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布石編
大駒を手に入れるための布石(後編)
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濃い一日だった。
突然の来客。しかも相手はただの騒がしいだけの子供かと思いきや、大人を袖にするとんでもない切れ者。
「なんか疲れた……」
加賀谷伸行は夕食後、自室のベッドにゴロンと横になる。疲れたのは、久しぶりに人とまともに会話したからだ。
(そういや、この部屋に他人が来たのは初めてだな……)
子供の頃からずっと友人など一人もいなかった。俺を揶揄ったりいじめたりする人間もいなかったから、この部屋に同級生が上がり込んで家探しなどの嫌がらせをされる事もなかった。
つい数時間前まで小娘と弁護士が座っていた絨毯に視線を落とす。
(あの弁護士、結構おっぱいデカかったな……)
良からぬ事を考えそうになって、起き上がって頭を振る。これじゃセクハラしてたあの元上司と変わらない。
気分を変えようと、加賀谷は手を伸ばして机の上に置いてあった『畠山京子 50年計画』と表題のついたノートを手に取り、またベッドに横になる。
50年後、俺は90歳を過ぎてる。おそらく『どこでもドア』の完成を待たずに死んでいるだろう。
ページをめくる。今度はゆっくり深読みしながら読む。それにしても……。
「こんなこと、この歳で思いつくもんかね……」
●○●○●○
「『畠山京子 50年計画』……?アンタ今、何歳なんだ?」
囲碁棋士・畠山京子と名乗る小娘はピースサインをして舌を出し、おどけたフリして俺の質問に答えた。
「ピッチピチの13歳、中学1年生です!」
中坊かよ!しかも1年生⁉︎ってことは、去年までランドセル背負ってたのか⁉︎
「今は囲碁棋士の仕事をするために師匠の内弟子として東京に住んでますけど、角館出身です!」
ここ大曲から20キロと離れていない、武家屋敷が並び小京都と称される秋田県屈指の観光地だ。
「アンタ角館の人間なのか⁉︎」
「はい!父は能代、母は角館のハーフです!」
……なんだって?純粋な秋田県民だと言いたいのか?
「『アラクネ』さんも秋田県民だとわかった時、震えましたよ。遠出しても秋田なら師匠や奥様に不審に思われる心配ないですし。お盆やお正月に、ついでに大曲に寄ればいいし」
コイツ、『アラクネ』が秋田県民じゃなくても、嘘をつくかつかないかギリギリの適当な言い訳をして会いに行きそうだけどな。聞いてみるか。
「正月は過ぎたぞ。今日は何と言って家を出て来たんだ?」
「今日は「弁護士事務所で法律の勉強してくる」と言って出て来ました。師匠もまだ現役棋士なので、仕事だと言うと嘘がバレるので。部活だって言うと、帰る時間が遅くなり過ぎて変に思われるし」
「部活もやってるのか⁉︎」
思わず声が裏返った。
「はい。バスケ部です」
「あれか。強制でやらなきゃいけないからか」
「いいえ。自分の意思です。小学生の時ミニバスチームに入っててバスケ大好きだし、師匠も「若いうちは体力作りをしっかりやっておけ」と仰ったので」
学校に囲碁に部活に会社経営?
コイツ、化け物か?
「……法律の勉強だと言っても不審に思われないなんて、優等生なんだな」
「いえいえ。勉強の出来る不良ですよ」
小娘は両手を前に突き出しブンブン振る。こういう仕草は子供らしい。
「はははっ!間違いない!ハッカーだもんな」
初めて加賀谷が笑顔を見せた。年相応に烏の足跡が見える。
「いいえ。私はあくまで囲碁棋士です」
「どうでもいいよ、その辺は」
加賀谷は渡されたノート『畠山京子 50年計画』の1ページ目をめくった。さっき見たプログラミングノートの文字より、幼い印象を受ける文字だ。
12歳から始まっていたその計画は、1年につき1ページ使われていた。
12歳 棋士試験合格
13歳 棋士デビュー
次のページをめくると、
14歳 金緑石王になる
15歳 女流棋戦の挑戦者になる
さらにページをめくると、
16歳 七大棋戦の挑戦者になる
17歳 タイトル防衛
と、ページの最上段には囲碁棋士としての目標を箇条書きにしてあった。そしてその下からは『どこでもドア』を作るまでの大まかな目標が書かれてあった。
研究に関する目標は、Aプランが潰れてもBプランへ、Bプランが潰れてもCプランへ。と、考えうる最悪のパターンまでも考慮した上で計画を綿密に練ってあった。正直、『中二病』という言葉のど真ん中にいる人生怖いもの知らずの中学生が、ここまで計画が頓挫した場合を想定しているのは驚いた。
その何パターンにも組まれたプランの中に『ハッカー捕獲』の文字を見つけたところで手を止めた。暫くそのページから数ページを深読みして、俺は口を開いた。
「……ふーん。つまり俺を交渉の切り札にしようってことか。アンタ、可愛い顔してえげつないこと考えるな」
しかも俺には拒否権がない。従わなければ警察に突き出されて人生お終いになるか、スイス銀行の俺の金をごっそり横取りされるかだろう。
「ええ、私も色々考えたんです。どういう方法が加賀谷さんにとっても『アラクネ』にとっても、そして私にとっても一番いいか」
『可愛い顔』のところ、完全にスルーしたな。コイツの性格、掴めてきた。おそらくコイツにお世辞は全く通用しない。
「一番手っ取り早いのは、加賀谷さんのスイスにあるお金を使って研究所を作る。そうすれば12桁にまで膨れ上がった身代金を一編に捌けますしね」
と、含みのある言い方をして小娘は白い歯を出してニヤリと笑った。
コイツ、そんな事まで知ってるのか⁉︎足がつくから、使いたくても使えない、不良債権化した金だ。捌けるものなら捌いて欲しいが、どのみち俺も危うくなる。
「そんな大金、子供が現金一括で払ったら間違いなく税務署が警察連れて来るぞ。それに土地は?どこにそんな物、建てる?」
「そこなんですよ。しかも不動産だから、そもそも未成年の私には契約出来ない。大人に頼るしかない」
「『大人を脅して』だろ。その年齢でそれだけ頭が回るのに何も出来ないってか。笑えるな。この国の法律」
「まあ、法律は法律ですから」
コイツ、その法律を逆手に取って、未成年のうちにやりたい放題やるつもりだな。
「それに研究にしても、私一人ではできない。最低でも10人は欲しいです。人を集めるのも時間がかかる」
物理系は興味のない分野だからよくわからないが、それでもおそらく少な過ぎるだろう。
「つーか、新しく研究所を作りたいってことは、アンタのやりたい研究は、既存の研究チームや研究所じゃ出来ない分野なのか?」
「まあそうですね。おそらく他人が聞いたら間違いなく「倫理に反する」の一言で終わりだと思います」
科学ってそういうものだけどな。
でもひとたび不老不死の薬でも開発しようものなら、倫理って言葉を吹っ飛ばすんだけどな。人間なんて。
「詳しくは『畠山京子 50年計画』をお読み下さい」
今日中に帰りたいみたいだし、そうするか。
「それと一応伝えておきますが、私、囲碁棋士を辞めるつもりは更々無いので」
囲碁はルールさえ知らないけど、将棋は棋士の養成所で厳しい鍛錬を積んで棋士になると聞いた。きっと囲碁もそうだろう。コイツも大変な思いをして囲碁棋士になったに違いない。苦労して就いた職業を、そう簡単に辞める訳がないのは理解できる。
それに色んな情報が簡単に手に入るみたいだしな(おそらくこのポイントがでかい)。
「話を戻します。まず1つ目。『アラクネ』を警察に突き出して司法取引し、ホワイトハッカーとしてウチの会社で堂々と働いて頂く」
「やだね。警察の犬になるなんて、冗談じゃない」
「ええ。この案は私としても困るんです。『警察に捕まったアラクネ』だと交渉材料の価値が下がってしまうし、私からの依頼を優先して貰えなくなる。それに私が『アラクネ』を捕まえたハッカーだと警察にバレてしまう恐れもあるので。私は表向きは『どこでもドアを作りたい、ただの囲碁棋士』ということにしておきたいんです」
加賀谷はコクリと頷く。
