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布石編
優里亜の決心
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今年の女流棋士採用特別試験は去年の畠山京子のようなイレギュラーはいなかった。本試験受験者は外来受験者も元院生で全員顔馴染みだ。皆お互いの実力をよくわかっている。
その中で今年の下馬評は、院生順位最上位の田村優里亜だ。
去年の優里亜は『女弟子はとらないと言っていたあの岡本幸浩が女弟子をとった』というパニックから、全くいつも通りの碁を打てなかった。
だから今年は自分にこう言い聞かせる。
(大丈夫。今年はみんな知ってる人達ばかりだから。いつものように打てば勝てる。いつものように……)
優里亜は呪文のように、この言葉を何度も繰り返した。
●○●○●○
畠山京子の通う洋峰学園は明日卒業式を迎える。
今日は卒業式の予行練習を行った。その後、京子はバスケ部の中学1年の大森詩音と稲川梨花の3人で、女子バスケ部部室を飾り付けしていた。
「飾り付け、これでいいかな?忘れ物とかも無いよね?」
3人のリーダー的存在の詩音が、飾り付けを終えた部室の中を見渡しながら言った。
「うん。明日、花屋さんから花束、届けてもらう予約もちゃんと確認したし!」
花束の手配は京子が担当した。指導碁のお客様の伝手だ。
「とうとう卒業式かぁ。なんかあっという間だったね~」
梨花がしみじみ言った。
「リカ。それ、なんだか自分が卒業するみたいだよ」
詩音が即座にツッコむ。
「えっ?そう?」
「うん。私もそうツッコもうとした」
京子までこう言い出し、3人で笑い合う。
3人は一年前、バスケ部に入部した当時を思い出していた。
新入生歓迎会をかねた部活動紹介で、高校生と一緒に練習すると聞いて、練習についていけるのか不安でたまらなかったことが、今では笑いのネタだ。
バスケ部高等部3年生と一緒に過ごした時間は実質4ヶ月も無い。しかし毎日コーチからしごかれ、キツイ練習に耐えてきた日々は濃厚で忘れ難い思い出だ。
(先輩達と合宿行きたかったなぁ)
と、京子は残念に思う。山口での記録係の仕事で、人生初の合宿に卒業する先輩達と参加できなかったのは心残りだ。
「よし!帰ろう!いつまでもこうしてたらキリがない!」
いつの間にかしんみりした空気になっていたのを払拭したのは梨花だった。
「うん!そうだね!先輩達ともう会えなくなるわけじゃないし!」
ちょっと目が潤んでいる詩音が、涙を隠すように先に部室を出た。そんな詩音の様子を見て京子はこう言った。
「うん。コロッケ食べに行こー!」
「「そうだ!忘れるとこだった!」」
3人は第一体育館ギャラリー下に設られた女子バスケ部部室を後にした。
玄関から冷たい風が吹き込む。3月になったとはいえ日が暮れるとまだ寒い。
今週対局のある京子は風邪をひかないよう、赤いダッフルコートを着て赤いマフラーを首に巻き付けていた。靴を履き替えコートのポケットから赤い手袋を取り出し玄関から出ようとした時だ。誰かが京子の名を呼んだ。
「京子」
学校で京子を名前で呼ぶのは一人しかいない。濃紺のトレンチコートを着た田村優里亜が玄関隅の冷たい風が当たらない所に立っていた。
玄関の照明が届かない所だが、優里亜の目が真っ赤に腫れているのがわかる。
「田村先輩⁉︎」
京子は『どうしたんですか?その目は』と聞きそうになって慌てて口を噤んだ。わざわざ聞くまでもない。昨日は女流棋士採用特別試験の最終日だった。
結果はネットで知っている。合格者は今年も外来受験者だった。
(田村先輩、あんなに目を真っ赤に腫らしても学校に来たんだ……)
「ごめん。シオ、リカ。私、田村先輩と一緒に帰るから」
「えーっ⁉︎『コロ助』のコロッケ、食べて帰るんじゃなかったのー?」
学校に隣接する『洋峰学園中高駅』の駅ナカにある『コロ助』のコロッケは種類が豊富で値段もお手頃、大きさも弁当サイズから買い食いサイズまでと、成長期の子供達の胃袋と財布に優しいお店だ。
今日その『コロ助』に卒業式の準備を終えてから行こうと言い出したのは京子だ。珍しく京子が買い食いしようと言い出したので、梨花が一番楽しみにしていたのだ。
