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布石編
初デート大作戦
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「私、江田さんとデートします」
三嶋は吹き出したキムチでむせ返り、武士沢は飛び散った鍋の汁をおしぼりで拭いた。
「いやいやいや!ちょっと待った!」
「お前!ゴホゴホ。それはさすがにマズイだろ!ゴホッ」
「三嶋さん、また「お前」って言ったんでイエローカードです。武士沢さん、何故ですか?」
「何故って……」
武士沢は紙ナプキンで口を拭いた。この子は地頭は良いのに、時々、倫理観がぶっ飛んでいる時がある。
「いいか京子。よく考えてみろ。女子中学生と中年男性が並んで歩いてたら、どうなるか」
もし、岡本と京子が並んで歩いていたら、世間からは祖父と孫娘が並んで歩く、仲睦まじい姿に映るだろう。
武士沢と京子なら父娘に。三嶋となら兄妹のように見えるだろう。
「もしテルと京子が並んで歩いている所に、警察官がすれ違ったら、その警察官はどうすると思う?」
「はーい、そこのご両人。ちょーっと止まってね。お二人の関係は?職場の同僚?ほう?お嬢さん、まだ中学生だよね。どんなお仕事しているのか、警察署で詳しくお話聞かせてもらえるかなー?となって、その後は保護者が来ないと帰れません!状態になるぞ」
「大成、わざわざモノマネまでしてくれてありがとうな。ま、という訳だ。面倒な事になるから、岡本先生に迷惑をかけたくなければ、やめておけ」
こうは言ったが、武士沢にも思うところはある。
将来、テルに運命の人が現れて、いざデートとなった時、あまりにも女性経験が無さすぎて相手に幻滅されて振られる可能性もなきにしもあらず。
もしそうなった時、テルはもう二度と立ち直る事ができなくなるのではないか?
そうならないように、京子に女性恐怖症克服を手伝ってもらう手もあるのではないだろうか?
となると模擬デートぐらいの位置付けにして、テルにデートの経験を積ませてやってもいいのではないだろうか?
しかし京子は何を考えているのか、ニヤニヤともヘラヘラともつかない不気味な笑みを浮かべた。
「わかりました。その辺の問題をクリアにすればいいんですよね」
京子が悪巧みを思い付いた時の顔だ。こうなったら最後、その悪巧みを実行しないと気が済まないのが、畠山京子だ。
「お前、何を企んでいる?」
「また「お前」って言いましたね。レッドカードです。三嶋さんは退場して下さい」
「あーもう!うぜぇ!」
(あー。またコイツらは!)
喧嘩するくらいなら大成には帰って欲しいのだが、恋愛絡みとなると話は別だ。俺には他人にアドバイスするほど恋愛経験が無い。嫁が初めてで唯一の彼女だからだ。だから大成には居てもらいたい。
「京子。デートするって話しになると、大成がいてくれた方が、いい相談相手になるぞ」
何しろ女を切らしたことがない、棋院きっての女たらしだ。
「ラブホに直行するような人から適切なアドバイスが貰えるとは思えません」
「……それもそうだな」
倫理観がぶっ飛んでいるのに、こういう場面では正面なことを言う。基準がわからない。
「ちょー!ブシさんまで!俺、どんな男だと思われてるんですか!」
京子と武士沢は綺麗に口を揃えてこう言った。
「「意図せずに結婚する羽目にならなければいいな、と」」
つまり「出来ちゃって」「仕方なく」結婚する運命が濃厚だと、三嶋をよく知る者達は全員思っている。
「京子だけならまだしも、ブシさんまで……。っていうかブシさん。さっきまで京子と江田さんをデートさせない方向で話し合ってましたよね?なんで急に方向転換したんですか?」
「テルの女性恐怖症を克服するのは悪いことでは無いだろ。いつだったか忘れたが、女優が花束のプレゼンターを務めた就位式、覚えているか?テルはガチガチになって花束の受けとりすら出来なかっただろう?」
その後暫く棋士達の格好の笑いの的にされていた。テルは笑ってやり過ごしていたが、笑い者にされて屈辱だったはずだ。
