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布石編

岡本邸での日帰り合宿

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 そのLINEが田村優里亜ゆりあの元に届いたのは、夏休みが終わる3日前だった。

 送り主は畠山京子で、内容は、

『明日ウチに来て、ガッツリ打ちませんか?』

 というものだった。


 畠山京子から個人的に稽古をつけてもらって約5ヶ月。夏休み中もネットで稽古をつけてもらっていた。

 夏期棋士採用試験を受けながら。

 今年の夏期棋士採用試験合格者は二人とも外来受験者だった。

 合格のハードルは高いとわかっていたけど、いざ試験に落ちるとやっぱりへこむ。

 気分を変えるのは悪くない。


 優里亜は『OK』の返事を送ろうとして手を止めた。

「京子の『ウチ』って、秋田じゃないよね。ってことは……」



 ●○●○●○



(だよね~)

 翌日。優里亜は岡本幸浩邸の門前で、ガッチガチに緊張していた。

「どうぞ、先輩。入って下さい」

 京子にそう言われ、優里亜は門を潜って岡本邸に足を踏み入れた。

(どっ、どうしよう⁉︎岡本先生のお家がどんななのか、興味本位で来てしまったけど……)

 大きい!二階建ての和風住宅なのに!
 広い!庭も玄関も、今いる居間も!

 そして目の前に魔術師・岡本幸浩先生がいる‼︎

 リビングダイニングは洋間で、ソファにゆったりと腰掛けている。テレビも大きい!

(岡本先生、普段はこんな服装してらっしゃるんだー!……じゃなくて挨拶!)


「ははは初めてまして、岡本先生!わわわ私は院生のたみゅらにゅりあです!」

 自分の名前まで噛みまくったよ!

 笑わないでよ、京子!

「岡本です。しっかり勉強して行って下さい」

 おおおーっっ!岡本先生が私にお言葉を!

「ひゃっ、ひゃい!」

 京子は終始、肩を揺らしていた。



 ●○●○●○



 優里亜は岡本邸敷地南西側にある研究会部屋に通された。

 部屋には大きなテーブルがあり、その上には碁盤と碁石が置かれてある。天井に届くくらいの背の高い本棚があり、定石全集がずらりと並ぶ。その右隣にはパソコンデスクがある。ゲーミングPCぽいけど。

(すごい……。研究会専用の部屋があるなんて!)

 羨ましい。こんな環境で囲碁の勉強ができるなんて。


 京子は優里亜にどこでも好きな椅子に腰掛けるように言うと、入り口のすぐ脇にある冷蔵庫の中から麦茶とコップとおしぼりを取り出した。

「先輩。緊張し過ぎです。自分の名前を噛みまくる人、初めて見ました」

 京子のクスクス笑いが止まらない。 

 イラッとしながらも、優里亜は6つ並ぶ椅子のうちの入り口から一番近い高級そうな椅子に腰掛けた。

「緊張するな、なんて無理でしょ!岡本先生だよ!」

 囲碁棋士を目指す者なら誰もが憧れる存在だ。

「んじゃあ、慣れましょう。今日一日、ウチにいれば慣れるでしょ?」

 京子は使わない4脚の椅子を部屋の隅に寄せた。

「は?京子、私に何をさせる気?」

 将棋部員を囲碁部に入るよう懐柔……じゃなくて説得した実績がある。何か裏があるんじゃないかと疑心暗鬼になってしまう。

「大丈夫ですよ。先輩の悪いようにはしませんから」

「やっぱり何か企んでるんじゃん!」

 京子は麦茶を注いだコップを優里亜の前に置いて腰掛けた。

「まぁまぁ。落ち着いて。それより先輩の初めての囲碁将棋部の合宿、どうでしたか?」

 先週行われたばかりの囲碁部の合宿。合宿に参加したそうにしていた京子は、対局があり不参加だった。

「んー……。なんていうか……。ほら、韓国へ院生同士の交流戦に行ったりとかしてるじゃない。そのせいかな?メンバーが院生から学校の部員に変わっただけで、新鮮味が無いというか、ワクワクが足りなかったというか……。場所も浜松だったし……」

 碁打ちならば一度はお世話になっている、静岡県浜松市にある、通称『囲碁センター』だ。


「わぁー。私とおんなじ感想。私もバスケ部の合宿、囲碁からバスケになっただけって感じだったー」

 京子が半眼でこう言った。表情だけで、これほどまで「残念」を表現できるものなのか。

「でも蓼科、すっごくいい所でしたよ!星がめっちゃ綺麗でした!それとみんなで花火やったんです。楽しかったー!
 ただ、夜になったらお約束のように恋バナになるのがねー」

 京子の恋バナ⁉︎バスケ部そっちの合宿の方が楽しそうじゃん!

