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定石編

立花富岳と畠山京子(12歳9ヶ月)4

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 対局相手をぶん投げるという前代未聞の事件を起こした翌日、畠山京子は師匠である岡本幸浩ゆきひろと共に、立花富岳の自宅から程近い埼玉県の病院へ謝罪に訪れた。

 病室には富岳の母親もいた。

 富岳は左足に包帯を巻かれて足を吊っていたが、ギブスはしていなかった。左足の小指に小さなヒビが入った程度で、担当医は「これならすぐ骨がくっつくよ。上手に投げられたね」と訳のわからない褒め方をしたそうだ。

 岡本が富岳の母に頭を下げる。

「この度は私の弟子が無礼を働き、誠に申し訳ございませんでした」

「すみませんでした」

 岡本に合わせて京子も頭を下げる。

 窓際にいた富岳の母は憮然とした表情で岡本の前に歩み出た。

「話しは棋院の方から伺いました。そもそも今回の騒動、あの時うちの富岳を弟子にしてくだされば、こんな事態にはならなかったのではないですか?」

「弟子?」

 京子が驚いた表情で岡本に振り向いた。その様子に富岳も驚いた。

「なんだ。聞いてなかったのかよ。てっきり兄弟子達から聞いてると思ったけど」

 京子は首を横に振った。



 ◇◇◇◇◇



 立花富岳は小学二年生の時、岡本幸浩に弟子入りしたいと申し出た過去がある。『こども囲碁大会』の時だ。

 その当時の岡本は棋士の職業病ともいえる腰痛に悩まされており、新弟子を取る余裕がなかったので富岳の申し出を断ったのだ。

 しかしその四年後、畠山京子を弟子にした。

 しかも『女』である。

 岡本幸浩は女弟子を取らないという噂が囲碁界では流れていた。

 しかし岡本本人は全くそんなことは言っていない。

 十年前、三番目の弟子、三嶋を弟子にした時だ。

 岡本と門下生三人で囲碁雑誌のインタビューを受け、女性の弟子は取らないのかという話題になり、

「女性はどうしても感情的になる。自制心の強い人でなければ、女弟子はとらない」

と話し、雑誌にもそのように掲載されたのだが、最後のほうの文章だけが世間の都合のいいように受け取られてしまい、根も歯もない噂となって流れたのだ。

 だが富岳はそれを年齢的に知る由もない。

 今回の対局で、富岳は何がなんでも京子に勝ち、富岳を弟子にしなかった事は間違いだったと証明したかったのだ。



 ◇◇◇◇◇



「そうだったんですか。対局前、やけに不機嫌そうだなぁとは思ってたけど、こういう人なのかなぁと思ってました。まさかこんな子供染みた理由で不機嫌だったなんて」

 それを聞いて富岳はムッとした。

(お前だって子供だろ。子供に子供だと言われたくねーよ)

 岡本が富岳のほうに向き直る。

「京子は東京に身寄りがなくてね。秋田から出てきたばかりの小学生の女の子が東京で一人暮らしは現実的ではない。だから内弟子にしたんだ」

 それでも富岳は面白くない。京子を弟子にしたのには変わりない。

 そんな富岳の表情を読みとったのか、京子に再び戦闘スイッチが入った。

「怪我をさせた事は謝ります。でも、一つだけ言わせて下さい。女に簡単にぶん投げられた挙句、骨折までするなんて、男のくせに情け無い」

「こら、京子」

 岡本が止めに入るが、心がこもっていない。どうやら岡本も「情け無い」と思っているようだ。

 京子は母親を睨みつける。

「母親は息子が可愛くて仕方なくて甘やかし過ぎると、祖父が経営する碁会所の常連のおじいさん達が言ってました。
 でも本当に自分の息子が可愛かったら、自分の身は自分で守る体力ぐらい、つけさせたらどうですか?」

 その表情は「お前がしっかり躾しなかったせいで私がこんな目にあった」と言わんばかりだ。

(すげぇコイツ!初めて会った大人に喧嘩売ってる!)

