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定石編

立花富岳と畠山京子(12歳9ヶ月)3

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 ここは一ノ谷鵯越。

 畠山義経が高笑いする。

「聞いたか?鹿なら降りられるこの崖、馬では無理だと言う。鹿も四つ足、馬も四つ足。同じ四つ足。鹿に出来ること、馬に出来ぬはずは無し!行くぞ!」

 畠山義経は馬を駆け崖を落ちるように降りてゆく。

 崖下には平富岳がいる。

 崖上からの奇襲は無いと高を括っていた平家は、頭上から聞こえる奇声で慌てふためく。


 しかし平富岳は逃げなかった。

 真正面から畠山義経の刃を受けた。

 刃と刃がぶつかる音が響き渡る。

 ギリギリで受けたが、さすが騎馬での刃の威力に平富岳は吹き飛ばされる。

 平富岳は立ち上がろうにも刃の衝撃と鎧の重さで、なかなか立ち上がれない。

 この間、いくらでも首を跳ねる機会はあったのに、畠山義経はのろのろと立ち上がる平富岳を傍観していた。


 畠山義経は、平富岳は受けずに逃げ出すと思っていた。奇襲に失敗した挙句、一撃で倒せなかったことが悔しくてならない。

 ならば正々堂々戦ったほうがいい。


 畠山義経は平富岳と間合いをとる。


「どうした?早く馬に乗れ!」

 畠山義経は平富岳に馬に乗るよう促す。


 どうやら畠山義経は一対一の騎馬戦に持ち込む気だ。

 殺すならさっさと殺せばいいものを。なぶり殺しにする気か?変態め!

けしかけるとは生意気な!その鼻っ柱、へし折ってやる!」

 平富岳は愛馬に跨るとしっかりと手綱を握りしめる。そして刀を抜き構えると愛馬の腹を思い切り蹴った。

 それを見てニヤリと笑った畠山義経も愛馬の腹を蹴り、刀を振り上げる。



 ●○●○●○



(やばい!この下辺の黒石、生きられるか?)

 富岳の頭の中では石音が刀のぶつかる音に変換されて聞こえる。

 耳鳴りがする。誰にも聴こえていないガリガリという音が富岳の耳にだけはっきりと聴こえる。


 畠山がどこかで間違えてくれないかなどと考えている自分がいる。

 チラリと目の前の畠山京子を見る。

 畠山は真っ直ぐ背筋を伸ばし、無表情で碁盤を見下ろしていた。

 対局前、和田達とヘラヘラと談笑していた畠山京子はいない。

 先程まではノートに集中していた畠山は、今は明らかに碁盤に集中している。

(つまり畠山にとってはこれからが勝負所というわけか)

 眉ひとつ動かさない無表情の畠山は、何を考えどこを狙っているのか見当もつかない。

 目線がキョロキョロと動き、一ヶ所に留まらない。まるで駒の動きを読む将棋の対局をしているようだ。

 それに独り言すら言わない。勝負所になると殆どの者は頭を掻いたり、体を揺すってみたりと落ち着きがなくなるのに。


 ここまで畠山は持ち時間の殆どはノートを広げていて、読みにはさほど時間を割いていなかったように感じる。

 ノートから碁盤に目線を移してから一手打つのに一分前後ぐらいか。とにかくサクサクと打ってきた。

 そういえばコイツ、「私は頭がいいんじゃなくて、記憶力がいい」とか言ってたな。

 つまり自分で読んだ手ではなくて、以前に誰かが打った手を脳内検索して打っていた?

 そして脳内検索にヒットしなかったから、そこから先は自力で手を読む。

 序盤は定石がある。数十手は記憶で打てるだろう。

 しかし畠山は百手を超えてもほとんど時間を使わず、記憶に頼るような碁を打ってきた。

 確かに『白黒反転』、碁盤の『九十度回転』『百八十度回転』『裏面』させれば似たような局面は出てくるだろう。

 でも棋譜並べの時から多角的にこれをやっていなければ、畠山と同じスピードで脳内検索は無理だろう。

 ワリウチのカドにコスんだ棋譜なんてあったか?

 富岳も脳内検索してみるが、ヒットしそうに無い。

 手順前後させたのか?たとえそれでも一路違えば全く違う碁になるのだから、脳内検索など不可能のように感じる。

 しかし事実、畠山はそうしている。

 一局の棋譜並べにどれだけ時間をかければこんな事ができるんだ?

 「読み」ではなく「記憶」で打つ碁。

 そんなこと本当に可能なのか?

 囲碁は序盤で勝敗が決まるという。しかしコイツの碁は明らかに中盤から終盤のヨセに入ってからの碁。

 まるでAIと打っているようだ。


 これは全く想定していなかった。

 師匠である岡本幸浩の棋風に似せているだろうと思っていた。

 岡本も富岳と同じように、序盤から戦いを仕掛けていくタイプの碁だ。

 というより、富岳がテレビに映る岡本を真似て序盤から仕掛ける碁に変えたのだ。

 早々に相手を投了させる岡本の碁は、子供の富岳には戦隊シリーズのヒーローより格好良く映った。

 僕もあんな碁を打てるようになりたい。

 そう思って弟子入りを志願したのに!

 僕ではなく、コイツが弟子になった。

 しかも女が!


 嫌だ!絶対に負けたくない!
 コイツにだけは!

 絶対に投了だけはしない。

 何としてでも苦手なヨセを凌いでみせる!