「ごめん、リカ。この埋め合わせは必ずするから」
「どうやって?」
わかりやすく膨れっ面になっている。が、そこに詩音が空気を読んで京子に助け舟を出してくれた。
「ケイ。気にしないで行って。ほら帰るよ、リカ。じゃあまた明日ね」
「ありがとう、シオ。また明日」
詩音は優里亜に挨拶すると、まるで自分の子供をあやすように梨花を連れて玄関を出て行った。
「ごめんね、京子。友達と約束してたのに」
「気にしないで下さい。リカにはコロッケと一緒にアイスでも奢れば機嫌が直るんで。で、どこに行きます?」
●○●○●○
優里亜が京子を連れてきたのは、学校近くのラーメン屋『宝来軒』だった。京子も何度か日曜日の部活帰りにバスケ部のみんなと寄った事がある。
同じ学校の生徒が何人かいるが、優里亜は構わず奥の空いているテーブル席に座った。京子も後に続いて座る。
京子は壁に貼られたメニューをざっと眺めて言った。
「どうぞ先輩、お好きな物を注文して下さい」
囲碁界では、タイトル保持者またはそれに準ずる者、つまり金を持ってる人間が奢るという暗黙のルールがある。なので棋士である京子が院生である優里亜に奢るのが慣例だ。
「待ってよ京子。私達、制服着てるのよ。高校生が中学生をカツアゲしてるようにしか見えないでしょ」
「でも先輩が私を誘った理由は、囲碁絡みですよね」
「そうだけど。そこは譲って。自分で食べた分を自分で払う。いいわね?」
「はーい。じゃあ私、味噌ラーメンとチャーハン大盛りと餃子3人前」
相変わらずの大食いだ。本人の耳に届いているのか分からないが、最近棋院では「囲碁界のギャル◯根」と呼ばれている。
「私はとんこつラーメンにしようかな」
優里亜が店員を呼び、注文をすませる。
優里亜はお冷に口をつける。どうやって話を切り出そうかと思案していると、京子から話をふってきた。
「先輩、女流試験お疲れ様でした」
京子は優里亜を傷つけないよう気をつける。と言うのも京子は今まで試験というものに落ちた経験が無いからだ。中学入試も、女流棋士試験も初受験で合格した。今の優里亜の気持ちを推し測ろうにも、測る物差し自体が京子の中に無いのだ。だから京子には目を真っ赤に腫らすほど泣いて悔しがる気持ちも、それでも学校に来る気持ちもわからない。
「あ……うん。あのね、その事で京子に相談があるんだけど……」
「私に相談ですか?」
考えられるのは「岡本先生に弟子入りしたい」とかだろう。でも私には岡本先生を説得できない。末弟子のペーペーだ。
ん?そういえば田村先輩は中舘英雄九段門下で、弟子には黛さんや先日紫水晶戦を制した中田勝利さんがいるんだっけ。稽古をつけてもらう相手はいくらでもいる。となると弟子入りの話ではない?なら、なんだろう?
「私ね、親から「来年の女流棋士試験に合格出来なかったら、棋士を諦めて大学受験に専念しろ」って言われてるの」
まさかの進路相談!
しかも高校1年生が3歳年下の中学1年生相手に!
相談内容はわかる。大きな理由は院生の年齢制限だろう。18歳になったら強制的に院生を辞めなければならない。田村先輩は5月が誕生日だから、高校3年の5月、あと1年と2ヶ月だ。女流試験が終わったら、5月を待たずに院生をスパッと辞めて大学受験に切り替える。どこの大学を受験するかにもよるだろうけど、受験勉強期間としては問題ないだろう。
でも院生をやめたらプロ試験を受けられないという訳ではない。
「それって来年不合格だったら棋士にはならないってことですか?」
優里亜がコクンと頷く。
「でも『特別採用枠』もありますよね?先輩、夏にイベントの手伝いとか積極的にしてたじゃないですか。なら試験がダメでも『特別採用枠』で……」
「ううん。それじゃダメなの。「完全実力社会の世界なんだから、それに見合う実力を持ってないと、やっていけないだろう」って。スタートが遅ければ、それだけ生活に苦労もするだろうからって。だから院生のうちに女流試験で合格しないと、親に認めてもらえないの」
「ちょっと待って下さい!『特別採用枠』だって、ちゃんと実力を伴っていると判断されたから棋士になれるのに!先輩、それ、ちゃんとご両親に説明したんですか?」
「したけど……」
と言って優里亜は首を横に振り、俯いた。
なるほど、そういうことか!
