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定石編

洋峰学園文化祭 2〜3日目

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 文化祭二日目。客を入れて文化祭本格スタートだ。


《B1リーグ東京モンスターズの金浦選手・大庭選手・原田選手とハンデ戦フリースロー対決ぅー!》

 バスケ部では、普段男子バスケ部が部活で使用している第五体育館で、プロ選手を招いて『客vsプロ選手』のハンデ付きのフリースロー対決を行う。

 客は生徒の家族が多いが、学校近隣住人の家族連れも数多く来てくれた。

 年齢性別問わず挑戦できるよう、第一体育館に置いてある普段女子バスケ部が使用している移動可能のゴール二台と女子用の6号ボールを第五体育館まで持ってきて(第五体育館のゴールリングは高さを固定してあるため)、リングの高さを小学生向けにミニバス用に合わせ、ボールもミニバス用の5号ボールを近くの小学校から借りてきた。

 未就学児にも、おもちゃのボールとリングを用意した。よちよち歩きを始めたばかりの小さな子がおもちゃのボールを両手で持ち、ゴールまでトコトコ歩いて自分の頭の高さのリングにボールを入れると、女子部員から「可愛い~ぃ!」と歓声が飛んだ。参加賞の『はしっこせいかつ』のぬいぐるみを渡されると母親の所に駆け寄り、ぬいぐるみを渡した部員に向かって母親と一緒に手を振り、見ていた全員を萌え死にさせていた。


 B1リーグ『東京モンスターズ』のトップ選手三人を招く事ができたのは、京子のこの夏の仕事の成果と言っていいだろう。

 この夏、京子が指導碁に行きまくった企業の中に、『東京モンスターズ』もあった。そこで京子は学校の部活ではバスケ部だと伝えると、『プロの指導あるある』で話が盛り上がり、どのように指導すれば齟齬無くコミュニケーションを取れるかで悩む、という所でお互い意見が一致して、定期的に意見交換できないか、という話にまで発展したのだった。

 その伝手を使い、先輩達にも協力してもらって企画書を作成、交渉し、格安の出演料で洋峰学園文化祭に出演してもらえることになった。


 最後は東京モンスターズ三人vs洋峰学園プロ入り内定男子三人の3on3が行われ、大歓声の中幕を閉じた。



 ●○●○●○



 そして三日目、文化祭最終日。

 今日の京子は、学級委員長の本庄ほんじょうまい曰く、1年A組の最終兵器として投入される。

 クラスの出し物で客引きをする係だ。

 学園一の美少女、畠山京子に化粧する気満々で来たヘアメイク部部員は、京子の肌の白さと肌理きめの細かさを見て、髪をツインのシニヨンに結い上げ、ローズ系の口紅とグロスを塗って、「腕の見せ場がない……」と言って肩を落として帰っていった。

 チャイナドレスを着た京子は、『点心と飲茶のお店 你好 1年A組』と書かれたプラカード持ち、女流棋士試験前に中国へ武者修行に行った時に習得した中国語を時折交えながら、中等部はもちろん高等部の校舎内までを隈なく歩く。

 ただでさえ目を引く美少女なのに、超ミニのチャイナドレスを着て生脚さらけ出しているとなれば、女漁りを目的に来た男の目に留まらない訳がない。


 京子に声を掛けてきたのは顔中ピアスだらけで、予測変換と定型文だけでチャラ男を表現したような二十歳前後の男三人組だった。おまけにナンパの台詞までもが定型文だった。

「おっ。彼女、可愛いね~」

「知ってますぅ~。皆さん「かわいい」って言ってくださるのでぇ~」

 否定はしない。京子の役割は客引き。たとえナンパ男でも1年A組の教室へ連れて行き、注文をさせるまでが仕事だ。指導碁で培った営業スマイルで愛想良く相手に不快感を与えないよう、細心の注意を払う。

