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布石編
金剛石戦決勝第三局(前編)『徒手』
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立花富岳が『青雲の間』に足を踏み入れると、話し声が聞こえてきた。
一人は、遠くからでもよく聞こえてくる畠山京子。
(もう一人は誰だ?)
「だからって、学校休まないでくださいよー!」
「だって、どうしても生観戦したかったんだもん」
(コイツ確か院生の……。誰だっけ?)
記録係のテーブルには、饅頭が3つ置かれてあった。前回前々回でも見たあの饅頭だ。
今日も第一局第二局と同じ服を着てきた畠山京子のサイドテーブルにも同じ饅頭が置かれてあった。しかも今回は5箱もある。そして足元にはいつものクーラーボックス。いつものように大量のおにぎりが入っているのだろう。
「あ。おはようございます、立花さん」
京子は富岳が入室したのを感じ取ると、すぐさま挨拶した。が、記録係の女は挨拶する気配がない。
「先輩。いくらなんでも、挨拶しないのはマズイです。公私混同になると思います。今は仕事中なんですから割り切って」
(そんなに嫌われるほど、俺、この女に何かしたか?)
「うん。そうだね。後で」
(「うん」と言っておきながら「後で」なのかよ)
まぁ、いいか。と富岳は碁盤の置かれたテーブルの上座に座る。
「おはようございます」
富岳は丁寧に二人に挨拶した。どんなに相手に嫌われていようが、人としてやらなければならない事はきちんとやる性格だ。
富岳が自分にきちんと挨拶したのを受け取って、女は考えを改めたのか、それとも富岳が挨拶するまで挨拶しないと決めていたのか、女も富岳に挨拶を返した。渋々という表情で。
「立花さんに一応伝えておきます。同じ学校に通う田村優里亜先輩です」
学校の先輩かよ。それで対局前だってのに無駄話を……。いや、無駄話はいつもの事か。
ああそうだ。思い出した。そういや原石戦の時にもコイツら喋ってたな。
「確か院生だったと……」
富岳にこう言われて、優里亜がすぐさまこう言い返す。
「だった、じゃなくて今でも院生だから」
言い方がいちいちキツい。
富岳は記憶を遡る。なんとか田村優里亜の情報を引っ張り出そうとするが、何も出てこない。出てこないものは仕方がない。放っておくしかない。嫌われるのは慣れている。
優里亜は富岳をジッと睨む。
(このチビメガネ。私のこと全然覚えて無いな)
富岳が院生だった3年前。優里亜はその頃院生順位はCクラスだった。小学2年で院生になった優里亜は、こつこつと実力を付け、女子院生の中では上位に入るくらいの順位になっていた。
そこに富岳がやってきた。
富岳の昇級ペースは、まさに神懸かったものだった。たった半年で原石戦出場権を得るほどに。
そしてそのまま棋士になってしまった。
私たちを嘲笑うかのように。
実際、富岳は負かした相手を見下す発言をしていた。
「なんでこんな簡単な死活がわかんないの」
「この手、何がしたかったの」
「この実力でAクラスなんだ」などなど。
そして優里亜には、こんな暴言を吐いてきた。
「あんた、なんのために師匠についてるの」
『お前の師匠には、棋士を育てる能力が無い』と言われたのだ。自分の能力を馬鹿にされたのならまだしも、師匠の悪口を言うなんて!
以来、優里亜はいつかこの生意気なチビメガネをギャフンと言わせてやると、日々努力を重ね、京子から師事を仰ぐなどしているが……。富岳を叩きのめすには、まだまだ実力が足りない。
が、そこに自分の変わりにチビメガネを叩きのめしてくれそうな人物が現れた。
今日は、その人物が私の目の前で、この生意気な糞餓鬼を木っ端微塵にしてくれるのを見に来たのだ。
本当は第一局も第二局も記録係をしたかったが、師匠や兄弟子から「学生は勉学優先!」と止められた。しかし、どうしても生観戦したかった優里亜は、「もし第三局までもつれることがあったら」という条件を取り付け、今日ここにいる。
(がんばってよ、京子!)
