梨華にある悪戯心が沸く。

 (そうだ!知らんぷりして「なにこいつ」みたいな顔して揶揄ってやろう!)

 愛梨華は胡散臭い表情で京子を睨み、素通りする。

「あれ?松山さーん!松山愛梨華さーん!どこ行くんですかー!」

 一度京子の目の前を素通りした愛梨華が、ドスドスと足音を立てて踵を返す。

「大きな声で個人名を言わないで!っていうか、なんで私の名前を知ってるの?」

 愛梨華が京子との距離を詰めて立ちはだかる。

 (でっかい子ね。この子)

 愛梨華の身長は163㎝。ヒールの高さを含めれば168㎝ある。決して低いほうではない。しかし京子はペタンコの靴でも170㎝を越えている。そのせいか京子はビビる様子もなく、ニヤニヤともヘラヘラともつかない笑顔で、平然と愛梨華の質問に答えた。

「あの時、名札を首からぶら下げてましたよね?覚えてました!」

 そうだった。でも何よ。この小娘の、このしてやったり顔。ムカつく!

 愛梨華はまたあの時のように京子を睨み付ける。しかし京子はしれっとこう言った。

「顔が怖いですよ?もしかして新幹線の中で痴漢にでも遭いました?鉄道警察に連絡した方が……」

「遭ってないわよ!」

「そうですか。よかったです!まずはお昼ごはん、どうするか決めませんか?東京では予約無しで入れるお店ってファミレスかファーストフード店かラーメン屋さんぐらいしかないんで。なに食べたいですか?フレンチ?イタリアン?それとも中華?」

 この空気でよく飯の話なんて出来るわね!なんて神経の図太い小娘なんだろう!

「あなた、こんな状況でよくヘラヘラと話が出来るわね。感情、ぶっ壊れてるんじゃないの?」

「なんですか?この状況って。知り合いのお姉さんを迎えに来ただけですけど」

 ああ。そういう設定ね。でも私が言いたいのは、そういうんじゃない。

「私をこんな所に呼びつけておいて、あんた、何様のつもり?」

「ああ!そういう意味でしたか!」

 京子はポンと手を叩く。

 わざとらしい。なにこの小娘!あざとい!かまととぶって!今のが可愛いとでも思ってんの!?ブリッコが!!

「まあ、それも含めてお話しますんで、腰を下ろしてゆっくり話の出来る個室のある御飯屋さんに行きませんか?」

 このヘラヘラともニヤニヤともつかない笑い方。イライラする!

「あなた中学生でしょ。そもそもそんな高級な店に顔が利くの?」

「囲碁の仕事でいろんな職種の方と面識がありまして、何軒かは」

 何につけ私にマウント取ってくる!超ムカつく!もうこうなったら彼の言った通り、超高級レストランで超高級食材を鱈腹食って、小娘の財布を空にしてやる!

「じゃあ、折角だから普段なかなか行けない東京一の高級フレンチレストランに連れてって」

 まぁ人気の店なら今から予約なんて取れないだろうから、これで小娘に赤っ恥をかかせてやれるわ!

「はい!わかりました!じゃあ今から電話するんで、ちょっと待ってて下さいね!」

 そう言うと京子は鞄からスマホを取り出し、電話をかけ始めた。

「……あ!こんにちは、高橋さん!畠山京子です!突然で申し訳ないんですけど、今からお店、予約できませんか?秋田からお客様がいらしてて、高橋さんちの美味しいお肉でおもてなししたいんです。……そうですか!ありがとうございます!お礼に次の指導碁は割安で!……はい!では後程。失礼します!松山さん、予約取れたので、それまで東京観光でもしませんか?」


 ……取れちゃったよ、予約……。……ちょっと待てよ。こんな時間から予約取れるような店、どうせ三流の店なんだ!私が東京の事は何も知らないと思って馬鹿にしてるのか!

「その前に、予約したのはどんな店?」

 もし聞いたことがないような店なら小娘をこき下ろしてやる!

