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布石編
金緑石戦決勝第三局(後編)『魔術師の弟子の魔法』
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いつもなら気にならない事が気になる。
ネット配信のカメラ。
空調の機械音。
部屋を出入りする職員。
記録係がペンを走らせる音。
対局相手の息遣い。
集中できていない証拠だ。
厄介だ。集中しなければと思えば思うほど集中できなくなる。余計周りが気になる。なんでもない事がいちいち気に障る。悪循環だ。
富岳は気分転換しようと席を離れた。
トイレを済ませ、『青雲の間』の部屋の前の廊下で背伸びをする。肩をグルグルと回し腕を伸ばす。もう一度背伸びをしながら今日の対局内容を思い出す。
39手目を打った所だ。ここまではまだ戦いは始まっていない。
(……まだ戦いが始まっていない?)
漸くあることに気付く。
(俺、なんで畠山が仕掛けて来るのを待ってるんだ?)
黒番なんだから、自分からさっさと仕掛けて先手を取ればいいのに。先に仕掛けないなんて俺らしくない。黒番のアドバンテージが無くなってしまう。
そしてもう一つあることに気付く。
(俺が仕掛けないんだから畠山から仕掛ければいいのに、畠山も仕掛けてこない)
お互い慎重になっているのだろうか?
富岳は大きく深呼吸すると、『青雲の間』に入って入った。
富岳が入室しても、京子は顔すら上げない。
対局前はあれだけギャーギャー騒いでいたのに、いざ対局が始まると借りてきた猫のように大人しくなる。
それに京子は対局中、対戦相手を見ない。
まるで「相手の目を見なくても、盤上を見れば、相手が何を考えているかなんてわかるでしょ?」と言っているかのように。
富岳は自分の席に戻る。上を向き溜め息を吐く。照明の眩しさに目を細める。
京子が40手目を打った。まだ仕掛けてこない。まずはガチガチに守りを固めようという感じの手だ。
(何を考えている?)
無表情で背筋をピンと伸ばし、碁盤の隅から隅までギョロギョロと視線を走らせる京子の表情からは、何処を狙っているのか、何を考えているのか、全く読めない。
(これ以上、守りを固められると動けなくなるな。仕掛けるか)
富岳は41手目を打つ。京子の顔色を窺う。
相変わらずのポーカーフェイスだ。
暫くギョロギョロと動いていた京子の目がある一点で止まる。白石を持ち、富岳がたった今打った41手目にブツけてきた。
「!?」
まだ序盤。今までの畠山京子なら、この盤面では軽く受け流す手を打ってくるはずだ。
これは明らかに俺の知っている畠山京子の碁ではない。
富岳はゴクンと唾を飲み込み、目の前の人物を睨みつける。
(お前は誰だ?)
●○●○●○
岡本幸浩の門下生になった頃、京子はこんな碁を打つ子ではなかった。
定石を知らないかのような碁だった。序盤中盤は出鱈目に打ちヨセからが本番、というような碁だった。ガキ大将が近所の子供達を片っ端から虐めて回るような棋風だった。
プロからしたら出鱈目にしか見えない京子の碁は、既に俺とは互角に打てる実力があった。四段と互角に打てるのならもう女流試験には充分ではないかと俺は言った。
京子は「ただプロになりたいんじゃない。タイトルを獲れる棋士になりたい」と言った。
弟子になってから、京子はまず定石を徹底的に勉強した。あの大量の定石全集をたった二週間で頭に叩き込んだ。
先日、二年前に叩き込んだ定石をどのくらい覚えているかテストしてみた。全問正解だった。タイトル戦では打たれた事がないマイナーな定石の定石外れまで、ちゃんと覚えていた。
定石を叩き込んでから棋譜並べを始めた。古い棋譜、本因坊算砂の御城碁からだ。
「現代の碁から並べたほうが、今の主流の戦い方を学べるぞ」と言ったが、京子は「歴史を辿ったほうが私には覚え易いので」と、効率度外視の方法で勉強した。最低でも30局毎日並べるのを日課にした。学校に通いながらでは睡眠時間を削るしかないのでは?と訊いたら、「一度並べれば充分だし、睡眠時間を削るつもりはない。もし30に満たなかったら学校が休みの日にまとめてやる。睡眠時間を削らなきゃいけないような勉強方法は結局いつかどこかで破綻すると思う」と答えた。
算砂から始めて二年間毎日最低でも30局並べる。単純計算で2万局以上を並べた計算になる。学校が休みの日には倍以上は並べたのだろう。