思いっきり私情を持ち込んだ記録係は、心の中でエールを送った。
金緑石戦決勝三番勝負 第三局
第ニ局から1日おいて、たった2日後の今日。第三局が行われる。
今日勝った方が、向こう1年間金緑石王を名乗る事ができる。
富岳にとっては、去年惜しくも逃し、悲願のタイトルとなる。
それに富岳には絶対に負けられない理由がある。
『魔術師の弟子、畠山京子に勝って、俺を弟子にしなかった事を後悔させる』
二つの悲願がかかったタイトルだ。
しかし今日のこの対局。第ニ局から今日の第三局までの日にちが無さ過ぎて、対策というほどの対策を練ることが出来なかった。
それは京子にとっても同じなのだが、トップ棋士の師匠や兄弟子がいるという状況が、京子にどんな影響をもたらすか。師匠のいない富岳には未知数だ。
(日曜日に行う『埼玉研』で、三嶋さん達相手にあの手やこの手を試してみたかったのに、それすら出来なかった……)
こんなに不安に駆られたまま対局するのは初めてだ。
(何がこんなに不安なんだろう?何故こんなに不安になる?第ニ局から第三局まで日にちが無いのは初めから分かっていた事じゃないか)
自己分析するが、結局わからない。
わからないものをいつまでもウダウダと考えるのは性に合わない。
富岳は頭を切り替える。
(今日は三嶋さん達も棋院に来るって言ってたな)
「今日は三嶋さん達も来るらしいですよ。今まで来なかったのは、「今年の四段五段は何してたんだ」って言われるのが嫌だったから、なんて言ってました」
京子は富岳にではなく、優里亜にこう言った。
(三嶋さん。畠山京子にも言ってたのか)
「で、先輩。あの方に会いました?」
畠山京子が珍しく小声だ。こんな小さな声を出せるのかと感心してしまった。
「あの方って?」
「第一局の時も、一昨日の第ニ局の時も来たらしいんですよ。豊本先生が」
「へー」
田村優里亜の返事は、あまり関心が無さそうだ。
「今日は対局は無いみたいだし、大盤解説も違う先生だし。東京には居ないと思うんですけど……」
「京子。そんなに豊本先生が嫌い?」
「嫌いというか……苦手?」
(やっぱりこの前の身震いは見間違いじゃなかったのか)
第一局にも来ていたのは、富岳は初耳だった。
(うーん。なんで誰も教えてくれないんだ?若松さんとか、教えてくれてもいいのに)
不意に対局開始のブザーが鳴った。
富岳は思わずビクッと体を揺らす。
ただ、それは対局相手の京子も同じだったようで、「ふわあ!」と大声を出して飛び上がっていた。
「あービックリしたー!慣れない!この音!私、たぶん一生慣れないんじゃないかと思う!」
富岳は普段なら驚かない。大きな音が鳴ると分かっていて身構えているからだ。
ただ京子との対局の時は、いつも無駄話をしているせいか、不意をつかれる。
「対局前は静かにしてろよ」と言ってもいいのだろうけど、何故か言う気になれない。
(コイツとの対局の時はいつも予測不能の事態が起こる)
おそらく、それが楽しみであったり、「静かにしろ」と言えなくなる理由であったりするのだろうか。
今回はどんな予測不能が登場するのか。
「それではニギって下さい」
記録係の優里亜が言った。最終第三局なのでニギリを行う。
京子が黒石をひとつだけ取り出す。
富岳は掴めるだけ掴んだ白石を盤上に置き、14個の白石を数える。
石を戻した碁笥を交換し、両者碁笥を碁盤の脇に降ろした。
そして礼をした。
「「お願いします」」
顔を上げる。この瞬間にも、富岳の中ではまだ戦略が決まっていない。
(もうグチャグチャ考えても仕方ない)
富岳は頭を空っぽにして、身体の動くままに黒石を掴み、碁盤に打ちつけた。
右上隅小目。
畠山京子に策など講じても、俺の予想の斜め上をいかれる。
ならば策など無くていい。
正攻法でいく。
一人は、遠くからでもよく聞こえてくる畠山京子。
(もう一人は誰だ?)
