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布石編

ある日の棋士と院生

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 洋峰学園中高等部の敷地を取り囲むように植えられた桜や銀杏の木々の葉に、雨が滴り落ちる。


 昼休み。今日も田村優里亜はいつものように囲碁将棋部部室で、畠山京子から稽古をつけて貰っていた。

 部室に着くと大急ぎで弁当を掻き込み、碁盤に前日打った碁を途中まで並べる。「お願いします」と礼をして、昨日とは手を変えて打つ。でもまた負ける。

 院生研修のある土日や学校が休みの日は、ネットで稽古する。京子が対局の日以外は毎日だ。

 そんなことを繰り返す日がもう3ヶ月続いている。

 優里亜は今、Aクラス7位。一度5位まで順位を上げたことがあったが、それきり6位から8位を行ったり来たりしている。

 稽古の成果がはっきりと形になって現れない。

 中舘門下生の研究会でも、師匠や兄弟子達から特に何も言われない。

 やっぱり私の棋力はここが限界なんじゃないかと思ってしまう。



 校内に午後の授業が始まる5分前のチャイムが鳴った。二人は碁石を片付け教室へ戻る。

 部室棟から教室棟へ向かう渡り廊下を歩きながら、京子は若手棋戦の話題を持ち出した。

「なぁんか納得いかないんですよね。私、去年の翠玉エメラルド戦第1次予選で全勝だったのに。なんで第1シードじゃないんだろ?」

 新人王戦にあたる金緑石アレキサンドライト戦の本戦出場者が決まり、トーナメントの組み合わせが発表された。

 第1シードは昨年度金緑石戦準優勝の立花富岳。

 第2シードは瑪瑙戦で富岳に次ぐ活躍をみせた秋山宗介。

 第3シードは京子だ。


「金緑石戦本戦の組み合わせは、前年度の成績を考慮して決まるから。京子は去年の前半、全く対局してなかったからね」

「あのチビメガネにも勝ってるのに」

「まぁまぁ。この組み合わせなら、あの生意気なクソガキと決勝まで当たらないじゃない」

 京子の言う「チビメガネ」と優里亜の言う「生意気なクソガキ」は同一人物、立花富岳のことだ。

「それより今月は猫目石キャッツアイ戦があるじゃない。そっちの方に集中したら?」

 去年、京子は出場停止処分を喰らって出場できなかった、段位問わず二十歳以下の若手限定の早碁戦だ。

「私もそうですけど、もうすぐ夏期棋士採用試験の申し込みが始まるんですよね。先輩、受けるんですよね?」

 夏期棋士採用試験。通称「正棋士試験」。

 女性限定の女流棋士採用特別試験に合格しても、格付けは『見習い棋士』。正式には『女流棋士』は『棋士』ではないのだ。規定の棋戦に優勝するか、または勝数を上げるかしないと『棋士』にはなれない。手合い料も正棋士に比べ安い。女流棋士試験特別試験を受けた京子は正式には『見習い棋士』だ。なのでもし優里亜がこの試験で合格すれば、序列的には京子を追い抜くことになる。

 
「うん。予選、出なきゃいけないけど、受験資格はあるからね。受けてみるよ」

 優里亜はこう言って俯いた。自信のない表情、丸出しだ。

 夏期棋士採用試験の合格枠は2つ。院生順位Aクラス下位の優里亜には正直厳しい。


「またそういう覇気のない顔するし!先輩。私、前にも言ったでしょ⁉︎『先輩には気概が足りない』って!始まる前から自信無さそうにしてたら、勝てる碁も勝てませんよ!」


(ああ。またこれか)

 『気合が入ってない』とか『自信を持って』とか。

 わかってる。わかってるけど。


「じゃあどうすればいいのよ!京子、本当は私に棋士になって欲しくないんじゃないの?だからわざと棋力の伸びない方法で、稽古をつけてるをしてるだけなんじゃないの⁉︎」


 言ってしまった。

 院生順位の上がらないイライラを、棋力が上がったと実感できない稽古内容を、全部京子のせいにしてしまった。



 京子は私に稽古をつける義理など無い。

 学校の勉強だってある。部活でバスケをやってるから、体力的には昼休みを割く時間だって勿体ないはず。

 それでも京子は私のために、時間を割いてくれている。


 だから、これだけは絶対言ってはいけなかった。でも、言わずにいられなった。言ってしまった。



 もうすぐ授業が始まる。他の生徒は授業に間に合うように、小走りで京子と優里亜を追い越し、教室へ向かう。

 そんな中、京子は足を止めた。

「田村先輩。先輩は私のような「読み重視のAIのような碁を打てるようになりたい」と言ってましたよね?」

 優里亜に罵られたのに、京子の声は静かだ。

「そのために、自分自身に足りていないモノはなんだと思いますか?」

 優里亜は答えられずにいた。何が足りないのかなんて、具体的に考えたことなど無かった。

「たとえ膨大な量の棋譜データが頭の中にあったとしても、そのデータを適材適所で使えなければ意味がない」


 午後の授業が始まるチャイムが鳴った。だが、京子はまだ話を続ける。


「棋士試験を受験する人で、初見の人はいないはずです。だから対局相手に関する何かしらのデータを持っている。
 私の碁は相手の弱点を徹底的に突く『嫌がらせ碁』です。棋譜というデータがあっても、裏付けもなく闇雲に打ったって勝てるわけがない。Aという手とBという手の選択を迫られた時、相手のデータがあれば、迷わず結論を出せる。無駄な時間の消費を抑えられる」