「やべぇ!このコ超おもしれぇ!」
「自己肯定高い系女子www」
「ねぇ、LINE教えてくんない?」

 さっそく「待て」の出来ない犬のように京子をナンパし始めた。だが京子にとって想定済みだ。むしろ「よくぞナンパして下さいました」と感謝したいくらいだ。

「いいですよ。私のクラスに来てくれたら」

 京子はニッコリ笑って持っていたプラカードを見せ、なんとかクラスへ誘導するきっかけを作る。

「今すぐ教えてくんない?」

 相手もナンパし慣れているのだろう。そう易々と誘いに乗ってはくれない。

 だがこの美少女は、このチャラ男よりもはるか年上のおじさんを相手にするプロの碁打ちだ。加齢臭漂うおじさんに比べればピアスのチャラ男など赤子にしか見えない。

「チャイナドレスってポケットついてないから、今スマホ持ってないんですよぉ~。教室に置いてあるから私の教室まで来て欲しいんですけどぉ~」

「マジで教えてくれんの?」

「ええ、もちろん!」
(教えろと言ったのはお前らだろ)

 チャラ男三人がヘラヘラ顔からニヤニヤ顔に変わる。

「マジで今持ってないの?じゃあしょうがないか」

「ではついてきて下さいねー」

 京子はクルリと向きを変え、最短ルートで自分の教室へ向かった。


「お客様三名様ご案内でーす!」

 京子はこう1年A組内のクラスメイトに知らせた。中はほぼ満席となっていた。男性客が圧倒的に多い。廊下で京子を見かけた『普通の』人達は、その場で京子に声を掛けず、プラカードを見てそのまま1年A組にやってきた、『美少女は観賞用』だとキチンと理解している真っ当な人達だ。

お客様でーす!」
お客様、お通ししまーす!」

 チャイナドレス姿の女子とチャイナ服の男子、接客係の二人はすかさず京子が連れてきたチャラ男三人を教室のど真ん中の特等席に案内した。

 この「ご案内のお客様」というのは1年A組での隠語だ。学級委員長の本庄舞と京子が考えた、「畠山京子ナンパ男対策」だ。

 これだけの美少女を野に放てば間違いなくナンパ男がやってくる。

 しかもナンパ男はそう簡単に京子を離さないだろう。ナンパ男に捕まっている間、京子は客引きの仕事が出来なくなる。

 そのロスをなんとか最短時間にしたい。

 そこで考えたのが、この方法だ。

 接客係の一人が教室の隅に立てられたパーテーションの裏に行き、手のひらサイズの白い紙を持って来て京子に渡した。

「はい!私の連絡先でーす!」

 京子がチャラ男三人に渡したのは名刺だった。

 周りにいる客は美少女の「私の連絡先」に鋭く反応し、チャラ男三人が座った席をガン見する。

「マジで教えてくれるんだ⁉︎」
「やったwww」

 まさか本当にこんなに簡単に教えてもらえるとは思っていなかったのだろう。チャラ男達は素直に喜ぶ。だが一番先に名刺を受け取ったチャラ男その2の顔色が興奮の赤から冷静の青に変わる。

「……名刺?えーと『日本棋院東京本院 囲碁棋士 初段 畠山はたけやま京子きょうこ』……?」

 チャラ男その2が名刺を読み上げた。人並みに教養はあるようだ。

「はい!私、囲碁棋士なんです!なのでその住所に来れば私に会えますよ!ただし、ちゃんと事前に指導碁の予約、入れて下さいね!」

 と、京子はちゃっかりナンパを仕事の話にすり替えた。ちなみに書かれている住所と電話番号はもちろん日本棋院のものだ。

「皆さんもどうぞ!囲碁棋士畠山京子です!よろしくお願いしまーす!」

 京子は他の客にも自分の名刺を配り始めた。

 京子が囲碁棋士だとわかった途端、チャラ男その3は明らかに「ジジイ臭い」という表情をしている。

「囲碁って囲碁将棋の囲碁?」

「はい、その囲碁で合ってますよ。岡本幸浩門下の畠山京子をどうぞ応援よろしくお願いします!」

 まるで選挙活動のように名刺を配り歩く京子をチャラ男達は呆然と眺めている。

 案の定、チャラ男達は京子をアイドルか女優の卵と勘違いしたようだ。そんな将来有望な美少女から直に連絡先を渡されて有頂天にならない男はいないだろう。

 その有頂天になった所に、囲碁棋士という堅苦しい肩書きを持っている少女という現実をぶつける。

 アイドルのように可愛いのに、囲碁棋士というジジ臭い仕事をしている。

 このギャップをチャラ男三人は受け入れられないらしい。しかも自分だけに渡された連絡先だと思った名刺を他の客にも配っている。優越感に浸っていたのに、現実に引き戻された感があるのだろう。どうリアクションすればいいのか、固まっている。