正直、武士沢はテル本人が女性恐怖症を克服したいと言い出すまでそっとしてやりたいと思っていた。と言うのも、テルはその彼女に振られてからというもの長いスランプに陥り、勝てない日が続いたからだ。繊細なテルは、それだけ強烈なショックを受けた。
アイドルオタクという回り道を経てやっと立ち直り、スランプを脱出すると、次々とタイトルを手に入れた。そして現在、30歳を越えてもまだトップ棋士として活躍できている。
京子が下手に突いてまたテルを悩ませスランプに陥る事にならないだろうか。
それとも年齢を重ね、少しは耐性がついただろうか。
でもタイミングというものもある。そしておそらく、京子という駒が揃った今がそのタイミングなのだと思う。
「俺は出来る事ならテルの女性恐怖症を克服させてやりたい。それでトラウマを克服するには、当時の彼女の年齢に近い女性とデートするのがいいと思うんだ。その点、京子はテルを好いているし、京子の成長と共に大人の女性への恐怖心も克服出来るんじゃないかと思うんだ」
「なるほど……」
「なるほど……。さすが武士沢さん。弟弟子を我が子のように……。「お前」って言う三嶋さんとは大違いですね」
「なんか言ったか?」
「聞こえませんでしたか?三嶋さんの誕生日プレゼント、補聴器にしましょうか?」
また二人が睨み合う。
「騒ぐなら二人とも帰れ。店に迷惑がかかる」
武士沢が静かに、そしてゆっくりと言った。
ついに武士沢がキレた。
気弱で温厚な武士沢。三嶋が初対面で「ブシさん」と呼んでも受け入れる、心の広い人格者。その人格者がついにキレた。普段怒らない人が怒ると、体感恐怖は倍以上だ。
「「す……すみませんでした……」」
暫く二人は項垂れていた。武士沢の説教が始まるかと思った。しかし武士沢は腕組みし、無言のままだ。くどくどと説教されるより怖い。
暫く静寂が続いた。
そんな重い空気に耐えきれなくなった三嶋が、この静寂を打ち破った。
「えっと……、じゃあブシさん。どこにデートに行くか、決めませんか?」
「あ、あの私、頑張りますから。っていうか、江田さんと今まで通り、普通にお喋りしたいんです」
そうだ。京子には切実な問題だ。なんせ京子は何も悪く無いのに江田に避けられているのだから。
武士沢が腕組みをやめる。
「言っておくが、俺は最近流行りのデートスポットとか、全然知らないからな。なんのアドバイスも出来ないぞ」
「ええ。それなら俺に任せて下さい」
と言った三嶋の台詞を聞いて、京子が一言言ってやりたいという表情になる。が、武士沢にまた怒られたくなくて外方を向いて口をモゴモゴ動かしている。おそらく三嶋の悪口でも言っているのだろう。
「じゃあまず京子、江田さんとデートで行ってみたい所とかあるか?」
京子は「えっと……」と言うと、暫く黙り込んだ。京子にしては珍しく長考して、やっと答えを出した。
「えーと、カラオケに行って?ボウリングして?それから、スタバ?で、お茶して?えーと、あとはゲーセン?とか?」
「なんで全部疑問形なんだよ」
三嶋がツッコむ。
無理もない。京子は学校に通いながら囲碁棋士の仕事もしている。デートなどしている暇など無い。
今、京子が言ったデートコースは、クラスの女子の盗み聞きした会話を思い出せるだけ思い出したものだ。
「それにそのデートコース、中高生の放課後デートだろ。相手は江田さん。30代の独身男性だぞ。子供のテンションに合わせるのは大変だと思うぞ。そもそもお前、デートしたこと無いだろ」
三嶋の「お前」と「デートしたこと無い」に、京子はムッとする。確かにその通りだが、三嶋に言われるとムカつく。
「いや、そこ大事じゃないか?」
無言の圧をかけていた武士沢が口を開いた。
「テルは今まで彼女がいたためしが無い。おそらくデートもしたことが無いだろう。高級レストランで食事みたいな大人のデートプランを組むより、京子の年齢に合わせて中高生の放課後デートから始めた方が、テルのメンタルにも良いんじゃないか?中高生でも大人でも楽しめる場所はいくらでもあるだろう。例えばランドとか」
武士沢の的確なアドバイスに、三嶋が唸る。
「それもそうですね」
「中学時代からラブホ通いしていた三嶋さんには思い付かないですね。やっぱり三嶋さん、お帰り下さい。武士沢さんだけで大丈夫です」