京子は優里亜に呼び出された理由を理解した。いきなり立ち上がり、胸をドンと叩いた。
「わっかりました!頭の硬い、先輩のご両親を説得すればいいんですね!私に任せてくださいっ!さあ、家に帰りましょう!大船に乗ったつもりで!」
「えっ⁉︎ちょっ、ちっ違う!座って!京子!そうじゃなくて……」
「え?違うんですか?」
テーブルの反対側から優里亜に腕を掴まれた京子はドスンと椅子に座った。
「あのね、私自身も『特別採用枠』じゃなくて、試験を合格して棋士になりたいの。だから……」
なぜか言いにくそうだ。何が言いたいのか京子は優里亜の表情を読み取ろうとするが、わからない。
「……だから?」
突然、優里亜は目を瞑ってテーブルに頭をぶつけそうなくらいに頭を下げた。
「私に稽古をつけて下さい!」
「なっ⁉︎何してるんですか先輩!やめて下さい!顔を上げて!」
今度は京子がテーブルの反対側から腕を伸ばし優里亜の肩を掴み顔を上げさせようとする。
(私が先輩に稽古をつける⁉︎)
……違う。たぶん、そうじゃない。先輩はきっと不合格になって気が混乱してるだけなんだ。
「先輩、私……」
「あのね、京子に稽古つけてもらいたいって、前々から考えていた事なの」
「私に?なんで?」
「私、京子みたいに読み重視のAIを彷彿とさせる碁を打てるようにないたいの」
今主流となりつつある、コンピューターのような読み重視の棋風だ。
でも私の碁をAI碁と言われたのは意外だ。
「先輩、私の碁は読みの碁ではなく、膨大な過去の棋譜から似たような局面の棋譜を脳内検索で引っ張り出しているだけです。私、記憶力の良さだけは人に負けない自信があるので。
でも言い変えれば、私は新しいものを作り出すのが苦手です。私は誰かの真似しかできないんです。私が新手を編み出すのは無理だと思います」
京子はゼロから何かを作り出す才能が無い。だから『アラクネ』に渡した囲碁を用いた暗号も、京子の好きな推理小説『紅の薔薇』の第一作のモールス信号のシーンからヒントを得たものだ。
京子はこう続けた。
「それからこれは私の考えですけど、AI碁と言っても実際に打つのは人間です。向き不向きや得手不得手、対戦相手との相性もありますし、なにより体調も成績に深く関係します。人間ですから。
それに私の棋風だって万能ではありません。原石戦での私と槇原さんとの対局を見ていたなら、私にも弱点があるのをわかって頂けると思います」
京子が苦手にしている相手。槇原や兄弟子の江田のように、閃きで打ってくる感覚派だ。
どこに打ってくるか読めない、どうしてここでこの手なのか理解できない、リズムがバラバラ。で、気づいたら不利になっている。負けている。
「乱暴な言い方をすれば、私の碁は「前例がなければポンコツ」なんですよ」
それは優里亜も原石戦を見て感じていた。確かに美樹は強いけど、優里亜はさほど美樹を苦手にしていなかった。なぜ京子は美樹を苦手にしているのか、優里亜にはわからない。
だから相性の良し悪しがあるのはわかる。
でも今の優里亜は頭打ちになっている棋力の底上げをしたい、つまり思い切って棋風をガラリと変えて新しいことに挑戦してみたい。そしてそれが出来るのは今しかないのだ。
「私……、どうしたらいい?私、絶対棋士になりたいの!」
「先輩……」
京子だって優里亜に棋士になって欲しいと思っている。
去年の女流棋士採用特別試験。院生でなく知り合いが誰一人いない京子が所在なさげにしていた時に、一番最初に声をかけてくれたのは優里亜だった。
他の受験者は遠巻きに岡本幸浩の女弟子を品定めする中、優里亜だけは優しく接してくれた。
京子にとって優里亜は恩人なのだ。
その恩人が私を頼りにしている。
京子はしばらく目を閉じて思案していたが、目を開けてこう切り出した。
「先輩。私も先輩に棋士になって欲しいと思ってます。去年の試験、先輩がいてくれたから合格できたと思ってるので。だから私、先輩に恩返ししたいと思ってます」
「京子……」
「でも、私に出来る事と言ってもかなり限られます。私も対局があるし、バスケもあるし、はっきり言って時間の余裕が無いです」