「だからって、学校休まないでくださいよー!」
「だって、どうしても生観戦したかったんだもん」
(コイツ確か院生の……。誰だっけ?)
記録係のテーブルには、饅頭が3つ置かれてあった。前回前々回でも見たあの饅頭だ。
今日も第一局第二局と同じ服を着てきた畠山京子のサイドテーブルにも同じ饅頭が置かれてあった。しかも今回は5箱もある。そして足元にはいつものクーラーボックス。いつものように大量のおにぎりが入っているのだろう。
「あ。おはようございます、立花さん」
京子は富岳が入室したのを感じ取ると、すぐさま挨拶した。が、記録係の女は挨拶する気配がない。
「先輩。いくらなんでも、挨拶しないのはマズイです。公私混同になると思います。今は仕事中なんですから割り切って」
(そんなに嫌われるほど、俺、この女に何かしたか?)
「うん。そうだね。後で」
(「うん」と言っておきながら「後で」なのかよ)
まぁ、いいか。と富岳は碁盤の置かれたテーブルの上座に座る。
「おはようございます」
富岳は丁寧に二人に挨拶した。どんなに相手に嫌われていようが、人としてやらなければならない事はきちんとやる性格だ。
富岳が自分にきちんと挨拶したのを受け取って、女は考えを改めたのか、それとも富岳が挨拶するまで挨拶しないと決めていたのか、女も富岳に挨拶を返した。渋々という表情で。
「立花さんに一応伝えておきます。同じ学校に通う田村優里亜先輩です」
学校の先輩かよ。それで対局前だってのに無駄話を……。いや、無駄話はいつもの事か。
ああそうだ。思い出した。そういや原石戦の時にもコイツら喋ってたな。
「確か院生だったと……」
富岳にこう言われて、優里亜がすぐさまこう言い返す。
「だった、じゃなくて今でも院生だから」
言い方がいちいちキツい。
富岳は記憶を遡る。なんとか田村優里亜の情報を引っ張り出そうとするが、何も出てこない。出てこないものは仕方がない。放っておくしかない。嫌われるのは慣れている。
優里亜は富岳をジッと睨む。
(このチビメガネ。私のこと全然覚えて無いな)
富岳が院生だった3年前。優里亜はその頃院生順位はCクラスだった。小学2年で院生になった優里亜は、こつこつと実力を付け、女子院生の中では上位に入るくらいの順位になっていた。
そこに富岳がやってきた。
富岳の昇級ペースは、まさに神懸かったものだった。たった半年で原石戦出場権を得るほどに。
そしてそのまま棋士になってしまった。
私たちを嘲笑うかのように。
実際、富岳は負かした相手を見下す発言をしていた。
「なんでこんな簡単な死活がわかんないの」
「この手、何がしたかったの」
「この実力でAクラスなんだ」などなど。
そして優里亜には、こんな暴言を吐いてきた。
「あんた、なんのために師匠についてるの」
『お前の師匠には、棋士を育てる能力が無い』と言われたのだ。自分の能力を馬鹿にされたのならまだしも、師匠の悪口を言うなんて!
以来、優里亜はいつかこの生意気なチビメガネをギャフンと言わせてやると、日々努力を重ね、京子から師事を仰ぐなどしているが……。富岳を叩きのめすには、まだまだ実力が足りない。
が、そこに自分の変わりにチビメガネを叩きのめしてくれそうな人物が現れた。
今日は、その人物が私の目の前で、この生意気な糞餓鬼を木っ端微塵にしてくれるのを見に来たのだ。
本当は第一局も第二局も記録係をしたかったが、師匠や兄弟子から「学生は勉学優先!」と止められた。しかし、どうしても生観戦したかった優里亜は、「もし第三局までもつれることがあったら」という条件を取り付け、今日ここにいる。
(がんばってよ、京子!)