京子はレッドカードの効力が切れないうちに三嶋を返す方向に舵を切った。三嶋が京子を睨みつける。
また二人から不穏な空気が流れ始めた。
武士沢は人差し指の爪で机をコツコツと叩く。二人はビクッと体を震わせて大人しくなった。
(今日の武士沢さん、怖い。もう大人しくしていよう)
仕方なく、京子は発効したレッドカードを無効化することにした。
「でも私、ランドは煩くて正直嫌いです。それに入場料もお高いし」
「そういえばテルも人が多い場所は苦手だったな。となると、どこがいいかな?静かで、人出もそこそこで、お値段もそこそこで」
京子と武士沢が首を傾げて考え込む。
しかし、首を傾げていない人物が一人。
「江田さんが京子と口をきいてくれなくなった、事の発端はなんだ?江田さんが描いた絵だろ。美術館なんてどうだ」
京子は大きく目を見開き口を開けた。初めて三嶋を頼もしいと思った瞬間だった。
●○●○●○
翌週の水曜日の昼下がり。江田はラフな格好で上野に来ていた。
先週の研究会で、突然京子からなんの前置きも無く「デートして下さい!」と言われたのには驚いた。
武士沢さんと大成から事情を聞いて、納得したけど。
京子を避けてるなんて、自覚が無かった。京子を悲しませるつもりは無かったのに。
自分は女性恐怖症だという自覚はある。今まで不都合を感じたこともないし、このままでもいいかと思っていた。
でも、自分に自覚無く他人を不愉快にさせているなら克服したい。京子の申し出を受け入れることにした。
京子と江田で話し合って決めたデート場所は、上野の森美術館だった。芸術大学が近くにある為か、上野には美術館が多い。その数ある美術館の中で上野の森美術館を選んだ理由は、京子がまだ行ったことが無いから。学校が休みの日に美術館や博物館、資料館巡りをしているらしい。「東京って、歴史の勉強には事欠かないですよねー」と言っていた。
それから最大の難関。中年男性と女子中学生のデートを怪しまれないようにする秘策。
京子は助っ人を二人、連れて来ていた。夏に研究会に来た院生の田村優里亜と、京子の通う学校の囲碁部の浅野結花だ。囲碁絡みであれば緊張が和らぐだろうという考えから、京子がこの二人に頼み込んだ。
土日は優里亜が院生研修で来られないので、期末試験一週間前で部活禁止になる今日になった。それに制服姿なら「美術講師と生徒の美術部の野外講義」に見えるだろうというお墨付きを武士沢と三嶋からもらった。
優里亜と結花には京子が事情を話し、全て納得ずくで協力してもらうことになった。
入館料を個人個人で払う。江田が全員分を払うと言ったのだが、この後の指導碁の料金だと言って払わせてくれなかった。
四人固まって館内を回る。京子はともかく、京子に連れてこられた二人はさぞかし退屈だろうと思っていたが、二人とも熱心に眺めていた。
美術館を出る。夕方6時を過ぎ、ファミレスで食事しようという流れになる。
もしこれが大人の女性とのデートならば、それなりのランクのレストランに行く流れになるのだろうと江田は考えながら、美術館近くのファミレスに入る。
江田と京子はメニューをさくさくと決める。しかし優里亜と結花は決めかねている。
「どうしよう。これも美味しそう」
「ねー。京子は何を頼んだの?」
江田にはわからない。他人が何を頼もうが勝手だと思うのだが。なぜ女性は他人のメニューまでいちいち知りたがるのだろうか。
「ハンバーグセットにしました」
「え?それだけ?」
優里亜が驚く。京子の大食いを知っている者の正常なリアクションだ。
「はい。これはおやつで、家に帰ってからご飯にします」
「畠山先輩、そんなに食べるんですか!?」
結花という子は、京子の大食いを初めて知ったらしい。
かくいうこの二人も食後のデザートを頼んでいるのだが。
食事が運ばれてくるまでの間、スマホで指導碁を行う。
優里亜は夏に来た時よりもだいぶ実力を伸ばしていた。この調子なら女流試験は善戦できるだろう。
京子とは互戦勝負。金緑石王になったけど、まだまだ僕には敵わない。