「2つ目。このままここでハッカー『アラクネ』として活動しながら、リモートで私の会社で正社員として働いて頂く」
「どうして俺を正社員として雇いたいんだ?『アラクネ』と接点があるとわかれば、アンタだってただでは済まない。この直筆ノートが見つかれば尚更だ。言い逃れできない」
俺は『畠山京子 50年計画』の表題がついたノートを閉じ、見せつけるように掲げた。
「そんな事は俺がわざわざ言わなくても、アンタの脳味噌なら当然わかっているだろう。それでも俺を正社員として雇いたい理由はなんだ?」
すると小娘はキチンと正座し直し、背筋をピンと伸ばした。そして俺の目を見て真剣な表情で語りかけるように話し始めた。
「正社員になれば社会的信用を得られます。ご家族にも給料明細を見せれば安心して頂けるでしょう。退職金も出ますので老後も安心です」
金の心配はしてないけどな。
「加賀谷さんにとって悪い話ではないはずです。いかがでしょう?」
つまり『8050問題』か。トレーダーなんて聞こえはいいが、実際には引きこもりだ。滅多に外出しないし、近所にはニートだと思われているだろう。
俺はトレーダーになりたくてなった訳じゃない。前職の知識を活かして、生活費を稼ぐためにやっているだけだ。
秋田に帰ってきてから再就職しようかと考えたこともあった。だがあの嫌がらせがフラッシュバックして、なかなか一歩が踏み出せない。人付き合いの苦手な俺には新しい職場に慣れるのに時間がかかるのは、火を見るよりも明らかだ。
この子はそんな状況を知ってて、俺の両親の事も考えた上で、自分に降りかかるかもしれない火の粉よりも、俺の社会的地位を確保しようと考えてくれたのか。
俺が将来、孤立しないように……。
それにこの子は引きこもりの俺を蔑んだり馬鹿にしたりする様子もない。ちゃんと対等に話し合っている。
会社勤めをしていた時に受けたいじめのおかげで、『いい人』と『いい人のフリをしている人間』とを見分ける目は養われている。
だから断言できる。この子は悪い子ではない。
俺の能力を悪用しようとしている訳ではない。この子の脳味噌なら、大人を騙すことだって簡単なはず。俺を陥れようとすればいつでもできるだろう。それに本気で騙すなら、顔など見せずにネットで交渉すればいい。でもこの子はそうしなかった。直接会いに来て自分の素性を晒した。
そして俺を服従させる『脅迫』ではなく、対等な『取引』を持ちかけてきた。俺はハッキング技術を提供する代わりに、この子は俺の老後の安定した生活を約束すると。
俺はその取引に応じるか応じないか、ただそれだけだ。もしこの話を断っても、この子は俺を警察に突き出すような真似はしないだろう。
なら俺の答えはもう決まっている。
自分の子供にすら全く感心を示さない父親と、客が来たのに客が「お構いなく」と言ったら真に受けてお茶すら出さない母親。姉はこんな二人が嫌で、結婚して家を出てからというもの全くこの家に寄り付かない。子供の顔さえ見せに来ない。電話どころか年賀状すら寄越さない。一方、俺はというと『この家の長男』という呪縛に捕われ、姉のように親を蔑ろにできずにいる。
俺はこのまま両親の最期を見届けた後、誰にも看取られずこの家で独り死んでいくものだと思っていた。こんな状況から抜け出せるなら抜け出したい。そのきっかけを与えられるなら、この話、乗らない手はない。
もし親父がこの場にたら「こんな小娘に頼らなければ社会復帰もできないのか」と哄笑しそうだが、それでもいい。あんな人でなし、笑わせておけばいい。
俺はこの子が『どこでもドア』を作るのを、全力でサポートする。なかなか面白そうだ。退屈することはないだろう。
しばらく目を伏せて考え込んでいた加賀谷は、顔を上げるとこう切り出した。
「ああ。問題ない。でも、本当にそれでいいのか?犯罪者と組めば最悪、アンタは囲碁棋士を辞めなければいけない、どこでもドアも作れなくなるかもしれないんだぞ」
加賀谷も京子の目を見て真剣に聞いた。
「その覚悟がなければ、ここには来ていません」
……その通りだ。わざわざ東京から秋田まで来たんだ。往復で6時間はかかる。交渉決裂すれば半日無駄にする。交通費だって馬鹿にならない。しかも弁護士の分もコイツが払ったんだろう。もう囲碁棋士として働いているとはいえ、子供には相当な金額の出費だ。
「悪りぃ。愚問だった。忘れてくれ。じゃあ、よろしくな。ボス」
そう言って俺は右手を差し出した。
「ボス⁉︎私のことですか⁉︎」
畠山京子の頬は朱を差したように赤くなった。表情も今までの作り笑いとは違う。
「ああ。嫌か?」
「いいえ!カッコいいです!気に入りました!という事は、私に協力してくださるという事でいいですね⁉︎」
「ああ」
「ありがとうございます!……でも加賀谷さん。あっさり結論出しちゃいましたね。まだ話始めて20分と経っていないですよ?こんな小娘相手に、いいんですか?」
さっきまで自分で自分を「美少女」と言ってたくせに、ここにきて「小娘」か。やっぱり面白いな、この子。
「俺はトレーダーだからな。即断即決なんだよ。退屈してたし、『どこでもドア』を作るのに手を貸してやるよ」
「ええ!退屈させませんよ!絶叫マシーンに乗ってるみたいに楽しいですよ、きっと!では、私のことは「ボス」で!」
ボスは両手を出して俺と握手を交わした。
ちょっとびっくりしたのは、バスケをやっているせいか、かなりの握力で握り締められたことだ。翌々日まで右手が痛かったのは、一生黙っておこう。
「で、だ。どこから俺を連れてきたって話になるんじゃないか?親戚でもない、近所でもない40過ぎのおっさんと女子中学生が、どこで知り合った?って話になるぞ。まさか仕事系マッチングアプリでとか言わないだろうな」
「それも考えました。でも後々矛盾が出てきて嘘がバレそうなので却下しました。なので『大曲の花火大会に行った時、迷子になって助けて頂いた恩人』だと言っておきます。実際、私は6歳の時、大曲の花火大会で迷子になってますので。『新幹線に乗ってて偶然再開した』と言っておけば、田舎という場所がどんな所か知りもしない都会育ちの社員を納得させる材料としては充分です」
「いや、6歳じゃ覚えてないだろ?」
「私の記憶力の良さなら誰も疑問に思いません」
自意識過剰……!でもまぁ初対面の俺でも、コイツの脳味噌の程度がどのくらいのものか、わかるくらいだしな。他にいい案は浮かばないし……。
「オッケー。わかった。それでいこう」
小娘はまたニッコリと笑った。
「それから、私は東京住みなので物理的に距離が離れるので、何かしらの問題が起こって早期解決が必要となった場合、電話かネット、つまり足がつく方法でしか連絡が取れないという点がネックになる。どこで誰が見てるか、わからないですからね。
郵便が一番なんですけどね。加賀谷さんからしたら、株主優待なんかの手紙だと思われるだろうし、私もファンからの手紙だと思われるし。でも時間がかかるのがね……」
そんなところにまで気を回しているのかよ!だからメールではなく封書を送ってきたのか!
「それならそこにいる弁護士に頼めばいいんじゃないか?」
今まで一言も発さず、置物のようになっていた弁護士、新井雅美に視線を移す。
(この人、よくこんな話、黙って聞いてるよな。それよりこの弁護士、信用できるのか?)
「新井先生は私の小間使いではありません。それに二人っきりになって何か間違いが起こったら、どうするんですか!」
なんか怒ってるけど、間違いって……。
「俺がこの弁護士を襲うとでも言いたいのか⁉︎」
「雇い主なので、責任は持たないと」
「いや、そこまで雇い主の責任はないだろ」
弁護士も呆れた顔をしている。しかし弁護士は自分の話題になったのに、それでも口を出さない。そういう契約か?
「そうなんですか?わかりました。学習しました」
社会科学習か?
「新井先生は今日は付き添いで来て下さっただけです」
……ん?なんか含みのある言い方だな。
「まさかお前、この弁護士とは今日初対面とか言わないだろうな?」
「はい、初対面です」
肯定したよ!嘘だろ、おい!