「麻布にあるミシュラン2つ星を獲得してるお店です」

 ……って、もしかしてグルメ番組で何度も紹介されている、向こう三年は予約が取れないっていうあの店!?……に、電話1本で席を押さえたの!?この小娘は!?

「……シドウゴって、何?」

「ええと、アマチュアの囲碁愛好家の方に囲碁の指導をするんです」

「その指導碁だけで人気店の予約が取れた、と」

「あー。高橋さんの場合は、今まで指導を担当していたプロが急病で急遽私の所に話が回って来まして、それで指導したんですけど、その後のアマチュア大会で優勝されまして。なんか、私の指導方が高橋さんに合ってたみたいで、ずっと取れなかったアマチュア六段の免状も取れたとか」

 ……高橋さんのは?まだ他にもこんな逸話があるみたいじゃない!なんでこの小娘、いちいち自慢してくるのよ!可愛げが無い!本当にムカつく!!

「大丈夫ですか?また顔が怖いですけど」

 京子はまたニヤニヤともヘラヘラともつかない笑い方で愛梨華を見つめる。

 この小娘、絶対わかって言ってる!喧嘩売ってる!

 いいじゃない。上等よ!こうなったら小娘を泣かせるまで、やめてやらないから!



 ●○●○●○



 テレビで観たままの外観。テレビで観たままの内装。その店の個室に、さも当然のように京子と愛梨華は通された。

 赤いコートの下は赤いワンピースだった。優雅に着席するその姿を見て、愛梨華は「良いとこのお嬢様で通りそうだな」と思う。

 愛梨華もドレスコードに引っ掛からないよう、ワンピースを着てきた。相手を威圧出来るよう黒のワンピースだ。


 でも今の愛梨華はそれどころではない。憧れの店に入店出来た喜びで、心の中ではしゃぎまくっていた。

 (うう……。キョロキョロ見渡したい!インスタ用に写真撮りたい!でも、お上りさん丸出しになるから絶対しないけど!)

「あ、そうだ。店内は他のお客さんが映らなければ撮影OKだそうですよ。でも個室だから気にせず撮影し放題ですね!」

 京子が愛梨華に言った。

 (なんで私が何を考えてるか分かるのよ。いちいちムカつく!)

 まぁいい。ここからが肝心だ。


 メニューを決め、店員が部屋から出ていくのを見届けて、愛梨華はまた京子を睨み付ける。

「で、なんで私をここに呼び出したの?」

「んー、それは「どうせ呼び出すなら二人纏めて呼べよ」って意味ですか?」

 愛梨華の顔が強張る。

「自分のいない間に、奥さんと平田さんがいちゃこらしてると思うと、ムカつきますもんね」

 京子がまたニヤニヤともヘラヘラともつかない笑みを浮かべる。

 愛梨華は表情を元に戻す。小娘相手に気が動転するなんて、しっかりしろ!と自分に言い聞かせる。

「なんで彼に奥さんがいるって知ってるのよ。ああ、指輪ね。左手薬指の指輪を見たんでしょ」

「そうですね。平田賢吾36歳。某国立大学卒。卒業後県庁に就職。現在の役職は地域再興課課長。一回り年下の妻とは3年前に結婚。年明けに二人目を出産。とりあえず、こんなとこですか」

 愛梨華は押し黙る。

「よく調べたわね。探偵でも使ったの?」

「まさか!そんなお金が勿体無いことしませんよ。SNSでちょちょいと情報収集しただけです。名前が分かってるだけでも、如何様にも調べられますからね」

 ただし自分ではやっていない。『アラクネ』こと加賀谷伸行に依頼した。


 愛梨華は呆然とする。

 (彼がSNSをやっている?聞いてない!)