それが第一局の『風車』だ。
京子のやり方で、たった二年で『風車』まで追い付いたのだ。実戦で打てるほどに。
『魔術師・岡本幸浩』の弟子、畠山京子の武器は、桁違いの記憶力だ。
「京子ちゃん、今日はやけにゆったりとした碁だね」
三嶋大成に声をかけてきたのは、昨年度の金緑石王の川上光太郎七段だった。それほど親しい仲ではないので、三嶋はちょっと戸惑った。
「どう?兄弟子から見た今日の京子ちゃんは」
川上は三嶋の隣に座った。長居するようだ。
「調子は悪くないみたいですよ。随分のんびりした碁だな、とは思いますけど。ただ……」
「ただ?」
「京子がこんな打ち方をするのは、初めて見ました」
三嶋の含みのある物言いに、川上が反応する。
「へぇ……。確か三嶋くんて、立花くんと研究会やってるって聞いたけど」
「はい。そうですけど」
と答えはしたが、川上の質問の意図するものがわからない。
「僕さ、去年立花くんと戦ったから、もしかしたらと思ってるんだけどさ。京子ちゃんが今打ってるのって、立花くんの碁じゃないかな?二人の碁を知ってる三嶋くんから見て、どう思う?」
川上は三嶋の目を見る。三嶋は川上を、つい睨み返してしまった。
(流石だな。トップ棋士になった人は、こういう所も気付くんだ)
川上の言う通り、今三嶋の目には二人の富岳が打っているような盤面に映っている。
京子と富岳は、これで6局目の対戦になる。
富岳を病院送りにした初戦の金剛石戦。
早碁の翠玉戦。
年末に行われた院生との交流戦、原石戦。
そして今打たれている金緑石戦の2局。
プロならば5局も打っていれば、相手の特徴を捉えられる。
ただ、『特徴を捉える』のと『相手の碁を真似る』とでは大違いだ。特徴を捉えたからといって、簡単に他人の碁を真似できる訳がない。相手がトッププロなら尚更だ。
それに自分にも長年培ってきたものがある。簡単には変えられない。
しかし今、京子はその出来ないはずの事をやっている。
京子は院生ではなかった。そしてプロになると決めてからプロ入りする迄の期間も短い。下積みの時間が他のプロより短い。
つまりこだわりが少ないという訳だ。だから出来た芸当なのだろう。
(京子は新しくこんな武器を身に付けたのか)
妹弟子ながら、思わず感心してしまう。
と同時に、やっと三嶋に危機感が芽生えた。
自分はまだ一つも手にしていないタイトルを、妹弟子に先を越されるのではないのかという危機感を。
●○●○●○
予兆はあった。翠玉戦の時、妙に川上さんの碁に似てる碁を打つな、と思った。ただその時は早碁で時間切れ負けという情けない負け方をしたということもあって、有耶無耶にしてしまった。
それに前局、畠山はまともに感想戦をやらなかった。
今思えば、上手く話を逸らして検討させなかったのではないか。第2局と第3局の間が無いのを見越して、研究させないように。
京子が66手目を打った所で、富岳は漸く確信する。
(間違いない。これは俺の碁だ)
次々と石をぶつけ、ガンガン攻めてくる。
同じ力量の者同士が殴り合いの喧嘩をしている。
こうなってしまったら、勝敗は単純。粘り強い方が勝つ。殴られても殴られても立ち続けた方が勝ちだ。
ただ、こうなると負けた時の精神的ダメージも大きい。
勝ったと思った相手に逆転されて負けた時ほど、後々まで引きずる。立ち直るのに時間がかかる。下手すると立ち直れず、その相手にはもう二度と勝てなくなる。
「俺はコイツより下なんだ」と心に刷り込まれる。
俺は今、畠山にそんな碁を打たされている。
(まずい。主導権を握らないと)
焦るな。
富岳は自分に言い聞かせる。焦って打ったって状況は好転しない。
一手一手、慎重に打ち進める。
●○●○●○
記録係の田村優里亜は、赤のペンで『111』と書いてしまった事に気付いた。
新しい用紙を取り出し、また一手目から書き直す。修正液は使わない。記録係の手書きの棋譜は永久に残るからだ。
優里亜は京子の表情を見る。
稽古をつけてもらっている時の京子とは、表情も伝わる空気も違う。戦いが始まってから背筋のゾクゾクするような寒気が止まらない。
怖い。
盤面を見ても表情を見ても、二人の手が全く読めない。
ここを狙っているのかと思えばこっちに打ち、そっちに狙いを変えたのかと思えばフェイクだったり。
(プロになったらまず、低段者との対局が大半になるわけだから、この二人との対戦は避けられない訳だけど……)
低階層のエリアボスが強すぎる!!