「いやいやいや!初対面の人間になんでこんな極秘情報漏らしてんの⁉︎」
何考えてんだ、この小娘!てっきり俺は馴染みの弁護士を連れてきたのかと……。
「弁護士さんだから大丈夫です」
この小娘の胆力……!確かに弁護士には守秘義務があるけど!犯罪者の弁護もするけど!
思わず頭を抱えて俯く。が、小娘は俺に構わず話を進めた。よほど帰りの新幹線の時間が心配らしい。
もうこうなったら流れに身を任せてしまえ!
「で、連絡方法なんですけど、こんな物を用意しました」
と言ってまたバックパックからキャンパスノートをごっそり取り出した。何冊入る鞄なんだ?
「iTwitterを使います。『岡本門下』のアカウントをフォローして下さい。囲碁愛好家のために時々詰碁の問題を投稿してるんですけど、緊急時に詰碁の問題を暗号化して投稿します。このノートはその暗号解読のためのノートです」
渡されたノートは13冊あった。1冊目は能書き。2冊目以降は暗号解読のための法則を表にしたものだ。
「……詰碁の問題って、そんなにパパッと作れるものなのか?緊急なら、尚更急いで問題を作らなければならない。しかも作り置きなんてできないだろ?どんな文字を送るかによって問題を変えないといけないんだから」
すると小娘は雨に濡れた子犬を見るような、憐れみの目で俺を見た。
「私、こう見えてもプロですよ?」
そうだった……。プロ野球選手に「野球できますか?」なんて聞くようなもんか。まずいこと言ったな。
加賀谷は思わず左手で口を押さえた。
「悪い」
「いいえ。お気になさらず」
加賀谷は渡された1冊目の暗号解読の能書きのノートをパラパラとめくった。
「なるほど。モールス信号と点字を駆使するのか」
石が繋がっていれば『ツー』、ひとつだけポツンとあれば『トン』。『黒のみ暗号』『白のみ暗号』『白黒両方とも暗号』として使用する、と分ければ何万通りにもなるってわけか。点字の方は黒白どちらも使えるので、かなり応用が効きそうだ。四隅のどこに問題を出題するかでも応用が効く。万能だな。おまけに投稿した日時でも分けるのか。
「12(ヶ月)× 31(日)× 7(曜日)× 24(時間)× 60(分)……?つまり何通りになるんだ?」
「天文学的数字です」
面倒臭くなったな。
「これなら重複する可能性は限りなくゼロに出来ますので、第三者に解読されるリスクは少なくなります」
「しかし、よくこれだけ書いたもんだな」
加賀谷は次々と暗号解読の法則が書かれたノートをパラパラとめくる。しかも12冊、全部手書きだ。テンプレートを使って書いたらしく、綺麗な丸になっている。見やすい。
「ええ。授業中、暇だったんで」
(コイツ……。学校通って、囲碁の仕事もして、部活でバスケやって。勉強する時間なんて無いだろうに、いつ勉強してるんだ?しかも授業中とか対局中とか、こんな事やってる場合じゃな……)
ここまで考えて思考が止まった。
加賀谷の口から、最近知ったある単語が漏れる。
「ギフテッド……」
幼少期から学問だけでなく様々な分野で才能を発揮する、高い知能を持って生まれた人を指す言葉。ごく少数であるがために周囲に理解されにくく、社会から孤立する傾向にある。
そうか。この子もそうなのか。
「アンタも大変だな。暇つぶしで授業中にこんなことやってるのか」
こう言っただけで俺が本当は何を言いたいのか、理解したようだ。俺が聞きたかった答えが返ってきた。
「ウチの学校、理数系の授業だけは特別措置を取ってくれているんです。私が「どこでもドアを作りたい」と学校側に伝えたら、ウチの大学の物理学の授業をリモートで受けられるようにしてくれました」
「……!そうか。良かったな」
時代は変わるんだな。俺もこの時代に生まれたかった。そうすれば誰も恨まずに、もう少しまともに生きられたんじゃないか……。こんな狭い部屋で一日中籠って、誰にも会わないように生活しなくて済んだかもしれない……。
コイツが羨ましいなどと言っても今更仕方ないけど……。
「ええ。加賀谷さんのような方たちのおかげです」
思わぬ京子の一言で、加賀谷は目頭が熱くなり涙が溢れそうになる。咄嗟に話題を変えた。が、大した話題変えにならなかった。と言うより墓穴を掘った。
「お前、俺のこと、どこまで調べたんだ?」
「んー、そうですね……。最近の【推し】は、新しくできた『いちごソーダ』の姉妹グループ『ばななソーダ』の木之下サラさん、ってぐらいですかね……」
「なに調べてんの⁉︎そんな事まで調べたのか⁉︎」
アイドルなんて、興味なさそうなのに。
「私の通う学校に『いちごソーダ』の棚橋りりか先輩が通ってるので、つい気になって」
「え⁉︎棚橋りりかが先輩⁉︎学校生活、どんな感じなんだ?……って、そうじゃない!」
この小娘、人たらしだ!危ねぇ!なんて小娘だ!俺、すっかりコイツの掌の上で踊らされてる‼︎
四十男の部屋に大声出して乗り込んでくる度胸に、大人と対等に口をきく頭の回転の良さに、アイドルの話で和ませる人心掌握術に!
……でも嫌ではない。むしろ心地いい。
俺の話が通じる。俺の問いに、俺の聞きたかった、ちゃんとした答えが返ってくる。
会話が成り立つ。
たったこれだけの、おそらく他人からしたら普通の事が出来るのが、こんなに心地良いなんて……。
小娘と目が合う。小娘がまたニッコリ笑う。つい30分前のヘラヘラ笑いとは違う。きっとこれが本当のコイツの笑顔なんだろう。肝が据わって落ち着いているように見えたが、それなりに緊張していたんだろう。
つられて自分もニッコリ笑いそうになり、コホンと咳払いする。そこまで馴れ合う気は無い。
「話を暗号に戻すぞ。どうやって『ただの詰碁の問題』と『暗号の詰碁問題』とを見分ければいいんだ?」
「時節の挨拶を本文に呟きます」
「『山の雪化粧が厚化粧に』みたいなやつか」
「はい。『風邪ひいた』とか『海行きたい』とかも」
コイツ、風邪ひくのか?
「わかった。なら、さっき「里帰りするついでに大曲に寄る」とか言ってたよな。こんなもの用意したなら、連絡のやり取りはこの『暗号詰碁』で容易に出来るだろ。アンタは極力、ここには来るな。やっぱり近所には不審に思われる。秋田の人間ならわかるだろ」
すると小娘は、コーンに乗せたアイスを地面に落としたような、悲しそうな表情をした。
(あれ?俺に会えなくて寂しいとか?)
「加賀谷さん、棋力は?」
「気力?」
「キチンと詰碁の問題を作れるくらいの棋力がないと、怪しまれてしまいますよ?」
‼︎そうか!俺の心配じゃなくて、暗号を解読される心配か!恥ずっ!そうだ。俺、囲碁のルールすら知らないんだ!