「嘘つかないで。彼はSNSはやってないわ!」

「あ。御存知無かった?見てみます?これですよね?」

 と言って、京子はスマホを取り出し、あるインスタアカウントの画面を開いて愛梨華に見せた。

 平田が妻と子供と共に笑顔で映っている。どうやら子供の成長記録用のアカウントらしい。

 暫く愛梨華は京子のスマホを持ったまま俯いていた。

 京子は頃合いを見て、愛梨華に声をかける。

「まぁ、平田さんもあなたにはこのアカウントの事を言いにくかったんでしょうね」

 愛梨華は頭に血がカッと上るのを感じた。たまらず立ち上がり、持っていたスマホを京子に向かって投げつけた。が、京子は両手で見事キャッチした。それが愛梨華の神経を逆撫でした。

「……お前があの人の名前を口にするな!!」

「それは失礼しました。じゃあ、「あの方」ならいいですか?」

 愛梨華は水の入ったグラスを素早く持ち、中の水を京子めがけてぶちまけた。

「ふざけんじゃないわよ!!なんなのよ!ガキのクセに分かったふうな口きいて!死ねよテメエ!!!」

 愛梨華はハァハァと肩で息をする。ずぶ濡れになった小娘を嘲笑ってやるつもりだった。

 しかし京子は一滴も水を被らなかった。膝にかけていたナプキンを両手で持ち上げ、ブロックしていた。テーブルの上が水浸しだった。

 ナプキンに遮られた京子の顔が再び愛梨華の前に現れる。

「お料理が運ばれてくる前でよかったです。テーブルクロス、新しい物に変えて貰いましょうか」

 京子は店員を呼ぼうと、テーブルの上に置かれたベルに手を伸ばす。愛梨華はベルを弾き飛ばして、テーブルの反対側に座る京子に殴りかかろうとした。が、京子は殴ろうとした愛梨華の右腕を掴み、後ろに捻り上げ組み伏せた。

 絨毯にうつ伏せになる愛梨華に、京子は愛梨華の背後から耳元に話しかける。

「まったくもう。どうしてマウント取りたがる女性って、腕っぷしで敵わない相手に殴り合いの喧嘩を挑むほど相手の力量が読めないんでしょうね」

 知るか!と言ってやりたいのに、あまりの腕の痛さに呻き声すら出せない。

「わかりますよ。松山さんが私を毛嫌いする理由。ロリコ……一回りも年下の女性と結婚するほど若い娘が好きな男だから、私に「あの方」を取られるかもしれないと思ったんですよね。安心して下さい。私にも好みはあるんですよ。私は私より囲碁の強い人が好きです。ですから私が「あの方」をにする気はこれっぽっちもありませんので。そもそもパパ活しなきゃならないほどお金に困ってませんしね。何せ会社を立ち上げたほどですから」

 こう言われてもなお愛梨華はなんとか腕を振りほどこうともがく。足をバタバタさせて京子を蹴ろうとするが、柔道の寝技が綺麗に決まり蹴飛ばせない。しかも、もがけばもがくほど京子は愛梨華の腕を捻り上げる。

「いい加減、観念して貰えませんか?私には敵意はありませんから。普通に話しませんか?なぜ「女性の方だけを寄越して欲しい」と指定したのか、とか、正直にお話しますから」

 (悔しい!こんな小娘に腕力で敵わないなんて!こんなことになるなら、ちゃんと身体を鍛えておけばよかった!)

 とにかくこの腕を離させないと、腕が折れそうだ。もうこうなったら、小娘の言いなりになってるフリをするしかない。いくらフリでも屈辱だけど、今はそれしか方法が無い。


 私は何があっても絶対こんな小娘の言いなりになんかならない!