「メニューをお持ちしました。ご注文お決まりになりましたらお声掛けください」

「あ……ああ」

 チャラ男三人は接客係からメニューを渡されると素直に受け取った。


「ふっふっふ!作戦、上手くいったわね!」

 想定通りに事が運び、学級委員長の本庄舞が京子に向けて親指を立ててウインクする。京子もニヤリと笑う。

 夏に指導碁の仕事で、指導を行った男性達と、チャラ男達のリアクションはほぼ同じだった。

(うん。男はわかりやすくていい)

 京子と本庄はまた目が合いニヤリと笑う。


 本庄は教室の中を見渡す。客の入りも本庄が予想していた以上だ。売り上げもおそらく校内の一、二を争うだろう。

(持つべきものは美人のクラスメイトだわぁ)

 本庄は、次の獲物を仕留めようと廊下に出た京子に視線を戻すと、洋峰学園生徒の姉とその友人だろうか、女子大生グループに囲まれていた。

「可愛い~!写真、撮ってもいい?」

 この子、年上の女性にもモテるのか。

「いいですよ!これほどインスタ映えする顔も、そうそう無いですから!」

(……うん。さすが畠山さんね。思っていても、なかなか自分からは言い出しにくい台詞をサラッと言えるのは。そして誰もツッコまないし)

 京子は「ハッシュタグ囲碁って付けるとフォロワーさん増えるかもですよ。私、囲碁棋士なので」とアドバイスし、ちゃっかり名刺を渡してからピースハートのポーズをする。

 うん。アイドルのようだ。じゃない、間違えた。セミプロのアイドルだ。

 女子大生グループの一人がスマホのシャッターを押そうとした瞬間だった。

 京子の姿が本庄の視界から突然消えた。

「へっ⁉︎畠山さん、どこ⁉︎神隠し⁉︎」

 本庄は慌てて廊下に出て、京子を探した。写真を撮ろうとスマホを構えていた女性グループも唖然としている。

「大変!畠山さんが誰かに拉致られた!」

 偶然犯行の瞬間を目撃した同じクラスの接客係の男子が、京子が連れ去られた方向を指差して本庄に知らせた。

「誰⁉︎畠山さんを拉致ったのは!」

「ん~……。ウチのクラスにいたような……。でも名前が……」

「どこに連れて行かれたの⁉︎」

「わからない。高校棟の方向だったけど、もしかしたら第四体育館かも」

「まさか高校生が畠山さんを拉致って、無理矢理客引きに⁉︎そうはさせない!畠山さんはウチのクラスの生徒なんだから!こうなったら、みんなで手分けして探そう!まだ半日残ってるんだから!ウチの稼ぎ頭を拉致った奴、タダでは済まさないわよ!」

 手隙の1年A組全員で畠山京子の捜索活動が行われた。



 ●○●○●○



 京子が石坂嘉正よしまさに手首を掴まれ連れてこられた場所は、囲碁将棋部の部室だった。

 随分とガラの悪い客がいるらしい。廊下まで濁声が聞こえてくる。
 
「なんだ。今年も大した奴、いねぇなぁ。大会もどうせ一回戦負けだったんだろ?」

 三十過ぎで髪がボサボサの冴えない男が、子供相手にマウントを取っている。話振りから毎年ここに来ては囲碁部員をいたぶっているようだ。

 まぁ子供を相手にしなければこの男、マウントを取れそうな人間はいないだろう。


「総文祭は全国ベスト8ですよ」

 京子は持っていた『点心と飲茶のお店 你好 1年A組』と書かれたプラカードを嘉正に渡し、部室に入って行った。

 今のところ客は、このガラの悪い三十男と閑古鳥だけだ。将棋部は隣の『写真部』の部室を借りていて、そちらは賑わっているので、こちらの部屋は少々騒ぎになっても差し支えないだろう。

