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布石編
金緑石戦決勝第一局(前編)『どうせ打つなら面白いほうがいい』
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主に若手棋戦決勝戦で使用される特別対局室『青雲の間』。
立花富岳が日本棋院6階にあるその『青雲の間』に足を踏み入れると、畠山京子はすでに着席していた。
京子は碁盤を清め終え、いつものように鉛筆でノートに何かを書き込んでいる。そして、その傍らにはクーラーボックスと白く平たい箱、3箱が置かれてあった。この箱は和菓子の入っている箱と見た。
相変わらずの大食いだな、と富岳は思う。
富岳は室内を見渡した。記録係の他に、記者が二人いた。一人は日本棋院記者。もう一人は富岳は見覚えがなかったが、その人物は左腕に腕章をしていた。『あきた轟新聞』と書かれてあった。
(ああ。畠山の地元の……。つーか、てっきり第一局は秋田でやるものだと思ってたけどな)
聞いた話によると、秋田出身棋士でタイトル戦決勝まで駒を進めたのは、畠山京子が始めてだそうだ。地元では相当盛り上がっているのではないかと思う。だからてっきり地元の碁会所有志が秋田での対局を申し出ると思った。
(派手好きの畠山の事だから、てっきり碁会所を経営してるっていう祖父に、秋田で対局するよう頼んだのかと思ったのに)
容易に目に浮かぶ。
韓国へ行った時みたいに、モデルばりに登場し、壇上でこれ見よがしに「主役は私!」といわんばかりにマイクを独占し捲し立てる畠山を。
棋院での対局で本当に良かった。完全アウェイの中で碁を打つメンタルはまだ育っていない。
それに富岳は枕が変わると眠れないのだ。これは将来の課題でもある。タイトル戦は基本地方対局。この枕が変わると眠れなくなる体質を克服したいとも思っている。それにはやはり、数をこなすのか一番いいのだろう。
これも少しずつ、こなしていくしかない。
富岳は記者に軽く会釈してから京子に一瞥くれる。京子は入室した富岳を気に止めるでもなく、ノートに何か書き込んでいた。
富岳は上座に回り込むついでに、京子に気づかれないようにノートをチラッと覗き見した。
(なんだ?プログラミングか?)
びっしりと書かれたアルファベットと数字と記号。
(何のプログラミングだ?)
富岳は足を止め、ノートを覗き込んだ。
「スケベ。どこ見てんのよ」
京子は素早くノートを閉じ、顔を上げると不機嫌そうに言った。
足を止めたのが悪かった。ノートを覗いていたのを気づかれた。
それにしても。
(朝だってのに、いきなり「スケベ」かよ。相変わらず容赦ねぇな)
なんだか俺の不名誉な『称号』が増えてないか?
気分を害されたが、それでも人として、富岳はやらなければならないことがある。
富岳は上座に座ると、京子に頭を下げた。
「おはようございます」
親から教わった、人が人として生きていくために必要な常識や知識のうちの一つだ。
「おはようございます」
京子も仕方なく渋々挨拶する。どんなに嫌いな相手でも、人としてやらなければならないことはきちんとやる。
「それ、なんのプログラミングだ?」
富岳は、京子のノートを指差して無遠慮に聞いた。
「言うわけないでしょ。ライバルに」
そう言うと京子はまたノートを広げて鉛筆を動かす。
先日、隅田川花火大会の日。棋院の屋上で畠山が「『どこでもドア』を作るための布石」と言っていたのを思い出す。
(きっと、その布石のために必要なプログラミングなんだろう)
富岳もあれから、今の自分にできそうな事を考えてみた。が、結局、他人が書いた論文に難癖つけるぐらしか思い浮かばなかった。
(俺、こんなに想像力の乏しい人間だったのかな?)
そう思いながらも、「でも焦る必要はない」、と考え直した。まだ中学生なんだ。それに仕事だってある。
物事には順序がある。富岳には、京子のやり方は順番を無視しているようにしか見えない。畠山が焦りすぎなんだと思う。確かに、寿命という限られた人生の中で『どこでもドア』を作り出すのは、無理があるかもしれない。
ただ富岳にとって京子の発言は、自分は自分のペースで『どこでもドア』を発明出来ればいい、と、考えや計画を立てるきっかけにはなった。
対局開始のブザーが鳴る。
京子はノートを閉じ、背筋を伸ばした。
二人より年上の記録係が口を開いた。
「それではニギって下さい」
金緑石戦 本戦トーナメント 決勝
三番勝負 第一局
立花富岳三段 対 畠山京子初段
富岳は碁笥に手を突っ込み、白石を無造作に掴む。京子は指に当たった黒石を碁笥から取り出す。
二人は、富岳が白く細い指で二つずつ白石を数えていくのを眺める。
白石は偶数個。京子が盤上に置いた黒石は一つ。
金緑石戦決勝第一局は、立花富岳の先番で始まる。
富岳は対戦相手が京子に決定した時から、対策を練っていた。
(畠山との初対局の時、畠山は「自分は記憶力がいい」と言っていた。だからもしかして、データに無い打ち方をすれば、畠山を出し抜けるんじゃないか)
単純でシンプルな戦略。しかし、その分、一筋縄ではいかない。
データが無いということは、今まで誰も打ったことの無い打ち方をするということ。つまり棋譜が無いということだ。
この先どうなるのか、まさに五里霧中で暗中模索な碁になる。
そんな碁を打つ度胸が自分にあるのか?