こんなラスボス並みに強いのを2体も倒さなきゃならないなんて、無理ゲーでしょ!
(生まれてきた時代が悪すぎた!ママ、もうちょっと早く私を産んでくれれば……。って私、この二人より3歳年上なんだっけ……。私の方が先に生まれたのにまだ私はプロになれてない)
才能?育った環境?運?運命?
人はみな平等とか言った奴!ブッ飛ばしたい!
●○●○●○
畠山はもう一手ハッてきた。これは俺が原石戦で打った手だ。
まるで鏡映しのように俺の手を真似てくる。
段々イライラしてくる。自分が何をしているのか、分からなくなってくる。これでいいのか判断を誤りそうになる。
真似されたくなくて、何か別にいい手があるのではないかと探す。
(しかしこの場ではこれがベスト。冷静になれ。冷静に)
徐々にヨセに近づく。差をつけられなかった。またしても畠山を投了させられなかった。
畠山との初対局以来、ヨセに重点をおいて勉強してきたが、この金緑石戦の第一局第二局で、まだヨセでは畠山と俺との力量は歴然だと感じとっていた。
(どうする。投了するか?いや、投了だけはしたくない!コイツに『負けた』なんて認めたくない!)
それに畠山も人間だ。もしかしたら、ヨセで間違えるかも知れないじゃないか!
でもこの判断は間違いだった。
五分だった戦況判断が、あっという間に畠山有利に変わった。気付けば素人目にもはっきり白勝利の道筋が見えていた。
富岳は黒石を掴んで離した。そしてまた碁笥に手を突っ込み石を持とうとしたが離した。
「ありません」
俯いたまま、か細い声で富岳は投了した。
富岳は魔術師の弟子になれなかった悔しさよりも、棋士としてのプライドを優先させたのだ。
お互い礼をする。
顔を上げた京子はクーラーボックスからスポーツタオルを取り出し、汗まみれの顔を拭いた。
タオルをサイドテーブルに置いて、京子は大きく息をついた。そして徐に口を開いた。
「これでハッキリしましたね」
京子のこの一言に、富岳の心臓がドクンと脈を打つ。
富岳は悟る。京子が何を言いたいのか。
(言うな!その台詞を!お前の口からは聞きたくない!!)
「岡本幸浩の弟子に相応しいのは私です。あなたじゃない。岡本先生の判断は正しかった」
●○●○●○
そこから先は覚えていない。気づいたら自分の部屋の布団の中で泣いていた。
風呂には入ったらしい。パジャマに着替えてあった。
(奇跡体験で「当時の記憶がない」とよく聞くが、本当に記憶って飛ぶんだな……)
ベッドサイドに置いてあるデジタルの目覚まし時計を見る。夜中の3時を回った所だった。家に帰ってきた記憶すら無いのに、風呂に入って自分の布団で泣きながら寝落ちしたらしい。
再び眠ろうとするが、腹が減って寝付けない。夕飯は食べなかったらしい。
仕方無しに起き上がって、キッチンに行き、冷蔵庫を開けた。ラップのかかったおにぎりが2個、あった。
「ちょっと冷た過ぎるな」
富岳はおにぎりの乗った皿を電子レンジに突っ込むと、テーブルに移動した。母の筆跡の置き手紙があった。
富岳へ
夕食を食べてなかったみたいなので
おにぎりを作っておきました
食べて下さい
普段は「あーしろ」「こーしろ」と命令口調なのに、丁寧語で書かれてあって、なんだかむず痒い。
電子レンジからメロディが流れる。
富岳はおにぎりを取り出すと、ラップを外し、おにぎりを頬張った。筋子のおにぎりだった。
「げ!半生の筋子……!」
温めない方がましだった。手紙におにぎりの具は何か、書いておいてくれれば良かったのに!