「畠山さん!来てくれてありがとう!石坂くん、助かったよ」

 京子は大将の席に座っていた新部長・高等部二年の久保田とおるを退かして席に座った。

 昨日は居た院生の田村優里亜と小島太一が今日はいない。今日は院生研修を優先させたようだ。

「そんなにつまらないなら私がお相手しますよ。深沢二段」

「えっ⁉︎この人、もしかしてプロ?」

 部員の何人かが驚きの声をあげた。

「もしかしなくてもプロですよ。九月、私の休場明け復帰戦の相手がこの深沢紳助二段だったんですから」

 京子はいつまで経っても自己紹介しない深沢に代わって、部員にこの無法者の名を知らせた。

「畠山京子……!なんでお前がここにいる?」

「この学校の生徒だからです。深沢二段こそ何故ここに?学校関係者の伝手か、学校近隣の住人の方しか入れない筈ですけど」

 京子が兄弟子達にQRコード付きのチラシを渡したが、それだ。学校近隣住人には生徒がポスティングする。

「その近隣住人だよ」

「そうでしたか。それで毎年、仕事で勝てない鬱憤を素人をいびって憂さ晴らしに来てるんですね」

 深沢二段が舌打ちする。

「一応、聞きますけど、まさか素人相手にも石を動かしてるんじゃないでしょうね?」

「えっ⁉︎石を動かす⁉︎」
「まさか⁉︎そんなことプロが⁉︎」

 囲碁部部員から「信じられない」と野次る言葉が飛び交った。

「ええ。びっくりしましたよ。あまりにも巧妙で」



 ◇◇◇◇◇



 三ヶ月振りの対局は、京子白番で始まった。定石通りに進み、事が起こったのは昼食休憩直後だった。

 京子が対局場に戻り盤面を見ると、上辺の三線に打たれたはずの黒石が一子、一路上にズレて四線にあった。

 この黒石が三線にあるのと四線にあるのとでは大きく違う。たった一路違うだけで上辺は、白有利から黒優勢に変わっている。

 しかしここで京子は勝手に石を戻してはいけない。不正とジャッジされるからだ。

 と言っても、囲碁には審判はいない。対局する両者の合意で成立する。

 この場合、京子は対局相手の深沢二段が来るまで待ち、石がズレていることを告げ、相手の了承を得てから石を元の位置に戻す、というのが正しい手順だ。

 対局相手の深沢二段が戻ったので、京子はその旨を伝えた。が。

「いや、初めからこの位置だっただろ。ズレてないよ」

 と深沢は主張した。

「え?おかしくないですか?この黒、定石通りに打ってたんだから、ここじゃないと、この手順でここだと不自然じゃないですか」

 京子も譲らない。

「いや、おかしくないだろ。アリだよ、この手順。君はプロになったばかりだから、この手順で打たれる碁を見たことないだろ?自分の無知を棚上げして他人を犯罪者扱いするのは、やめてくれないか」

「はあ?こんなおかしな手順、あるわけないじゃないですか!」

「言いがかりをつけて、自分が負けてる碁をそんなズルして勝とうだなんて、みっともないな。いい加減、自分の勘違いだったと認めろよ。もしかしてお前がわざと石を動かしたんじゃないのか?」

 遠くの席から「また深沢さんだよ」と言う声が聞こえた。

 ああ、この人、不正の常習犯なんだ。

 ここでやっと京子は自分が嵌められたんだと気づいた。

 でも変だ。石を動かす不正は不可能だ。

 昼食休憩前に石は動かしていない。深沢は京子より先に席を立った。

 昼食休憩中は棋士は対局室から出なくてはいけない。その間、棋院職員が対局室に待機する。だから昼食休憩中ではない。職員に賄賂を渡していたのなら話は別だが、対局の度にそんな不正をしていたら、懐事情とのバランスが崩れるだろう。

 昼食休憩後でもない。京子が席に戻った時にはまだ深沢はいなかった。

 この男、どんな手を使ったんだろう?

 方法はわからないけど、間違いなく不正を働いて勝とうとしている。囲碁では低段者の予選レベルの対局では記録係はつかないので、抗議するだけの証拠材料が無い。そこまで見越してこの不正の方法を選んだのだろう。プロなのに、こんな姑息な手を使うなんて、棋士の風上にも置けない奴だ。

