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布石編

夏休みを前に

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 こんな事になるなら、京子に頼まなきゃよかった。

 でも、京子以外に頼めそうな人はいなかったし、どうしても今年度中に卒業したかったし。

 早く思い出せばよかった。春休み、この部屋の本棚にNPO法人だの子供食堂だの、起業に関する書籍が大量に置かれてあったのを。


「三嶋さん、手を動かして下さい」

 海の日。囲碁棋士・三嶋大成たいせい四段は、師匠の岡本幸浩宅の研究会部屋で、自身の持ち込んだ自作パソコンと睨めっこする妹弟子・畠山京子から小突かれていた。

 京子は今、パソコンデスクに向かって壁向きに座っているのに、真後ろのテーブルに座る俺がノートパソコンのキーボードを叩く手を止めているのに気づいている。後ろ頭に目玉でも付いているんだろうか?それとも柔道の新技だろうか?


「京子さん」

 今まで三嶋から「おい」だの「お前」だのと呼ばれていた京子は、初めて三嶋から付けで呼ばれ、怪訝な表情をしながらゆっくり振り向いた。

「なんでしょう?」

「これさぁ、俺、やらなきゃダメかな?」

 京子は大きなため息をついた。

「私が成人するまでの4年間だけでいいと、何度も説明した筈ですが」

「だってさぁ」

「嫌ならば、三嶋さんの大学に行って「その卒業論文、私が修正しました」と暴露してきますけど」


 まさか卒業論文を人質に取られるとは思わなかった。


 京子は来年春、起業に向けた準備を進めている。今はその店舗探しをしている。市ヶ谷駅、もしくは棋院から近くて、広くて、できれば隣り合った二部屋が欲しいそうだ。

 なぜ俺が京子の起業に必要なのかというと、京子はまだ未成年のため、商取引が出来ないからだ。成人の俺を後見人として、店舗の不動産取引をするらしい。



「あのぉ……、京子さん。なんでNPO法人や個人事業じゃないんでしょう?」

 京子が設立しようとしているのは、NPO法人ではなく、株式会社だった。何のためにわざわざNPO法人設立に関する書籍を買ったんだ?


「私はまだ未成年で社会的な実績がありませんから、NPO法人だと、人材を集めるのが難しいと判断したからです。個人事業にしないのは、税金対策です」

「税金対策て、いきなりそんな利益なんか出ないだろ⁉︎」

「じゃあ、いちいち届出するのが面倒臭いからです」

「なんだよ?「じゃあ」とか「面倒臭い」って!起業すること自体が面倒臭いだろ!大体お前、学校行ってバスケもして囲碁棋士としての仕事もしてるのに!おまけに会社まで作って、どこにそんな時間があるんだ?」

「はっはー!そうですね。卒業論文すら中学生のお世話になってる梲の上がらない大学生棋士からしたら、殆どの棋戦を勝ち上がってて金緑石アレキサンドライト戦に至ってはあと一勝で決勝進出って所まで来ている私の存在はウザいだけでしょうからね!
 それから何度も言いますけど「お前」って言うの、やめて下さい!」


 京子のこの顔!
 勝ち誇った顔しやがって!ムカつく!
 馬鹿にしやがって!頭にきた!

「言っていいことと悪いことがあるだろ!」

「やっていいことと悪いこともありますよね。三島さん」

 京子は静かにこう言った。

 卒業論文のことを言われた。

 そうだ。人質論文がいる限り、俺は京子の言いなりになるしかないんだ。

 いや、否!諦めるな!三嶋大成!

「あのさぁ。こういうことは大人に任せればいいんじゃないか?」

「ええ。ですから大人の三島さんにお願いしてますが」

 ああ言えばこう言う。三嶋が何を言っても、片っ端から全部潰される。


 それでも三嶋は諦めない。

 社長業なんて責任ある立場に無理矢理立たされるなんて、絶対イヤだ!