思いっきり私情を持ち込んだ記録係は、心の中でエールを送った。
金緑石戦決勝三番勝負 第三局
第ニ局から1日おいて、たった2日後の今日。第三局が行われる。
今日勝った方が、向こう1年間金緑石王を名乗る事ができる。
富岳にとっては、去年惜しくも逃し、悲願のタイトルとなる。
それに富岳には絶対に負けられない理由がある。
『魔術師の弟子、畠山京子に勝って、俺を弟子にしなかった事を後悔させる』
二つの悲願がかかったタイトルだ。
しかし今日のこの対局。第ニ局から今日の第三局までの日にちが無さ過ぎて、対策というほどの対策を練ることが出来なかった。
それは京子にとっても同じなのだが、トップ棋士の師匠や兄弟子がいるという状況が、京子にどんな影響をもたらすか。師匠のいない富岳には未知数だ。
(日曜日に行う『埼玉研』で、三嶋さん達相手にあの手やこの手を試してみたかったのに、それすら出来なかった……)
こんなに不安に駆られたまま対局するのは初めてだ。
(何がこんなに不安なんだろう?何故こんなに不安になる?第ニ局から第三局まで日にちが無いのは初めから分かっていた事じゃないか)
自己分析するが、結局わからない。
わからないものをいつまでもウダウダと考えるのは性に合わない。
富岳は頭を切り替える。
(今日は三嶋さん達も棋院に来るって言ってたな)
「今日は三嶋さん達も来るらしいですよ。今まで来なかったのは、「今年の四段五段は何してたんだ」って言われるのが嫌だったから、なんて言ってました」
京子は富岳にではなく、優里亜にこう言った。
(三嶋さん。畠山京子にも言ってたのか)
「で、先輩。あの方に会いました?」
畠山京子が珍しく小声だ。こんな小さな声を出せるのかと感心してしまった。
「あの方って?」
「第一局の時も、一昨日の第ニ局の時も来たらしいんですよ。豊本先生が」
「へー」
田村優里亜の返事は、あまり関心が無さそうだ。
「今日は対局は無いみたいだし、大盤解説も違う先生だし。東京には居ないと思うんですけど……」
「京子。そんなに豊本先生が嫌い?」
「嫌いというか……苦手?」
(やっぱりこの前の身震いは見間違いじゃなかったのか)
第一局にも来ていたのは、富岳は初耳だった。
(うーん。なんで誰も教えてくれないんだ?若松さんとか、教えてくれてもいいのに)
不意に対局開始のブザーが鳴った。
富岳は思わずビクッと体を揺らす。
ただ、それは対局相手の京子も同じだったようで、「ふわあ!」と大声を出して飛び上がっていた。
「あービックリしたー!慣れない!この音!私、たぶん一生慣れないんじゃないかと思う!」
富岳は普段なら驚かない。大きな音が鳴ると分かっていて身構えているからだ。
ただ京子との対局の時は、いつも無駄話をしているせいか、不意をつかれる。
「対局前は静かにしてろよ」と言ってもいいのだろうけど、何故か言う気になれない。
(コイツとの対局の時はいつも予測不能の事態が起こる)
おそらく、それが楽しみであったり、「静かにしろ」と言えなくなる理由であったりするのだろうか。
今回はどんな予測不能が登場するのか。
「それではニギって下さい」
記録係の優里亜が言った。最終第三局なのでニギリを行う。
京子が黒石をひとつだけ取り出す。
富岳は掴めるだけ掴んだ白石を盤上に置き、14個の白石を数える。
石を戻した碁笥を交換し、両者碁笥を碁盤の脇に降ろした。
そして礼をした。
「「お願いします」」
顔を上げる。この瞬間にも、富岳の中ではまだ戦略が決まっていない。
(もうグチャグチャ考えても仕方ない)
富岳は頭を空っぽにして、身体の動くままに黒石を掴み、碁盤に打ちつけた。
右上隅小目。
畠山京子に策など講じても、俺の予想の斜め上をいかれる。
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