「……っ、まず囲碁のルールから覚える……」
すると突然、小娘は拝むように手を組み、前のめりになって、俺に顔を近づけてきた。
「ってことは加賀谷さんも、私がきっかけで囲碁を始めるってことになりますか?」
顔、近くないか?40過ぎの髪ボサボサ髭面のおっさん相手に、距離感おかしいぞ、コイツ。
「ん……?まぁ、そうなるな……」
「やったーっ!ようやく二人目!」
小娘は今まで正座していたとは思えないほど勢いよく立ち上がり、また大声を出して家を揺らした。
さっきはドア越しだったけど、直に聞くと鼓膜が破れそうだ。思わず両手で耳を塞いだ。
「……あ、失礼しました。ほら、囲碁棋士の仕事に普及活動もあるじゃないですか」
いや、知らんし。
「私がきっかけで囲碁を始めたって人がいると嬉しくて、つい」
ガッツポーズまでして嬉しそうだ。こういう様子を見ると、本当に中学1年生なんだなと感じる。情報が入るから仕方なしに囲碁棋士やってるのかと思ったが、コイツ、なんだかんだでちゃんとプロやってるんだな。たかだか囲碁を始めた人間が一人増えただけで、こんなに喜ぶなんて。
「では、囲碁入門者の加賀谷さんは私が許可するまで、暗号詰碁を用いた連絡方法は使用しないで下さい。私からの一方通行でお願いします」
まぁ『急ぎの場合の連絡方法』だしな。俺から急ぎの連絡なんて、無いだろうし。
「それから最初にお伝えした通り、どんな会社にしようか、まだ何も決めていません。なるべく早く何か見つけたいとは思っていますが、これもきっかけがないと……。将来、自分の役に立つ事で、と思っているんですけど……」
「学校通ったり、仕事したりで大変だろ。まぁ俺は金の心配はしてないから、気楽にやれ」
「はい。ありがとうございます。何か決まりましたら、また日本棋院の封筒で連絡します。では今日、私からお伝えしたい事は以上です。加賀谷さんから何か質問はありますか?」
ほう。一方的に自分がベラベラ喋って終わりにするかと思いきや。
「そうだな……。交渉相手はもう決まってるのか?」
「いいえ。二三候補は絞っていますけど。こういうのはタイミングも肝心だと思うので」
「つまんねぇ相手に俺を売るなよ」
「そこは安心して下さい。『アラクネ』の所有権は私のままにしておきますから。それに先方も『アラクネ』の正体を知らないままの方が都合がいいでしょう?」
それもそうか。もし大企業と『アラクネ』が繋がってると知れたら、間違いなくみんな仲良く共倒れだ。
「それからもうひとつ。もう男の部屋に乗り込むな。強姦されたらどうするんだ」
こういうことは大人としてハッキリ言っておいたほうがいいだろう。社会科学習だ。男が全員、俺みたいな善人とは限らないからな。
「ああ。先程の新井先生を襲うと言ったのが気に障りましたか?」
人たらしのくせに、喧嘩を売るような言い方するな。本人は無自覚なのか?
加賀谷はちょっと揶揄うつもりで、京子に向かって手指をいやらしく動かし椅子から立ち上がる素振りをした。
すると京子だけでなく、新井も今まで正座していたとは思えないほど素早く立ち上がり、加賀谷と間合いを取り身構えた。
「へっ……?」
2人の隙のない身のこなしに、加賀谷は間の抜けた声を漏らす。浮かせた腰をドスンと降ろした。
「男性の部屋に乗り込もうってんですよ。それなりの心得があるに決まってるじゃないですか」
「心得って……」
「私は4歳から柔道と剣道をやってます。新井先生は空手をやってらっしゃるそうです」
……そうだ。この小娘が何も武器を持たずに乗り込んでくるはずがない……。
●○●○●○
その後、俺は親父の車を借りて2人を大曲駅まで送った。
軽自動車の運転席の真後ろの席に座った小娘は「車の免許、いつ取ったんですか?」「東京で取ったんですか?」「秋田で運転するならやっぱり秋田で取った方がいいですか?雪道の運転技術も覚えないと」と、俺を質問攻めにした。
「高校生の時に取ったんだ。だから秋田でだ。東京で暮らすなら、車の免許なんていらないぞ。電車とバスで充分だろ。それに免許の更新には金も手間もかかるしな」
「いくら私でも、40歳を過ぎれば棋力が落ちると思うんです。そうなったら秋田に拠点を移して、囲碁の仕事の時だけ東京に通おうかと」
「なんだ。ずっと東京に住まないのか?それに研究は?」
車を住宅街から駅に近い商店街へと走らせる。
「ええ。東京に憧れて出てきた訳ではないので。それに40歳くらいになれば人を使うくらいの立場になっているだろうし、それならリモートで充分でないかなと」
少し意外に思った。
てっきりバリバリのシティガール目指して東京に行ったのかと思ったら。コイツのこの容姿なら、芸能事務所からスカウトされそうなもんだが。
研究にしてもそうだ。常に最前線で自分の研究を進めたいタイプだと思ったのに。
「私、いつか秋田に帰りたいんです。そのために、その日までに秋田を活気ある町にしておきたいんです!まずは農業ですね!人間、ご飯食べないと死んじゃうんですから!」
この農業国秋田を、農業で活気ある町にって……。夢が壮大過ぎて中二病を通り越している。
でもコイツが言うと、本当に何かやってくれるんじゃないかと期待してしまう。
「そうか。それで『どこでもドアを作りたい』のか」
ルームミラーにニッコリと微笑む畠山京子の顔が映る。
俺はつられて口元を緩めた。後部座席からはルームミラーに映る俺の目しか見えないはず。でもまぁ見られていてもいいかと思えた。
駅に着いたが、俺は駅の中まで見送らずに、タクシーの乗降ロータリーで2人を降ろした。
「わざわざ送って下さって、ありがとうございました」
ボスと新井は車から降り丁寧に頭を下げて礼を言った。
「ああ。じゃあな。ヘマするなよ、ボス」
この次会うのはいつになるかわからない。もしかしたら郵便での書類のやり取りと暗号詰碁だけで、もう会わないかもしれない。
それにボスの立ち上げた会社の社員になったとしても、リモートワークだから結局今までと何も変わらない。近所から見たら引きこもりのままだ。
そんな俺の心の内を知ってか知らずか、またボスは舌を出して子供っぽい表情でおどけた。
「今年、42歳で本厄なんですよね?そのままそっくりお返ししまーす!では、また今度!」
そう言って勢いよく車のドアを閉めた。
(忘れてた……。厄年だった……。そうか。アイツが厄か……。まぁなんとも騒がしい厄に憑かれたもんだ)
シフトレバーを[P]から[D]に切り替え再び車を走らせる。しかしタイミング悪くロータリー出口の信号が赤に変わり、また車を止める。
ふとバックミラーを見ると、駅構内に入る前にこちらに向かってぴょんぴょん飛び跳ねながら大きく手を振る、白いダッフルコートに赤いマフラーを巻いた美少女の姿が映った。
「何がそんなに嬉しいんだか……」
●○●○●○
俺は家に帰ると、早速『畠山京子』について調べた。
日本棋院のホームページだけでなく、地元秋田の地方紙『あきた轟新聞』もヒットした。
「そうか。どこか見覚えあると思ったら」
秋田のテレビ番組にも出演したこともある。確か3~4年前くらいか。何かの賞を受賞したというニュースだ。
それからiTwitterの『岡本門下』のアカウントをフォローした。
もうすでにかなりの数の詰碁の問題が投稿してあった。週一~二くらいで投稿しているようだ。これなら暗号詰碁を投稿しても、他のフォロワーに不審に思われないだろう。
「もしかしたら、このために詰碁の問題を投稿してたのかな?」
何手も先を読まなければならない棋士らしい作戦だ。
それから夕食を済ませて今に至るわけだが、『畠山京子 50年計画』ノートを半分まで読んで、あることに気づいた。
「なんだ?これ……?」
ノートの右半分を折り曲げようとしたが、何か硬い物に遮られ曲げたい所で曲げられない。ノートの一番最後のページをめくってみると、マスキングテープが縦に張り付けてあり、剥がしてみるとmicroSDメモリーカードが出てきた。
中を見てみようか、一瞬躊躇った。
アイツは都合の良いことばかり言っていたが、本当は俺のマシンにダメージを与えるためにここに来たんじゃないのか?
しかしそんな疑惑はすぐに吹っ飛んだ。
それをやるなら、あの子の脳味噌ならもうすでにやっている!