「提案なんだけどさ、いきなり株式会社にするよりは、一回個人事業で届出して利益が出始めてから株式会社に」

「わかりました。明日、三嶋さんの大学に行ってきます」

「それだけは勘弁してくれ!頼むから!」

 攻撃材料が底をついてしまった。

(ああ。もう京子の言いなりになるしかないのか……)

 三嶋はしょぼくれてまたパソコンに向かった。キーボードを叩く指に力が無い。


 そんな様子の三嶋を見た京子が、また大きなため息をついた。

(まずいな。言い過ぎたかな……)

 無理矢理仕事を押し付けるのだから、士気を高くしておかないと。

(三嶋さんへのご褒美は何がいいかなぁ……)

 飴と鞭を上手に使い分ける術を今のうちから身につけておかないと。

 なんてったって、私は社長になるんだから!


「三島さん。そんなに社長代行するの、嫌ですか?」

 思わず三嶋は立ち上がった。

「当たり前だろ!俺には無理なんだよ!人の上に立つ立場とか、人をこき使う立場とか!」

「三嶋さんて、女性とお付き合いを始める時、何て言って口説いてらっしゃるんですか?」

「は?何てって……」

 なんだ?急に。今、この話、関係ないだろ?また「女にだらしない」とか言い出すのか?


「私、三島さんのコミュニケーション能力を高く買ってるんですよ。次々と女性を口説き落とすテクニックを。
 昨今の男性はストーカーだの、DV犯罪だの、まともに女性を口説く術すら持ち合わせてませんからね。
 その点、三島さんは女性に安心感を与え、さらにテクニックを持っている。男性からすれば、羨ましいスキルだと思います。
 ですから、三嶋さんにはその「女性を口説き落とす」能力を思う存分発揮させて欲しいと思ってたんですけど……」


 京子に褒められた……!初めてじゃないか?……いや!そうじゃない!

(あっぶねー!騙されるところだった!褒めてから罠にかける。詐欺師の常套手段じゃねーか!)

 そうだ。コイツには一瞬たりとも気を許してはいけない!


 しかし京子は、三嶋の表情からを読み取った。さらに先手を打つ。

「そうですね……。三嶋さんがそんなに社長代行したくないと仰るなら、私もそこまで無理強いしてまでやらせるつもりはありません。ですからこういうのはどうでしょう?
 三嶋さんも囲碁棋士なんですから、七大棋戦のどれかひとつでも挑戦者になったら、お役御免ということで!」


 三嶋は今現在、というか3年以上四段のままだ。あと6勝すれば五段に上がれるという所で長らく足踏みをしている。

 入段した年、新入段最多勝利数を更新し、「さすが岡本門下!」と讃えられた。そして当然のように将来を期待されていた。

 が、三嶋の活躍はそれきりだった。

 三嶋が手にしたタイトルは無し。

 数ある若手棋士限定戦ですら、三嶋はひとつも手にする事が出来ていない。

 七大棋戦に至っては、決勝トーナメント・決勝リーグに一度も顔を見せた事など無い。

 そんな三嶋の結論。

論文人質解放の身代金が高すぎて払えない】


 さらに京子はこう追い討ちをかけた。

「私、前々から言ってますけど、私の兄弟子がこんなショボい成績しか残せてないなんて嫌なんですよ。ですから、社長業を辞めたいなら、せめて本業で頑張って下さいね」


 三嶋はとうとう観念してノートパソコンに向かった。



 ●○●○●○



 研究会じゃないのに、図々しくも三嶋は昼食をご馳走になった。素麺だ。

 冷やし中華は普通にコンビニで売ってるけど、素麺を売っている店はなかなか無い。家庭の味だと思う。

 三嶋が魚介類を好きなのを知っている岡本の妻・純子は、鱚の天麩羅を作ってくれた。一人暮らしの三嶋にとっては、嬉しいメニューだ。研究会部屋で京子に散々いじめられた胃に染み渡る。

 京子も「この天麩羅、美味しい」と言ったきり黙々と食べている。相当鱚の天麩羅が気に入ったらしい。


 岡本邸はリビングとダイニングが一間続きのリビングダイニングで、リビングに置かれているテレビから昼のニュースが流れてきた。

 政治家の不祥事のニュースだった。裏金だの癒着だの談合だのという言葉が流れてきたが、俺は興味が無かったので聞き流していた。しかし、なぜか京子はそのニュースを鱚を食う手を止めてまで熱心に見ていた。
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