まぁ、一手足りない所がウチの母親らしいというか。
(そういえば母さんが夜食を作っておいてくれた事なんて、あったかな……)
何故おにぎりが冷蔵庫に入っているのか、疑問にも思わなかった。あの母親が俺に気を使って、夜食を作って置いてくれたなんて。
(もしかして母さん、俺の対局結果をネットで見てたのかな……)
院生の時は毎回研修が終わると、しつこく順位を聞いてきた。
だが、プロになってからは対局結果を聞かれた記憶が無い。
プロになった俺に興味が無くなったのかと思っていたが、きっとそうじゃない。
負けた時にお互い気を使わなくてすむ方法が、無関心を装うことだったんだ。
(いい歳した大人が。不器用すぎるだろ)
半生になった筋子のおにぎりを口に運ぶ。
止まったはずの涙がまた流れてきた。
今年も金緑石王の称号を逃したけど、次こそ負けない。
畠山京子にも。
ネット配信のカメラ。
空調の機械音。
部屋を出入りする職員。
記録係がペンを走らせる音。
対局相手の息遣い。
集中できていない証拠だ。
厄介だ。集中しなければと思えば思うほど集中できなくなる。余計周りが気になる。なんでもない事がいちいち気に障る。悪循環だ。
富岳は気分転換しようと席を離れた。
トイレを済ませ、『青雲の間』の部屋の前の廊下で背伸びをする。肩をグルグルと回し腕を伸ばす。もう一度背伸びをしながら今日の対局内容を思い出す。
39手目を打った所だ。ここまではまだ戦いは始まっていない。
(……まだ戦いが始まっていない?)
漸くあることに気付く。
(俺、なんで畠山が仕掛けて来るのを待ってるんだ?)
黒番なんだから、自分からさっさと仕掛けて先手を取ればいいのに。先に仕掛けないなんて俺らしくない。黒番のアドバンテージが無くなってしまう。
そしてもう一つあることに気付く。
(俺が仕掛けないんだから畠山から仕掛ければいいのに、畠山も仕掛けてこない)
お互い慎重になっているのだろうか?
富岳は大きく深呼吸すると、『青雲の間』に入って入った。
富岳が入室しても、京子は顔すら上げない。
対局前はあれだけギャーギャー騒いでいたのに、いざ対局が始まると借りてきた猫のように大人しくなる。
それに京子は対局中、対戦相手を見ない。
まるで「相手の目を見なくても、盤上を見れば、相手が何を考えているかなんてわかるでしょ?」と言っているかのように。
富岳は自分の席に戻る。上を向き溜め息を吐く。照明の眩しさに目を細める。
京子が40手目を打った。まだ仕掛けてこない。まずはガチガチに守りを固めようという感じの手だ。
(何を考えている?)
無表情で背筋をピンと伸ばし、碁盤の隅から隅までギョロギョロと視線を走らせる京子の表情からは、何処を狙っているのか、何を考えているのか、全く読めない。
(これ以上、守りを固められると動けなくなるな。仕掛けるか)
富岳は41手目を打つ。京子の顔色を窺う。
相変わらずのポーカーフェイスだ。
暫くギョロギョロと動いていた京子の目がある一点で止まる。白石を持ち、富岳がたった今打った41手目にブツけてきた。
「!?」
まだ序盤。今までの畠山京子なら、この盤面では軽く受け流す手を打ってくるはずだ。
これは明らかに俺の知っている畠山京子の碁ではない。
富岳はゴクンと唾を飲み込み、目の前の人物を睨みつける。
(お前は誰だ?)