優里亜は「学校の勉強は?」とツッコもうとしてやめた。記憶力のいい京子にとって学校の勉強など問題の数に入らないのだろう。
「ですから、こういうのはどうですか?」
●○●○●○
「石坂くんも囲碁部の部室に行く?」
卒業式が終わり、学年末試験一週間前の昼休み。
クラス1、いや学校1……、いや、余所の学校を加えても1位の美少女・畠山京子から、京子と同じクラスで囲碁部の石坂嘉正は囲碁将棋部部室に行こうと誘われた。
「え?この時間に部室に?」
最初の頃は緊張で京子に敬語を使っていた嘉正も、最近やっと敬語を使わずに会話出来るようになっていた。
「あれ?田村先輩から聞いてない?」
「田村先輩?うん。特に何も」
「そっか。じゃあ時間無いから部活で先輩から聞いて」
と、京子は曲げわっぱの三段重ね巨大弁当箱を持って教室から出て行った。
●○●○●○
「畠山さんから稽古をつけてもらう?」
嘉正は京子に言われた通り、放課後囲碁将棋部の部室で田村優里亜に昼休みの出来事を話していた。
「そう」
明日から試験1週間前で部活禁止になるということで、今日は優里亜の指導碁を受けることになった。囲碁部員全員が一列に並び、嘉正も一番隅で優里亜から「そろそろ攻めを覚えようか」とワンステップ上の指導を受けていた。
「プロがセミプロにって、どんな指導なんですか?」
「別段特別なことも無いわよ」
今日の昼休み。持ち時間5分の超早碁を打ったそうだ。
「で、明日は今日打った碁を途中まで並べて私が「昨日はこの手で負けたんだな」って所から手を変えて打つの。こうして翌日も負けたんだなって所から手を変えて打っていって、最終的には京子に勝ってみろって。つまり毎日宿題ね」
優里亜から説明を受けた嘉正はポカンとする。
「今の私の説明、分かんなかった?」
「あ、いいえ!説明がわからなかったとかじゃなくて、3歳も年下から稽古をつけてもらうなんて、田村先輩って心が広いんだなというか、嫉妬心とか無いんだなというか、なんというか……」
「そんな訳ないわよ!美人で頭も良くて運動神経もよくて!岡本幸浩の唯一の女弟子で、しかもあの『最強のアマチュア・畠山亮司』の娘だったなんて!サラブレッドじゃん!羨ましすぎる‼︎ 嫉妬しまくりに決まってるでしょ⁉︎」
「畠山さんのお父さん、そんな有名人なんですか?」
「なんだ。聞いてないの?あんた達いつも教室でなんの話してるの?」
「いいじゃないですか。どうでも……」
正直、嘉正は教室で京子に自分から声をかけられない。それだけ彼女はクラスでも目立っている。
「私はね、心が広いんじゃないの!どんな手を使ってでもプロになりたいの!そのためならつまんないプライドくらい捨てられるわ!」
優里亜は嘉正の隣に座る高等部部長の久保田亨の碁盤に白石を勢いよく打ちつけた。久保田は「ちょっとこの手、キツくない?」と抗議したが、優里亜は「高校3年生になるんでしょ?これくらいシノギなさいよ!」と、逆ギレした。
「京子。去年より何倍も強くなってた」
去年というのは、去年の女流棋士試験の事だろう。
「その京子になんて言われたと思う?」
先日のラーメン屋でのその後だ。
◇◇◇◇◇
「私は先輩の実力が足りていないとは思いません。先輩に足りないのは気概の無さだと思います。覚えてますか?原石戦で私が「田村先輩と打ちたかった」って言ったら、先輩「私は打ちたくなかった」って言ったのを」
「うっ……。あれは……」
「先輩には、他人を蹴飛ばしてでも上にのし上がってやろうというハングリー精神が無いように、私は感じます」
◇◇◇◇◇
「……って言われたのよ!3歳も年下に!悔しくないわけないでしょ!」
優里亜は次々と勢いよく白石を打ちつけていく。八つ当たりにしか見えない。
「あんた達、見てなさいよ!来年の今頃は女流棋士試験に合格して、高校最後の年を京子と一緒に学生棋士として過ごして満喫してやるんだから!」
仕事で満喫って、社畜っていうんじゃなかったっけ?と、部員全員が心の中で優里亜にツッコんだ。