俺は早速このmicroSDメモリーカードの中身を確認することにした。ネットに繋げていないノートパソコンに、カバーをつけたmicroSDメモリーカードを差し込む。
中にはファイルが2つ入っていた。そのうちのひとつのファイル名は、
『使用上の注意』
と書かれてあり、もうひとつのファイル名は、
『鍵』
とだけ書いてあった。
突然の来客。しかも相手はただの騒がしいだけの子供かと思いきや、大人を袖にするとんでもない切れ者。
「なんか疲れた……」
加賀谷伸行は夕食後、自室のベッドにゴロンと横になる。疲れたのは、久しぶりに人とまともに会話したからだ。
(そういや、この部屋に他人が来たのは初めてだな……)
子供の頃からずっと友人など一人もいなかった。俺を揶揄ったりいじめたりする人間もいなかったから、この部屋に同級生が上がり込んで家探しなどの嫌がらせをされる事もなかった。
つい数時間前まで小娘と弁護士が座っていた絨毯に視線を落とす。
(あの弁護士、結構おっぱいデカかったな……)
良からぬ事を考えそうになって、起き上がって頭を振る。これじゃセクハラしてたあの元上司と変わらない。
気分を変えようと、加賀谷は手を伸ばして机の上に置いてあった『畠山京子 50年計画』と表題のついたノートを手に取り、またベッドに横になる。
50年後、俺は90歳を過ぎてる。おそらく『どこでもドア』の完成を待たずに死んでいるだろう。
ページをめくる。今度はゆっくり深読みしながら読む。それにしても……。
「こんなこと、この歳で思いつくもんかね……」
●○●○●○
「『畠山京子 50年計画』……?アンタ今、何歳なんだ?」
囲碁棋士・畠山京子と名乗る小娘はピースサインをして舌を出し、おどけたフリして俺の質問に答えた。
「ピッチピチの13歳、中学1年生です!」
中坊かよ!しかも1年生⁉︎ってことは、去年までランドセル背負ってたのか⁉︎
「今は囲碁棋士の仕事をするために師匠の内弟子として東京に住んでますけど、角館出身です!」
ここ大曲から20キロと離れていない、武家屋敷が並び小京都と称される秋田県屈指の観光地だ。
「アンタ角館の人間なのか⁉︎」
「はい!父は能代、母は角館のハーフです!」
……なんだって?純粋な秋田県民だと言いたいのか?
「『アラクネ』さんも秋田県民だとわかった時、震えましたよ。遠出しても秋田なら師匠や奥様に不審に思われる心配ないですし。お盆やお正月に、ついでに大曲に寄ればいいし」
コイツ、『アラクネ』が秋田県民じゃなくても、嘘をつくかつかないかギリギリの適当な言い訳をして会いに行きそうだけどな。聞いてみるか。
「正月は過ぎたぞ。今日は何と言って家を出て来たんだ?」
「今日は「弁護士事務所で法律の勉強してくる」と言って出て来ました。師匠もまだ現役棋士なので、仕事だと言うと嘘がバレるので。部活だって言うと、帰る時間が遅くなり過ぎて変に思われるし」
「部活もやってるのか⁉︎」
思わず声が裏返った。
「はい。バスケ部です」
「あれか。強制でやらなきゃいけないからか」
「いいえ。自分の意思です。小学生の時ミニバスチームに入っててバスケ大好きだし、師匠も「若いうちは体力作りをしっかりやっておけ」と仰ったので」
学校に囲碁に部活に会社経営?
コイツ、化け物か?
「……法律の勉強だと言っても不審に思われないなんて、優等生なんだな」
「いえいえ。勉強の出来る不良ですよ」
小娘は両手を前に突き出しブンブン振る。こういう仕草は子供らしい。
「はははっ!間違いない!ハッカーだもんな」
初めて加賀谷が笑顔を見せた。年相応に烏の足跡が見える。
「いいえ。私はあくまで囲碁棋士です」
「どうでもいいよ、その辺は」
加賀谷は渡されたノート『畠山京子 50年計画』の1ページ目をめくった。さっき見たプログラミングノートの文字より、幼い印象を受ける文字だ。
12歳から始まっていたその計画は、1年につき1ページ使われていた。
12歳 棋士試験合格
13歳 棋士デビュー
次のページをめくると、
14歳 金緑石王になる
15歳 女流棋戦の挑戦者になる
さらにページをめくると、
16歳 七大棋戦の挑戦者になる
17歳 タイトル防衛
と、ページの最上段には囲碁棋士としての目標を箇条書きにしてあった。そしてその下からは『どこでもドア』を作るまでの大まかな目標が書かれてあった。
研究に関する目標は、Aプランが潰れてもBプランへ、Bプランが潰れてもCプランへ。と、考えうる最悪のパターンまでも考慮した上で計画を綿密に練ってあった。正直、『中二病』という言葉のど真ん中にいる人生怖いもの知らずの中学生が、ここまで計画が頓挫した場合を想定しているのは驚いた。
その何パターンにも組まれたプランの中に『ハッカー捕獲』の文字を見つけたところで手を止めた。暫くそのページから数ページを深読みして、俺は口を開いた。
「……ふーん。つまり俺を交渉の切り札にしようってことか。アンタ、可愛い顔してえげつないこと考えるな」
しかも俺には拒否権がない。従わなければ警察に突き出されて人生お終いになるか、スイス銀行の俺の金をごっそり横取りされるかだろう。
「ええ、私も色々考えたんです。どういう方法が加賀谷さんにとっても『アラクネ』にとっても、そして私にとっても一番いいか」
『可愛い顔』のところ、完全にスルーしたな。コイツの性格、掴めてきた。おそらくコイツにお世辞は全く通用しない。
「一番手っ取り早いのは、加賀谷さんのスイスにあるお金を使って研究所を作る。そうすれば12桁にまで膨れ上がった身代金を一編に捌けますしね」
と、含みのある言い方をして小娘は白い歯を出してニヤリと笑った。
コイツ、そんな事まで知ってるのか⁉︎足がつくから、使いたくても使えない、不良債権化した金だ。捌けるものなら捌いて欲しいが、どのみち俺も危うくなる。
「そんな大金、子供が現金一括で払ったら間違いなく税務署が警察連れて来るぞ。それに土地は?どこにそんな物、建てる?」
「そこなんですよ。しかも不動産だから、そもそも未成年の私には契約出来ない。大人に頼るしかない」
「『大人を脅して』だろ。その年齢でそれだけ頭が回るのに何も出来ないってか。笑えるな。この国の法律」
「まあ、法律は法律ですから」
コイツ、その法律を逆手に取って、未成年のうちにやりたい放題やるつもりだな。
「それに研究にしても、私一人ではできない。最低でも10人は欲しいです。人を集めるのも時間がかかる」
物理系は興味のない分野だからよくわからないが、それでもおそらく少な過ぎるだろう。
「つーか、新しく研究所を作りたいってことは、アンタのやりたい研究は、既存の研究チームや研究所じゃ出来ない分野なのか?」
「まあそうですね。おそらく他人が聞いたら間違いなく「倫理に反する」の一言で終わりだと思います」
科学ってそういうものだけどな。
でもひとたび不老不死の薬でも開発しようものなら、倫理って言葉を吹っ飛ばすんだけどな。人間なんて。
「詳しくは『畠山京子 50年計画』をお読み下さい」
今日中に帰りたいみたいだし、そうするか。
「それと一応伝えておきますが、私、囲碁棋士を辞めるつもりは更々無いので」
囲碁はルールさえ知らないけど、将棋は棋士の養成所で厳しい鍛錬を積んで棋士になると聞いた。きっと囲碁もそうだろう。コイツも大変な思いをして囲碁棋士になったに違いない。苦労して就いた職業を、そう簡単に辞める訳がないのは理解できる。
それに色んな情報が簡単に手に入るみたいだしな(おそらくこのポイントがでかい)。
「話を戻します。まず1つ目。『アラクネ』を警察に突き出して司法取引し、ホワイトハッカーとしてウチの会社で堂々と働いて頂く」
「やだね。警察の犬になるなんて、冗談じゃない」
「ええ。この案は私としても困るんです。『警察に捕まったアラクネ』だと交渉材料の価値が下がってしまうし、私からの依頼を優先して貰えなくなる。それに私が『アラクネ』を捕まえたハッカーだと警察にバレてしまう恐れもあるので。私は表向きは『どこでもドアを作りたい、ただの囲碁棋士』ということにしておきたいんです」
加賀谷はコクリと頷く。
「2つ目。このままここでハッカー『アラクネ』として活動しながら、リモートで私の会社で正社員として働いて頂く」