 ただ深沢は「自分は実力ではあなたに勝てません」と暗に言ったようなものだが。


 京子は大きく息を吸い、ゆっくり吐いて、気持ちを落ち着かせた。また暴力騒動を起こしたら、京子のほうが棋士資格剥奪だ。


「わかりました。ここの黒、この位置で間違いないですね?」

「さっきからそう言ってるだろ」

 深沢がニヤリと笑って黒ずんだ歯を見せた。京子が観念したと思ったのだろう。

「もう一度聞きます。ここで間違いないですね?」

 京子は動かされた黒石を指して念を押す。

「しつこいな」

「後になって「やっぱり違った」なんて言わないで下さいね。まぁ、それでも私が勝つでしょうけど」

「は?何言ってんだ?」

「それと、ちゃんと局後検討しましょう。もし私が勝ったら、私の師匠と兄弟子を交えて検討して頂きます」

「は!お前が勝ったらな!」

「言質、取りましたよ。証人はここにいる棋士全員です。対局時計を動かして下さい。対局を再開しましょう」

 そう言うと京子は碁笥から白石を取り出し、静かにこう言った。

「では、始めましょうか。深沢二段」



 ◇◇◇◇◇



「まぁ、それでも私が勝ったんですけどね」

 京子は鼻をフンと鳴らした。

「おい。人聞きの悪い言い方するな。俺が石を動かした証拠でもあるのか?」

 普段から悪事を働いてる人間の常套句だ。しかも言い慣れてる。

「ありませんね。あなたが『いつ』『どのタイミングで』『どうやって』石を動かしたのか、その謎が未だに解けませんし。でも、ひとつだけ言わせて下さい。どうして未だに私の師匠や兄弟子を交えた検討をして下さらないんですか?もう二ヶ月経ちますけど、そろそろ約束を果たして頂けませんか」

 検討は負けた方から始めると聞いた。つまりこの男は逃げている。

 深沢はまた舌打ちすると、京子を睨んだ。小娘相手ならこの程度の脅しで黙らせられると思っているのだろう。

 しかし相手は『喧嘩 お売り下さい 高く買い取ります』の看板を首から提げて歩いている喧嘩買い取り業者・畠山京子だ。しかも無査定でどんな喧嘩でも売られたら買うのでたちが悪い。この程度の脅しで怯むたまではない。京子は背筋をピンと伸ばし、深沢を見下すような目つきで睨み返す。


「囲碁部の部室はこちらですか?」

 一触即発のこの緊張した空気の中にぽわんとした声が響き、棋士二人のやり取りをハラハラしながら見ていた囲碁部員たちは腰砕けになった。

「江田さん!」

 部室の入り口に立っていたのは京子の兄弟子、江田照臣だった。キラキラしたグッズの入った紙袋を持っている。顔も紅潮している。どうやら『棚橋りりかソロライブ』を満喫したようだ。江田の後ろには江田と年の近い、江田と似たような格好をした男性四人がいた。江田からメンバーに選ばれた幸運な人達だ。