その中で今年の下馬評は、院生順位最上位の田村優里亜だ。
去年の優里亜は『女弟子はとらないと言っていたあの岡本幸浩が女弟子をとった』というパニックから、全くいつも通りの碁を打てなかった。
だから今年は自分にこう言い聞かせる。
(大丈夫。今年はみんな知ってる人達ばかりだから。いつものように打てば勝てる。いつものように……)
優里亜は呪文のように、この言葉を何度も繰り返した。
●○●○●○
畠山京子の通う洋峰学園は明日卒業式を迎える。
今日は卒業式の予行練習を行った。その後、京子はバスケ部の中学1年の大森詩音と稲川梨花の3人で、女子バスケ部部室を飾り付けしていた。
「飾り付け、これでいいかな?忘れ物とかも無いよね?」
3人のリーダー的存在の詩音が、飾り付けを終えた部室の中を見渡しながら言った。
「うん。明日、花屋さんから花束、届けてもらう予約もちゃんと確認したし!」
花束の手配は京子が担当した。指導碁のお客様の伝手だ。
「とうとう卒業式かぁ。なんかあっという間だったね~」
梨花がしみじみ言った。
「リカ。それ、なんだか自分が卒業するみたいだよ」
詩音が即座にツッコむ。
「えっ?そう?」
「うん。私もそうツッコもうとした」
京子までこう言い出し、3人で笑い合う。
3人は一年前、バスケ部に入部した当時を思い出していた。
新入生歓迎会をかねた部活動紹介で、高校生と一緒に練習すると聞いて、練習についていけるのか不安でたまらなかったことが、今では笑いのネタだ。
バスケ部高等部3年生と一緒に過ごした時間は実質4ヶ月も無い。しかし毎日コーチからしごかれ、キツイ練習に耐えてきた日々は濃厚で忘れ難い思い出だ。
(先輩達と合宿行きたかったなぁ)
と、京子は残念に思う。山口での記録係の仕事で、人生初の合宿に卒業する先輩達と参加できなかったのは心残りだ。
「よし!帰ろう!いつまでもこうしてたらキリがない!」
いつの間にかしんみりした空気になっていたのを払拭したのは梨花だった。
「うん!そうだね!先輩達ともう会えなくなるわけじゃないし!」
ちょっと目が潤んでいる詩音が、涙を隠すように先に部室を出た。そんな詩音の様子を見て京子はこう言った。
「うん。コロッケ食べに行こー!」
「「そうだ!忘れるとこだった!」」
3人は第一体育館ギャラリー下に設られた女子バスケ部部室を後にした。
玄関から冷たい風が吹き込む。3月になったとはいえ日が暮れるとまだ寒い。
今週対局のある京子は風邪をひかないよう、赤いダッフルコートを着て赤いマフラーを首に巻き付けていた。靴を履き替えコートのポケットから赤い手袋を取り出し玄関から出ようとした時だ。誰かが京子の名を呼んだ。
「京子」
学校で京子を名前で呼ぶのは一人しかいない。濃紺のトレンチコートを着た田村優里亜が玄関隅の冷たい風が当たらない所に立っていた。
玄関の照明が届かない所だが、優里亜の目が真っ赤に腫れているのがわかる。
「田村先輩⁉︎」
京子は『どうしたんですか?その目は』と聞きそうになって慌てて口を噤んだ。わざわざ聞くまでもない。昨日は女流棋士採用特別試験の最終日だった。
結果はネットで知っている。合格者は今年も外来受験者だった。
(田村先輩、あんなに目を真っ赤に腫らしても学校に来たんだ……)
「ごめん。シオ、リカ。私、田村先輩と一緒に帰るから」
「えーっ⁉︎『コロ助』のコロッケ、食べて帰るんじゃなかったのー?」
学校に隣接する『洋峰学園中高駅』の駅ナカにある『コロ助』のコロッケは種類が豊富で値段もお手頃、大きさも弁当サイズから買い食いサイズまでと、成長期の子供達の胃袋と財布に優しいお店だ。
今日その『コロ助』に卒業式の準備を終えてから行こうと言い出したのは京子だ。珍しく京子が買い食いしようと言い出したので、梨花が一番楽しみにしていたのだ。
「ごめん、リカ。この埋め合わせは必ずするから」
「どうやって?」
わかりやすく膨れっ面になっている。が、そこに詩音が空気を読んで京子に助け舟を出してくれた。