そして結花。この子の事は京子から聞いているが、本当になかなか面白い手を打ってくる。まだ初心者ということもあって読みの浅いところはあるが、センスはいい。思わず「今からでも院生にならない?」とスカウトしてしまった。本人にはお世辞だと思われたようだが。
美術館という落ち着いた場所。それから指導碁。
想像していたよりも緊張していない自分に驚いた。一緒にプランを練ってくれた皆のお陰だ。
江田は少し笑顔を見せる余裕が出てきた。
皆の食事が運ばれてきた。
江田が頼んだのはカキフライ定食。ワカメの味噌汁と漬け物つきだ。
江田は手を合わせ「いただきます」と唱えてから箸を持つ。
しかし、隣に座っていた京子が「ちょっと待って」と止めた。
「どうかしたの?」
「デートなんですから、あれ、やってみませか?よく映画とかドラマとかでやってるじゃないですか。私、一度やってみたかったんです」
京子はそう言うと江田から箸を奪い取り自分で持つと、江田のカキフライを持ち上げた。
「はい、江田さん。あーん♥️」
緊張が解けたタイミングで、いきなり緊張感を高める京子の行為は、江田のキャパシティを一気に大きく越えてしまった。
江田は鼻血を出してそのまま倒れてしまった。
●○●○●○
「まさか「あーん」で倒れるとはな……」
翌週の研究会でデートの報告を受け、武士沢が頭を抱える。こんな事になるなら自分もついて行けば良かった。
「もういいんです。僕のことはほっといて下さい。京子をダシに使ったから罰が当たったんです……」
ふくよかな江田の体がみるみる小さくなっていく。
「江田さんは悪くないです!私が言い出したんですから!調子にのってあんなことしたから、悪いのは私です!本当にごめんなさい!」
項垂れる江田に、京子が土下座して謝っている。その様子を三嶋がスマホで撮影している。
「三嶋さん、なにしてるんですか?」
「いやぁ、京子の土下座なんて、最高に面白いなと思って。記録して拡散しようと思って」
京子が勢いよく立ち上がる。三嶋も身構える。
「ストーップ!ここは何処だと思ってるんだ!大成も撮影やめなさい!」
武士沢が怒鳴る。ちゃんこ鍋店での武士沢を思い出した京子と三嶋が急に大人しくなる。
「テル。そう落ち込むな。少しずつ慣らしていけばいいんだから」
武士沢が江田の肩を優しくポンと叩いた。しかし江田はますます小さく項垂れた。
「ありがとうございます、武士沢さん。でも、僕みたいなちんちくりんが女性と正面に会話出来るようになりたいなんて考えた時点で、とんでもない思い上がりだったんです」
「やめて下さい江田さん!そんなに自分を卑下しないで!江田さんは素敵な人です。いつも私のこと気にかけてくれる優しい人だし、絵は上手だし、なにより碁があんなに強いじゃないですか!」
京子にとっては一番最後の項目が重要らしい。囲碁棋士の鑑だ。
「それに江田さんは女性恐怖症を克服出来ると思います。だって2Dより3Dの女性の方が好きじゃないですか。アイドルオタクなんだし。アイドルよりかわいい畠山京子が協力しますから」
いつからこの子は謙虚という言葉を忘れてしまったのだろう。
「私が一生女性恐怖症克服のお手伝いをしますから」
含みのある物言いに、全員が「ん?」となる。
「もういっそのこと、私が18歳になったら結婚しちゃいましょうか♥️きゃー!言っちゃった♥️」
赤く染まった頬を両手で押さえ照れる京子に、岡本を含めた全員が絶句する。
「なんでそうなる!?どこをどうすれば結婚なんて話しになるんだ!?」
「あーもう、三嶋さん。そんなに嫉妬しないで下さいよ」
「してねぇ!江田さんを憐れんでるんだよ!」
「安心して下さい。私が三嶋さんにプロポーズすることはありませんから」
「それ聞いて安心したよ。っていうかそうじゃなくて!」
(ああ。また始まった。もう面倒くさい……)
また喧嘩を始めた二人をほっといて、武士沢は江田に視線をやる。
また倒れないかと心配したが、すんと澄まし顔をしている。
「テル。真に受けるな。京子の冗談だ」
「ええ。わかってます。さすがに20も歳の離れた子との結婚はないな、と」
江田は常識人だ。京子のこの台詞を聞いて、逆に冷静になったらしい。