●○●○●○
岡本幸浩の門下生になった頃、京子はこんな碁を打つ子ではなかった。
定石を知らないかのような碁だった。序盤中盤は出鱈目に打ちヨセからが本番、というような碁だった。ガキ大将が近所の子供達を片っ端から虐めて回るような棋風だった。
プロからしたら出鱈目にしか見えない京子の碁は、既に俺とは互角に打てる実力があった。四段と互角に打てるのならもう女流試験には充分ではないかと俺は言った。
京子は「ただプロになりたいんじゃない。タイトルを獲れる棋士になりたい」と言った。
弟子になってから、京子はまず定石を徹底的に勉強した。あの大量の定石全集をたった二週間で頭に叩き込んだ。
先日、二年前に叩き込んだ定石をどのくらい覚えているかテストしてみた。全問正解だった。タイトル戦では打たれた事がないマイナーな定石の定石外れまで、ちゃんと覚えていた。
定石を叩き込んでから棋譜並べを始めた。古い棋譜、本因坊算砂の御城碁からだ。
「現代の碁から並べたほうが、今の主流の戦い方を学べるぞ」と言ったが、京子は「歴史を辿ったほうが私には覚え易いので」と、効率度外視の方法で勉強した。最低でも30局毎日並べるのを日課にした。学校に通いながらでは睡眠時間を削るしかないのでは?と訊いたら、「一度並べれば充分だし、睡眠時間を削るつもりはない。もし30に満たなかったら学校が休みの日にまとめてやる。睡眠時間を削らなきゃいけないような勉強方法は結局いつかどこかで破綻すると思う」と答えた。
算砂から始めて二年間毎日最低でも30局並べる。単純計算で2万局以上を並べた計算になる。学校が休みの日には倍以上は並べたのだろう。
それが第一局の『風車』だ。
京子のやり方で、たった二年で『風車』まで追い付いたのだ。実戦で打てるほどに。
『魔術師・岡本幸浩』の弟子、畠山京子の武器は、桁違いの記憶力だ。
「京子ちゃん、今日はやけにゆったりとした碁だね」
三嶋大成に声をかけてきたのは、昨年度の金緑石王の川上光太郎七段だった。それほど親しい仲ではないので、三嶋はちょっと戸惑った。
「どう?兄弟子から見た今日の京子ちゃんは」
川上は三嶋の隣に座った。長居するようだ。
「調子は悪くないみたいですよ。随分のんびりした碁だな、とは思いますけど。ただ……」
「ただ?」
「京子がこんな打ち方をするのは、初めて見ました」
三嶋の含みのある物言いに、川上が反応する。
「へぇ……。確か三嶋くんて、立花くんと研究会やってるって聞いたけど」
「はい。そうですけど」
と答えはしたが、川上の質問の意図するものがわからない。
「僕さ、去年立花くんと戦ったから、もしかしたらと思ってるんだけどさ。京子ちゃんが今打ってるのって、立花くんの碁じゃないかな?二人の碁を知ってる三嶋くんから見て、どう思う?」
川上は三嶋の目を見る。三嶋は川上を、つい睨み返してしまった。
(流石だな。トップ棋士になった人は、こういう所も気付くんだ)
川上の言う通り、今三嶋の目には二人の富岳が打っているような盤面に映っている。
京子と富岳は、これで6局目の対戦になる。
富岳を病院送りにした初戦の金剛石戦。
早碁の翠玉戦。
年末に行われた院生との交流戦、原石戦。
そして今打たれている金緑石戦の2局。
プロならば5局も打っていれば、相手の特徴を捉えられる。
ただ、『特徴を捉える』のと『相手の碁を真似る』とでは大違いだ。特徴を捉えたからといって、簡単に他人の碁を真似できる訳がない。相手がトッププロなら尚更だ。
それに自分にも長年培ってきたものがある。簡単には変えられない。
しかし今、京子はその出来ないはずの事をやっている。
京子は院生ではなかった。そしてプロになると決めてからプロ入りする迄の期間も短い。下積みの時間が他のプロより短い。
つまりこだわりが少ないという訳だ。だから出来た芸当なのだろう。
(京子は新しくこんな武器を身に付けたのか)
妹弟子ながら、思わず感心してしまう。
と同時に、やっと三嶋に危機感が芽生えた。
自分はまだ一つも手にしていないタイトルを、妹弟子に先を越されるのではないのかという危機感を。
●○●○●○