「ケイ。気にしないで行って。ほら帰るよ、リカ。じゃあまた明日ね」
「ありがとう、シオ。また明日」
詩音は優里亜に挨拶すると、まるで自分の子供をあやすように梨花を連れて玄関を出て行った。
「ごめんね、京子。友達と約束してたのに」
「気にしないで下さい。リカにはコロッケと一緒にアイスでも奢れば機嫌が直るんで。で、どこに行きます?」
●○●○●○
優里亜が京子を連れてきたのは、学校近くのラーメン屋『宝来軒』だった。京子も何度か日曜日の部活帰りにバスケ部のみんなと寄った事がある。
同じ学校の生徒が何人かいるが、優里亜は構わず奥の空いているテーブル席に座った。京子も後に続いて座る。
京子は壁に貼られたメニューをざっと眺めて言った。
「どうぞ先輩、お好きな物を注文して下さい」
囲碁界では、タイトル保持者またはそれに準ずる者、つまり金を持ってる人間が奢るという暗黙のルールがある。なので棋士である京子が院生である優里亜に奢るのが慣例だ。
「待ってよ京子。私達、制服着てるのよ。高校生が中学生をカツアゲしてるようにしか見えないでしょ」
「でも先輩が私を誘った理由は、囲碁絡みですよね」
「そうだけど。そこは譲って。自分で食べた分を自分で払う。いいわね?」
「はーい。じゃあ私、味噌ラーメンとチャーハン大盛りと餃子3人前」
相変わらずの大食いだ。本人の耳に届いているのか分からないが、最近棋院では「囲碁界のギャル◯根」と呼ばれている。
「私はとんこつラーメンにしようかな」
優里亜が店員を呼び、注文をすませる。
優里亜はお冷に口をつける。どうやって話を切り出そうかと思案していると、京子から話をふってきた。
「先輩、女流試験お疲れ様でした」
京子は優里亜を傷つけないよう気をつける。と言うのも京子は今まで試験というものに落ちた経験が無いからだ。中学入試も、女流棋士試験も初受験で合格した。今の優里亜の気持ちを推し測ろうにも、測る物差し自体が京子の中に無いのだ。だから京子には目を真っ赤に腫らすほど泣いて悔しがる気持ちも、それでも学校に来る気持ちもわからない。
「あ……うん。あのね、その事で京子に相談があるんだけど……」
「私に相談ですか?」
考えられるのは「岡本先生に弟子入りしたい」とかだろう。でも私には岡本先生を説得できない。末弟子のペーペーだ。
ん?そういえば田村先輩は中舘英雄九段門下で、弟子には黛さんや先日紫水晶戦を制した中田勝利さんがいるんだっけ。稽古をつけてもらう相手はいくらでもいる。となると弟子入りの話ではない?なら、なんだろう?
「私ね、親から「来年の女流棋士試験に合格出来なかったら、棋士を諦めて大学受験に専念しろ」って言われてるの」
まさかの進路相談!
しかも高校1年生が3歳年下の中学1年生相手に!
相談内容はわかる。大きな理由は院生の年齢制限だろう。18歳になったら強制的に院生を辞めなければならない。田村先輩は5月が誕生日だから、高校3年の5月、あと1年と2ヶ月だ。女流試験が終わったら、5月を待たずに院生をスパッと辞めて大学受験に切り替える。どこの大学を受験するかにもよるだろうけど、受験勉強期間としては問題ないだろう。
でも院生をやめたらプロ試験を受けられないという訳ではない。
「それって来年不合格だったら棋士にはならないってことですか?」
優里亜がコクンと頷く。
「でも『特別採用枠』もありますよね?先輩、夏にイベントの手伝いとか積極的にしてたじゃないですか。なら試験がダメでも『特別採用枠』で……」
「ううん。それじゃダメなの。「完全実力社会の世界なんだから、それに見合う実力を持ってないと、やっていけないだろう」って。スタートが遅ければ、それだけ生活に苦労もするだろうからって。だから院生のうちに女流試験で合格しないと、親に認めてもらえないの」
「ちょっと待って下さい!『特別採用枠』だって、ちゃんと実力を伴っていると判断されたから棋士になれるのに!先輩、それ、ちゃんとご両親に説明したんですか?」
「したけど……」
と言って優里亜は首を横に振り、俯いた。
なるほど、そういうことか!