武士沢はギャーギャー騒ぐ京子を眺めながら、「この子は将来、ちゃんとした恋愛をして結婚出来るのだろうか」と、京子の将来を案じていた。
三嶋は吹き出したキムチでむせ返り、武士沢は飛び散った鍋の汁をおしぼりで拭いた。
「いやいやいや!ちょっと待った!」
「お前!ゴホゴホ。それはさすがにマズイだろ!ゴホッ」
「三嶋さん、また「お前」って言ったんでイエローカードです。武士沢さん、何故ですか?」
「何故って……」
武士沢は紙ナプキンで口を拭いた。この子は地頭は良いのに、時々、倫理観がぶっ飛んでいる時がある。
「いいか京子。よく考えてみろ。女子中学生と中年男性が並んで歩いてたら、どうなるか」
もし、岡本と京子が並んで歩いていたら、世間からは祖父と孫娘が並んで歩く、仲睦まじい姿に映るだろう。
武士沢と京子なら父娘に。三嶋となら兄妹のように見えるだろう。
「もしテルと京子が並んで歩いている所に、警察官がすれ違ったら、その警察官はどうすると思う?」
「はーい、そこのご両人。ちょーっと止まってね。お二人の関係は?職場の同僚?ほう?お嬢さん、まだ中学生だよね。どんなお仕事しているのか、警察署で詳しくお話聞かせてもらえるかなー?となって、その後は保護者が来ないと帰れません!状態になるぞ」
「大成、わざわざモノマネまでしてくれてありがとうな。ま、という訳だ。面倒な事になるから、岡本先生に迷惑をかけたくなければ、やめておけ」
こうは言ったが、武士沢にも思うところはある。
将来、テルに運命の人が現れて、いざデートとなった時、あまりにも女性経験が無さすぎて相手に幻滅されて振られる可能性もなきにしもあらず。
もしそうなった時、テルはもう二度と立ち直る事ができなくなるのではないか?
そうならないように、京子に女性恐怖症克服を手伝ってもらう手もあるのではないだろうか?
となると模擬デートぐらいの位置付けにして、テルにデートの経験を積ませてやってもいいのではないだろうか?
しかし京子は何を考えているのか、ニヤニヤともヘラヘラともつかない不気味な笑みを浮かべた。
「わかりました。その辺の問題をクリアにすればいいんですよね」
京子が悪巧みを思い付いた時の顔だ。こうなったら最後、その悪巧みを実行しないと気が済まないのが、畠山京子だ。
「お前、何を企んでいる?」
「また「お前」って言いましたね。レッドカードです。三嶋さんは退場して下さい」
「あーもう!うぜぇ!」
(あー。またコイツらは!)
喧嘩するくらいなら大成には帰って欲しいのだが、恋愛絡みとなると話は別だ。俺には他人にアドバイスするほど恋愛経験が無い。嫁が初めてで唯一の彼女だからだ。だから大成には居てもらいたい。
「京子。デートするって話しになると、大成がいてくれた方が、いい相談相手になるぞ」
何しろ女を切らしたことがない、棋院きっての女たらしだ。
「ラブホに直行するような人から適切なアドバイスが貰えるとは思えません」
「……それもそうだな」
倫理観がぶっ飛んでいるのに、こういう場面では正面なことを言う。基準がわからない。
「ちょー!ブシさんまで!俺、どんな男だと思われてるんですか!」
京子と武士沢は綺麗に口を揃えてこう言った。
「「意図せずに結婚する羽目にならなければいいな、と」」
つまり「出来ちゃって」「仕方なく」結婚する運命が濃厚だと、三嶋をよく知る者達は全員思っている。
「京子だけならまだしも、ブシさんまで……。っていうかブシさん。さっきまで京子と江田さんをデートさせない方向で話し合ってましたよね?なんで急に方向転換したんですか?」
「テルの女性恐怖症を克服するのは悪いことでは無いだろ。いつだったか忘れたが、女優が花束のプレゼンターを務めた就位式、覚えているか?テルはガチガチになって花束の受けとりすら出来なかっただろう?」
その後暫く棋士達の格好の笑いの的にされていた。テルは笑ってやり過ごしていたが、笑い者にされて屈辱だったはずだ。
正直、武士沢はテル本人が女性恐怖症を克服したいと言い出すまでそっとしてやりたいと思っていた。と言うのも、テルはその彼女に振られてからというもの長いスランプに陥り、勝てない日が続いたからだ。繊細なテルは、それだけ強烈なショックを受けた。