 愛梨華は脱力した。すると京子は掴んでいた愛梨華の腕を離し立たせて椅子に座らせると、ベルを鳴らして店員を呼んだ。

 やって来た店員は手際よく掃除をすると、新しいナプキンを京子に渡し出ていった。

「店員さん、馴れてらっしゃいましたね。どうしたのか、とも聞かなかったし。ちょくちょくこういうことがあるからなんでしょうね」

 京子がまたニヤニヤともヘラヘラともつかない笑みを浮かべる。

「随分余裕ね。こういうことに馴れてるみたい」

 右腕を押さえ、やっと愛梨華が口を開く。

「盤上ではこんな感じですよー。加齢臭漂うおっさんと部屋で二人きりとか、鼻が曲がりそうを通り越して、肺病になるかもってくらい臭くて、生き地獄ですよぉー!」

 京子がコメディアンのようにおどけてみせる。


 しかし愛梨華は笑わない。腹では京子につけ入る隙を探していた。



 ●○●○●○



 運ばれて来た食事を食べ終え、二人はコーヒーを飲みながらやっと本題に入る。愛梨華はブラックだが、京子のコーヒーはミルクたっぷり砂糖たっぷりで、ほとんどカフェオレだ。愛梨華は心の中で「お子ちゃま」と、京子から小さいマウントを取って喜ぶ。


「さて、本題に入りましょうか。まずは、なぜ「女性の方だけを寄越して欲しい」と言ったのか、ですけど。その前に、松山さんに質問があります。なんでそんなに東京に一人で来るのが嫌だったんですか?」

 質問に答える気は無い。ツンと澄ましてコーヒーを啜る。

「答えていただけませんか。では、私が一人で勝手に喋りますので、違ったら「ストップ」と言って貰えますか?」

 これにも愛梨華は返事をしなかった。

 京子は一人で喋り始めた。

「「あの方」の愛人て、松山さんだけじゃないですよね?」

 愛梨華は思わずガシャンと大きな音を立ててコーヒーカップをソーサーに置いてしまった。

「思い当たる節があるみたいですね。あの方から県庁を案内して貰った時、松山さんと同じように私を睨んで来た人が何人かいました。自分が東京に行っている最中に、他の愛人といちゃこらしてるんじゃないかと思って、不安だったんですよね」

 愛梨華は返事をせずに京子を睨む。しかし京子は構わず話を続ける。

「松山さんは自分が東京ここに来ると、自分には不利になると思ってらっしゃるようですけど、よく考えて下さい。
 使
 例えばですよ。あなたと別れて、他の愛人をお使いに寄越したとするじゃないですか。「あの方」が考案したと思っていた地域再生のイベント案件が、実は中学生の小娘のアイディアを横取りしていただけなんて知られたら、大問題になるでしょう?その愛人もガッカリするでしょうね。仕事の出来る男だと思ってたのに、って。下手すればその愛人は、あの方と別れた途端、暴露するかもしれないし」

 愛梨華は口をポカンと開けて、京子を見つめる。

 確かにその通りだ。

 (でも、ちょっと待って)

 危ない。うっかりこの小娘のペースに飲まれるところだった。

「なんか、自分の考えた企画は絶対うまく行くって言ってるように聞こえるけど。あなた、とんでもない自信家ね。あなたの考えた企画が成功するって保証なんてどこにもないのよ。謙虚って言葉を知らないの?それとも中二病?」

 愛梨華が京子を馬鹿にしたようにクスクスと笑う。

「あーそれ、よく言われます。年末にも兄弟子に言われたばっかりです!私ね、とんでもなく頭がいいんですよ。学校の勉強なんかしなくても学年一位を取れちゃうくらい。それに囲碁棋士になるための試験だって一発で合格しちゃったし」

 また京子はニヤニヤヘラヘラと笑う。

 なに?その自慢気な顔は!こっちは馬鹿にしてるのに、空気読めよ!

 うんざりした表情で愛梨華が立ち上がる。

「トイレですか?」

 すかさず京子がこう聞いた。

「違うわよ。帰るのよ。平田には、あんたに会えなかったと言っておくわ」

「待って下さい。ここからが女性を一人で寄越して欲しかった真相です」

「どうせあんた独りよがりの、つまんない話でしょ」

 愛梨華は鞄とコートを持ち、部屋から出て行こうとする。

「つまらないかどうかは、松山さんに判断を委ねます。松山さん。いつまであの方の愛人を続けますか?」

 思わずビクッと身体を震わせ、足を止める。

「松山さん、今年29歳になられるんですよね。結婚とか考えてらっしゃいますか?誰と?ハッキリ言わせて貰いますが、あの方は、今の奥様とは離婚されないと思いますよ。あんな画像をアップするくらいですからね。
 松山さんはあの方との愛人関係を続けながら、他の誰かとの結婚生活を続けられますか?大変だと思いますよ。どうされるんですか?ご自身の将来を」