答えはNo だ。
『研究会で』というならアリだ。『埼玉研』でいくつか試してみたい手もあった。しかし埼玉研には畠山の兄弟子、三嶋大成がいる。口の軽い三嶋さんが、うっかり畠山に情報を漏らす、なんてこともあり得る。
今回はタイトルの懸かった場。
しかも去年獲り損ねたタイトルだ。今年はどうしても手に入れたい。
さらに相手は岡本門下生。自分より格下の、しかも女に、絶対負けたくない。
(ここを勝って岡本先生を後悔させる。俺を弟子にしなかったのは間違いだったと)
今さら岡本門下生になりたいだなんて思っていないが、ただ、おそらくここで畠山に勝たないと、囲碁棋士を続ける限り、延々と岡本に恨み事を並べるのではないかと思う。
そんな自分の陰鬱としたこの気持ちを昇華させたい。この金緑石戦で。
「では、対局を始めて下さい」
記録係が対局を始めるよう促す。
「「お願いします」」
二人は同時に頭を下げた。
富岳は黒石を持つ。
今日、青雲の間に着くまでに、富岳の出した結論は、こうだ。
棋譜は残っているが、数の少ないもの。畠山の脳内データベースに、限りなくゼロに近い確率で入っていないだろう、新定石。
これは賭けだ。畠山が知っているか、いないか。確率50%の賭け。
富岳は初手を15の7に勢いよく碁盤に打ち付けた。
よく乾いた榧の碁盤は、「カン」という高い音を奏でた。
記録係が思わず「えっ」と声を上げた。
初手を15の7に打たれた京子は、ニヤリと笑った。
「いいですね、こういうの。好きですよ」
対局中は決して感情を表に出さない京子が、富岳に向かって笑顔を作る。
その笑顔の意味を、富岳は深読みする。
(この新定石、畠山は知っているのか、知らないのか。この表情からは読めない……)
「楽しくなりそうですね。じゃあ、早速始めましょうか」
そう言うと京子は白石を持ち、13の15に音を立てないようにそっと置いた。
立花富岳が日本棋院6階にあるその『青雲の間』に足を踏み入れると、畠山京子はすでに着席していた。
京子は碁盤を清め終え、いつものように鉛筆でノートに何かを書き込んでいる。そして、その傍らにはクーラーボックスと白く平たい箱、3箱が置かれてあった。この箱は和菓子の入っている箱と見た。
相変わらずの大食いだな、と富岳は思う。
富岳は室内を見渡した。記録係の他に、記者が二人いた。一人は日本棋院記者。もう一人は富岳は見覚えがなかったが、その人物は左腕に腕章をしていた。『あきた轟新聞』と書かれてあった。
(ああ。畠山の地元の……。つーか、てっきり第一局は秋田でやるものだと思ってたけどな)
聞いた話によると、秋田出身棋士でタイトル戦決勝まで駒を進めたのは、畠山京子が始めてだそうだ。地元では相当盛り上がっているのではないかと思う。だからてっきり地元の碁会所有志が秋田での対局を申し出ると思った。
(派手好きの畠山の事だから、てっきり碁会所を経営してるっていう祖父に、秋田で対局するよう頼んだのかと思ったのに)
容易に目に浮かぶ。
韓国へ行った時みたいに、モデルばりに登場し、壇上でこれ見よがしに「主役は私!」といわんばかりにマイクを独占し捲し立てる畠山を。
棋院での対局で本当に良かった。完全アウェイの中で碁を打つメンタルはまだ育っていない。
それに富岳は枕が変わると眠れないのだ。これは将来の課題でもある。タイトル戦は基本地方対局。この枕が変わると眠れなくなる体質を克服したいとも思っている。それにはやはり、数をこなすのか一番いいのだろう。
これも少しずつ、こなしていくしかない。
富岳は記者に軽く会釈してから京子に一瞥くれる。京子は入室した富岳を気に止めるでもなく、ノートに何か書き込んでいた。
富岳は上座に回り込むついでに、京子に気づかれないようにノートをチラッと覗き見した。
(なんだ?プログラミングか?)
びっしりと書かれたアルファベットと数字と記号。
(何のプログラミングだ?)