 富岳は骨折させられた痛みや怒りより、このモンスターに興味がわいた。

「なんですって⁉︎うちの子に怪我させといて、よくも抜け抜けとそんなこと言えるわね!大人に口答えするなんて、あなたの親はどんな教育してるの?」

「それはどうでしょう」

 岡本が割って入ってきた。

「子供に口答えされると、何か困るのですか?子供の口答えに言い返せない大人など、己の知識や経験値の低さを露呈しているようにしか見えませんが」

 富岳の母は何も言い返せず歯軋りしている。

 さすが魔術師。たった二言三言で富岳の母を言い負かしてしまった。


「立花君。一つ提案なんだが、明日から京子を学校帰りにここに寄越すから、退院するまで研究会を開いてはどうだろう」

「は⁉︎」

 あまりの急展開に富岳は事態が飲み込めない。

 京子はすぐさま反応した。

「はあっ?まさか埼玉まで毎日通えと?部活は?まさか部活を休めと?もうすぐ大会なのに!」

(え?コイツ部活やってるの?)

 富岳は囲碁の勉強時間を死守するため、部活はしていない。

「これは罰です。あなたから大好きなバスケを取り上げます。しばらく反省しなさい」

 バスケ部⁉︎どうりで声はでかいし、うるさいし。

「そんなぁ……」

 京子はわかりやすくガックリしていた。

 対局中の無表情ポーカーフェイス、どこにいった?


 富岳の母親と京子は面白く無さそうな顔をしていたが、富岳は岡本の申し出を快諾すると渋々従った。

(対局中、出来なかったワームホールの話、おもいっきり話せるかもしれない)

 富岳にとって研究会など、もうどうでもよかった。



 ●○●○●○



 翌日、京子は授業を終えると岡本に言われた通り、富岳が入院する病院に来た。途中ケーキ屋を見つけ、手土産にプリンを三個購入して。



 富岳の部屋は個室だ。岡本が入院費を日本棋院と折半することになったのだが、それならいっそのこと個室にして他人を気にせず囲碁の勉強を出来る環境にしたらいいと、岡本が提案したのだ。


 京子は病室のドアをノックしようとして手を止めた。

 中から女の子の笑い声が聞こえる。しかも複数人いるようだ。

 京子はノックせずに勢いよくドアを開けた。

「さっさと帰れ!」

 富岳の怒鳴り声が病室内に響き渡る。
と、同時に部屋の中にいた全員が一斉にドアの前に立つ京子に振り向いた。

 部屋の中には富岳と、京子の知らない女子三人がいた。三人とも同じ制服を着ているのを見ると、富岳と同じ中学校に通う生徒だろう。

「この子?囲碁の人って。女じゃん」

 腰まで髪を伸ばした女子が富岳に聞く。しかし富岳は無視した。

「あっ。畠山!いいところに来てくれた!コイツら……」

「わかりました。「さっさと帰れ」と言われたので帰ります」

「えっ⁉︎あっ!いや、畠山に言ったんじゃない!コイツら……」

 帰ろうとした京子だが、手に持っていた物を思い出して、病室に入ってきた。

「折角なのでコレ、皆さんでお召し上がりください。近くのケーキ屋さんで買ったプリンです。ちょうど三個ありますので」

 京子が笑顔で髪の長い女子にプリンを渡した。

「えー、いいの?ありがとう!」

 他の二人はクスクス笑いながら京子を見る。そのうちの一人は、本人は独り言のように小声で言ったつもりらしいが、

「お召し上がりくださいだって」

と言うのが、部屋にいる全員にしっかり聞こえた。

「では失礼します」

 京子は終始笑顔で、深々と頭を下げるとさっさと病室から出て行った。

「おい!帰るなよ!お前ら、畠山を呼び戻してくれ!碁の勉強するんだから!おい!」

 足を吊っている富岳は動けない。

 富岳は必死に叫ぶが、女子三人はプリンの入った箱を開け、さっさと食べ始めた。

「おーい!はたけやまー!」

 エレベーターホールにまで富岳の叫ぶ声が聞こえてきたが、京子は無視して下へのボタンを押した。



 ●○●○●○



「お見舞いに行きましたが、立花さんと同じ学校の女子生徒が三人先にお見舞いに来てらして、私はお邪魔だったようで、立花さんに「さっさと帰れ」と怒鳴られたので帰ってきました」