 優里亜の顔がニヤける。

「へぇー。京子の恋バナ、聞きたかったなー」

「私より碁の強い人じゃないと嫌だと言っときましたよ。何か言わないと尋問がいつまで経っても終わらないし」

「なにそれ。京子より強い同年代なんて、いないじゃん」

 と言った優里亜の脳裏に一瞬、生意気なクソガキの顔が過る。でもあのクソガキは京子と同等の棋力だと優里亜は思っているので、却下した。


「まぁ私は恋愛なんてものは二の次ですよ。『どこでもドア』のほうが好きですからね。
 それより西木くんと浅野さん。進展はありましたか?」


 なんだろう。この違和感。

 自分の恋バナはしないけど、他人の話は聞きたい、みたいな。

「どうもこうも無いわよ。やっぱり、二人とも顔を会わせづらいみたい」

「そうですか」

 なんだろう。この違和感Part2。

 自分から話題を振っといて、ぶっきらぼうなこの相槌。興味があるのか無いのか。


「んじゃあ先輩。早速、日帰り合宿、始めましょうか」

 なんだか話題を変えられて、上手く誤魔化されたような感じがする。

 でも、私は今日、ここに稽古をつけてもらいにきたんだ。無駄話に時間を潰す暇は無い。

「はい。お願いします」

 優里亜は背筋を伸ばして礼をした。

 3歳も年下だからといって、礼節を有耶無耶にしたりはしない。稽古をつけてもらう以上、きちんと礼儀は通す。


 優里亜が顔を上げると、京子は下ろしていた髪を束ねていた。

(私が頭を下げてるの、一瞬だったよね!?一体どんな速さで髪を結んでるの?)



「そうだ。先輩、打つ前にお昼ご飯、決めちゃいましょう。出前を頼もうと思うんですけど。金緑石アレキサンドライト戦決勝進出で懐はあったかいんで、奢りますから、お金の心配はしないで好きな物を選んで下さい」

 囲碁界この世界のルール「金持ちタイトルホルダーが金払う」だ。


(じゃあ、遠慮なく好きなのを頼もう)

 優里亜の家では、出前を取るといえばピザだ。こないだピザを頼んだ時に、大好きなマルゲリータを弟に全部食べられてしまった。マルゲリータを頼もう。

「じゃあ、私は……」

 と言いかけた優里亜の目の前にチラシがヒラヒラと舞う。チラシに書かれてある写真が目に入り、優里亜の瞳孔がカッと開いた。

 そうだ。ここ、お金持ちの家だった。

 それに京子はデリバリーじゃなくて、出前と言った。


「お寿司と鰻、どっちがいいですか?」


 鰻といえばスーパーのパック品。寿司といえば廻る寿司。

 どちらも出前で頼んだことの無い一般家庭で育った優里亜は散々迷った挙句、鰻重を頼んだ。



 ●○●○●○



 この研究会部屋では食事をしないらしい。なので昼食を取るために和室に移動した。

 京子は私に岡本先生夫妻と一緒に食事をしてもらいたかったらしいが、私が「緊張するから別室で!」と我儘を言った結果、リビングダイニングの隣にある二間続きの和室の、研究会部屋に近いほうの六畳の和室で昼食を取ることになった。

 優里亜は部屋を仕切る襖を見つめる。

(あの部屋の向こう側に岡本先生がいらっしゃるんだよな……)

 そう考えるだけで、せっかくの鰻の味がわからなくなっている。


 それにしても。

「京子んち、いつもこんな贅沢してるの?」

 すでに鰻重の半分を食した京子が顔を上げた。リスのように頬を膨らませている。京子は口の中のものを肝吸いで胃の中に流し込んでから、優里亜の質問に答えた。

「お客様の手前、見栄を張っただけです。でも、東京の生活水準だと、贅沢の線引きボーダーラインがどの辺なのか、ちょっとわからないです。私、秋田の田舎者なので」

 あー。そっかー。いきなりこんなお金持ちの家に転がり込んできちゃったから、金銭感覚の基準がブレちゃったのかー。

 にしても、鰻は「贅沢の線引き」に含まれません、と言ってるようにしか聞こえない。秋田で毎日どんなもの食べてたんだろう?