「どうして俺を正社員として雇いたいんだ?『アラクネ』と接点があるとわかれば、アンタだってただでは済まない。この直筆ノートが見つかれば尚更だ。言い逃れできない」
俺は『畠山京子 50年計画』の表題がついたノートを閉じ、見せつけるように掲げた。
「そんな事は俺がわざわざ言わなくても、アンタの脳味噌なら当然わかっているだろう。それでも俺を正社員として雇いたい理由はなんだ?」
すると小娘はキチンと正座し直し、背筋をピンと伸ばした。そして俺の目を見て真剣な表情で語りかけるように話し始めた。
「正社員になれば社会的信用を得られます。ご家族にも給料明細を見せれば安心して頂けるでしょう。退職金も出ますので老後も安心です」
金の心配はしてないけどな。
「加賀谷さんにとって悪い話ではないはずです。いかがでしょう?」
つまり『8050問題』か。トレーダーなんて聞こえはいいが、実際には引きこもりだ。滅多に外出しないし、近所にはニートだと思われているだろう。
俺はトレーダーになりたくてなった訳じゃない。前職の知識を活かして、生活費を稼ぐためにやっているだけだ。
秋田に帰ってきてから再就職しようかと考えたこともあった。だがあの嫌がらせがフラッシュバックして、なかなか一歩が踏み出せない。人付き合いの苦手な俺には新しい職場に慣れるのに時間がかかるのは、火を見るよりも明らかだ。
この子はそんな状況を知ってて、俺の両親の事も考えた上で、自分に降りかかるかもしれない火の粉よりも、俺の社会的地位を確保しようと考えてくれたのか。
俺が将来、孤立しないように……。
それにこの子は引きこもりの俺を蔑んだり馬鹿にしたりする様子もない。ちゃんと対等に話し合っている。
会社勤めをしていた時に受けたいじめのおかげで、『いい人』と『いい人のフリをしている人間』とを見分ける目は養われている。
だから断言できる。この子は悪い子ではない。
俺の能力を悪用しようとしている訳ではない。この子の脳味噌なら、大人を騙すことだって簡単なはず。俺を陥れようとすればいつでもできるだろう。それに本気で騙すなら、顔など見せずにネットで交渉すればいい。でもこの子はそうしなかった。直接会いに来て自分の素性を晒した。
そして俺を服従させる『脅迫』ではなく、対等な『取引』を持ちかけてきた。俺はハッキング技術を提供する代わりに、この子は俺の老後の安定した生活を約束すると。
俺はその取引に応じるか応じないか、ただそれだけだ。もしこの話を断っても、この子は俺を警察に突き出すような真似はしないだろう。
なら俺の答えはもう決まっている。
自分の子供にすら全く感心を示さない父親と、客が来たのに客が「お構いなく」と言ったら真に受けてお茶すら出さない母親。姉はこんな二人が嫌で、結婚して家を出てからというもの全くこの家に寄り付かない。子供の顔さえ見せに来ない。電話どころか年賀状すら寄越さない。一方、俺はというと『この家の長男』という呪縛に捕われ、姉のように親を蔑ろにできずにいる。
俺はこのまま両親の最期を見届けた後、誰にも看取られずこの家で独り死んでいくものだと思っていた。こんな状況から抜け出せるなら抜け出したい。そのきっかけを与えられるなら、この話、乗らない手はない。
もし親父がこの場にたら「こんな小娘に頼らなければ社会復帰もできないのか」と哄笑しそうだが、それでもいい。あんな人でなし、笑わせておけばいい。
俺はこの子が『どこでもドア』を作るのを、全力でサポートする。なかなか面白そうだ。退屈することはないだろう。
しばらく目を伏せて考え込んでいた加賀谷は、顔を上げるとこう切り出した。
「ああ。問題ない。でも、本当にそれでいいのか?犯罪者と組めば最悪、アンタは囲碁棋士を辞めなければいけない、どこでもドアも作れなくなるかもしれないんだぞ」
加賀谷も京子の目を見て真剣に聞いた。
「その覚悟がなければ、ここには来ていません」
……その通りだ。わざわざ東京から秋田まで来たんだ。往復で6時間はかかる。交渉決裂すれば半日無駄にする。交通費だって馬鹿にならない。しかも弁護士の分もコイツが払ったんだろう。もう囲碁棋士として働いているとはいえ、子供には相当な金額の出費だ。
「悪りぃ。愚問だった。忘れてくれ。じゃあ、よろしくな。ボス」
そう言って俺は右手を差し出した。
「ボス⁉︎私のことですか⁉︎」
畠山京子の頬は朱を差したように赤くなった。表情も今までの作り笑いとは違う。
「ああ。嫌か?」
「いいえ!カッコいいです!気に入りました!という事は、私に協力してくださるという事でいいですね⁉︎」
「ああ」
「ありがとうございます!……でも加賀谷さん。あっさり結論出しちゃいましたね。まだ話始めて20分と経っていないですよ?こんな小娘相手に、いいんですか?」
さっきまで自分で自分を「美少女」と言ってたくせに、ここにきて「小娘」か。やっぱり面白いな、この子。
「俺はトレーダーだからな。即断即決なんだよ。退屈してたし、『どこでもドア』を作るのに手を貸してやるよ」
「ええ!退屈させませんよ!絶叫マシーンに乗ってるみたいに楽しいですよ、きっと!では、私のことは「ボス」で!」
ボスは両手を出して俺と握手を交わした。
ちょっとびっくりしたのは、バスケをやっているせいか、かなりの握力で握り締められたことだ。翌々日まで右手が痛かったのは、一生黙っておこう。
「で、だ。どこから俺を連れてきたって話になるんじゃないか?親戚でもない、近所でもない40過ぎのおっさんと女子中学生が、どこで知り合った?って話になるぞ。まさか仕事系マッチングアプリでとか言わないだろうな」
「それも考えました。でも後々矛盾が出てきて嘘がバレそうなので却下しました。なので『大曲の花火大会に行った時、迷子になって助けて頂いた恩人』だと言っておきます。実際、私は6歳の時、大曲の花火大会で迷子になってますので。『新幹線に乗ってて偶然再開した』と言っておけば、田舎という場所がどんな所か知りもしない都会育ちの社員を納得させる材料としては充分です」
「いや、6歳じゃ覚えてないだろ?」
「私の記憶力の良さなら誰も疑問に思いません」
自意識過剰……!でもまぁ初対面の俺でも、コイツの脳味噌の程度がどのくらいのものか、わかるくらいだしな。他にいい案は浮かばないし……。
「オッケー。わかった。それでいこう」
小娘はまたニッコリと笑った。
「それから、私は東京住みなので物理的に距離が離れるので、何かしらの問題が起こって早期解決が必要となった場合、電話かネット、つまり足がつく方法でしか連絡が取れないという点がネックになる。どこで誰が見てるか、わからないですからね。
郵便が一番なんですけどね。加賀谷さんからしたら、株主優待なんかの手紙だと思われるだろうし、私もファンからの手紙だと思われるし。でも時間がかかるのがね……」
そんなところにまで気を回しているのかよ!だからメールではなく封書を送ってきたのか!
「それならそこにいる弁護士に頼めばいいんじゃないか?」
今まで一言も発さず、置物のようになっていた弁護士、新井雅美に視線を移す。
(この人、よくこんな話、黙って聞いてるよな。それよりこの弁護士、信用できるのか?)
「新井先生は私の小間使いではありません。それに二人っきりになって何か間違いが起こったら、どうするんですか!」
なんか怒ってるけど、間違いって……。
「俺がこの弁護士を襲うとでも言いたいのか⁉︎」
「雇い主なので、責任は持たないと」
「いや、そこまで雇い主の責任はないだろ」
弁護士も呆れた顔をしている。しかし弁護士は自分の話題になったのに、それでも口を出さない。そういう契約か?
「そうなんですか?わかりました。学習しました」
社会科学習か?
「新井先生は今日は付き添いで来て下さっただけです」
……ん?なんか含みのある言い方だな。
「まさかお前、この弁護士とは今日初対面とか言わないだろうな?」
「はい、初対面です」
肯定したよ!嘘だろ、おい!
「いやいやいや!初対面の人間になんでこんな極秘情報漏らしてんの⁉︎」
何考えてんだ、この小娘!てっきり俺は馴染みの弁護士を連れてきたのかと……。
「弁護士さんだから大丈夫です」
この小娘の胆力……!確かに弁護士には守秘義務があるけど!犯罪者の弁護もするけど!