予兆はあった。翠玉戦の時、妙に川上さんの碁に似てる碁を打つな、と思った。ただその時は早碁で時間切れ負けという情けない負け方をしたということもあって、有耶無耶にしてしまった。
それに前局、畠山はまともに感想戦をやらなかった。
今思えば、上手く話を逸らして検討させなかったのではないか。第2局と第3局の間が無いのを見越して、研究させないように。
京子が66手目を打った所で、富岳は漸く確信する。
(間違いない。これは俺の碁だ)
次々と石をぶつけ、ガンガン攻めてくる。
同じ力量の者同士が殴り合いの喧嘩をしている。
こうなってしまったら、勝敗は単純。粘り強い方が勝つ。殴られても殴られても立ち続けた方が勝ちだ。
ただ、こうなると負けた時の精神的ダメージも大きい。
勝ったと思った相手に逆転されて負けた時ほど、後々まで引きずる。立ち直るのに時間がかかる。下手すると立ち直れず、その相手にはもう二度と勝てなくなる。
「俺はコイツより下なんだ」と心に刷り込まれる。
俺は今、畠山にそんな碁を打たされている。
(まずい。主導権を握らないと)
焦るな。
富岳は自分に言い聞かせる。焦って打ったって状況は好転しない。
一手一手、慎重に打ち進める。
●○●○●○
記録係の田村優里亜は、赤のペンで『111』と書いてしまった事に気付いた。
新しい用紙を取り出し、また一手目から書き直す。修正液は使わない。記録係の手書きの棋譜は永久に残るからだ。
優里亜は京子の表情を見る。
稽古をつけてもらっている時の京子とは、表情も伝わる空気も違う。戦いが始まってから背筋のゾクゾクするような寒気が止まらない。
怖い。
盤面を見ても表情を見ても、二人の手が全く読めない。
ここを狙っているのかと思えばこっちに打ち、そっちに狙いを変えたのかと思えばフェイクだったり。
(プロになったらまず、低段者との対局が大半になるわけだから、この二人との対戦は避けられない訳だけど……)
低階層のエリアボスが強すぎる!!
こんなラスボス並みに強いのを2体も倒さなきゃならないなんて、無理ゲーでしょ!
(生まれてきた時代が悪すぎた!ママ、もうちょっと早く私を産んでくれれば……。って私、この二人より3歳年上なんだっけ……。私の方が先に生まれたのにまだ私はプロになれてない)
才能?育った環境?運?運命?
人はみな平等とか言った奴!ブッ飛ばしたい!
●○●○●○
畠山はもう一手ハッてきた。これは俺が原石戦で打った手だ。
まるで鏡映しのように俺の手を真似てくる。
段々イライラしてくる。自分が何をしているのか、分からなくなってくる。これでいいのか判断を誤りそうになる。
真似されたくなくて、何か別にいい手があるのではないかと探す。
(しかしこの場ではこれがベスト。冷静になれ。冷静に)
徐々にヨセに近づく。差をつけられなかった。またしても畠山を投了させられなかった。
畠山との初対局以来、ヨセに重点をおいて勉強してきたが、この金緑石戦の第一局第二局で、まだヨセでは畠山と俺との力量は歴然だと感じとっていた。
(どうする。投了するか?いや、投了だけはしたくない!コイツに『負けた』なんて認めたくない!)
それに畠山も人間だ。もしかしたら、ヨセで間違えるかも知れないじゃないか!
でもこの判断は間違いだった。
五分だった戦況判断が、あっという間に畠山有利に変わった。気付けば素人目にもはっきり白勝利の道筋が見えていた。
富岳は黒石を掴んで離した。そしてまた碁笥に手を突っ込み石を持とうとしたが離した。
「ありません」
俯いたまま、か細い声で富岳は投了した。
富岳は魔術師の弟子になれなかった悔しさよりも、棋士としてのプライドを優先させたのだ。
お互い礼をする。
顔を上げた京子はクーラーボックスからスポーツタオルを取り出し、汗まみれの顔を拭いた。
タオルをサイドテーブルに置いて、京子は大きく息をついた。そして徐に口を開いた。
「これでハッキリしましたね」
京子のこの一言に、富岳の心臓がドクンと脈を打つ。
富岳は悟る。京子が何を言いたいのか。
(言うな!その台詞を!お前の口からは聞きたくない!!)