 ●○●○●○



 昼食後30分ほど昼寝して、稽古を再開した。午前と同じように、持ち時間30分の碁を打つ。局後検討もして、駄目出しもしてもらう。


 午後3時を過ぎた頃、インターホンが鳴った。岡本先生の奥様が出たらしい。

 京子はチャイムの音を気に留めるでもなく何事も無かったかのように碁を打っていたので、私も気にせず打ち続けた。

 が、暫くしてまたインターホンが鳴った。今度は京子は席を立った。

「先輩、すみません。ちょっと席を外します」

 優里亜はこの時、この2回目のインターホンをさほど気に留めなかった。盤面が生死を問われる局面になっていたせいもある。


 だから、京子が岡本幸浩や武士沢友治ゆうじや三嶋大成や、現役最強棋士の江田照臣を連れて研究会部屋に戻ってきたのを見て、優里亜はただ呆然とするしかなかった。


「先輩、伝えるの忘れてました。今日、岡本門下の研究会なんです」

「………は?」

 優里亜は囲碁界の錚々たるメンバーを目の前に、思考停止になる。


「今から岡本門下の研究会を始めますので、先輩も参加して下さい」

「……………はぁああ⁉︎」

 これか———っ!京子の企みは‼︎

「ででででも、わたわたわた私は」

 はあぁっ!また吃って言葉が出てこない!


「よう、ユリ。久しぶり」

 院生から呼ばれている渾名で優里亜を呼んだのは三嶋だった。

たいちゃん……!」

 院生で同期だったことは無いが、原石戦やイベントなどで顔見知りだ。

(よかったー!知り合いがいるー!)


「京子から話は聞いてるけど、また厄介なやつから教えを乞うたな。よりによってコイツとはな」

「なんですか。よりによってとは。田村先輩、ちょっとすみません。こっちの椅子に座り直して下さい」

 京子は三嶋と漫才しながら、部屋の奥に追いやった人数分の椅子をいつもの並び順に並べた。岡本、武士沢、江田、三嶋がいつもの椅子に着席する。


(ちょっ!私の隣に岡本先生が!っていうか、私が座ってた椅子、いつも岡本先生が使ってる椅子だったの⁉︎教えておいてよ、京子!って、訊かなかった私が悪いのか⁉︎)

 っていうか、この状況、無理ー!絶対無理‼︎

 このメンバーに囲まれて、碁なんか打てないっ‼︎

 その前に!岡本先生に謝らないと!

「あ、あの、岡本先生、すみませんでした!私、先生の椅子を使って……」

「構いませんよ。座り心地良かったでしょう、この椅子」

 これは嫌味か、嫌味でないのか?でも先生ほどの人が嫌味を言うのか?

 ああ、もう、パニックで頭が回らないっ!

「京子。私、帰っていいかな……」

 優里亜は立ちあがろうとしたが、上手く立てない。腰が抜けたみたいだ。それでも両手をテーブルに付き、なんとか立ち上がった。

「ちょっと待って下さい、先輩。将来の話をしましょうか。座って下さい」

「将来の話……?」

 優里亜はすとんと腰を下ろした。京子も優里亜の真ん前の椅子に腰掛けた。


「先輩が女流試験を合格して、晴れて棋士になったの話です。先輩、棋士になれば遠からず少なからず、ここにいる全員と対局する可能性が出てくるわけです。なのに先輩は今もうすでにトップ棋士にビビって逃げ腰になってる。そんなんで棋士としてやっていけるんですか?」


 パニックに陥っている優里亜の理解が上手く追いつかない。

 優里亜はとにかく棋士になることしか考えてなかった。そののことはこれっぽっちも考えたことなどなかった。


 京子はこう続けた。

「私は、私が指導する以上、先輩にはいつか七大棋戦で活躍して欲しいと思いながら稽古をつけています」

「……‼︎」

 京子がそんなふうに思っていてくれたなんて知らなかった。

 私はただ目の前の碁を必死で打つぐらいしかやっていない。

「ですからね、こんなただ『トップ棋士に囲まれただけの状況』で泡吹いてる先輩を情けなく思ってるんですよ」

 うっ……。でも、この状況で緊張しない院生なんて、いる?