京子は優里亜に呼び出された理由を理解した。いきなり立ち上がり、胸をドンと叩いた。
「わっかりました!頭の硬い、先輩のご両親を説得すればいいんですね!私に任せてくださいっ!さあ、家に帰りましょう!大船に乗ったつもりで!」
「えっ⁉︎ちょっ、ちっ違う!座って!京子!そうじゃなくて……」
「え?違うんですか?」
テーブルの反対側から優里亜に腕を掴まれた京子はドスンと椅子に座った。
「あのね、私自身も『特別採用枠』じゃなくて、試験を合格して棋士になりたいの。だから……」
なぜか言いにくそうだ。何が言いたいのか京子は優里亜の表情を読み取ろうとするが、わからない。
「……だから?」
突然、優里亜は目を瞑ってテーブルに頭をぶつけそうなくらいに頭を下げた。
「私に稽古をつけて下さい!」
「なっ⁉︎何してるんですか先輩!やめて下さい!顔を上げて!」
今度は京子がテーブルの反対側から腕を伸ばし優里亜の肩を掴み顔を上げさせようとする。
(私が先輩に稽古をつける⁉︎)
……違う。たぶん、そうじゃない。先輩はきっと不合格になって気が混乱してるだけなんだ。
「先輩、私……」
「あのね、京子に稽古つけてもらいたいって、前々から考えていた事なの」
「私に?なんで?」
「私、京子みたいに読み重視のAIを彷彿とさせる碁を打てるようにないたいの」
今主流となりつつある、コンピューターのような読み重視の棋風だ。
でも私の碁をAI碁と言われたのは意外だ。
「先輩、私の碁は読みの碁ではなく、膨大な過去の棋譜から似たような局面の棋譜を脳内検索で引っ張り出しているだけです。私、記憶力の良さだけは人に負けない自信があるので。
でも言い変えれば、私は新しいものを作り出すのが苦手です。私は誰かの真似しかできないんです。私が新手を編み出すのは無理だと思います」
京子はゼロから何かを作り出す才能が無い。だから『アラクネ』に渡した囲碁を用いた暗号も、京子の好きな推理小説『紅の薔薇』の第一作のモールス信号のシーンからヒントを得たものだ。
京子はこう続けた。
「それからこれは私の考えですけど、AI碁と言っても実際に打つのは人間です。向き不向きや得手不得手、対戦相手との相性もありますし、なにより体調も成績に深く関係します。人間ですから。
それに私の棋風だって万能ではありません。原石戦での私と槇原さんとの対局を見ていたなら、私にも弱点があるのをわかって頂けると思います」
京子が苦手にしている相手。槇原や兄弟子の江田のように、閃きで打ってくる感覚派だ。
どこに打ってくるか読めない、どうしてここでこの手なのか理解できない、リズムがバラバラ。で、気づいたら不利になっている。負けている。
「乱暴な言い方をすれば、私の碁は「前例がなければポンコツ」なんですよ」
それは優里亜も原石戦を見て感じていた。確かに美樹は強いけど、優里亜はさほど美樹を苦手にしていなかった。なぜ京子は美樹を苦手にしているのか、優里亜にはわからない。
だから相性の良し悪しがあるのはわかる。
でも今の優里亜は頭打ちになっている棋力の底上げをしたい、つまり思い切って棋風をガラリと変えて新しいことに挑戦してみたい。そしてそれが出来るのは今しかないのだ。
「私……、どうしたらいい?私、絶対棋士になりたいの!」
「先輩……」
京子だって優里亜に棋士になって欲しいと思っている。
去年の女流棋士採用特別試験。院生でなく知り合いが誰一人いない京子が所在なさげにしていた時に、一番最初に声をかけてくれたのは優里亜だった。
他の受験者は遠巻きに岡本幸浩の女弟子を品定めする中、優里亜だけは優しく接してくれた。
京子にとって優里亜は恩人なのだ。
その恩人が私を頼りにしている。
京子はしばらく目を閉じて思案していたが、目を開けてこう切り出した。
「先輩。私も先輩に棋士になって欲しいと思ってます。去年の試験、先輩がいてくれたから合格できたと思ってるので。だから私、先輩に恩返ししたいと思ってます」
「京子……」
「でも、私に出来る事と言ってもかなり限られます。私も対局があるし、バスケもあるし、はっきり言って時間の余裕が無いです」