「やあ、京子。チャイナドレス可愛いね。似合ってるよ」

 江田に褒められ満更でもない京子は、顔を赤らめ身体をくねらせた。

 そんな様子の京子を初めて見る部員達は、目の前の光景は目の錯覚か、それとも心霊現象なのかと、目を瞬せている。

「あれ?深沢くん?久しぶり!深沢くんも文化祭に来てたの?ああ。そういえば実家がこの辺だって言ってたっけ?」

 院生としても棋士としても江田が先輩だが、この二人、同い年だ。

「江田……!お前まで……。クソッ!」

 深沢は江田を押し退けるようにして部室から出て行った。

「来年もお越し下さーい!今度こそ私がお相手するのでー!」

 逃げるように部屋を出て行く深沢に、京子はすかさずこう投げ掛け牽制した。しかも中指を立てて。


「はぁ~、怖かった~!」
「殴り合いの喧嘩になるかと思った~!」

 京子のデビュー戦の武勇伝を聞いていた体育会系苦手男子の部員達は涙ぐんでいる。殴り合いの喧嘩というものを見た事が無いらしい。


「京子。また何かやったのかな?」

 江田の声は静かだが、明らかに怒っている。どうやら江田は「殴り合いの喧嘩」に反応したらしい。

「ひぇっ⁉︎えっと……」

「いた!畠山さん!やっと見つけた!」

 捜索活動していた本庄がやっと京子を見つけた。が、京子にとって最悪のタイミングだ。

「京子。こちらの方、息を切らせているけど、何をやったのかな?」

 仏顔の江田の細い目がさらに細くなり、声もますますヒンヤリと冷たくなってゆく。

 これが三嶋なら京子は知らぬ存ぜぬを通しただろうが、江田相手には何も言い返せず、涙目になっている。

 そんな京子を見かねて、プラカードを持ち囲碁将棋部の部室の隅で震えながら事の成り行きを見ていた石坂嘉正が、精一杯の大声を張り上げた。

「あの、全て僕が悪いんです!僕が事情を説明せずに畠山さんを連れ出したから……」

 その場にいた全員が一斉に振り向いた。気の弱い嘉正はビクッと飛び上がり、持っていたプラカードに隠れた。

「あんたが畠山さんを拉致ったのね⁉︎ってかあんた誰?」

 学級委員長も嘉正の顔を覚えていないらしい。だが嘉正にとってはこれが普通だ。残念ながら。

「1年A組出席番号3番石坂嘉正です」

「え?ウチのクラス?」

 そう言ってるのに信じてもらえない。これも普通だ。残念ながら。

 他のクラスの人間が京子を拉致したと思い込んでいた本庄は、まさか自分のクラスメイトが犯人だとは思わず、未だに誰だったか思い出せないこの影の薄い男子の処遇をどうしようかと、その場に立ちすくんでいる。


「えーと、江田さん……。言い訳にしか聞こえないかもしれないですけど。手を握られたなら簡単に振り解けたんだけど、手首を掴まれたから、無理矢理振り解いたらまた男子を病院送りにさせるかもしれないと思って……」

「はぁっ!手!僕、畠山さんの手を握っ……はっ畠山さ……すみません!」

 嘉正は今頃になってやっと京子の手を取りここまで来た事に気づいたらしい。大人しい嘉正が我を忘れるほど切羽詰まった状況だったようだ。顔を真っ赤にして頭をペコペコ下げている。

 江田は嘉正のこの謝罪で大体何があったのか、悟ったようだ。しかし江田の細い目は「岡本先生に報告するからね」と語っていた。

「えっと、あの……。あ!江田さん!ウチのクラスにぜひ来てください!胡麻団子とか杏仁豆腐とか、中華まんもめっちゃ美味しいんで!サービスします!」

「ウチのクラス、小籠包もご用意しておりますので、ぜひ!」

 商売上手の本庄も京子に乗っかってきた。嘉正の処遇は後回しにするようだ。

「ちょっと待った!江田大三冠レッド、もし良ければ勝ち抜き戦やって行かれませんか?ぜひ!」

 囲碁部部長の久保田が、トップ棋士と無料で打てるこの機会を逃してなるものかと、本庄を押し退け江田に詰め寄った。

「うん。打つつもりで来たんだ。だけど甘い物も食べたいし。だから後から京子のクラスに行くよ。その代わり京子、彼等を連れてってくれるかな?」

 部室前の廊下で待っている江田の連れだ。

「はい、わかりました!では、後ほど。みなさん、ご案内します!こちらにどうぞ」

 京子は先立って、囲碁将棋部の部室を出た時だ。

「なんかお前、キャバ嬢みたいだな」

 江田の連れのさらに後ろに三嶋が女性を伴って立っていた。

「あら、三嶋さん。いらっしゃいませ。若様と木幡さんと一緒だと思ってました」

「野郎三人で来いってか?俺が嫌だから彼女を連れてきた」

 髪を染め、ネイルもしている派手な人だ。

「こんにちは。初めまして。噂の看護師の彼女さんですか?」

 京子は『六月にきっかけを作ってやった看護師だよな。でも看護師にしてはやけに派手な人だな』と思いながら他意無くこう聞いた。が、三嶋は彼女より一歩下がり、首を横にブンブン振っている。

(あっちゃー、やっちまった!)

 ゆっくり三嶋を見上げる彼女の目つきが怖い。

「あー、すみません。私の勘違いだったみたいでー」

 と、なんとか京子は誤魔化そうとしたのだが、彼女は三嶋の腕を取り、何処かへ消えていった。

「畠山さん。今のは忘れよう」

 一部始終を見ていた本庄が京子の肩をポンと叩き、こう言った。

「うん。そうする」

 所詮、恋愛寿命の短い三嶋のことだ。これがダメでもまたすぐ次の恋が見つかるだろう。


 その後、京子は江田の連れを案内して1年A組に戻ると岡本夫妻が杉山夫妻と共に教室に訪れており、そのすぐ後に武士沢も妻を連れ立って姿を見せ、江田も加わり、気づけば京子の身内ばかりが集まっていた。

 岡本がクラスメイトに挨拶するのはわかるが、武士沢までもが挨拶し出して、ここでも心配性をフル稼働させていた。


 かくして京子の初めての洋峰学園文化祭は(三嶋さえ来なければ)楽しい文化祭となった。
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