アイドルオタクという回り道を経てやっと立ち直り、スランプを脱出すると、次々とタイトルを手に入れた。そして現在、30歳を越えてもまだトップ棋士として活躍できている。
京子が下手に突いてまたテルを悩ませスランプに陥る事にならないだろうか。
それとも年齢を重ね、少しは耐性がついただろうか。
でもタイミングというものもある。そしておそらく、京子という駒が揃った今がそのタイミングなのだと思う。
「俺は出来る事ならテルの女性恐怖症を克服させてやりたい。それでトラウマを克服するには、当時の彼女の年齢に近い女性とデートするのがいいと思うんだ。その点、京子はテルを好いているし、京子の成長と共に大人の女性への恐怖心も克服出来るんじゃないかと思うんだ」
「なるほど……」
「なるほど……。さすが武士沢さん。弟弟子を我が子のように……。「お前」って言う三嶋さんとは大違いですね」
「なんか言ったか?」
「聞こえませんでしたか?三嶋さんの誕生日プレゼント、補聴器にしましょうか?」
また二人が睨み合う。
「騒ぐなら二人とも帰れ。店に迷惑がかかる」
武士沢が静かに、そしてゆっくりと言った。
ついに武士沢がキレた。
気弱で温厚な武士沢。三嶋が初対面で「ブシさん」と呼んでも受け入れる、心の広い人格者。その人格者がついにキレた。普段怒らない人が怒ると、体感恐怖は倍以上だ。
「「す……すみませんでした……」」
暫く二人は項垂れていた。武士沢の説教が始まるかと思った。しかし武士沢は腕組みし、無言のままだ。くどくどと説教されるより怖い。
暫く静寂が続いた。
そんな重い空気に耐えきれなくなった三嶋が、この静寂を打ち破った。
「えっと……、じゃあブシさん。どこにデートに行くか、決めませんか?」
「あ、あの私、頑張りますから。っていうか、江田さんと今まで通り、普通にお喋りしたいんです」
そうだ。京子には切実な問題だ。なんせ京子は何も悪く無いのに江田に避けられているのだから。
武士沢が腕組みをやめる。
「言っておくが、俺は最近流行りのデートスポットとか、全然知らないからな。なんのアドバイスも出来ないぞ」
「ええ。それなら俺に任せて下さい」
と言った三嶋の台詞を聞いて、京子が一言言ってやりたいという表情になる。が、武士沢にまた怒られたくなくて外方を向いて口をモゴモゴ動かしている。おそらく三嶋の悪口でも言っているのだろう。
「じゃあまず京子、江田さんとデートで行ってみたい所とかあるか?」
京子は「えっと……」と言うと、暫く黙り込んだ。京子にしては珍しく長考して、やっと答えを出した。
「えーと、カラオケに行って?ボウリングして?それから、スタバ?で、お茶して?えーと、あとはゲーセン?とか?」
「なんで全部疑問形なんだよ」
三嶋がツッコむ。
無理もない。京子は学校に通いながら囲碁棋士の仕事もしている。デートなどしている暇など無い。
今、京子が言ったデートコースは、クラスの女子の盗み聞きした会話を思い出せるだけ思い出したものだ。
「それにそのデートコース、中高生の放課後デートだろ。相手は江田さん。30代の独身男性だぞ。子供のテンションに合わせるのは大変だと思うぞ。そもそもお前、デートしたこと無いだろ」
三嶋の「お前」と「デートしたこと無い」に、京子はムッとする。確かにその通りだが、三嶋に言われるとムカつく。
「いや、そこ大事じゃないか?」
無言の圧をかけていた武士沢が口を開いた。
「テルは今まで彼女がいたためしが無い。おそらくデートもしたことが無いだろう。高級レストランで食事みたいな大人のデートプランを組むより、京子の年齢に合わせて中高生の放課後デートから始めた方が、テルのメンタルにも良いんじゃないか?中高生でも大人でも楽しめる場所はいくらでもあるだろう。例えばランドとか」
武士沢の的確なアドバイスに、三嶋が唸る。
「それもそうですね」
「中学時代からラブホ通いしていた三嶋さんには思い付かないですね。やっぱり三嶋さん、お帰り下さい。武士沢さんだけで大丈夫です」
京子はレッドカードの効力が切れないうちに三嶋を返す方向に舵を切った。三嶋が京子を睨みつける。
また二人から不穏な空気が流れ始めた。