 富岳が京子にもう一度睨みを効かせる。

 京子は相変わらず無表情で碁盤を見下ろす。

 富岳の睨みに気付いていないのか、それとも気づいていて無視しているのか、反応すら無い。

 対局前と今とでは、全く別人のようだ。

 感情すら無いアンドロイドのように思える。

 しかしその無反応がさらに富岳の感情を逆撫でする。

「コイツ本当に人間かよ?」

 富岳はまた思わず口に出してしまったが、京子の耳には入ってこなかった。



 ●○●○●○



「終局でいいですか?」

 京子が富岳に聞いた。

「はい」

 汗だくの富岳が答える。

 かなり荒らされ石も取られたが、おそらく半目残っているだろう。

 持ち時間を使い切ったため、秒読みでなんとか苦手なヨセを乗り切ったのは、富岳にとっては快挙だ。

(本当よくやった、俺。でもこれからはヨセを勉強しないと、トップ棋士とは戦えない。七冠王ディアレストにはなれない)

 今の自分に足りないモノがはっきりした。そう考えるとこの対局の収穫は大きい。


 京子が黒石を持ち、富岳は白石を持ち、整地していく。

 黒石が十三子、黒の陣地を埋めていく。

「黒十一目」

「白四目。コミ入れて十目半」

 ワッと歓声が上がる。対局を終えた棋士達がこの二人を囲って結果を見守っていた。


(よし‼︎勝った‼︎俺のほうが強いと証明できた‼︎)

 叫びたい!俺が勝ったと大声で!

 富岳はガッツポーズしそうになる右手を左手で必死に押さえた。

 大きく深呼吸して心を落ち着かせる。


「ここのカド、放置しすぎましたね」

 下辺の黒石を指差し、京子が検討に入る。

「ああそうだな」

 まだ興奮状態にある富岳は検討に身が入らない。

 疲れた。

 こんなに疲れる対局はいつ以来だろう。

 こんなに充実感のある対局はいつ以来だろう。

 もしかしたら初めてかもしれない。

 プロ二年目。現在ほとんどの棋戦を勝ち上がっていて、高段者との対局もこなしているが、これほど気持ちの昂る対局は無かった。

と、同時に湧き上がる畠山京子への嫉妬心。

 もし俺が岡本幸浩の弟子になれていたら、こんなもんじゃない。

 もっともっと強くなれていたはずなのに!


「……ふん。大したことないな。こんなもんなのか。岡本幸浩門下は」

 我慢出来ずに言ってしまった。

「……そうですね。先生には申し訳ないです」

 一瞬眉間に皺を寄せたが京子は何も言い返さない。

「本当だよな。弟子を取るなら、もっと強い奴にすりゃあいいのに。俺みたいに」

「……そうですね」

 京子は検討の手を止める。しかしそれでも言い返さなかった。

「このケイマ、自分では上手く打ったつもりでいたんだろ。でもこれが敗着だったな」

 相手を愚弄する言葉を止められない。

 気持ちいい。こんなにも相手を貶すのが楽しいなんて。


 観覧していた棋士達がざわめく。どこからともなく声が聞こえる。

「そんなに悪手だったか?」
「むしろ妙手っていうか……」
「ちょっと言い過ぎ……」

 隣の席にいた和田達もすでに終局していて二人の対局を見ていた。

「立花くん、言い過ぎじゃないか?」

「和田さん、いいんです。私が負けたのには変わりないんですから」

「そうですよ。こんな弱い奴を弟子にするなんて、かつて魔術師といわれた大棋士も地に落ちたな。あの老人、相当頭ボケたんじゃないか?」

 富岳の不躾な物言いにまた対局室がざわめく。

「……お前、今なんつった?」

 低く、ドスの効いた男の声が対局室に響き渡った。

 その場にいた皆がお互いの顔を見合わせ、低い声の持ち主探しが始まった。お互い目を合わせては皆首を横に振る。

「答えろや!お前今、何つったかって聞いてんだよ‼︎」

 テーブルを叩き京子が勢いよく立ち上がった。

 声の持ち主は和田でもなく、取り囲んでいた棋士達でもなく、つい二ヶ月前まで小学生だった畠山京子だった。

「私の悪口はいい。でも、岡本先生を侮辱するなんて許せない‼︎」

 京子は左手で富岳の右手首を掴み右手で富岳の胸倉を掴むと、机を挟んだ反対側で座ったままの富岳の体を持ち上げた。

 そして右手を富岳の右脇に滑り込ませると、そのまま柔道の一本背負いで床に叩きつけた。

 野次馬の棋士達は京子を止める間も、叫び声すらあげる暇も無かった。

 女の子が座ってる男の子の体を軽々と持ち上げただけでも驚きなのに、さらに綺麗な背負い投げを披露した。

 その光景を見ていた棋士達全員がこう思った。

「なんでこの子、オリンピック選手じゃなくて囲碁棋士になっちゃったの?」


 京子は立ち上がり大きく息を吐く。そして横たわる富岳を見下ろした。


 富岳は投げられてから気づいた。畠山は全く疲れた様子を見せなかった。

 あれだけの碁を打ったのに。

 俺はこんなにヘロヘロなのに、畠山は俺をぶん投げる体力がまだ残ってたんだ。


 富岳は左足を抱えて起き上がらない。

 横になる富岳の目の前にはクーラーボックスがあった。

 クーラーボックスの傍には汗臭いスポーツタオルと、海苔のついたラップが落ちていた。
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