「そこの二人、早く教室に戻りなさい」

 教室棟の階段を登ろうとした女性教師が二人を見つけ、注意した。

「はーい!」

 返事をしたのは京子だけだった。


「先輩。とりあえず明日の稽古はお休みしましょうか。息抜きしましょう」

 京子はそう言うと、小走りで教室へ戻っていった。



 ●○●○●○



 午後の授業中、優里亜はずっと上の空だった。

 京子に八つ当たりした罪悪感が胸を締め付ける。

(喧嘩好きなくせに、私とは喧嘩しないんだ……)

 怒鳴り返してくれればいいのに。お互い様という言い訳が立つ。そうすればいくらか気が楽になったのに。


(なぜ京子は私の八つ当たりに、何も言い返さなかったんだろう)

 理由など考える必要もない。

 京子はただ純粋に私に棋士になって欲しいんだ。

 でなければあんなアドバイスなんて、しない。


(変な子……)

 立花富岳のように嫌いな相手には所構わず怒りを露わにするのに。

 信用している人間には、何を言われても何も言い返さない。「そういう日もあるよね」と、機嫌の悪い私すらも受け入れてくれる。

 子供なのか、大人なのか、わからない。


 そうだ。私は碁を打ってる時の京子しか知らない。

 京子が言った『私の碁は嫌がらせ碁』が頭の中を谺する。

 何をすれば相手が嫌がるか。それは相手によって違う。

 それには【相手を知る】。

 まずはここからだ。



 ●○●○●○



 優里亜は夕飯を終えると自室で、いつも向き合う碁盤ではなく、机に向かった。

 真っ新なノートを広げ1ページ目の最上部に、

『畠山京子 対策』

 と書き込んだ。

 対局にはいつもノートを持ち込む京子の真似だ。真似できるものは真似する。ここから始める。


「うーん……どうしよう。まず京子の好きなモノから書き出してみようかな」


⭐︎京子の好きなもの

⚪︎米(対局日は一升食べることもある)

⚪︎洋食より和食(でも肉好き)

⚪︎洋菓子より和菓子(あんこ好き)


 ……あれ?食べ物の事しか書いてない?えーと、食べ物以外だと……。


⚪︎喧嘩(売られた喧嘩は絶対買う!と思っていたけど 相手を選んでる?ぽい)

⚪︎赤色が好き(持ち物のほとんどが赤)

⚪︎『はしっこせいかつ』。とくにロールケーキが好き

⚪︎バスケ(スマホの壁紙は京子の好きなプロ選手)


 ……今、思い出せるのは、これくらいかな?じゃあ次は……。


⭐︎京子の嫌いなもの


 と書いて手が止まった。

「京子って嫌いな食べ物、ある?」

 なんでも「美味しい美味しい」って食べてるイメージしかない。

「食べ物以外だと……。あ、そうだ!」
 

⚪︎岡本先生の悪口言う人(病院送りにしたことアリ)


「あとは……横峯さん?というより……」


⚪︎権力者(とくに仕事しない人、出来ない人)


 嫌いなモノ、これくらいしか思い浮かばないなぁ……。じゃあ次は苦手なモノにしよう。


⭐︎京子の苦手なもの

⚪︎服選び(いつも古着を着ている。面倒臭いって言ってた)


「あとは……」

 苦手なモノも無いかも。ダメだ。何も思い出せない。

「じゃあ次、得意なモノ」


⭐︎京子の得意なもの

⚪︎勉強(特待生クラス)

⚪︎柔道と剣道(4歳の頃からやってる)

⚪︎ヨセ(絶対間違えない!)