武士沢は人差し指の爪で机をコツコツと叩く。二人はビクッと体を震わせて大人しくなった。
(今日の武士沢さん、怖い。もう大人しくしていよう)
仕方なく、京子は発効したレッドカードを無効化することにした。
「でも私、ランドは煩くて正直嫌いです。それに入場料もお高いし」
「そういえばテルも人が多い場所は苦手だったな。となると、どこがいいかな?静かで、人出もそこそこで、お値段もそこそこで」
京子と武士沢が首を傾げて考え込む。
しかし、首を傾げていない人物が一人。
「江田さんが京子と口をきいてくれなくなった、事の発端はなんだ?江田さんが描いた絵だろ。美術館なんてどうだ」
京子は大きく目を見開き口を開けた。初めて三嶋を頼もしいと思った瞬間だった。
●○●○●○
翌週の水曜日の昼下がり。江田はラフな格好で上野に来ていた。
先週の研究会で、突然京子からなんの前置きも無く「デートして下さい!」と言われたのには驚いた。
武士沢さんと大成から事情を聞いて、納得したけど。
京子を避けてるなんて、自覚が無かった。京子を悲しませるつもりは無かったのに。
自分は女性恐怖症だという自覚はある。今まで不都合を感じたこともないし、このままでもいいかと思っていた。
でも、自分に自覚無く他人を不愉快にさせているなら克服したい。京子の申し出を受け入れることにした。
京子と江田で話し合って決めたデート場所は、上野の森美術館だった。芸術大学が近くにある為か、上野には美術館が多い。その数ある美術館の中で上野の森美術館を選んだ理由は、京子がまだ行ったことが無いから。学校が休みの日に美術館や博物館、資料館巡りをしているらしい。「東京って、歴史の勉強には事欠かないですよねー」と言っていた。
それから最大の難関。中年男性と女子中学生のデートを怪しまれないようにする秘策。
京子は助っ人を二人、連れて来ていた。夏に研究会に来た院生の田村優里亜と、京子の通う学校の囲碁部の浅野結花だ。囲碁絡みであれば緊張が和らぐだろうという考えから、京子がこの二人に頼み込んだ。
土日は優里亜が院生研修で来られないので、期末試験一週間前で部活禁止になる今日になった。それに制服姿なら「美術講師と生徒の美術部の野外講義」に見えるだろうというお墨付きを武士沢と三嶋からもらった。
優里亜と結花には京子が事情を話し、全て納得ずくで協力してもらうことになった。
入館料を個人個人で払う。江田が全員分を払うと言ったのだが、この後の指導碁の料金だと言って払わせてくれなかった。
四人固まって館内を回る。京子はともかく、京子に連れてこられた二人はさぞかし退屈だろうと思っていたが、二人とも熱心に眺めていた。
美術館を出る。夕方6時を過ぎ、ファミレスで食事しようという流れになる。
もしこれが大人の女性とのデートならば、それなりのランクのレストランに行く流れになるのだろうと江田は考えながら、美術館近くのファミレスに入る。
江田と京子はメニューをさくさくと決める。しかし優里亜と結花は決めかねている。
「どうしよう。これも美味しそう」
「ねー。京子は何を頼んだの?」
江田にはわからない。他人が何を頼もうが勝手だと思うのだが。なぜ女性は他人のメニューまでいちいち知りたがるのだろうか。
「ハンバーグセットにしました」
「え?それだけ?」
優里亜が驚く。京子の大食いを知っている者の正常なリアクションだ。
「はい。これはおやつで、家に帰ってからご飯にします」
「畠山先輩、そんなに食べるんですか!?」
結花という子は、京子の大食いを初めて知ったらしい。
かくいうこの二人も食後のデザートを頼んでいるのだが。
食事が運ばれてくるまでの間、スマホで指導碁を行う。
優里亜は夏に来た時よりもだいぶ実力を伸ばしていた。この調子なら女流試験は善戦できるだろう。
京子とは互戦勝負。金緑石王になったけど、まだまだ僕には敵わない。
そして結花。この子の事は京子から聞いているが、本当になかなか面白い手を打ってくる。まだ初心者ということもあって読みの浅いところはあるが、センスはいい。思わず「今からでも院生にならない?」とスカウトしてしまった。本人にはお世辞だと思われたようだが。