富岳は足を止め、ノートを覗き込んだ。
「スケベ。どこ見てんのよ」
京子は素早くノートを閉じ、顔を上げると不機嫌そうに言った。
足を止めたのが悪かった。ノートを覗いていたのを気づかれた。
それにしても。
(朝だってのに、いきなり「スケベ」かよ。相変わらず容赦ねぇな)
なんだか俺の不名誉な『称号』が増えてないか?
気分を害されたが、それでも人として、富岳はやらなければならないことがある。
富岳は上座に座ると、京子に頭を下げた。
「おはようございます」
親から教わった、人が人として生きていくために必要な常識や知識のうちの一つだ。
「おはようございます」
京子も仕方なく渋々挨拶する。どんなに嫌いな相手でも、人としてやらなければならないことはきちんとやる。
「それ、なんのプログラミングだ?」
富岳は、京子のノートを指差して無遠慮に聞いた。
「言うわけないでしょ。ライバルに」
そう言うと京子はまたノートを広げて鉛筆を動かす。
先日、隅田川花火大会の日。棋院の屋上で畠山が「『どこでもドア』を作るための布石」と言っていたのを思い出す。
(きっと、その布石のために必要なプログラミングなんだろう)
富岳もあれから、今の自分にできそうな事を考えてみた。が、結局、他人が書いた論文に難癖つけるぐらしか思い浮かばなかった。
(俺、こんなに想像力の乏しい人間だったのかな?)
そう思いながらも、「でも焦る必要はない」、と考え直した。まだ中学生なんだ。それに仕事だってある。
物事には順序がある。富岳には、京子のやり方は順番を無視しているようにしか見えない。畠山が焦りすぎなんだと思う。確かに、寿命という限られた人生の中で『どこでもドア』を作り出すのは、無理があるかもしれない。
ただ富岳にとって京子の発言は、自分は自分のペースで『どこでもドア』を発明出来ればいい、と、考えや計画を立てるきっかけにはなった。
対局開始のブザーが鳴る。
京子はノートを閉じ、背筋を伸ばした。
二人より年上の記録係が口を開いた。
「それではニギって下さい」
金緑石戦 本戦トーナメント 決勝
三番勝負 第一局
立花富岳三段 対 畠山京子初段
富岳は碁笥に手を突っ込み、白石を無造作に掴む。京子は指に当たった黒石を碁笥から取り出す。
二人は、富岳が白く細い指で二つずつ白石を数えていくのを眺める。
白石は偶数個。京子が盤上に置いた黒石は一つ。
金緑石戦決勝第一局は、立花富岳の先番で始まる。
富岳は対戦相手が京子に決定した時から、対策を練っていた。
(畠山との初対局の時、畠山は「自分は記憶力がいい」と言っていた。だからもしかして、データに無い打ち方をすれば、畠山を出し抜けるんじゃないか)
単純でシンプルな戦略。しかし、その分、一筋縄ではいかない。
データが無いということは、今まで誰も打ったことの無い打ち方をするということ。つまり棋譜が無いということだ。
この先どうなるのか、まさに五里霧中で暗中模索な碁になる。
そんな碁を打つ度胸が自分にあるのか?
答えはNo だ。
『研究会で』というならアリだ。『埼玉研』でいくつか試してみたい手もあった。しかし埼玉研には畠山の兄弟子、三嶋大成がいる。口の軽い三嶋さんが、うっかり畠山に情報を漏らす、なんてこともあり得る。
今回はタイトルの懸かった場。
しかも去年獲り損ねたタイトルだ。今年はどうしても手に入れたい。
さらに相手は岡本門下生。自分より格下の、しかも女に、絶対負けたくない。
(ここを勝って岡本先生を後悔させる。俺を弟子にしなかったのは間違いだったと)
今さら岡本門下生になりたいだなんて思っていないが、ただ、おそらくここで畠山に勝たないと、囲碁棋士を続ける限り、延々と岡本に恨み事を並べるのではないかと思う。
そんな自分の陰鬱としたこの気持ちを昇華させたい。この金緑石戦で。
「では、対局を始めて下さい」
記録係が対局を始めるよう促す。
「「お願いします」」
二人は同時に頭を下げた。
富岳は黒石を持つ。
今日、青雲の間に着くまでに、富岳の出した結論は、こうだ。
棋譜は残っているが、数の少ないもの。畠山の脳内データベースに、限りなくゼロに近い確率で入っていないだろう、新定石。
これは賭けだ。畠山が知っているか、いないか。確率50%の賭け。
富岳は初手を15の7に勢いよく碁盤に打ち付けた。
よく乾いた榧の碁盤は、「カン」という高い音を奏でた。
記録係が思わず「えっ」と声を上げた。
初手を15の7に打たれた京子は、ニヤリと笑った。
「いいですね、こういうの。好きですよ」
対局中は決して感情を表に出さない京子が、富岳に向かって笑顔を作る。
その笑顔の意味を、富岳は深読みする。
(この新定石、畠山は知っているのか、知らないのか。この表情からは読めない……)
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