 京子は病院での出来事をありのまま一字一句たがえず岡本に報告した。

 その報告を聞いた岡本は、京子が嘘をついているのかと一瞬勘繰った。

 だがこの子はこんなつまらない嘘をつく子ではないと考え直した。どうせ嘘をつくなら「この前、捕まえたカラスに拉致監禁されてた」ぐらい平然と言う子だ。

「そうですか。わかりました。では今から三嶋君の所に電話して下さい」

「三嶋さんですか?」

 岡本は京子からバスケを取り上げ反省させるためだと言ったが、本当は一緒にいる時間を増やせば早く仲直りできるだろうと考えての事だった。

 まさか同じ学校の女子生徒と出会でくわしたとは想定外だった。

 好戦的な京子の事だ。新しい火種を作りかねない。そしてその火はどこに飛び火して炎上するか、わからない。早めに消火しておくに限る。


 京子は自分のスマホから三嶋の携帯に電話した。

「という訳で、京子がヤキモチを焼いてね。しかし約束した手前、誰も研究会にやらないという訳にはいかない。だから明日から京子の代わりに病院に行ってもらえないだろうか」

 京子はヤキモチじゃないと否定したかったが、ここで否定したら後で三嶋から冷やかされると思い、ぐっと堪えた。

《浦和の病院ですか。俺の実家の近くですね。いいですよ。明日は大学も仕事も無いんで。それから京子に伝えてください。一つ貸しだからなって》

「スピーカーにしてるんで聞こえてますよ、三嶋さん。女子中学生相手に貸しとか、何を要求するつもりですか?変態ですか?」

《変態言うな。俺はこの話、断ってもいいんだぞ》

「あら、岡本先生の申し出を断れるんですか?それにナースとお知り合いになれるチャンスを、みすみす捨てると?」

 少し間があった。三嶋が何を考えているのか、この間でわかる。

《……そういや京子はバスケの大会が近いって言ってたよな。病院のほうは俺に任せとけ》

 まんまと三嶋を手玉にとった京子を見て、岡本は「私も手玉に取られたのでは?」という疑問がわいた。



 ●○●○●○



 病室のドアから三嶋が顔を出した。

「よ。具合はどう?」

 思わぬ来客だったが、富岳はホッとした。またクラスの女子が騒ぎに来たのかと思ったからだ。

『こども囲碁大会』で岡本に弟子入りを申し込んだ時、その場に三嶋もいた。富岳が棋士プロになってからは、何かと気にかけてくれている。

「まぁまぁです。それよりどうして三嶋さんがここに?」

 富岳はベッドの脇に置かれた椅子に座るよう三嶋に勧めた。

「ん。京子の代わり。それにしても富岳くん、モテるんだねぇ。女の子三人はべらかしてたんだって?」

 やっぱり畠山に誤解されてる!

「違いますよ!アイツら、SNSのネタが欲しいだけなんですよ」

「あー、そっち系かぁ。災難だったねぇ。俺もああいう系、苦手。自分の事しか考えてないよな。じゃ早速打とうか」

 テーブルの上にはタブレットと年季の入った折りたたみ盤とプラスチック碁石が置かれていた。棋譜並べをしていたようだ。富岳は慌てて碁石を片付ける。

「はい!お願いします!」



 しばらく二人は会話せず黙々と碁を打っていたが、三嶋が思いたったように口を開いた。

「そういえば富岳は誰と研究会やってんの?」

「あ……俺、そういう仲のいい友達ができる前にプロになったんで……」

「おお、そういや原石戦院生優勝プロ入り第一号だったな。ならさ、俺が院生の時からやってる研究会に来ないか?メンバーは木幡こわたしょう二段と若松涼太新入段と俺の三人なんだ。富岳が来てくれると偶数になるから大歓迎なんだけど」

 願ってもない申し出だ。しかもあの岡本門下の三嶋と勉強できる!