美術館という落ち着いた場所。それから指導碁。
想像していたよりも緊張していない自分に驚いた。一緒にプランを練ってくれた皆のお陰だ。
江田は少し笑顔を見せる余裕が出てきた。
皆の食事が運ばれてきた。
江田が頼んだのはカキフライ定食。ワカメの味噌汁と漬け物つきだ。
江田は手を合わせ「いただきます」と唱えてから箸を持つ。
しかし、隣に座っていた京子が「ちょっと待って」と止めた。
「どうかしたの?」
「デートなんですから、あれ、やってみませか?よく映画とかドラマとかでやってるじゃないですか。私、一度やってみたかったんです」
京子はそう言うと江田から箸を奪い取り自分で持つと、江田のカキフライを持ち上げた。
「はい、江田さん。あーん♥️」
緊張が解けたタイミングで、いきなり緊張感を高める京子の行為は、江田のキャパシティを一気に大きく越えてしまった。
江田は鼻血を出してそのまま倒れてしまった。
●○●○●○
「まさか「あーん」で倒れるとはな……」
翌週の研究会でデートの報告を受け、武士沢が頭を抱える。こんな事になるなら自分もついて行けば良かった。
「もういいんです。僕のことはほっといて下さい。京子をダシに使ったから罰が当たったんです……」
ふくよかな江田の体がみるみる小さくなっていく。
「江田さんは悪くないです!私が言い出したんですから!調子にのってあんなことしたから、悪いのは私です!本当にごめんなさい!」
項垂れる江田に、京子が土下座して謝っている。その様子を三嶋がスマホで撮影している。
「三嶋さん、なにしてるんですか?」
「いやぁ、京子の土下座なんて、最高に面白いなと思って。記録して拡散しようと思って」
京子が勢いよく立ち上がる。三嶋も身構える。
「ストーップ!ここは何処だと思ってるんだ!大成も撮影やめなさい!」
武士沢が怒鳴る。ちゃんこ鍋店での武士沢を思い出した京子と三嶋が急に大人しくなる。
「テル。そう落ち込むな。少しずつ慣らしていけばいいんだから」
武士沢が江田の肩を優しくポンと叩いた。しかし江田はますます小さく項垂れた。
「ありがとうございます、武士沢さん。でも、僕みたいなちんちくりんが女性と正面に会話出来るようになりたいなんて考えた時点で、とんでもない思い上がりだったんです」
「やめて下さい江田さん!そんなに自分を卑下しないで!江田さんは素敵な人です。いつも私のこと気にかけてくれる優しい人だし、絵は上手だし、なにより碁があんなに強いじゃないですか!」
京子にとっては一番最後の項目が重要らしい。囲碁棋士の鑑だ。
「それに江田さんは女性恐怖症を克服出来ると思います。だって2Dより3Dの女性の方が好きじゃないですか。アイドルオタクなんだし。アイドルよりかわいい畠山京子が協力しますから」
いつからこの子は謙虚という言葉を忘れてしまったのだろう。
「私が一生女性恐怖症克服のお手伝いをしますから」
含みのある物言いに、全員が「ん?」となる。
「もういっそのこと、私が18歳になったら結婚しちゃいましょうか♥️きゃー!言っちゃった♥️」
赤く染まった頬を両手で押さえ照れる京子に、岡本を含めた全員が絶句する。
「なんでそうなる!?どこをどうすれば結婚なんて話しになるんだ!?」
「あーもう、三嶋さん。そんなに嫉妬しないで下さいよ」
「してねぇ!江田さんを憐れんでるんだよ!」
「安心して下さい。私が三嶋さんにプロポーズすることはありませんから」
「それ聞いて安心したよ。っていうかそうじゃなくて!」
(ああ。また始まった。もう面倒くさい……)
また喧嘩を始めた二人をほっといて、武士沢は江田に視線をやる。
また倒れないかと心配したが、すんと澄まし顔をしている。
「テル。真に受けるな。京子の冗談だ」
「ええ。わかってます。さすがに20も歳の離れた子との結婚はないな、と」
江田は常識人だ。京子のこの台詞を聞いて、逆に冷静になったらしい。
武士沢はギャーギャー騒ぐ京子を眺めながら、「この子は将来、ちゃんとした恋愛をして結婚出来るのだろうか」と、京子の将来を案じていた。
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