優里亜は「学校の勉強は?」とツッコもうとしてやめた。記憶力のいい京子にとって学校の勉強など問題の数に入らないのだろう。
「ですから、こういうのはどうですか?」
●○●○●○
「石坂くんも囲碁部の部室に行く?」
卒業式が終わり、学年末試験一週間前の昼休み。
クラス1、いや学校1……、いや、余所の学校を加えても1位の美少女・畠山京子から、京子と同じクラスで囲碁部の石坂嘉正は囲碁将棋部部室に行こうと誘われた。
「え?この時間に部室に?」
最初の頃は緊張で京子に敬語を使っていた嘉正も、最近やっと敬語を使わずに会話出来るようになっていた。
「あれ?田村先輩から聞いてない?」
「田村先輩?うん。特に何も」
「そっか。じゃあ時間無いから部活で先輩から聞いて」
と、京子は曲げわっぱの三段重ね巨大弁当箱を持って教室から出て行った。
●○●○●○
「畠山さんから稽古をつけてもらう?」
嘉正は京子に言われた通り、放課後囲碁将棋部の部室で田村優里亜に昼休みの出来事を話していた。
「そう」
明日から試験1週間前で部活禁止になるということで、今日は優里亜の指導碁を受けることになった。囲碁部員全員が一列に並び、嘉正も一番隅で優里亜から「そろそろ攻めを覚えようか」とワンステップ上の指導を受けていた。
「プロがセミプロにって、どんな指導なんですか?」
「別段特別なことも無いわよ」
今日の昼休み。持ち時間5分の超早碁を打ったそうだ。
「で、明日は今日打った碁を途中まで並べて私が「昨日はこの手で負けたんだな」って所から手を変えて打つの。こうして翌日も負けたんだなって所から手を変えて打っていって、最終的には京子に勝ってみろって。つまり毎日宿題ね」
優里亜から説明を受けた嘉正はポカンとする。
「今の私の説明、分かんなかった?」
「あ、いいえ!説明がわからなかったとかじゃなくて、3歳も年下から稽古をつけてもらうなんて、田村先輩って心が広いんだなというか、嫉妬心とか無いんだなというか、なんというか……」
「そんな訳ないわよ!美人で頭も良くて運動神経もよくて!岡本幸浩の唯一の女弟子で、しかもあの『最強のアマチュア・畠山亮司』の娘だったなんて!サラブレッドじゃん!羨ましすぎる‼︎ 嫉妬しまくりに決まってるでしょ⁉︎」
「畠山さんのお父さん、そんな有名人なんですか?」
「なんだ。聞いてないの?あんた達いつも教室でなんの話してるの?」
「いいじゃないですか。どうでも……」
正直、嘉正は教室で京子に自分から声をかけられない。それだけ彼女はクラスでも目立っている。
「私はね、心が広いんじゃないの!どんな手を使ってでもプロになりたいの!そのためならつまんないプライドくらい捨てられるわ!」
優里亜は嘉正の隣に座る高等部部長の久保田亨の碁盤に白石を勢いよく打ちつけた。久保田は「ちょっとこの手、キツくない?」と抗議したが、優里亜は「高校3年生になるんでしょ?これくらいシノギなさいよ!」と、逆ギレした。
「京子。去年より何倍も強くなってた」
去年というのは、去年の女流棋士試験の事だろう。
「その京子になんて言われたと思う?」
先日のラーメン屋でのその後だ。
◇◇◇◇◇
「私は先輩の実力が足りていないとは思いません。先輩に足りないのは気概の無さだと思います。覚えてますか?原石戦で私が「田村先輩と打ちたかった」って言ったら、先輩「私は打ちたくなかった」って言ったのを」
「うっ……。あれは……」
「先輩には、他人を蹴飛ばしてでも上にのし上がってやろうというハングリー精神が無いように、私は感じます」
◇◇◇◇◇
「……って言われたのよ!3歳も年下に!悔しくないわけないでしょ!」
優里亜は次々と勢いよく白石を打ちつけていく。八つ当たりにしか見えない。
「あんた達、見てなさいよ!来年の今頃は女流棋士試験に合格して、高校最後の年を京子と一緒に学生棋士として過ごして満喫してやるんだから!」
仕事で満喫って、社畜っていうんじゃなかったっけ?と、部員全員が心の中で優里亜にツッコんだ。
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