 ドアの方を向き、京子に背を向けたまま、愛梨華は立ち尽くす。

 
 考えた事が無い訳ではない。

 平田と別れるつもりは更々無い。でも最近、彼の態度が以前と違う。連絡が来る回数が減った。他の愛人はみんな私より若い。若い娘好きの平田に、いつ捨てられるかとビクビクしている。

 いつか結婚したい。でも小娘の言う通り、平田は離婚はしないだろう。平田との結婚は実現しそうに無い。でも他の誰かとの結婚生活など、考えられない。

 子供は欲しい。できれば平田の子を。でも独りで育てる自信は無い。

 仕事は特別出来るほうじゃない。そつなくこなして及第点を貰っているだけ。私はこの小娘のように、会社を立ち上げる知恵も度胸も無い。


 自分自身わからない。将来どうしたいか。どうしたらいいのか。

 愛梨華は「ははっ」と声に出して笑う。鼻の奥がツンとする。「余計なお世話よ!」と言い返したいが、言葉が出てこない。

 私は結局、自分で未来を掴むには、平田の愛人をやめるか、小娘のお使いをこなして飼い殺しにされるか、二つの選択肢しか無いんだ。なんて安い人生なんだろう。


「で、ひとつ提案なんですけど。松山さん。これを見て貰えますか?」

 ごそごそと音がする。小娘が鞄から何かを取り出しているらしい。何を取り出したのかと気になり、愛梨華は振り返った。

 小娘は上半身だけをこちらに向けて座っていた。膝の上には小娘の赤い鞄。そして桃色のテーブルクロスの上にはメーカーの違うUSBメモリーが2つ置かれてあった。

 ひとつは赤。もうひとつは青。

「今日、あなた一人だけここに呼んだ理由です。あなたがをやりませんか?」

「どういう意味?」

 思わず聞いてしまった。

「この青のメモリーには、先日渡した資料の詳細な計画が書かれてあります。でもこの青だけでは完全な私の計画にはなりません。先日渡した物にもこの青にも「少子化対策」と「教育」に関する項目がごっそり抜けているからです。この赤にだけ書かれてあります。ですから青と赤、二つが揃って、私が考えた完全な『秋田県再興計画書』になります。
 秋田県の少子化対策、あなたの手で手掛けてみませんか?」

 愛梨華が京子の目を見つめる。

 京子はさらにこう続けた。

「私は誰がやってもいいんですよ。私の指示をちゃんとこなしてくれるなら。松山さんがあの方の出世を願うなら、この赤のUSBメモリーを青と一緒にそのまま渡せばいい。自分でやってみたいと思うなら、あの方に渡さなければいい。なんなら松山さんはメモリーの中身を見てからどうするか、判断して下さい」

「……つまりそれって、平田を出し抜けって事よね?」

「言い方は悪いですけど、そうなりますね。ただ、少子化対策は男性よりも、女性が率先してやったほうがいいと思っています。ですからあの方より、あなたに任せたい」


 (私が!?計画書から何から発案したと嘘を吐いて、この小娘の計画を実行する?)

 なんでそんなことを私に?と言いかけて言葉を飲む。

 この小娘、もしかして私の将来を案じている?