「でもいいんですか?他の二人に許可をとってからでも……」

「もちろん報告はするよ。でもあの二人が富岳をメンバーにするのを嫌がるとは思えない」

「……是非お願いします!」

(やった!嬉しい!骨折しなければこの話は無かったのだから、そう思えばこの入院も悪くない)

「でさ、京子との対局。どうだった?」

 富岳の脳裏に京子との対局の棋譜が駆け巡る。

「……面白かったです。俺が院生の時、俺と互角に打てる奴、いなかったんで。……ただ、男だったらもっとよかったのになーとは思います」

「なんで?」

「やっぱ女には負けたくないし。それに女に勝ったら勝ったで、弱い者いじめしてるみたいだし」

「京子が弱い者に見えるか」

 三嶋のこの問いに富岳はかぶせ気味に即答した。

「いいえ、見えないです。デカい体育会系女……あ、いや。ゴホン。……でもなんて言うか……。やりづらさ?はあると思います」

「んー、俺もやりづらいと思う時、あるわ。岡本先生から新弟子の話聞いた時、てっきり俺、富岳が来ると思ってたから尚更な。まぁアイツ、性格は男だけどな」

 三日前、軽々と投げられた時のことを思い出した富岳が身震いする。

「性格だけじゃなく、あれは紛れもなく男ですね」

 その様子を見て三嶋が笑った。

 つられて富岳も笑う。しばらく二人声を出して笑った。


「ちょっと聞いてくれないか。岡本先生が俺をここに寄越した理由」

 三嶋が急に真面目な表情をして富岳の顔を覗き込んだ。

 勝気な京子の手前、師匠は電話ではっきりとは言わなかったが、おそらくコレでいいはず。

「君はさ、京子と同い年で、今、中学生棋士は君と京子の二人しかいないんだ」

 三嶋の二人称が『君』になりドキリとした。

「これから何十年とこの日本棋院に籍を置く訳だし、喧嘩したままだとお互い気まずいだけじゃなくて、周りの人も気を使うからさ。出来るだけ早く仲直りして欲しい」

 耳が痛かった。

 京子は終始態度の悪い富岳にケチをつけなかった。

 それに勝ったと言ってもたった半目だ。力の差など無いに等しい。

 そうだ。今回の騒動、京子をけしかけなければ骨折騒動にはならなかった。百パー自分が悪い。自業自得だ。

 それに、もしかしたら三嶋の研究会に入るきっかけを意図して作ってくれたのかもしれない。感謝すべき存在だ。

「はい。なるべく早く仲直りします」


 富岳はふと思い出したある疑問を三嶋にぶつけた。

「あの、畠山……さんは、どうしてプロになったんですか?たしか『こども囲碁大会』でのインタビューの時、「プロにはならない」みたいなこと言ってたはずですけど……。
 それに、岡本先生と畠山……さんは『こども囲碁大会』の前から知り合いみたいだったけど、どこで知り合ったんですか?」

 毎年『こども囲碁大会』はテレビで全国放送されている。富岳はその放送で岡本と一緒にテレビに映る京子を見ていた。

「ああ、それな。京子と仲直りした時、聞いてみろよ。他人から又聞きするより本人から直接聞いた方がいいだろ」

 プロになる気はないと言ってた子供が急に方向転換したのは、生活環境が変わったから?しかも子供が働かなければならない理由付きでとなると、ありがちなのは……。

「まさか両親が亡くなったとか?」

「あいつがそんな愁傷な理由でプロになると思うか?……まぁその辺もさ、含めて早く仲直りしてくれ。」

 違うのか?

 もしかしたら、どこでもドア開発のためのスポンサーを見つけるため、とか?

 畠山ならあり得る。


 まぁいい。三嶋の言う通り、ちゃんと謝って、三嶋の研究会に入れたお礼を言おう。


 なんにせよ、早く骨をくっつけないと。

 次に同じ日に対局になるのはいつだろう。
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