「私、前々から言ってましたよね。先輩には気概が足りないって。本当に棋士になりたいなら、この状況を楽しむくらいの度胸を養って欲しいんです。この研究会で」


 京子は優里亜をじっと見つめる。


「大丈夫ですよ。先輩だって、あの中舘英雄えいお先生の門下生なんですから。初めて中舘先生から稽古をつけてもらった時のことを覚えてますか?」


 優里亜は目を伏せてまだ幼かった頃の事を思い出す。


 母の実家で祖父から囲碁を教えてもらい、「筋がいい」と褒められて囲碁を始めた。それから祖父が近所のカルチャースクールで囲碁講師をしていた中舘先生の弟子入りを勧めてくれたこと。

 初めて中舘先生から稽古をつけてもらった時もガチガチに緊張したっけ。でも「筋がいい」と褒められて、なんとか中舘先生の元で今までやってこれた。

 私が中舘先生に「女流試験が終わるまで畠山京子に師事したい」と相談した時も先生は何も言わずに送り出してくれた。


「先輩、慣れればいいだけです。空気に慣れさえすれば、先輩は無敵になれると私は考えています」


 そうだ。京子に言われるまで気づかなかった。

 私は空気に飲まれるんだ。

 緊張感という空気に。

 原因がわかれば怖くない!

 優里亜の腹が決まった。


「わかったよ、京子。私、やる!」

 そう言うと優里亜は立ち上がって岡本に向かって礼をした。

「岡本先生!私と一局、打って下さい!お願いします!」


 それまで京子と優里亜のやりとりを、孫のお飯事を眺めるように目を細めて見ていた岡本は、優里亜のこの一言で目付きをガラリと変えた。

「ええ。いいですよ。お願いします」


 岡本の真正面に座っていた武士沢が右にずれ、優里亜が座った。



 ●○●○●○



 優里亜はその後、江田、武士沢、ついでに三嶋とも対局した。

 三嶋との対局は、互先にもかかわらず、互角に打っていた。

「三嶋さん、これはいよいよ引退を考えたほうが……」

 と、京子は揶揄すると、優里亜から笑顔が溢れた。


 夕食も、昼間はあんなに岡本夫妻と共に昼食をとるのを拒否したのに、大勢だったからか、優里亜はリビングダイニングで皆と一緒に夕食をとっていた。



 帰り道。すっかり暗くなったバス停までの道のりを、京子を含めた5人で歩いた。

 岡本邸から駅まで距離があるのでバスを使う。駅のバスロータリーからも距離があるので、京子はこう三嶋に言った。

「三嶋さん、ちゃんと駅のホームまで先輩を送り届けて下さいね」

「なんかちょいちょい気になる言い方するな。俺がユリを襲うとでも思ってるのか?」

「はい」

「即答したな」

「えー。大ちゃんてそういう人だったの?」

「ほら!誤解されたじゃないか!」

「三嶋さんが……!」

「お前、いい加減にしろよ!」

「だから何回、お前って言うのやめてと言えば理解できるんですか!」

「大ちゃん、「お前」はさすがにダメだよ」

「うん。ユリには言わないから」

「そうやって差別するところですよ。三嶋さんが私に不信感を与えるのは」

「あーあ。弟子入りした頃は可愛かったのになぁー!」

「へぇー!京子が弟子入りした頃の話、聞きたい!」

「三嶋さんからは聞かないほうがいいです。ある事ない事喋りまくるんで」

「男のお喋りは、引くわー」

「ですよね!先輩!」

「お前らなー!」

「ほら!先輩にも「お前」って言った!」

「うん!私もちゃんと聞いた!」




 女の子二人にいいように弄ばれている三嶋を見て、武士沢と江田は、

『これはいよいよ本気で棋士の仕事を頑張るように説得しないと』

と、考えていた。
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