「岡本幸浩の弟子に相応しいのは私です。あなたじゃない。岡本先生の判断は正しかった」
●○●○●○
そこから先は覚えていない。気づいたら自分の部屋の布団の中で泣いていた。
風呂には入ったらしい。パジャマに着替えてあった。
(奇跡体験で「当時の記憶がない」とよく聞くが、本当に記憶って飛ぶんだな……)
ベッドサイドに置いてあるデジタルの目覚まし時計を見る。夜中の3時を回った所だった。家に帰ってきた記憶すら無いのに、風呂に入って自分の布団で泣きながら寝落ちしたらしい。
再び眠ろうとするが、腹が減って寝付けない。夕飯は食べなかったらしい。
仕方無しに起き上がって、キッチンに行き、冷蔵庫を開けた。ラップのかかったおにぎりが2個、あった。
「ちょっと冷た過ぎるな」
富岳はおにぎりの乗った皿を電子レンジに突っ込むと、テーブルに移動した。母の筆跡の置き手紙があった。
富岳へ
夕食を食べてなかったみたいなので
おにぎりを作っておきました
食べて下さい
普段は「あーしろ」「こーしろ」と命令口調なのに、丁寧語で書かれてあって、なんだかむず痒い。
電子レンジからメロディが流れる。
富岳はおにぎりを取り出すと、ラップを外し、おにぎりを頬張った。筋子のおにぎりだった。
「げ!半生の筋子……!」
温めない方がましだった。手紙におにぎりの具は何か、書いておいてくれれば良かったのに!
まぁ、一手足りない所がウチの母親らしいというか。
(そういえば母さんが夜食を作っておいてくれた事なんて、あったかな……)
何故おにぎりが冷蔵庫に入っているのか、疑問にも思わなかった。あの母親が俺に気を使って、夜食を作って置いてくれたなんて。
(もしかして母さん、俺の対局結果をネットで見てたのかな……)
院生の時は毎回研修が終わると、しつこく順位を聞いてきた。
だが、プロになってからは対局結果を聞かれた記憶が無い。
プロになった俺に興味が無くなったのかと思っていたが、きっとそうじゃない。
負けた時にお互い気を使わなくてすむ方法が、無関心を装うことだったんだ。
(いい歳した大人が。不器用すぎるだろ)
半生になった筋子のおにぎりを口に運ぶ。
止まったはずの涙がまた流れてきた。
今年も金緑石王の称号を逃したけど、次こそ負けない。
畠山京子にも。
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そんな零楼館高校の歴史において今まで誰一人として選ばれたことのない“特別指名推薦”に選ばれたのが工藤珠希なのである。
工藤珠希は身長こそ平均を超えていたが、運動や学力はいたって平均クラスであり性格の良さはあるものの特筆すべき才能も無いように見られていた。
むしろ、彼女の幼馴染である工藤太郎は様々な部活の助っ人として活躍し、中学生でありながら様々な競技のプロ団体からスカウトが来るほどであった。更に、学力面においても優秀であり国内のみならず海外への進学も不可能ではないと言われるほどであった。
“特別指名推薦”の話が学校に来た時は誰もが相手を間違えているのではないかと疑ったほどであったが、零楼館高校関係者は工藤珠希で間違いないという。
工藤珠希と工藤太郎は血縁関係はなく、複雑な家庭環境であった工藤太郎が幼いころに両親を亡くしたこともあって彼は工藤家の養子として迎えられていた。
兄妹同然に育った二人ではあったが、お互いが相手の事を守ろうとする良き関係であり、恋人ではないがそれ以上に信頼しあっている。二人の関係性は苗字が同じという事もあって夫婦と揶揄されることも多々あったのだ。
工藤太郎は県外にあるスポーツ名門校からの推薦も来ていてほぼ内定していたのだが、工藤珠希が零楼館高校に入学することを決めたことを受けて彼も零楼館高校を受験することとなった。
スポーツ分野でも名をはせている零楼館高校に工藤太郎が入学すること自体は何の違和感もないのだが、本来入学する予定であった高校関係者は落胆の声をあげていたのだ。だが、彼の出自も相まって彼の意志を否定する者は誰もいなかったのである。
二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。
零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。
かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。
ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。
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