 あ。これ、ここに書いても意味ないや。囲碁以外での人間性を書くんだから。消そう。


「んー……。料理とか、学校が休みの日に岡本先生の奥さんの手伝いを時々するとか言ってたけど、得意とも苦手とも言ってなかったなぁ……」

 でも料理苦手のイメージが無い。理科実験の感覚で、手際よくできそう。

 そういえば、一緒にカラオケに行ったこともないから、音痴かどうかもわからない。

 あんまりプライベートな話、してないかも……。


「とりあえず、こんなもんかな」

 思いついた分だけ書いたけど、1ページの半分も埋まらない。

「……あれぇ?一年以上付き合いがあるのに、私の中の京子って、こんなに薄っぺら?」


 多分、そうじゃない。それだけ囲碁のイメージが強すぎるんだ。グラフにすると、囲碁9:1プライベート、みたいな。

 魔術師・岡本幸浩門下で、最強のアマチュア・畠山亮司の娘で、自身も強くて。そりゃこうなるよ。


 今度は京子の碁について書いてみよう。


⭐︎京子の碁

⚪︎序盤は定石通りに打つ(相手が定石外れを打っても対策してあるみたいで、きっちり相手不利にされる)

⚪︎相手が仕掛けるまで待つ(攻めで出来る隙を逃さない)

⚪︎長考しない(この辺AI碁っぽくて憧れる)

⚪︎相手の手を全部潰してくる(反撃する余地すらなくて投了するしかないって気持ちにさせられる)

⚪︎ヨセは絶対間違えない!(詰碁めっちゃ得意!解くの速い!)


 やばい。書いてる手が止まらない。

「っていうかこれ、私が勝てる要素、無くない?」

 畠山京子という人物を知ろうと書き出しているのに、書けば書くほど自信を無くす。

 なのになんだろう?この気持ち。

「めっちゃ京子と打ちたい……!」

 京子は「明日はお休みしましょう」と言っていた。明日のお昼休み、京子は部室に来るだろうか?

 それでも優里亜には、明日部室に行かないという選択肢は無い。

 休んでる暇なんて無い。それだけ私は切羽詰まった状況にある。


 それに京子に会ったら言わなきゃいけないことがある。

「昨日はごめん」

 その一言を。



●○●○●○



(いた……)

 翌日のお昼休み。優里亜が囲碁将棋部部室に行くと、すでに京子は居て弁当を掻き込んでいた。

「先輩。お昼、お先です。言っておきますけど、今日は稽古お休みですよ」

 先に言われた。

「あのね、京子。私……」

「先輩、見ましたか?今、和歌山で打たれてる緑玉エメラルド戦第5局!すごいことになってますよ‼︎」

 京子の3段重ねの曲げわっぱの弁当箱の中身があっという間に無くなった。

 京子は空になった弁当箱を片付けると、碁盤に今打たれてる緑玉戦を並べ始めた。

 言葉を遮られた優里亜は、とりあえずいつもの席に座って自分の弁当を広げた。

「昨日の1日目、江田さんは左辺を手抜きして、どうするのかと思ってたら、今朝になって手を戻して、今コレですよ!はぁ~!江田さんカッコい~!」

 ノートに書き込むこと1つあった。


⚪︎江田大三冠レッドが好き


 後で書いておこう。


 10分後、優里亜は弁当を食べ終えた。食べるのが遅い優里亜にしては、これでも早くなったほうだ。


「あのね、京子。昨日」

「先輩。私は、自分の意思で先輩に稽古をつけてます。偉そうに」

 また言葉を遮られた。しかも偉そうに。

「京子、聞いて」

「ですから、嫌になったらいつでも辞めます。ですから先輩も「私に向いてないな」と思ったら、いつでも「辞める」って言って下さい。
 他人に稽古をつけるなんてやったこと無いから手探りですし、そもそもこのやり方が先輩に合ってるかどうかも私にはわかりません」


 そうだ。京子だってプロになったばかりなんだし。私は京子に無理難題を持ちかけただけなんだ。

 ここまではっきりと言われないと気づかないなんて……。


「京子、昨日は」

「先輩!私、先輩の碁、好きですよ。諦めないで最後まで相手に喰らいついてくる、粘り強い棋風」

「………!」

 京子、私の碁をそんなふうに思ってたんだ……。

「ですから、先輩が今言いたい事は、試験が終わるまで保留というとこで!」

 やっぱり。私が何を言いたいのか、分かってて言葉を遮ってたんだ。


「契約期間満了の来年の女流試験終了まで、出来ることをやりましょう」


 ……なんか私、超カッコ悪ぅ。独り相撲みたいじゃん。

 あーもう!こんなふうに言われたら、「はい」って言うしかないじゃない!


「うん。よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします。じゃあ打ちましょうか」

「え?今日は稽古しないって……」

 京子がニヤリと笑う。

「ええ。稽古じゃなくて、ガチで打ちましょう。たまにこうすることで、今の自分の実力がよくわかるでしょ?」


 優里亜はハッとした。

(そうか!今まで手加減して打ってたから、ストレス溜まってるのか!)

 っていうか、あれでも手加減してたの?

 まだ稽古で一勝もできてないのに、ガチ対局……⁉︎


 優里亜が返答に戸惑っていると、京子はさっさと黒石の入った碁笥を自分の方に引き寄せて置いた。
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