「それから、どういう判断を下しても、年に2回ほど私が東京にいる時にお使いに来て欲しいんですけど」

「これは完璧な計画書なんでしょ?なら、お使いなんて必要無いでしょ?」

 でも愛梨華にとってはありがたい。平田に会う口実を作れる。

「いつ、どこで、どんな災害が発生するか、わからないですから。秋田には関係無いと思っていても、以外なところで繋がっていて、予想していなかったところに影響が出る可能性がありますから。には自然災害被害は想定してないんですよ。なので微調整が必要になるんです」

 そこまで考えているのかと、敵ながら関心してしまう。


 今、秋田県の人口減少は深刻で、対策が急務となっている。しかし、決定的な打開策はまだ見つかっていない。

 (悪い話じゃない。平田に「少子化対策」のメモリーを渡せば平田は私を捨てられない確固たる理由が出来、渡さなければ私は仕事で上手くいけば一目置かれる存在になる。どうする?)


 愛梨華が決めあぐねていると、京子はまた鞄に手を突っ込んだ。

「すぐには決められないとは思うんですけど、「あの方」に会うまでには決めないといけません。新幹線に乗っている時間を有効活用して下さい。もし良ければこれを使って下さい。お貸しします」

 そう言って小娘は私に超小型のノートパソコンを渡してきた。秋田に着くまでの間、新幹線の中でそのUSBメモリーの中身を確認しろと言いたいらしい。

「随分簡単に高価なものを他人に渡すのね。売り飛ばされてもいいの?」

「古い型ですから、二束三文にもなりません」

 言われてみればその通りだ。私が子供の頃に父が持っていたノートパソコンによく似ていた。

 愛梨華は京子からノートパソコンを受け取り、ハッとする。


 (私、何やってるの!?)

 小娘を出し抜くはずが、まんまと小娘に丸め込まれてるじゃない!!

 しかも、手はしっかりと京子のノートパソコンを掴んでいる。

 (何これ?私、催眠術にでもかかった?それとも記憶喪失にでもなってた?)


 愛梨華がこの状況をどう打開しようかと悩んでいると、京子は先ほど投げつけられたスマホを取り出し、こう言った。

「じゃあ、最後に連絡先を教えて貰えますか?LINE、交換しましょう」

 
 愛梨華は訳のわからぬまま、にっこりと微笑む京子に言われるままに、LINEアカウントを教えていた。

 (もう、どうとでもなれ!)

 あまりにも華麗な京子の手腕に、愛梨華は小娘を出し抜くと言っていた自分を棚に上げた。



 ●○●○●○



 秋田に帰る新幹線の中で、愛梨華は京子から渡されたノートパソコンを開く。赤いUSBメモリーから、とんでもない量のファイルが出てきた。

 学校に通いながら、囲碁の仕事もして、こんな企画書まで書いて、会社設立の準備もして。どこにそんな時間があるのだろう?と思いながら、一つ一つ丁寧に読んでいく。

 どうやら小娘は今年4月に東京で子供食堂を兼ねた塾を開く予定で、その塾が上手くいけば秋田にも同様の塾を開く心積もりらしい。ただ、この事は前に渡されたmicroSDカードには書かれて無かったはずだ。

 なぜ塾の事を知らせなかったのか、疑問に思いながら、その塾の授業内容を丁寧に読んでいく。

「なるほどね……。しかし、東京で試行したものを秋田に持ってくるとは。あの子、なかなかの策士だわ。絶対秋田では失敗したくないのね……」

 試行期間は2年。たった2年間のデータで秋田に凱旋させるつもりらしい。でも小娘には自信があるのだろう。

 私にはその2年間で、塾や子供食堂をオープンさせるための下準備をやっておけ、ということらしい。

「それくらいなら私にも出来るかも……」

 まがりなりにも県職員だ。情報入手も情報発信も、信頼があるから、誰からも不審に思われず、協力も得られやすいはず。

 まず、現在子育て中の女性から聞き込みをする。それからUSBメモリーの計画書と照らし合わせ、東京の子育てには必要だけど秋田には必要ないもの、逆に東京には必要ないけど秋田には必要なものを取捨選択していく。

「あとは不動産か」

 これは容易くなんとかなりそうだ。空き店舗や空き家など、いくらでもある。ただ問題は場所だ。子供が学校から塾に通える事。親が迎えに来た時のための駐車場の確保。計画書には「最低でも10台分」と書かれてあるが、子供食堂で親も食事をするならこの倍は考えておいたほうがいいかもしれない。