思わず頭を抱えて俯く。が、小娘は俺に構わず話を進めた。よほど帰りの新幹線の時間が心配らしい。
もうこうなったら流れに身を任せてしまえ!
「で、連絡方法なんですけど、こんな物を用意しました」
と言ってまたバックパックからキャンパスノートをごっそり取り出した。何冊入る鞄なんだ?
「iTwitterを使います。『岡本門下』のアカウントをフォローして下さい。囲碁愛好家のために時々詰碁の問題を投稿してるんですけど、緊急時に詰碁の問題を暗号化して投稿します。このノートはその暗号解読のためのノートです」
渡されたノートは13冊あった。1冊目は能書き。2冊目以降は暗号解読のための法則を表にしたものだ。
「……詰碁の問題って、そんなにパパッと作れるものなのか?緊急なら、尚更急いで問題を作らなければならない。しかも作り置きなんてできないだろ?どんな文字を送るかによって問題を変えないといけないんだから」
すると小娘は雨に濡れた子犬を見るような、憐れみの目で俺を見た。
「私、こう見えてもプロですよ?」
そうだった……。プロ野球選手に「野球できますか?」なんて聞くようなもんか。まずいこと言ったな。
加賀谷は思わず左手で口を押さえた。
「悪い」
「いいえ。お気になさらず」
加賀谷は渡された1冊目の暗号解読の能書きのノートをパラパラとめくった。
「なるほど。モールス信号と点字を駆使するのか」
石が繋がっていれば『ツー』、ひとつだけポツンとあれば『トン』。『黒のみ暗号』『白のみ暗号』『白黒両方とも暗号』として使用する、と分ければ何万通りにもなるってわけか。点字の方は黒白どちらも使えるので、かなり応用が効きそうだ。四隅のどこに問題を出題するかでも応用が効く。万能だな。おまけに投稿した日時でも分けるのか。
「12(ヶ月)× 31(日)× 7(曜日)× 24(時間)× 60(分)……?つまり何通りになるんだ?」
「天文学的数字です」
面倒臭くなったな。
「これなら重複する可能性は限りなくゼロに出来ますので、第三者に解読されるリスクは少なくなります」
「しかし、よくこれだけ書いたもんだな」
加賀谷は次々と暗号解読の法則が書かれたノートをパラパラとめくる。しかも12冊、全部手書きだ。テンプレートを使って書いたらしく、綺麗な丸になっている。見やすい。
「ええ。授業中、暇だったんで」
(コイツ……。学校通って、囲碁の仕事もして、部活でバスケやって。勉強する時間なんて無いだろうに、いつ勉強してるんだ?しかも授業中とか対局中とか、こんな事やってる場合じゃな……)
ここまで考えて思考が止まった。
加賀谷の口から、最近知ったある単語が漏れる。
「ギフテッド……」
幼少期から学問だけでなく様々な分野で才能を発揮する、高い知能を持って生まれた人を指す言葉。ごく少数であるがために周囲に理解されにくく、社会から孤立する傾向にある。
そうか。この子もそうなのか。
「アンタも大変だな。暇つぶしで授業中にこんなことやってるのか」
こう言っただけで俺が本当は何を言いたいのか、理解したようだ。俺が聞きたかった答えが返ってきた。
「ウチの学校、理数系の授業だけは特別措置を取ってくれているんです。私が「どこでもドアを作りたい」と学校側に伝えたら、ウチの大学の物理学の授業をリモートで受けられるようにしてくれました」
「……!そうか。良かったな」
時代は変わるんだな。俺もこの時代に生まれたかった。そうすれば誰も恨まずに、もう少しまともに生きられたんじゃないか……。こんな狭い部屋で一日中籠って、誰にも会わないように生活しなくて済んだかもしれない……。
コイツが羨ましいなどと言っても今更仕方ないけど……。
「ええ。加賀谷さんのような方たちのおかげです」
思わぬ京子の一言で、加賀谷は目頭が熱くなり涙が溢れそうになる。咄嗟に話題を変えた。が、大した話題変えにならなかった。と言うより墓穴を掘った。
「お前、俺のこと、どこまで調べたんだ?」
「んー、そうですね……。最近の【推し】は、新しくできた『いちごソーダ』の姉妹グループ『ばななソーダ』の木之下サラさん、ってぐらいですかね……」
「なに調べてんの⁉︎そんな事まで調べたのか⁉︎」
アイドルなんて、興味なさそうなのに。
「私の通う学校に『いちごソーダ』の棚橋りりか先輩が通ってるので、つい気になって」
「え⁉︎棚橋りりかが先輩⁉︎学校生活、どんな感じなんだ?……って、そうじゃない!」
この小娘、人たらしだ!危ねぇ!なんて小娘だ!俺、すっかりコイツの掌の上で踊らされてる‼︎
四十男の部屋に大声出して乗り込んでくる度胸に、大人と対等に口をきく頭の回転の良さに、アイドルの話で和ませる人心掌握術に!
……でも嫌ではない。むしろ心地いい。
俺の話が通じる。俺の問いに、俺の聞きたかった、ちゃんとした答えが返ってくる。
会話が成り立つ。
たったこれだけの、おそらく他人からしたら普通の事が出来るのが、こんなに心地良いなんて……。
小娘と目が合う。小娘がまたニッコリ笑う。つい30分前のヘラヘラ笑いとは違う。きっとこれが本当のコイツの笑顔なんだろう。肝が据わって落ち着いているように見えたが、それなりに緊張していたんだろう。
つられて自分もニッコリ笑いそうになり、コホンと咳払いする。そこまで馴れ合う気は無い。
「話を暗号に戻すぞ。どうやって『ただの詰碁の問題』と『暗号の詰碁問題』とを見分ければいいんだ?」
「時節の挨拶を本文に呟きます」
「『山の雪化粧が厚化粧に』みたいなやつか」
「はい。『風邪ひいた』とか『海行きたい』とかも」
コイツ、風邪ひくのか?
「わかった。なら、さっき「里帰りするついでに大曲に寄る」とか言ってたよな。こんなもの用意したなら、連絡のやり取りはこの『暗号詰碁』で容易に出来るだろ。アンタは極力、ここには来るな。やっぱり近所には不審に思われる。秋田の人間ならわかるだろ」
すると小娘は、コーンに乗せたアイスを地面に落としたような、悲しそうな表情をした。
(あれ?俺に会えなくて寂しいとか?)
「加賀谷さん、棋力は?」
「気力?」
「キチンと詰碁の問題を作れるくらいの棋力がないと、怪しまれてしまいますよ?」
‼︎そうか!俺の心配じゃなくて、暗号を解読される心配か!恥ずっ!そうだ。俺、囲碁のルールすら知らないんだ!
「……っ、まず囲碁のルールから覚える……」
すると突然、小娘は拝むように手を組み、前のめりになって、俺に顔を近づけてきた。
「ってことは加賀谷さんも、私がきっかけで囲碁を始めるってことになりますか?」
顔、近くないか?40過ぎの髪ボサボサ髭面のおっさん相手に、距離感おかしいぞ、コイツ。
「ん……?まぁ、そうなるな……」
「やったーっ!ようやく二人目!」
小娘は今まで正座していたとは思えないほど勢いよく立ち上がり、また大声を出して家を揺らした。
さっきはドア越しだったけど、直に聞くと鼓膜が破れそうだ。思わず両手で耳を塞いだ。
「……あ、失礼しました。ほら、囲碁棋士の仕事に普及活動もあるじゃないですか」
いや、知らんし。
「私がきっかけで囲碁を始めたって人がいると嬉しくて、つい」
ガッツポーズまでして嬉しそうだ。こういう様子を見ると、本当に中学1年生なんだなと感じる。情報が入るから仕方なしに囲碁棋士やってるのかと思ったが、コイツ、なんだかんだでちゃんとプロやってるんだな。たかだか囲碁を始めた人間が一人増えただけで、こんなに喜ぶなんて。
「では、囲碁入門者の加賀谷さんは私が許可するまで、暗号詰碁を用いた連絡方法は使用しないで下さい。私からの一方通行でお願いします」
まぁ『急ぎの場合の連絡方法』だしな。俺から急ぎの連絡なんて、無いだろうし。
「それから最初にお伝えした通り、どんな会社にしようか、まだ何も決めていません。なるべく早く何か見つけたいとは思っていますが、これもきっかけがないと……。将来、自分の役に立つ事で、と思っているんですけど……」
「学校通ったり、仕事したりで大変だろ。まぁ俺は金の心配はしてないから、気楽にやれ」
「はい。ありがとうございます。何か決まりましたら、また日本棋院の封筒で連絡します。では今日、私からお伝えしたい事は以上です。加賀谷さんから何か質問はありますか?」
ほう。一方的に自分がベラベラ喋って終わりにするかと思いきや。
「そうだな……。交渉相手はもう決まってるのか?」
「いいえ。二三候補は絞っていますけど。こういうのはタイミングも肝心だと思うので」
「つまんねぇ相手に俺を売るなよ」
「そこは安心して下さい。『アラクネ』の所有権は私のままにしておきますから。それに先方も『アラクネ』の正体を知らないままの方が都合がいいでしょう?」
それもそうか。もし大企業と『アラクネ』が繋がってると知れたら、間違いなくみんな仲良く共倒れだ。
「それからもうひとつ。もう男の部屋に乗り込むな。強姦されたらどうするんだ」
こういうことは大人としてハッキリ言っておいたほうがいいだろう。社会科学習だ。男が全員、俺みたいな善人とは限らないからな。
「ああ。先程の新井先生を襲うと言ったのが気に障りましたか?」
人たらしのくせに、喧嘩を売るような言い方するな。本人は無自覚なのか?
加賀谷はちょっと揶揄うつもりで、京子に向かって手指をいやらしく動かし椅子から立ち上がる素振りをした。
すると京子だけでなく、新井も今まで正座していたとは思えないほど素早く立ち上がり、加賀谷と間合いを取り身構えた。
「へっ……?」
2人の隙のない身のこなしに、加賀谷は間の抜けた声を漏らす。浮かせた腰をドスンと降ろした。
「男性の部屋に乗り込もうってんですよ。それなりの心得があるに決まってるじゃないですか」
「心得って……」
「私は4歳から柔道と剣道をやってます。新井先生は空手をやってらっしゃるそうです」
……そうだ。この小娘が何も武器を持たずに乗り込んでくるはずがない……。
●○●○●○
その後、俺は親父の車を借りて2人を大曲駅まで送った。
軽自動車の運転席の真後ろの席に座った小娘は「車の免許、いつ取ったんですか?」「東京で取ったんですか?」「秋田で運転するならやっぱり秋田で取った方がいいですか?雪道の運転技術も覚えないと」と、俺を質問攻めにした。
「高校生の時に取ったんだ。だから秋田でだ。東京で暮らすなら、車の免許なんていらないぞ。電車とバスで充分だろ。それに免許の更新には金も手間もかかるしな」
「いくら私でも、40歳を過ぎれば棋力が落ちると思うんです。そうなったら秋田に拠点を移して、囲碁の仕事の時だけ東京に通おうかと」
「なんだ。ずっと東京に住まないのか?それに研究は?」
車を住宅街から駅に近い商店街へと走らせる。
「ええ。東京に憧れて出てきた訳ではないので。それに40歳くらいになれば人を使うくらいの立場になっているだろうし、それならリモートで充分でないかなと」
少し意外に思った。
てっきりバリバリのシティガール目指して東京に行ったのかと思ったら。コイツのこの容姿なら、芸能事務所からスカウトされそうなもんだが。
研究にしてもそうだ。常に最前線で自分の研究を進めたいタイプだと思ったのに。
「私、いつか秋田に帰りたいんです。そのために、その日までに秋田を活気ある町にしておきたいんです!まずは農業ですね!人間、ご飯食べないと死んじゃうんですから!」
この農業国秋田を、農業で活気ある町にって……。夢が壮大過ぎて中二病を通り越している。
でもコイツが言うと、本当に何かやってくれるんじゃないかと期待してしまう。
「そうか。それで『どこでもドアを作りたい』のか」
ルームミラーにニッコリと微笑む畠山京子の顔が映る。
俺はつられて口元を緩めた。後部座席からはルームミラーに映る俺の目しか見えないはず。でもまぁ見られていてもいいかと思えた。
駅に着いたが、俺は駅の中まで見送らずに、タクシーの乗降ロータリーで2人を降ろした。
「わざわざ送って下さって、ありがとうございました」
ボスと新井は車から降り丁寧に頭を下げて礼を言った。
「ああ。じゃあな。ヘマするなよ、ボス」
この次会うのはいつになるかわからない。もしかしたら郵便での書類のやり取りと暗号詰碁だけで、もう会わないかもしれない。
それにボスの立ち上げた会社の社員になったとしても、リモートワークだから結局今までと何も変わらない。近所から見たら引きこもりのままだ。
そんな俺の心の内を知ってか知らずか、またボスは舌を出して子供っぽい表情でおどけた。
「今年、42歳で本厄なんですよね?そのままそっくりお返ししまーす!では、また今度!」
そう言って勢いよく車のドアを閉めた。
(忘れてた……。厄年だった……。そうか。アイツが厄か……。まぁなんとも騒がしい厄に憑かれたもんだ)
シフトレバーを[P]から[D]に切り替え再び車を走らせる。しかしタイミング悪くロータリー出口の信号が赤に変わり、また車を止める。
ふとバックミラーを見ると、駅構内に入る前にこちらに向かってぴょんぴょん飛び跳ねながら大きく手を振る、白いダッフルコートに赤いマフラーを巻いた美少女の姿が映った。
「何がそんなに嬉しいんだか……」
●○●○●○
俺は家に帰ると、早速『畠山京子』について調べた。
日本棋院のホームページだけでなく、地元秋田の地方紙『あきた轟新聞』もヒットした。
「そうか。どこか見覚えあると思ったら」
秋田のテレビ番組にも出演したこともある。確か3~4年前くらいか。何かの賞を受賞したというニュースだ。
それからiTwitterの『岡本門下』のアカウントをフォローした。
もうすでにかなりの数の詰碁の問題が投稿してあった。週一~二くらいで投稿しているようだ。これなら暗号詰碁を投稿しても、他のフォロワーに不審に思われないだろう。
「もしかしたら、このために詰碁の問題を投稿してたのかな?」
何手も先を読まなければならない棋士らしい作戦だ。
それから夕食を済ませて今に至るわけだが、『畠山京子 50年計画』ノートを半分まで読んで、あることに気づいた。
「なんだ?これ……?」
ノートの右半分を折り曲げようとしたが、何か硬い物に遮られ曲げたい所で曲げられない。ノートの一番最後のページをめくってみると、マスキングテープが縦に張り付けてあり、剥がしてみるとmicroSDメモリーカードが出てきた。
中を見てみようか、一瞬躊躇った。
アイツは都合の良いことばかり言っていたが、本当は俺のマシンにダメージを与えるためにここに来たんじゃないのか?
しかしそんな疑惑はすぐに吹っ飛んだ。
それをやるなら、あの子の脳味噌ならもうすでにやっている!
俺は早速このmicroSDメモリーカードの中身を確認することにした。ネットに繋げていないノートパソコンに、カバーをつけたmicroSDメモリーカードを差し込む。
中にはファイルが2つ入っていた。そのうちのひとつのファイル名は、
『使用上の注意』
と書かれてあり、もうひとつのファイル名は、
『鍵』
とだけ書いてあった。
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どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
不人気プリンスの奮闘 〜唯一の皇位継承者は傍系宮家出身で、ハードモードの無理ゲー人生ですが、頑張って幸せを掴みます〜
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ただの女好き高校生のお話です。
〇登場人物 随時更新。
親松 駿(おやまつ しゅん) 3年
堀田 優希(ほった ゆうき) 3年
松浦 隼人(まつうら はやと) 3年
浦野 結華(うらの ゆいか) 3年
櫻井 穂乃果(さくらい ほのか) 3年
本田 佳那(ほんだ かな) 2年
熊谷 澪(くまがや れい) 3年 𝐧𝐞𝐰
委員会メンバー
委員長 松浦 隼人(まつうら はやと)3年
副委員長 池原 亮太(いけはら ゆうた)3年
書記 本田 佳那(ほんだ かな)2年
頑張ってます。頑張って更新するのでお待ちくださいっ!
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※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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