「場所は駅の近くが良いに決まってる。でもそんな一等地に駐車場20台分なんて、スーパーじゃあるまいし……」

 と言ってハッとする。

 (なんだ私、やる気満々じゃん)

 なぜこんなにやる気になっているのか、なぜあんなに小娘に腹を立ててマウントを取りたがったのか。理由は一緒だ。

 あの歳でこれだけ出来るあの小娘が羨ましいんだ。前に渡されたmicroSDカードの中身を見た時から。

 (とりあえず、この次会った時に「死ね」と言ったことだけは謝っておこう。ん?私、腕を捻り上げられた時、かなり本気でやられてたと思うんだけど。うん。やっぱ謝る必要ないわ)


 愛梨華はニヤリと笑い、更に京子の計画書に目を通していった。



 ●○●○●○



 平田から翌日「会いたい」と連絡があった。場所は愛梨華が一人暮らしをするアパート。

 平田は愛梨華に会うなり、労いの言葉ではなく、「例の物は受け取ったか?」だった。

 愛梨華は確信した。平田はもう私に飽きたのだと。いつでも捨てる気でいるのだと。だから私を遠ざけるために東京に行って来いと言ったのだと。


 愛梨華は机の引き出しを開けると、平田に青のUSBメモリーのみを渡した。
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高校陸上長距離部門で輝かしい成績を残してきた米原ハルトは、有力大学で箱根駅伝を走ると確信していた。 なのに、志望校の推薦入試が不合格となってしまう。疑心暗鬼になるハルトのもとに届いた一通の受験票。それは超エリート校、『ルドルフ学園大学』のモノだった―― 学園理事長でもある学生会長の『思い付き』で箱根駅伝を目指すことになった寄せ集めの駅伝部員。『葛藤』、『反発』、『挫折』、『友情』、そして、ほのかな『恋心』を経験しながら、彼らが成長していく青春コメディ! *この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件・他の作品も含めて、一切、全く、これっぽっちも関係ありません。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

榛名の園

ひかり企画
青春
荒れた14歳から17歳位までの、女子少年院経験記など、あたしの自伝小説を書いて見ました。

美少女に恐喝されてフットサル部入ったけど、正直もう辞めたい

平山安芸
青春
 史上最高の逸材と謳われた天才サッカー少年、ハルト。  とあるきっかけで表舞台から姿を消した彼は、ひょんなことから学校一の美少女と名高い長瀬愛莉(ナガセアイリ)に目を付けられ、半ば強引にフットサル部の一員となってしまう。  何故か集まったメンバーは、ハルトを除いて女の子ばかり。かと思ったら、練習場所を賭けていきなりサッカー部と対決することに。未来を掴み損ねた少年の日常は、少女たちとの出会いを機に少しずつ変わり始める。  恋も部活も。生きることさえ、いつだって全力。ハーフタイム無しの人生を突っ走れ。部活モノ系甘々青春ラブコメ、人知れずキックオフ。

僕が美少女になったせいで幼馴染が百合に目覚めた

楠富 つかさ
恋愛
ある朝、目覚めたら女の子になっていた主人公と主人公に恋をしていたが、女の子になって主人公を見て百合に目覚めたヒロインのドタバタした日常。 この作品はハーメルン様でも掲載しています。

全力でおせっかいさせていただきます。―私はツンで美形な先輩の食事係―

入海月子
青春
佐伯優は高校1年生。カメラが趣味。ある日、高校の屋上で出会った超美形の先輩、久住遥斗にモデルになってもらうかわりに、彼の昼食を用意する約束をした。 遥斗はなぜか学校に住みついていて、衣食は女生徒からもらったものでまかなっていた。その報酬とは遥斗に抱いてもらえるというもの。 本当なの?遥斗が気になって仕方ない優は――。 優が薄幸の遥斗を笑顔にしようと頑張る話です。

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